8月10日(火)
第一節(0501)
祖母の家での生活もこれで四日が過ぎた。滞在延長の理由になった花蘂祭は明日の夕方からだから、長かった思い出話も残すところあと二日となるね。思っていたよりも話が長引いてしまって、申し訳ないと思ってる。だけどまだまだナラタージュは続くわけだから、本当なら君の毛並みをバスルームで整えてあげたかったところだけど、今夜のうちには諦めてもらうしかなさそうだ。
一応、昨夕の話を補足しておこうか。お寿司屋さんを出た私たちは、大通りからではなく裏通りを抜けて祖母の家まで返してきたの。もちろん単に渋滞を避けてのことだけど、私にはありがたいことだった。おかげでクリーム色の夕日や赤錆の世界から目を背けられたわけだからね。大通りの外の田舎の風景は、たとえ赤錆にまみれていても牧歌的だったんだ。
だから祖母の家に着いたときには平静さを取り戻していて、あとは特に事件もなく一日が終わっていったよ。母には定期連絡のようにメールを送信しておいたけど、その返事はごく簡単なものだった。あるとすればそれくらいで、あとはそうだな、イッタやシィちゃんともメールで連絡を取り合ったけど、それも今日の予定を再確認するというくらいだったかな。ああ、それと、急な夕ごはんの豪華さに、父と伯父は気を良くしてた。どうも二人には知らされてなかったみたい。
朝、祖母の家の二階で目を覚ました頃には、昨夕の感傷はすっかり無かったものになっていた。そうして階下に降りてゆき、朝食の準備と仏前への供米、みんなで食卓を囲んでの朝ごはん、と、定着し始めたルーチンワークに乗り出すと、私はいよいよ今日の楽しみにしか考えが向いていなかった。空の青さは朝から夏そのものだったんだ。
シィちゃんは十時ごろに祖母の家を訪れた。そのときは伯父もたまたま出かける前で、玄関先での出迎えには伯父とサヤコさんの二人が出ていった。というのは昨日の夏野菜や自転車のお礼も兼ねてだから、その間、私は居間で待たされる形になってたの。
社交的に完成されたシィちゃんの人格は、ほんのちょっぴりだけど居間にも届いてた。彼女は伯父やサヤコさんの前でも慇懃に振る舞っているようだったし、二人もシィちゃんに対してよくよくお礼を述べているようだった。私はそれを自分のことのように得意に感じてた。
「いいお友だちができて嬉しいね」って居間の奥のソファに腰掛けていた祖母が言う。私は子どもみたいに無邪気に笑ってみせた。
五分ほどしてサヤコさんに呼ばれたときにはもう社交的な儀式も済んでいたようで、私とシィちゃんは二人に見送られながら祖母の家を後にした。それで、玄関を出てからも私は、挨拶が無事に済んだのかどうかとか、そういうことをシィちゃんに訊いてみたりはしなかった。答えのわかりきっていることを敢えて訊ねてみることが社交的な態度の一つだということを、当時は知りもしなかったからね。
でも、私と同様に、シィちゃんもサヤコさんたちとの詳細については多くを語ろうとしなかった。私が感じたように彼女も語る必要がないと感じたのか、それとも社交の場にある自分をどこか恥じでもしてたのか。
「おじさんもおばさんも、素敵な人だね」って、彼女は簡単にそんなことだけを口にした。
私たちはすぐに自転車を繰り出して、イッタの家を目指した。目当ての中学校は彼の家より奥にあったから、途中で例のお寝坊さんを拾ってゆく約束になってたの。
中学校へ案内するということは一昨日のうち、つまり私の延泊が成ったあとから決まっていたことで、これはイッタの提案だった。小学校で痛い目を見た私は初めその提案を訝しんでいたけれど、
「中学校の方が、そのへんはフランクでしょ」って彼は簡単に片付けた。
それに、そんなところでも案内しないことには、もう他に十年ぶりの故郷を謳歌できるような場所も残っていなかったんだ。私はなんとなく危険な賭けだなと感じていたけれど、後にシィちゃんが賛成したと聞いて、それなら良いかという気になった。
「中学校って、どんなところ?」って私はイッタの家を目指す道すがら、シィちゃんに訊いてみた。
「至って普通の中学校だよ。公立の中学だから、過度な期待は危ないかもしれないね」ってシィちゃんはどこか愉快そうに言う。
「だけど、小学校みたいなことにならないかな?」
「夏休みでも部活はやってるし、それなら顧問の先生も登校してると思う。知り合いの先生を見つければ、融通も利くと思うんだ」
「知り合いの先生」
「こんな言い方するとずるいかもしれないけど、私は三年のときに生徒会の書記も務めてたし、ヒデくんはああいう性格だから、先生たちの覚えも良かったんだよ」
「ああいう性格」って私は言った。「それって、どういう性格?」
いや、つまり、三日前に再会してからのイッタをそのまま受け取ると、先生たちの覚えがいいようには、どうしても思えなかったわけだ。
「ああ、そうだね」ってシィちゃんは私の言わんとすることを機敏に受け取った。
「もちろん、学年でも成績上位だったってこともあるけれど、見知った大人の人に対しては気安く接しようとするんだよ、ヒデくんは」って彼女は続けた。「そういうのって、先生たちからすると案外楽みたい。中学の先生たちには結構可愛がられてたよ」
「ああ、いるね、そういう生徒」って私は中学時代というよりは今の高校生活の様子を思い描いて言った。友人とも上下の関係ともいえないひどく上手な距離感で先生と交流を持ててしまう、そういうクラスメイトが私の周りにも一定数いたの。どうやらイッタもそのうちの一人らしかった。
「要するに、シィちゃんとイッタの顔を見れば、自由に出入りさせてくれる先生がいるかも知れないわけだ」
「そういうことも、ちょっと目論んでる。ヒデくんは事後報告で済ませるつもりでいるみたいだけど」
「事後報告?」って私は言った。「侵入して、見つかったら謝ればいいって魂胆?」
「多分、身の振り方一つでどうにでもなるって考えてる」
「イッタらしいね」
「あ、それと、中学校っていえば」ってシィちゃんは思い出したように言う。「今日、うちの妹も部活で登校してるんだ。さっき、朝早くに制服着て出ていったの」
「ナッちゃんだっけ」って私は彼女の名前を絞り出すように諳んじる。「じゃあ、もしかすると鉢合わせになるかもしれないね」
「その時はちゃんと紹介するね」ってシィちゃんは言った。
道すがらに二つあるエノキ栽培の工場を過ぎて、その先の踏切、それから個人経営のガソリンスタンドがある十字路に着くまでは、おおよそ五分もかからなかった。徒歩で向かった二日前や三日前に比べて、田舎が急に狭まった。
店先にヤシの木が植わってる例のパン屋さんまでは、そこから一分もあれば事足りた。私たちは会話に夢中で、ヤシパンの前もそのまま通り過ぎかけたのだけど、そのとき急な思い立ちから私はとっさにブレーキを握りしめたんだ。
「ちょっと、そこのパン屋さんに寄ってもいいかな」って私は言った。
「朝ごはん、まだだった?」
「うん。私じゃなくてイッタがね」
薄い熱気に蒸された酵母の匂いが、お店のドアをくぐったときにもわっと漂った。私たちが品定めをしていると、やおら腰を上げたという様子で、店の奥から店主のおじさんがやってくる。
「お、いらっしゃい」って彼は一昨日と同じ快活な様子で出迎えた。
会計時に彼は、
「また来てくれるとは思ってなかったな。綿入にはいつまで?」
「明日の花蘂祭まで居られることになったんです」って私は答えた。
彼は大きく口を開けて「そりゃ良かった!」って笑う。「由利くんちの坊っちゃんにもよろしく伝えてくんなしい」
「ちょうど今、家まで向かう途中でした」
「そうだろうね、わざわざうちに寄ってくれたっていやあ」
レジ袋を受け取ってから私は「また寄れるようなら寄りますね」と告げて店を後にした。おじさんは「そりゃ楽しみにしておかないと」って送り出す。
初めて人と会ったときの緊張は、相手の出方にもよるけれど、二度目になるとだいぶ緩和されている。一昨日店に入ったときに起こしてた身の固まりは、この場ではすっかりほぐされていた。
「リッちゃん、常連さんみたい」って店を出てからシィちゃんは笑う。
「昔は本当にそうだったから」
「リッちゃんちも、すぐそこだったもんね」
「うん。でも気まずいからうちの前は通らないようにしよう」って私は努めて明るく言った。彼女はそれを屈託なく受け入れた。
「ねえ、でも、朝食買っていく必要あったのかな?」ってシィちゃんは自転車を起こすついでに言った。
「まだ寝てないかな?」
「怪しいところだね。でも、ヒデくんのお父さんたち、昨日のうちに帰ってきてるはずだから」
「え?」自転車の前カゴにレジ袋を収めながら、私はつぶやいた。「ああ、そっか」
たしかイッタの両親は私の帰郷旅行と同じスケジュールで登山旅行に出ていたはずだ。つまり本来の私の日取りと同じ日程で。ということは、滞在延長の二日目である今日、彼の家にはすっかり両親が戻ってる計算で、私はそのことをすっかり忘れてた。
いや、忘れてた、というのは正しくない。ヤシパンの前を通りがかったとき、私にはそれを思い出す機会が与えられていた。冷静に判断していればイッタに手土産を用意する必要がないってことをちゃんと思い出せたはずなんだ。だけどシィちゃんの前で得意を演じたくなって――つまり二日前の和菓子屋さんやサヤコさんたちの前でシィちゃんが見せた態度とおんなじことを、私だってできるんだよと、彼女に認めてもらいたくなって――思い出すって行為そのものを投げ捨てていた。
なんとも子どもじみた理由だ。そんなことで我を失ってたことが途端に恥ずかしくなった。それをシィちゃんに悟られまいと、
「それなら、お昼にあげることにしよう」って強がった。
だけどイッタの家に着いてみると、まったく予想と反してた。呼び鈴を鳴らしても中からはどんな反応も返ってこない。まさか家族揃って寝込んでるってこともないだろうし、振り返れば車庫に停まってる車も一昨日と変わらず一台きりだった。私とシィちゃんは顔を見合わせた。
「おはよ」って、パジャマ姿のイッタが出迎えたのは、それから五分も経ってのことだった。
家族のことについて訊ねると、彼は寝癖の頭をぼりぼりかきながら、
「一日延長だって。帰ってくるのは今日の夕方か、いや、たぶん夜になってからかな」って、まるで興味なさそうにつぶやいた。
「じゃあ、イッタは今日いっぱい留守番なんだ?」
「おかげさまでね」って彼は皮肉っぽく言った。
私たちはにやっと笑いあった。寝ぼけ眼のイッタが不思議そうに眺めてる。
「やけに嬉しそうだけど」ってイッタは目元を掻きながら言う。
「朝ごはん、まだだと思って」
私がレジ袋を突きつけると、「そうなの?」って彼は一旦受けあった。それから一拍置いて、「でも、それだと今の話と噛み合って無い気がするんだけど」ってぼんやり言った。「いや、そんなこともないのか?」
「ヒデくん、寝起きだね」ってシィちゃんが笑う。事実彼の口ぶりは全部がおぼろげだった。「実を言うと私たちも忘れてたの。イッタのお父さんたちが今日帰って来るってこと」
「ああ」ってイッタはぼんやりうなずく。「じゃ、つまり、怪我の功名か」
「結果良ければだよ」って私は言った。
イッタは中指や薬指で目元をこすりながら、いつもの皮肉な、唇の片側だけでする笑い方をしてみせた。
「とりあえず、そいつはありがたく受け取るとして、一先ずそっちで預かったままにしておいてよ。着替えなりなんなり、支度を済ませて来るからさ」
「可及的速やかに」
「そうはいってもね」って彼は肩をすくめた。「まあ、上がって待ってて」
リビングのソファにかけながら待っていると、イッタはそれから充分に十五分くらいも費やして二階から降りてきた。私たちの預かりでリビングのテーブルに置かれたままになっていたヤシパンの袋を受け取ると、彼はそのままキッチンカウンターに向かっていった。
昨日電話で「時間の制約がつきまとうのは億劫だ」というような説明をしていたように、もしくはそれが寝起きであるため尚更に、イッタはとても間延びした動きでグラスを取り出し、冷蔵庫のミルクを注ぎ、ラップで包装された調理パンを破き、まるで私たちが待っていることなんて知りもしないように、のんびりと朝のひとときを堪能し始めた。
「まあ、急ぐ必要も、ないよな」って彼はキッチンカウンター上の置き時計を眺めながら、ちょっと言い訳がましくつぶやいた。
そのときアナログ時計の針は10時15分ごろを差していた。シィちゃんが祖母の家を訪問したのは、十時よりいくらか早かったんだけど、おかげでイッタに余計な猶予を与えることになっていた。
「もう少し早く起きてもいいと思うよ」ってシィちゃんはそれとなく言った。私が与えたパンを彼が頬張っているあいだ、私たちは暇を持て余してた。
シィちゃんの問いかけに、イッタはすぐには答えなかった。ちょっと間を置いて、
「第一、君たちは何時に起きたわけ?」って言った。
それで私は、「君は何時まで起きてたわけ?」って即座に返したの。イッタは答えに詰まった感じになって、苦笑いでごまかした。
「ねえ、それよりさ、来がけにシィちゃんとも話したんだけど、中学校へは行っても問題なさそうなの?」
「どういうこと? 言ってる意味がわからない」
「つまり、小学校みたいなことにならないか」
「それ、この前も電話で話さなかったっけ」
「念の為訊いてるだけだよ。深い意味はない」
「部活動のために昇降口は開放されてるはずなんだ。だから、多分、簡単に入り込めるんじゃない?」
「物理的な問題じゃなくて」
「でも、やっぱり侵入する前提なんだね」ってシィちゃんは笑った。
「わかってただろ、どうせ俺ならそうするって」って彼はいくらか頭に血が巡り始めたらしい答え方をした。「いや、大丈夫だよ。俺やシズカなら見知ってる先生も多いし、上手くいけば万事お咎めなしさ」
「うん、シィちゃんもさっきそう言ってた」
「ならいいじゃない。なんでまたここでぶり返す必要が?」
「だって、無視した不安に限って的中するんだもん」って私は言った。
イッタはそれを聞いてちょっと愉快そうに笑ったの。
「本当に不安がってることは杞憂に終わるのにな」って彼は同意するように言った。「まあ、でも、大丈夫だよ。卒業してまだ二年だし、それに、ナッちゃんの話だと、まだ当時の先生が何人か在籍してるみたいだからね」
「ナツと話したの?」ってシィちゃんは言った。私はそのとき、ああまたナッちゃん、って、ぼんやり二人の会話に耳を傾ける姿勢になっていた。
「ちょっと前にコンビニで出くわしてさ。挨拶だけってのもあれだったから、多少の世間話としてね」ってイッタは続ける。「ほかに共通の話題も思いつけなかったし、かといってシズカのことを訊くのも、なんか外堀を埋めてるようで」
「たしかに、ヒデくんと会ったってことは、言ってたかな」
「ナッちゃんなら言うだろうね。君たち仲良いからね。だからこそ無難な会話に留めておいたわけだけど」
シィちゃんはどこかきょとんとした顔でうなずいていた。ただそれは、実の妹と恋人が二人きりで出くわしてるって場面を上手に想像できていないだけで、特別な思惑だとか疑念だとかを浮かべてるって風ではなかったの。だから彼女はとりあえず状況の整理に努めてた。
「じゃあ、ヒデくんは、最初から見知った先生がいるってこと、わかってたんだ?」
「俺とナッちゃんの情報に食い違いがなければね」って彼は言った。いつもイッタはこういう回りくどい言い方をする。でもそれは、イッタもまた不安を解消しようとしていることの裏付けだったかもしれない。
シィちゃんは今度こそはっきりとうなずいた。それから私の方を見て、「それなら最初からそう説明してくれればよかったのにね」って、屈託なく笑った。
会話のあいだイッタの手は休められていた。だから彼の食事が済むまで、それからゆうに十分はかかったはずだ。私たちはその残りを、テレビの情報バラエティが垂れ流すたわいもないニュースや画面の左上に表示される天気予報に意識を注いで過ごしてた。天気予報は祖母の家で確認したのとそれほど変わっていなかった。放送局の違いで多少の差はあったけど、気温は概ね三十度、天候は終日晴れ模様。まさに多くの人が思い描く夏そのものだ。
「一昨日ほど気を遣わなくて良さそうだね」ってシィちゃんは特に気温の項目に注意しながら言った。
彼女は二日前の地域探訪のときと同じハンドバッグをこの日も持ってきていて、中にはハンカチや携帯端末の他に日焼け止めや乳液も入れられていた。実は一昨日にも彼女はその中身を適宜取り出してたし、私にも勧めてくれたりしていたの。
「シィちゃん、焼けてても可愛いのに」
「やだ、恥ずかしい」
私たちのこんな取り留めないやりとりを、イッタは調理パンを口に運びながらぼんやり眺めてた。
「すっかり打ち解け合っちゃって」って彼はちょっと呆れた様子で言った。
いよいよ支度を終えたのは十時三十分、いや、時間に深い意味はないんだけれど、ともかくその頃になってようやく出発の段取りがついたんだ。まったくさ、もしイッタが常に寝起きのようだったなら、いったい時間がいくらあっても足りないんだよ。でも食事を終えて、イッタもすっかり常柄の調子に戻ってた。
平日の日中に、田舎の車道は大きな歩道のようなものだ。イッタの家の前には二車線分のそれなりに幅のある道が走っていたのだけど、自転車を三台横並びに通行しても、咎める人は誰もいなかった。
イッタの家から中学校までの距離は、ざっと目算して、そうだな、たぶん徒歩で二十分くらいだと思う。それより遠い位置に家のあるシィちゃんは当時自転車通学を認められてたんだけど、イッタは余裕をもって徒歩通学の範囲だった。中学校は山村に続く道の途中に建てられていて、特別な用事でもなければその方面に向かうこともない。だからイッタとしては、自転車で地元の中学校を訪れるということに、ちょっとした新鮮味があったらしいんだ。行きがけに私たちはそういう話をしてた。
で、その話が少しそれて、イッタは私の乗る自転車に注意を向けたのね。
「そういえば、その自転車って、結局シズカから借りたの?」ってイッタは例の真っ黒なクロスバイクを駆りながら言った。
「兄貴のやつ」ってまずシィちゃんが答えた。
「ああ。兄ちゃんの。じゃあ、シズカの家にも寄ったんだ?」
「昨日ね」って私は言った。「お邪魔させてもらったけど、本当におっきな家だった」
「で、家族にも会ってきたと」
「会ったよ。どうかした?」
「いや、爺さんにしこたま怒鳴られなかったかなって」
「え?」って私はどきりとして言った。その横からシィちゃんが、
「ヒデくん」って冗談交じりに注意する。「一応、私のおじいちゃんなんだけど」
「一応って言ってる時点でさ。で、どうなのよ、無事に済んだわけ?」
「若干危ういところはあったけどね」って私は真実半分、それとなくぼやかすところで止めといた。「でもさ、たしかイッタは前にも忠告してたけど、それってちょっと大げさだったよ。帰りには袋いっぱいの夏野菜まで持たせてくれたし」
「へえ。お土産。俺のときとは偉い違いだな」
「おじいちゃんは古い人だからしょうがないの。私たちの年齢で男女交際があるってこと、認めたくないんだよ」
「それに、お土産って言っても私にじゃないよ、おばあちゃんちに」
「ばあちゃんちに?」
「そう。イッタとは出自が違うからね」って私はちょっと得意になって言った。さっき痛い目にあったばかりなのに、どうしてかイッタが相手だと、私もつい調子に乗ってしまう。
「出自?」ってイッタは訊いた。後になって考えると、ちょっとわざとらしい態度だったかな。でもそのときは気づかずに、私はすんなり続きを引き取った。
「予定が中止になったおかげでさ、昨日は色んな人から色んな話を聞かせてもらったんだよ。おばあちゃんちの由来とか、そういうことを聞かせてくれた人もいた」
「なるほど。自分が良家の孫だって、気付いちまったわけだ」
「ああ、やっぱり」って私はすぐに言った。「イッタもおばあちゃんちのこと知ってたんだね」
「コオリはそういうことを知ると、すぐに得意がるからな」
「それは昔の私」
「いや、現に今だって」ってイッタは笑う。
ああ、だけど、私はこれについても見落としていた。イッタが口にした言い訳が、単なるおべんちゃらに過ぎなかったっていうことをだよ。私が得意がるから黙ってたなんていうのは、この場でとっさに閃いたでまかせで、本当はただ億劫だったからとか、いずれ些細な理由には違いないけれど、それでも他にれっきとした理由があったんだ。でもこの場では適当を繕っておく方が便利だからと、私の与えた調理パンによって充分に血の巡った頭で、彼はそこに身を置く判断をしたわけだ。彼はそうやって、その場その場に沿うようにいつも自分の立ち位置を変えて生きている。
もうちょっと突き詰めて言ってみると、ごまかすってことが彼の人生なんだ。昨日シィちゃんは「周りの態度を見て少しずつ性格を修正していった」ってイッタを評していたけれど、それも見方を変えればごまかしの一つだ。自分の本性を隠して生きている。
いや、急にこんな話をされてもわけがわからないと思うけれどもね。でもさ、私はいつかイッタと私の関連性について君に聞かせておかなければならないなと、このナラタージュが進むにつれて、感じ始めてたんだ。つまり私とイッタが似たような性質の持ち主だったってことをね。
後年イッタのことを思い返してみるに、彼もまた私が幼少期から抱え、そして悩んでいたこの性質と、同じものを持ってたの。
彼と私の違いは決定的に自分の性質に気付いた時期にある。私は彼より遅く、彼は小学生の頃にはすでに自分の異質さに気付いてた。そして正面から向き合っていた。結果として彼は幼い頃から自分を騙す生き方を獲得したし、私も遠からずそういう処世術を覚えたけれど、そうと気付いたときには私の方では遅かった。その差は時間が経てば経つほど深く、現在では埋めようがないほど水をあけられている。彼は社会の成功者になって、私は同じ社会の中で失墜した。
――私たちは町の中心から離れるように、山の麓に建つ地元の中学校を目指していった。市民体育館を行き過ぎると、そこからは一直線に道が伸びていて、その道は高速道路のアンダーパスを抜けたところから、長い長い坂に変化する。
緩やかで、どこまで行っても終わりが見えなくて、私たちがその道を進もうとしても、空間にぴったり制止させられたように、いつまでも悠遠に足の回転を続けさせられる、そういう限りなく長い無限の坂だ。
私たちはいまそんな坂の上にいる。
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