第九節(0409)
祖母の家に着くと坂の上でサヤコさんと出くわした。ちょうど洗濯物を取り込んでる最中だったようで、両手いっぱい服が抱えられていた。
「いま戻りました」って私は言った。
「お帰んなさい。コヨリちゃんの服、乾いたわよ」ってサヤコさんは、赤ん坊を抱き上げるみたいに洗濯物の位置を直しながら言った。「やっぱり夏場は違うわね、午後からでも干せちゃうんですから」
祖母の家では洗濯物は日当たりのいい庭奥に干されてた。サヤコさんは庭池をぐるっと回って母屋まで帰る途中だったんだ。
私はサヤコさんの好意に頭を下げた。それからハンドルを握る手をくいっと上げて、「自転車も、こうして無事に借りられました」って言った。私の方では坂を登る必要のために途中から自転車を引いてたの。
「本当に良かったわ。一時はどうしようかと思っちゃった」ってサヤコさんは言った。「お友だちにはよくよくお礼を言っておきませんとね」
そのとき私はシィちゃんちから頂いた野菜のことを報告しようと思った。けどサヤコさんの抱える物を見てこの場では保留することにした。
「自転車はどこに停めておけばいいですか?」
「ときにそこの奥にでも停めておいて」ってサヤコさんは顔を人差し指代わりにして言った。坂の奥に上屋式の物置兼ガレージがある。
「そうだ、コヨリちゃん、あとでお夕飯のお買い出しに付き合ってもらえないかしら」
「買い出しですか?」って私はぼんやり言った。あんまり話を長引かせると悪い気がして簡素にうなずいた。
「今日は出来合いの物にしちゃおうと思うのよ」ってサヤコさんは言った。
私はそれにも簡単にうなずいてガレージの隅まで自転車を引いてった。だけど備え付けのリング錠を掛け終えて振り返ったとき、なぜかサヤコさんは玄関先で待っていた。
野菜の詰まった袋を両手で持ち上げて、小走りにサヤコさんのもとまで駆けてった。結局サヤコさんは私が着くまでそこから動き出さずにいてくれた。
「大きな袋ねえ」ってあどけなく彼女は言った。
「おばあちゃんちに届けるようにって、預かったんです。シィちゃんちで採れた夏野菜」
「あら、本当。でもこんなにたくさん」
居間に戻ってから野菜をもらった経緯を簡単に説明した。というのはつまりさっき私を訪ねてきた女の子がシィちゃんで、彼女が滝沢さんちの孫娘だったということを。それだけで祖母たちには充分伝わった。
サヤコさんは驚いた様子で「世間って狭いものですね」って言った。
「村の中じゃなおさらだ」って祖母は快活に笑ってた。
「それでしたから、こちらからも何かお返しを考えておきませんと」ってサヤコさんは祖母に助言を仰ぐような目で言った。
「すみません、気を遣わせてしまって」って私が横から言うと、
「ええ、ええ、そんなつもりじゃないのよ」ってサヤコさんはこちらに振り向いて微笑んだ。「コヨリちゃんは目いっぱい楽しんでくれたら良いんだから」
「子どもはそんなこと気にせんでいいもんだ」って祖母も同意する。
私は軽く頭を下げて取り繕った。
乾きたての服を部屋に戻して、居間まで下りてくると、そのとき柱時計が一度だけ「コーン」と鳴った。時間は五時半になっていた。空はまだうっすら青い。それでも麓の祖母の家は既に濃い陰に包まれだしていた。
それから五分も経つと、そろそろですねとサヤコさんが切り出した。
「それじゃあ、コヨリちゃん、悪いけれどお買い出しに付き合ってもらえるかしら」
「手伝えることがあるなら、なんでも」って私は言った。
買い出しは当然だけど車を使うことになった。例の巨大冷蔵庫群の前に停められていたサヤコさんの車は95年式のダイハツ・ミラで、白くて小ぶりで可愛いやつだった。新車の頃から何年も経ってちょっと塗装のくたびれてるところはあったけど、機能的にはなんの問題もない。
「助手席で、いいですか?」って私はわかりきった答えをあえて訊いた。
「もちろんよ」ってサヤコさんは微笑む。
ドアを開けるとサヤコさんの匂いが流れ出してきた。シートにかけると、体中がその匂いに包まれる。それはサヤコさん自身の匂いというよりも、サヤコさんという存在の一部を構成する匂い、とでも形容した方が適切だ。科学的で、柔らかいんだけどつんとする、インパネの上に置かれた香料からの匂い。なぜか車の匂いって人によって違う。
だけど、私は匂いに包まれて、途端に萎縮した。
こうなってみるまで私もまったく予期してみないことだった。体が縮こまるのと同時に、急にそわそわして心が落ち着かなくなったんだ。まるで背筋に一本の柔らかい針金が通されていくような気持ち悪い感覚に襲われた。
嗅いだことのない匂い、逃げ場のない車内。
「二つほどお店を回るけれど、いいかしら」って運転席に乗り込んだサヤコさんが言う。
私は適当に相槌を打った。適切とか適度とか、そういう意味ではない、適当な相槌だ。背中の針金が私の身を硬直させる。
自分の身に起こった変化を私は不思議に感じた。同じ状況をつい二日前にも三日前にも経験してたからだ。でもトモ兄やナオ兄の車の中では、決してこんな気持ち悪さは沸き起こらなかった。
だけど心当たりもあった。高校に入学したての頃、まだ慣れない路線バスに私は似たような感覚を味わわされていた。その感覚はバス通学が日常の一部に溶け込むに連れ薄れていったけど、そうなる前は知り合いが近くにいないと治まらなかった。
とするとこれは決定的に私の側の問題だった。トモ兄たちとサヤコさんとで違うのは、彼女が血筋の上では私と赤の他人だという点だ。私は無意識に彼女から自分を防御してた。
「急に出来合いだなんて、ごめんなさいね」ってサヤコさんはシートベルトを肩にかけながら言う。
「ああ、いえ」って私はそれにも身を強張らせて返事する。ここ数日でサヤコさんともいくらか打ち解けたように感じていたけれど、また元の木阿弥になってしまった。
サヤコさんの運転は普段の彼女の性格そのままだった。走り出しもなめらかだったし、深いカーブや交差点を曲がるときにも車は淀みないきれいな挙動を描く。誰かの精神へって意味でも物理的な重力へって意味でも、どちらにも負荷を与えない穏やかな運転だ。車の運転にこそ本性が現れるってよく聞くけれど、その説でいうと、サヤコさんは裏も表も同体だった。
私の緊張はサヤコさんの運転とは無関係だった。無関係に膨張し、時間が解決してくれるということでもなかった。
車が走り出すとしばらく沈黙が続いた。元々からして私は会話を生むのが不得意だし、それにこの動揺だ。だから同じ沈黙とはいっても、シィちゃんとの会話の合間に訪れた穏やかな種類とはまるで違ってた。車内の空気はとても張り詰めていた。
「そういえば、コヨリちゃん、ときにアレルギーとかは大丈夫?」ってサヤコさんは走り出していくらか経ったときにそう訊いた。
「アレルギー?」って私は答える。質問の意味はわからなかったけど、何か会話が発生したことにほっとした。
「いえね、お夕飯はお寿司にしようと思うのよ。といっても、もう注文は入れちゃってあるのだけれど」
「お寿司、ですか」
「甲殻類がだめとか、生魚が苦手とか、ないかしら」
「そういうのは、特に大丈夫です」
「よかったわ。あとになって気づいたものですから」
そんなことまで気にかけてくれて――喉元まで出かかった言葉が急な尻込みで澱に沈んでく。ただ曖昧にうなずいた。
そしてまたしても沈黙だ。第一この沈黙は会話を継げない私に問題があるわけだけど、そうとわかっているからこそ気まずさも強くなる。
「でも、どうして急に出来合いに?」って私はどうにか会話の種を絞り出すように言った。
「なんとなくね、そんな気分になったのものだから」
「なんとなく」
気持ちが落ち着かない中で、私はその言葉をすんなり受け止めた。サヤコさんにだって家事の億劫な日くらいあるはずだ。
だけどちょっとするとサヤコさんは、突然ふふっと笑い出した。
「いえね、白状しちゃいますと、今日はコヨリちゃんにお出しする用意がなかったものですから」
「え?」
「変に受け取らないでね。コヨリちゃん今日で帰る予定でしたでしょ、だからきんなのお夕飯までしか考えていなかったのよ」
あ、って私は声をつまらせる。
人が一人増えれば一人分の食事が増える。考えてみれば当たり前の計算だ。延泊のことを私はもっと簡単に考えていた。
「ごめんなさい。なんか、私、迷惑ばっかりかけてるみたい」
「やあね、変に受け取っちゃ駄目って言ったのに」ってサヤコさんは言う。「コヨリちゃんは心配しいなんだから。なんにも遠慮すること、ないんですよ」
「でも、本当に、すみません」って私は繰り返す。いや、繰り返すしかできなかった。
サヤコさんは微笑む。田舎の景色が滑らかにシフトする。
車内の匂いには徐々に慣れていった。サヤコさんの匂いが鼻孔の奥に染み付いて、もはや私の一部として取り込まれてく。そうなると、どうして匂いの変化に敏感だったのかもわからなくなってゆく。不安の出どころはそうやって消えてった。けれども相変わらず動揺や不安それ自体は続いてた。
ハンドルを握ってるのは間違いなくサヤコさんだ。そして彼女は全幅の信頼を置いていい人だ。だからなんにも怖がることはない。理屈では充分にわかってた。
何度自分に言い聞かせても心の耳は塞がれたままだった。それを私は腹立たしく思う。どうして私自身が望んでいることに感情は向き合ってくれないんだろう。私を制御しているのは理性ではないんだろうか。それはサヤコさんの車の中にいるこのときのことばかりではなくて、感情と理性の足並みが揃わないことに、いつも私はもどかしさを感じさせられてしまう。
こんなときの癖で、私の両手は無意識に祈りの形になっていた。
「そういえば、コヨリちゃんはおやき食べたことあるかしら」ってサヤコさんは言った。さっきのアレルギーのくだりもそうだったけど、唐突に会話を切り出すというあたり、どうやら私は彼女にも沈黙の苦痛を与えてしまってるようだった。
「おやき?」って私は頭の回らない答え方をする。
「いま住んでるところですと、食べる機会なんてないでしょう?」
「綿入に住んでる頃になら」って私は言った。「でも、あんまり覚えてない」
「そうよねえ。お口に合えばいいのだけれど」
「それじゃ、お寿司の他に、おやきも買いに行くんですか?」
「先にそっちに寄っちゃう」ってサヤコさんは微笑んだ。
寄り道のお店は大通りの外れ、アンさんの喫茶店より更に中心地を離れたところにある。看板には製菓店と掲げられてあるけれど、実際はほとんどおやきの専門店だ。
「昔は家でも作っていたんですけどね。子どもたちが巣立ってからは、とんと作らなくなっちゃって」
「家庭でも、作れるんですね」
「でも案外と手間なのよ。買って済ませちゃった方が早いから」ってサヤコさんは言った。「それに、そこのお店のは評判なの」
「そうなんですか」って私は端的に言った。いつものようには頭が回らない。いや、いつもだってこんなくらいか。でもいまは一層拍車がかかってた。
「それにね、考えてみたら、郷土料理って言えるような物を、何もお出ししていなかったから」ってサヤコさんは続ける。私はまたしても曖昧にうなずいて片付けた。
頭の回転が鈍くなっているのに加えて、会話の最中、私はずっと親指の動きに集中してた。手を組んだまま、くるくると、まるで無限軌道の戦車のように親指を回し続けてたんだ。いや、無限軌道というよりも、どちらかというとそれは異なる周回軌道を持つ二つの惑星だ。公転の向きを正反対にした双子の惑星。指の腹にお互いの爪を当てるようにしながら、彼らは絶え間なく回転し続ける。
会話が途切れても、もしくは次の会話が始まっても、私は双子の惑星の動きを止めようとはしなかった。回転がある不特定の回数に達すると、今度はお互いの回転の方向を逆にして、その回転方向は、また不特定のある回数に達すると反転された。時計回りと反時計回りがエンドレスに繰り返されて、いずれその動きは私の意思から離れたところでも続けられてゆく。
いつしか私は観測手のようにその動きを眺めてた。指は私の思考とはまるで無関係に、まるで指にだけ独立した自律神経が通ってるように巡りだす。彼らが独立した個体であると認識すると、私と指との距離が遠ざかってく。たしかその感覚には名前があったはずだ。不思議の国のアリス症候群。指だけでなく、腕や肩までもが頭から切り離されてゆく。錯覚の強度がどんどん強まってゆく。
そしていみじくも観測手のように、私は彼ら指の回転数をごく客観的に計測し始めた。数えるって行為になにかの意味があったわけではないんだ。だけど数えないことは私の焦りを大きくさせる。一回、二回、三回、四回……逆回転になってまた一から計測がスタートする。
私の意識がここではないどこかへ浮上してゆくに連れ、彼ら指の動きも徐々に規則的になってった。それまでてんでばらばらの回転数だったのが、順回転と逆回転で数が合うようになってきた。ちょうど人為的なミスを機械化によって払拭してゆくように、あるいはそういった変化が正しいと裏付けるように、彼らは私が主観的に観測しているときにだけ回転の規則を乱した。
でも、一度規則性が作られると、その規則が破られた瞬間に強い苛立ちを覚えるようになってゆく。私の意識は決して完全に精緻な機械じゃない。ふとした拍子に主観性が戻るとそのたびに指の動きは過ちを犯す。焦りは増幅し、するとまた次のミスを誘う。文字通りの悪循環だ。苛立ちを募らせてゆく。
とうとう音を上げたのは私ではなく指の方だった。彼らは惑星の動きを止めて、お互いの引力に引き寄せられでもしたように、指の腹を爪で押し込みあった。痛みは私の頭にも伝わるけれど、彼らは私が痛がれば痛がるほど本望らしかった。爪が皮膚に食い込んで、私は苦痛に顔を歪める。それでもこの自傷行為をやめられない。
車が信号に捕まる。動きの止まった景色に私は更に苛立ちを募らせる。手は既に組まれてもいないんだ。今にも五指すべてが自傷行為に乗り出しそうだった。
そのときサヤコさんの手が触れた。彼女の左手が私の手に覆いかぶさった。とても優しい感触で、私ははっとした。
目が合うと、彼女はなんにも答えず、ただ慈愛に薄らいだ。
長年の水仕事のせいか、手の甲からは潤いが失われてた。でもそれとは別に、彼女の触れ方には温もりが込められていた。ぽんぽん、って、子どもを寝かしつけるときのように、柔らかに私の手を叩く。
私は途端に恥ずかしくなってうつむいた。
サヤコさんの手は、ひたすら私の攻撃性を鎮め続けてた。彼女の手の動きに合わせて深く深呼吸をする。
「気にすることないんですよ」ってサヤコさんは言った。
こくりと私はうなずく。車内に乗り込んでからの不安や動揺が、やっと地面に埋もれていった。ぎこちない笑顔をサヤコさんに返すと、彼女は何もかも理解してくれているように、微笑みの度合いを強めて更に薄らいだ。
信号が青になって、車が動き出す。
「お父さんたちには何を用意してあげたらいいでしょうかね」ってサヤコさんは、もうそのことには触れずに、関係のないことを言う。
「どんな種類があるんだろう」って私も答える。景色の流れが緩やかで、今はそれが心地良い。
夕方の道は仕事帰りの車で混み合っていた。国道403号線は昼間とは比べ物にならないほど交通量を多くする。サヤコさんは渋滞を避けつつ左車線から製菓店に入れるように、何度か田舎の細い道を選んでいった。
製菓店の駐車場には先んじて車が一台停まってた。そこにサヤコさんの車が乗り上げると、余白はもう、あと一台か二台の分しか残ってない。こぢんまりとしたお店だ。それでも地元ではなかなかの名店らしく、店内には私たちより先に三組の客が並んでた。
カウンターのショーケースに並べられたおやきは、私が想像してたより種類が豊富で、野沢菜、ナス、かぼちゃ、野菜ミックス、にら、ねぎ味噌、きのこ、切り干し大根って、それぞれに分けられたトレイの前に手書きの商品説明のカードが添えられてる。中にはクルミやあんこ、それにイチゴって書かれたカードもあった。主食からスイーツまで、バリエーションは様々らしい。
製法も地域や家庭によって色々とあるらしいけど、このお店ではせいろで蒸したものを扱っていた。蒸したあとにフライパンで焼き目をつけるとか、棒に刺して囲炉裏焼きにするとか、あとは灰の中に放り込む灰焼きとか、他にそういう作り方もあるらしいんだ。揚げまんじゅうみたいなおやきもあるってサヤコさんは言っていた。
祖母と伯父と父とサヤコさんと私、五人分のおやきを選んで、店を出たのは十分か十五分くらいしてからだった。たったそれだけの時間に、太陽はずいぶん西に傾いていた。店に入る前はまだ青さを残していた空が、じんわり夕焼けの色を溶け込ませてる。
製菓店からお寿司屋さんを目指すには、まず大通りを右に出る必要があった。車の流通はなかなか途切れず、そんなときでもサヤコさんはのんびり構えてた。ところが一つ大きな信号を超えるとそこから先は渋滞の度合いも増して、いよいよサヤコさんの顔にも困った様子が浮かぶ。
「道、間違えちゃったかしらね」
「引き返せそうにないですね」って私は後続車の列に振り返って言った。
「ちょっとのあいだ辛抱してもらえる?」
「全然。大丈夫です」って私は言った。「もう」
「コヨリちゃんが苦でなければ、私もあんきだわ」
「あんき」って私は言った。
「あらやだ。安心って意味ね。気を抜いてるとつい出ちゃう」ってサヤコさんは笑う。
だけど実際私は見知らぬ空間が苦手なだけで、車内に身を置く状況にはそれほど苦痛を感じないんだよ。流れてゆく景色、あるいは静止した景色、それらを眺めているのは嫌いではなかったし、隣には会話の相手もいてくれる。
車の流れが完全に静止したとき、私はこの瞬間しかないと感じて背筋をぴんと正した。とりとめのない会話だけではなくて、サヤコさんには伝えておくべき気持ちがいくつもあった。
「あの、サヤコさん」って私は改まった態度で呼びかけた。
「あら、なんでしょう」
「その、本当にありがとうございます」って私は切り出した。「おばあちゃんちに来てからのこと。色々と。予定より長く泊めてもらってることもそうだし、お寺に連絡だってしてくれた。それに、さっきも」
「突然どうしちゃったのかしら」ってサヤコさんはやや強く微笑む。
「上手くお礼が言えてなかった気がして」
「コヨリちゃんのそういうところ、おばさん好きよ」ってサヤコさんは言った。「可愛い姪っ子だもの、私もつい世話を焼いちゃう」
「いえ、そんな」
「それよりね、コヨリちゃんの方こそ、おせっかいに感じてなければいいのだけれど」
「とんでもない」って私は首を振る。「感謝してもしきれないくらいです」
サヤコさんはくすりと笑う。
「うちの子たちはもう何年も戻らないから、たまに賑やかだと私たちも嬉しいのよ」って彼女は言った。
「うちの子っていうのは、サヤコさんの子ども?」
「子どもっていっても、もうとっくに二人とも三十を超えてますけどね。コヨリちゃんとは、うんとちっちゃい頃に会ったくらいかしら」
「全然覚えてないや」って私は恥ずかしそうに言う。
「仕方ないわよ、コヨリちゃんが一歳か二歳の頃だったもの」
「一応私とは従兄弟の関係に当たるんですよね?」って私は確認するように訊いた。
「あんまり歳が離れすぎちゃうと、従兄弟といっても縁がないわね」ってサヤコさんは笑う。「本当ならお兄ちゃんの方は、家を継いでもいい頃なのに、あの子ったら帰ってくる素振りも見せないんだから」
「お盆やお正月にも?」
「何かと理由をつけてね」
サヤコさんの二人の息子、下はどこかの弁護士事務所に雇われている、いわゆるイソ弁、居候弁護士というやつで、跡取りである上の息子は大手ゼネコンでエンジニア職に就いている。開発よりも実地の向きが強いらしく、技術指導のために年の半分以上は海外で暮らしてる。私が物心つく前には二人とも本家を出ていて、直接顔を合わせた覚えは少なくとも私の記憶の中にはない。実際的な意味で初めて顔を見たのはこの帰郷旅行より何年も先の、祖母の葬儀のときだ。その時も私は二人のことをしばらく誰だかわかっていなかった。たしかにサヤコさんの言う通り、あんまり歳が離れていると、従兄弟といっても他人のようなものだった。
「二人とも仕事が楽しいのね。きっと今の生活を捨てたくないのよ」
「でも、元気ならそれで」
「私は早く孫の顔が見たいわ」ってサヤコさんはちょっと可愛い仕草で笑う。「結婚でもすれば諦めて帰ってくるんでしょうけれど、二人とも奥手なものだから」
「特に予定も?」
「ええ」ってサヤコさんは微笑む。「でも、いやだわ。こんな下世話な話、つまらないわよね」
「今日は色んな人から色んな話を聞かせてもらってる」って私は首を振って言う。「そういう話を聞くの、好きなんです」
「あら。じゃあ、サトくんのお話というのも?」
「サトくん?」って私は言った。すぐにチハクさんのことだと思い出す。「はい。おばあちゃんちのこと、由来とか歴史とか、色々教えてもらいました」
「サトくんってば、そんなことまで聞かせてあげたのね」ってサヤコさんは穏やかに微笑む。そこにはなにか、チハクさんが話してくれたこと以上の、深い感情が込められていた。つまり堀田家と蓮華寺の間にある関係ではなくて、サヤコさんとチハクさんの間に直接流れる、何かしらの関係が垣間見えたんだ。
「サヤコさんは、チハクさんのこと、よく知ってるんですか?」って、だから私はこう訊いた。
「私がこの町に嫁いで来たころね、サトくんはまだこんなにちっちゃな子どもだったのよ」ってサヤコさんはシフトレバーに手をかざして言った。「人懐っこい子で、私もずいぶん好いてもらっていたわ」
「チハクさんが?」
「当時は頻繁に蓮華寺にも出入りしていてね、サトくんってば顔を合わせるたびに抱きついてきたりして」
「意外」って私は言った。「チハクさんって、ちっちゃい頃から分別のある子どもって気がしてた」
「やんちゃな子だったわ。ずっと私から離れないの」
「サヤコさんのこと、好きだったんだ」
「やあね」ってサヤコさんは照れくさそうに否定する。「でも、子どもに好かれるのって、幸せなことね」
「サヤコさんが優しいから」
「そうだと嬉しいんですけれど」
「私もそうなれるかな」
「コヨリちゃんでしたらね」ってサヤコさんは微笑む。
フロントガラスから車内に、夕日が差し込んでいる。夕日は微笑みのしわを深くして、その瞬間のサヤコさんを年相応に映してた。
父方の本家のお嫁さんなんだから、順当に考えて、サヤコさんは私の父より年上だ。それはつまり、私の母と比べると、十歳以上も歳が離れてるってことになる。でも普段の彼女はとても瑞々しくて、どうにかすると母より若いんじゃないかって錯覚させられる。だから何かの手違いで容姿が実年齢に近づくと、私はとても驚かされるし、なんとなく寂しい気持ちにもなる。だけどそれ以上に、そうして垣間見える本当の年齢によって、サヤコさんの博愛的な精神が、何を拠り所にしているのかを知った気にもなる。彼女の微笑みにはそれまでに経験してきた苦労や、長い長い月日の積み重ねが含まれていた。
サヤコさんの微笑みが、例の薄らいだ笑みに変わる。
渋滞は依然として緩和されず、どうやら大通りの終わりまで続いてるらしかった。アンさんの喫茶店を過ぎて駅前に続く交差点の信号を抜けたところからその渋滞が続いてる。大通りは頭から尻尾まで車の蛇だった。
「いつもはここまで混んだりしないのに。何かあったのかしら」
「事故ですか?」
「どうかしら」ってサヤコさんは言った。「コヨリちゃん、もう少し待てます?」
「私は、全然」って答える。
そして沈黙が訪れる。これはもう穏やかな種類の沈黙だった。私はそっと外の景色を眺め見る。
車窓から見える町も穏やかだった。穏やかな沈黙に相応しい穏やかさ。立ち往生している車には目もくれず、大小様々な人影が、穏やかに歩道の上をゆく。
ああ、だけど、私はそのとき、ふっとシィちゃんが口にしたことを思い出したんだ。さっき彼女が彼女の部屋で教えてくれたこと。つまりクリーム色の夕日とコンクリートの壁と、そんな景色を見るたびに苦痛を覚えてしまうという、私だけに打ち明けてくれたこと。
いつかシィちゃんが見た景色を私も窓越しに目にしてる。まるで運命的に、私は彼女の指した、この時刻この場所に訪れていた。
そのとき私は不意に寂しい気持ちに襲われた。いや、だけど、急な感傷に襲われるまで、私はシィちゃんの教えてくれた事柄をすっかり忘れてた。なんといってもサヤコさんの車に乗り込んでからはそれどころじゃなかったからね。
心のどこかにシィちゃんの言葉が残っていたんだろうか、それともこの感傷は純粋に私の内側から湧き出したものなのかな、ともかく私もまたシィちゃんと同じようにクリーム色に包まれた町に曝されて、同時に彼女の気持ちを痛いほど理解した。
ああ、これなんだ、と私は思う。
空も壁も地面も、本当に町全体がクリーム色に包まれていた。やつれた電柱、塗装の剥げた電光看板、黒い染みの浮いたコンクリートの建物、くすんだサインポール、古ぼけた木造家屋、前に停まる年季の入った軽トラック。この町のあらゆるものに薄いクリーム色が付着する。
それはまるで、日に焼けて色褪せた、一枚の写真のようでもあった。懐かしい時代を収めたクリーム色の写真。その写真は今この瞬間に撮影され、そして今この瞬間に百年後からやってきた。
西に傾く太陽が大気をクリーム色に染め上げる、この限定された瞬間に、時空が僅かに裂けて、百年後の姿が顔を覗かせる。それがこの町の常であり、誰も望んでいないのに毎日やってくる。
百年後の彼らは一歩として前進も成長もしていない。サヤコさんの車内で私は、寸分の狂いのない現在の綿入と色褪せた百年後の綿入を同時に、まるで二重写しのフィルムのように観測してた。そこにはシィちゃんの言うように、ただ物事がじりじりと綻びゆくだけの状態が表されていた。今この瞬間の綿入が百年後にはそのままクリーム色に褪せている。
歩道をゆく人々のうち、西に向かってゆく人は、一様に耐え難い苦痛に顔を歪ませて、太陽から背を向けてゆく人は、陰鬱に目をくぼませていた。百年後の姿を観測してるのは私だけではないようだった。
そしてこのクリーム色の映像は、ただ単にどんよりした未来の予感を植え付けようとするだけでなく、とても強烈な酸化作用によって道行く人々の肉体を急激に錆びつかせているようでもあった。歩道の彼らは日中に見るそれよりもひどく緩慢で、そしてとても重苦しい。誰もが前に向かって進むことに疲れ果てている。電線からぶら下がる祭提灯も、のたのたと鈍く揺れている。
コンビニから出てきた子どもたちにも、クリーム色の夕日が当てられた。彼らは無邪気に笑い合っている。でも彼らは知らないだけで、いつか百年のあいだのどこかで、自分たちもここにいることを知る。そのとき彼らの顔には深いしわが刻まれ、今はつやのある黒髪も真っ白に炭化する。笑顔も悲しいものに変化する。
この町ではみんなそうやって老いてゆく。ううん、そうにしかならない。百年の老いが約束された、希望のない町。夕日が波間に反射して輝く、どこかの美しい海岸の代わりに、この町はその反対の、この時刻にだけ存在する最も汚らわしい闇を背負わされていた。
もう終わってしまったんだ。私はふとそう感じた。
何が終わったんだろう。自問自答してみたけれど、答えは出なかった。でも確実に何かの終わりが見えていた。退廃的だとシィちゃんは言った。文字通り退廃だ。ここにはそれしかない。もう何も始まらない。
「お寿司屋さんまで、あとどれくらいですか?」って私はとっさに言った。
「そこの角を曲がるだけよ」ってサヤコさんは本当にすぐ目の前の丁字路を指さした。
たった十メートルの距離だった。早く進んでくださいと私は願う。
お寿司屋さんでの用を終え、人数分の寿司折りが入った袋を手にして外に出ると、空はすっかり赤に染まってた。
路地から大通りの先を見る。クリーム色の世界が消えて、次にあるのは赤錆の世界だった。車はまだ渋滞を続けてる。
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