第八節(0408)

 シィちゃんの家は古い木造の数寄屋造りだった。外から見える範囲だけじゃなく奥行きもずいぶんあって、廊下はちょっとした迷路のように入り組んでいた。外からの光が差さない通路では日中でも灯りをつける必要さえあった。


 壁のスイッチはそこに面した通路にしか対応してなくって、シィちゃんは角を曲がるたびに電灯のオン・オフを切り替えていた。そのつど裸電球の黄色い光がついたり消えたりを繰り返す。初めから全部つけておいた方が楽そうなのにと思ったけれど、

「こうしておかないと、おじいちゃんがうるさいの」って私の考えを感じ取ったようにシィちゃんは言った。


「見かけよりすごい家だね」

「広いだけで大したことないよ。住むには色々と不便なことも多いから」

「何度も灯りを切り替えたり?」

「夜中は懐中電灯が必要」ってシィちゃんは笑う。


 平屋建てではあったけど、本当に大きな家だ。途中にドアや襖のついてる通路もあれば、なにもない壁だけの通路もあって、母屋と離れを接続した際にそういう作りになったみたい。「私が生まれるより前のことだけどね」ってシィちゃんは言っていた。


「そういえば、お兄さんの用事は良かったの?」

「うん。もう大丈夫。待たせちゃってごめんね」

「違うんだよ、ずいぶん時間がかかってたから、大事な用だったのかなって」

「全然。兄貴ってば、どうでもいいことでいつも私を呼びつけるの」

「仲、良いんだ」

「どうだろう。普通の兄妹だと思う」

「でもさ、シィちゃんって、お兄さんのこと兄貴って呼ぶんだ?」

「変かな?」

「シィちゃんにしては意外だった」

「そうだね。そうかもしれない」って彼女はちょっと恥じらうように笑う。「昔から兄貴って呼んでるから、直す機会がないの」

「難しいよね、そういうの」って私は言って、そのときシィちゃんの薄らいだ笑いを真似てみた。でもちょっと不格好だった。


 最後の角を曲がったとき、そこは縁側の通路になっていた。掃き出し窓の続く長い廊下で、外には内庭が広がっている。


 内庭の地面は玉砂利と苔に覆われていて、そこから小ぶりの柳が二本、アシンメトリーに生えている。天空からうっすら差すように設計された精巧な光が、葉の隙間で静かに木漏れ日を反射させている。柔らかなエメラルドが庭を満たしてる。


 位置的にいうとここはもう離れ屋の一角だった。昔は茶室や書斎として用いられていたらしくって、だから庭にもこうした風情ある意匠が施されてた。シィちゃんの部屋はその離れ屋の、縁側の通路の一番奥だった。


「玄関からはちょっと遠いけれど」ってシィちゃんは言いながら室内に通してくれた。


 シィちゃんの部屋は、当時の私たちの年齢からいうとちょっとこざっぱりしすぎてるようにも思われた。八畳の広い和室にカーペットを敷き、その上に勉強机と洋風のローテーブル、シングルのベッド、それから数台のカラーボックスと、壁の一面は古い桐のタンスに占められてる。ぬいぐるみとかファッション誌とかいった少女趣味を彷彿させるものは見受けられなかったし、テレビやカレンダーといった生活上の道具も排除されていた。


「適当にかけて」って促されて私はその通りにする。

 ローテーブルの前に腰をおろしながら室内を見渡した。古い和室のわりによく手入れされていて、清潔感のある室内は空気まで新鮮だった。でもそこにはなにかイッタとは別種の潔癖さがあるようにも感じられた。


 かろうじてイッタ趣味を回避していたのはカラーボックスの中身のためだった。全部で三つあるカラーボックスの上段部分はどれも化粧品で装飾されていて、化粧水や乳液やスキンクリームや日焼け止めや香水やファンデーションやリップやコンシーラーといった用具が所狭しと並べられてある。中でも香水はかなりの種類があって、それだけで上段の一つを占有してた。


「形が好きで、つい買っちゃうの」ってシィちゃんは言っていた。

「形?」

「香水の瓶って、どれも形が違うから」

「ああ」って私は言った。


 確かにカラーボックスの中はデザイン性に富んでた。丸かったり八角形だったり色んな形の瓶がある。手前に置かれた二個か三個がいくらか減りが早いというくらいで、ほかの容器はだいたい八分目くらいまで液体に満たされてた。


 あるいはその豊富な香水のせいなのかな、彼女の部屋はやっぱり私たちの年齢からはちょっと距離を置いて、どこか大人っぽい雰囲気を醸してた。


 一つ、その室内で気になるところがあった。壁の柱部分に一輪挿し用の竹籠が吊るされていて、赤く、線香花火のように火花を散らす花が生けてあったんだ。

「彼岸花?」って私は訊いた。


 だけどシィちゃんはそのことに触れると急に答えにくそうにして「うん」ってだけ言った。彼女の態度をなんとなく不思議に感じながらも、私も深く追求しようとはしなかった。


 室内で私たちはしばらくとりとめのない会話を続けた。

 そのとりとめのない会話の中で、私はおばあちゃんちとシィちゃんちが縁遠からぬ関係であることを知らされた。


 私の祖父が町長を務めていた時期、シィちゃんの祖父もまた町内会の役員を担ってた。あるいは例の風土記編纂のときもお互い調査委員に名を連ねていたみたいで、こうした関係から今でもお中元やお歳暮をやり取りする間柄だったの。それに実はシィちゃんも過去に何度か祖父に連れられて、堀田の本家を訪問したことがあったんだ。でもそれはずいぶん昔のことだったから、サヤコさんも当時の少女と大人びたシィちゃんとを上手く結び付けられなかったみたい。


 とにかく堀田の名前が出た途端シィちゃんの祖父が柔和になったのは、そういう昔からの家同士の繋がりがあったからだった。


 とりとめのない会話の内容が今日の出来事に移ると、私は山で起こった詳細をシィちゃんに話して聞かせた。鍵しっぽの猫くんの具体的な印象や、チハクさんに聞かせてもらった内容を、シィちゃんもまた嬉しそうに耳を傾けて聞いてくれていた。そのときゴガツヨウカの話題にも再び触れた。


 シィちゃんはお花祭りの日は小学校が半休になるということを(私はそれをチハクさんからも聞いていたけれど)彼女の口から教えてくれた。でもそれだけではなくて、シィちゃんは、そのとき校長先生が堀田家を訪問する習いになってるとも教えてくれた。


「リッちゃんちはお寺の復興にも貢献したから、その関係で挨拶に伺う習慣ができたみたい」って彼女は言った。

「私が聞いた話だと、山門の再建を助けたってことだったよ」

「でも、ヒデくんはそう言ってた」

「イッタが?」って私は急な彼の登場に驚いて言った。「ってことは、イッタもおばあちゃんちのこと、知ってるんだ?」

「知らないはずはないよ、リッちゃんとは幼馴染みなんだもん」

「昨日はそんな素振り全然見せなかったけどな」って私は言った。


 そこで私たちのとりとめのない会話は終わって、そこから先はもうとりとめのない会話じゃなかった。イッタの話題を皮切りに、私たちの会話はほんのちょっぴり人生の大切な分岐にシフトした。


「ヒデくんは余計なことを喋らない人だから」

「そうなんだ?」

「必要なこと以外は、なんにも教えてくれないの」ってシィちゃんはちょっと不服そうに言う。「ヒデくんの、あの部屋のことだって、知らないうちにああなってたんだよ」

「まあ、確かに、今のイッタはちょっと無機質なところがあるね」

「ちょっとなんてものじゃないよ」ってシィちゃんは笑う。

「昔はもっと可愛げがあったんだけどな」って私も同意するように言った。

「だけどね、ヒデくんも、最近までああじゃなかったんだよ」

「そうなんだ?」


「小学生の頃はもっと無邪気な男の子だった。でも中学生になった頃からかな、普段の口数が減って、段々と今みたいなヒデくんになってった。それまでのヒデくんはね、とにかくなんでも喋る男の子だったの」

「へえ」って私は言った。でもどちらかといえばその方が私の知るイッタの印象に合っている。泣き虫で、臆病で、だけど感情全部を体中で表す男の子。

「じゃあ、イッタのあれは、思春期特有の病気なわけだ」


「ううん、どちらかというと、無理して演じてるんだと思う」

「演じてる?」

「本当は自分の興味があることに触れると、満足するまで喋らないと気がすまない人なんだ。好きすぎておしゃべりが止まらないって感じ。でもそのたびに友だちがうんざりしてるのを見て、少しずつ性格を修正していったんだと思う」


「性格を修正していった」って私は言った。

「信じられないかな?」

「そんなことはないよ。成長するって、多分、そういうことだもん」

「昨日は、久しぶりにリッちゃんに会って、羽目を外してるみたいだったけどね」ってシィちゃんはくすりと笑う。


「学校の中庭とか、あずま屋とかのこと?」

 うん、ってシィちゃんはうなずく。

「じゃあ、あれが本来のイッタの姿なんだ」って私はつぶやくように言う。


「今まではリッちゃんみたいに、ヒデくんの話についてこれる人がいなかったから、それでつい気が昂ぶっちゃったんだと思う」

「それについては私の方から謝るよ。私もずいぶん話を弾ませちゃったから」

「ううん、ヒデくんだって、たまには気兼ねなく自分を表現しないと駄目だよ。ヒデくんは他人に気を遣いすぎるから」

「イッタが?」って私は半信半疑の笑みを作る。


「他人にはそれとわからないような方法でね。自分は気遣いなんて知りませんよって態度を取るの」

「どうしてそんな回りくどいやり方をするんだろう」って私は昨日の河川敷での一幕を思い出して言った。あのときもイッタはシィちゃんにそっけない態度を取っていた。


「相手に悟らせたくないんだよ。自分が気遣われてるって気づいちゃうと、傷ついたり重荷に感じちゃう人もいるから」

「でも、誰かがイッタの気遣いを理解してあげなければ、イッタの一人損なのに」

「そう、だからちゃんとヒデくんを理解してあげられる人が近くにいないと駄目なの」

「だとすると、なんだか可哀想だね。思ってたより不器用だ」


「本当の意味で利他的な人だと思う。他の人を気遣ったり、他の人たちの中に溶け込むために、ヒデくんは今の性格を形成していったわけだから」

「シィちゃんはイッタのこと、信頼してるんだ」って私は言った。

「できるだけ理解してあげたいって思う」って彼女はやや遠回しにうなずいた。例の薄らいだ表情だ。


 ああ、だけどさ、シィちゃんはその表情を、一体どのようにして獲得したんだろうね。つまり十七歳っていう若さで他人の欠点を慈しむには、それまでの人生にどれだけの経験を積んでおく必要があるんだろう。私はそれが不思議でならなかったんだ。


 会話に句読点がついたことを告げる、穏やかな沈黙がやってくると、私はぼんやり、あの赤い彼岸花に目をやった。それはこの簡素な部屋の中で特徴的に輝いていて、彼女の薄らいだ笑みに通じる何かがあった。いや、その時はそうであるように感じられたんだ。彼岸花は美しい姿をしているけれど、どこか切なげな印象のある花だ。

 私が眺め続けていると、シィちゃんは静かに口を開く。


「変だよね、部屋に彼岸花なんて飾ってあったら」


「綺麗だと思うよ。私は好き」って私は言った。

「でも、不吉な印象、あるでしょ?」

「他人がどう思おうと関係ないよ、シィちゃんが好きなら」

「うん、そうだけど……」ってシィちゃんは躊躇いがちに言う。


 その反応に私は妙な違和感を覚えた。彼女の視線の動きとか、眉間のしわの深さとか、そういった部分に濁った手応えを感じたの。


「もしかしてシィちゃんもあんまり好きじゃない?」ってだから私は訊いた。

「花の形は綺麗だと思うけれど、好きかって聞かれると、なんて答えていいかわかんない」ってシィちゃんは言った。「シビトバナやユウレイバナって別名もあって、あまり縁起の良い花ではないから」

「そうなんだ。じゃあ、どうして?」

「自分への戒めにかな」って彼女は特別に好きなわけでもない花を飾る理由について触れた。

「戒め」って私はそれを繰り返す。


「実はそれ、造花なの。ずっと部屋に飾ってあるんだ」

「造花」私はまじまじと彼岸花を見つめた。だけどそれはまるで生きてるようにみずみずしい。「かなり本物に似せてあるんだね。言われないと気付かない」

「できるだけ実物に近いのを探したの。その方が意味合いが強くなると思って」

「良ければ聞かせてもらえる?」って私は言った。「その意味合いがどういうものなのか」

「面白い話ではないから、リッちゃんが聞いても、気を悪くするだけだと思う」

「そうなの?」って私は言った。「でも、シィちゃんにそのつもりがあるなら、私は聞かせてもらいたいなって思ってる」

「本当に?」ってシィちゃんは恐る恐る訊く。私はすんなりうなずいた。


「他人の内面を聞かせてもらえるのって、ありがたいことだよ。それって本心からその人と付き合いたいって考えてるわけだから。だから、どんな種類であれ、私はそういう話を聞くのが好きなんだ。その人からの好意を感じる」


「素敵な考え方だね」ってシィちゃんは薄らぐ。

「シィちゃんからそういう好意を送ってもらえるなら、特にね」


 彼女は薄らいだ笑みをやや強めてみせた。それでもまだそれは、薄らいだ笑みと形容できる強度なの。この微笑み方にはいくらかの柔軟さがあった。


「ねえ、リッちゃん、あだ花って知ってる?」って彼女は静かに切り出した。

「あだ花?」って私は言った。知らないことを素直に認める。

「辞書を引けば意味は色々と載ってるんだけど、私は実をつけない花っていう意味で認識してる」ってシィちゃんは言った。「咲いても実を結ばないまま枯れちゃう花のこと。彼岸花もあだ花の一種なんだ」


「実を結ばない花」って私は言った。「えっと、花なのに実を結ばないの?」


「うん。そういう種類の花があるんだよ。中学のときに習わなかったかな、理科の『生物』の授業で、奇数性の遺伝子を持つ動植物についてって」

「ああ、どうだったろう」って私は言った。覚えがあるような、ないような、曖昧な記憶だ。「ちなみにそれって、どうやって繁殖するんだっけ」


「彼岸花の場合は球根が割れることで繁殖するんだって。割れた球根が鳥や風に運ばれることで、生息地を増やしているみたい」

「なるほど」って私は言った。「だけど、どうしてそれがシィちゃんの戒めになるんだろう?」


「私はいずれこの家を出ていかなきゃいけないから」

「この家を?」

「そう。いつか必ず」


「こんなにおっきな家なのに、もったいない」って私は言った。シィちゃんの戒めと彼岸花の関係についてまだ答えが出ていなかったから、私は『いつか必ず家を出る』ということを単なる決意の問題だと、簡単に捉えてた。でもまったく違ったわけだ。


「昔からそういう決まりなの。この家に残るのは後継ぎだけで、他の兄弟はみんな外に出ていかなくちゃいけない」

「ああ」って私は言った。「田舎だと、そういう家も多いみたいだね」

「一旦出ていったら、二度と戻ってこれないんだよ、この家は」

「二度と?」


「特別なことがない限り、分家になった人たちは敷居をまたぐことも許されないの。両親か、もしくは兄貴が亡くなるときくらいかな、許されるのは」

 私は目をぱちくりさせて意味を咀嚼した。というより、シィちゃんがどこまで本気なのかわからなかった。


「親族での争いを避けるために、多分、そういう決まりになってるんだと思う」ってシィちゃんは続ける。「跡継ぎ以外は大人になったら他人として生きてゆく。それがこの家の昔からの決まり」


「ああ」って私は感情も思考も定められずにつぶやいた。


「でも私は受け入れたから。それに大げさなことでもないと思うんだ、今の時代だとそんなに珍しいことでもないからね。要するに心の持ちようの問題なんだよ」

「思ってたより、大変なんだね、シィちゃんち」って私はぽつりと言った。ちょっとそれだけ言うのが精一杯だった。


「実際にその日がやってきたときに、必要以上に落ち込まないために、そのために、心構えとして彼岸花を飾り続けてるの。戒めっていうのはそういうこと」


 その物事が幸せか不幸かってことは絶対的な価値観じゃない。人によっても違うし環境によっても違う。もちろん心のありようによってもだ。ある心境によっては不幸でも、ある心境では簡単に受け流せることだってある。いつか来る日のためにシィちゃんはそうやって(おそらくではあるけれど)子どもの頃からずっと調整をし続けてた。でも裏返すとそれって、シィちゃんはこの家や家族のことが大好きだってことのはずだ。


「気軽に聞いて良いような話じゃなかったね」って私はしばらく間を置いてから、すこし冗談っぽさを混ぜて言った。


「ううん」ってシィちゃんは、新たに作られた薄らいだ笑顔で首を振る。

「私ね、それでいいと思ってるんだ。正直なことをいうと、高校を卒業したらすぐにこの町から出ていこうって考えてる」


「そうなの?」って私は言った。「それは、家族に気を遣って?」

「純粋に私の本心から」って彼女は言った。「語弊を恐れずに言えば、私はこの町が嫌いなの」


「綿入が?」って私は少なからず動揺して言った。


「もちろん、この町のことは好きだよ。思い出だっていっぱいある。だけどなんていえばいいのかな」

「うん」って私は続きを待つ。


「夕方に大通りへ行くようなことがあると、特にそう感じるの。古い建物に夕日が差して、ちょっと黄みがかってる景色を見ると、どうしようもなく切なくなっちゃう。なんていうのかな、そこに終わりが映っているようで」


「終わりが映ってる」って私はその詩的な表現を復唱する。


「私もそれで落ち込んじゃうんだよ。夕日っていっても、真っ赤なやつじゃなくて、もうすぐ日が落ちそうな、どんよりしたクリーム色の夕日。コンクリートの建物がそのクリーム色の夕日を一身に浴びてる、大通り全体がそういう景色に変わると、もう終わりなんだって、ここから始まるものは何もないんだって、強く感じさせられちゃう。ううん、大通りだけじゃなくて、この世の中が全て終わってゆくものだけで構成されてるような、なんていうのかな、そういう退廃的な気分になってしまう。そうすると、もう私はなんにも出来なくて、なんにも出来ないまま人生が終わってゆく気にさせられる」


「打ちのめされる」って私は言った。


「多分、そう」ってシィちゃんはうなずく。「みんな田舎から抜け出す理由を都会への憧れっていうけれど、私はそういう退廃的な気分も影響してると思う。通りを歩く人はみんな苦痛に喘いでるような顔をして、人生に疲れ果ててるように見えちゃう。きっと私もそういう顔をしてるんだと思う。だからこの町にいる限り、私はずっとそうなんだって痛感させられる。前に進みたいのに前に進めないの。そんな鬱屈とした気分から逃れるために、みんな田舎から離れてゆくんだよ」


「私は、まだわからない」って私は言った。「シィちゃんの言う景色を、見たことがないから」


「ごめんね。急にこんな話」ってシィちゃんは言う。「この町のことは好きだけれど、私はあの夕日に当てられた大通りの景色に、耐えられそうにないんだ。これからもずっとそのときの気分が続いてゆくってことに」


「だから、結果的にシィちゃんも家を出てゆくことを受け入れてる?」

「昔から決まってることでもあるからね」ってシィちゃんは暗に同意した。「もちろん、それもそれで、寂しいことだけど」


「昨日も大通りを歩いたよね」って私は言った。「和菓子屋さんに行こうってなったのはシィちゃんの提案だったけど、あのときも無理してた?」

「ううん、昼間は大丈夫。夕方の、特定の時間だけ。だから毎日感じてるってわけでもないんだよ」

「それでも不定期にやってくる、そんな気分に耐えられない」

「やるせなくて、打ちひしがれてしまう」

 シィちゃんが悲しそうに微笑むと、私はその笑顔にどきりとさせられた。美しいけれど儚い、彼女の本質を捉えた表情だ。


「今までそういう話を聞いてくれた人は?」

「いないよ。リッちゃんが初めて。ヒデくんにも言ってない」

「家を出ることも?」

「それはヒデくんも知ってる」ってシィちゃんはいつもの笑顔に戻して言った。「高校を卒業したら綿入から出てゆくってことも、ちゃんと伝えてあるよ。ヒデくんもそのつもりだから、お互いそれで納得してるの」

「イッタも綿入を離れるつもりなんだ」

「地元の大学は、ヒデくんには窮屈だろうからね」ってシィちゃんは言った。「だけど、大通りのことは、リッちゃんにだけ」

「話の流れとはいえ、なんだかごめんね」って私は言った。

「ううん、聞いてもらえてよかった。リッちゃんに聞いてもらえたっていうことに、価値があったと思う」


「ありがとう」って私は言った。「そう言ってくれると、私も嬉しい」

「できるならリッちゃんちの近くに引っ越したいな。そうなったら志望校調べ直さないとね」

「もう進学先絞ってあったんだ?」

「ある程度ね。リッちゃんは卒業後はどうするの?」

「えっと、どうだろう」って私は曖昧に返事した。

 一年半後の計画。それってかなり先のことだ。私はまだなんにも決めていなかった。


 会話はやがてまたとりとめのない方向に戻っていった。なんだかんだでシィちゃんの家には一時間近くお邪魔になった。私は自分から話題を作り出すことが苦手なたちだけど、この場合はシィちゃんがその役割を担ってくれて、会話の尽きることはなかったの。時おり沈黙が流れるようなことはあっても、それは穏やかで心地よい種類のものだけだった。


 いよいよお暇するというときに、居間へ顔を出して、シィちゃんの母親と、それからその場にいた祖母に挨拶をした。彼女たちはにこやかに応じてくれた。

 自転車のお礼に、お兄さんにも挨拶をしてゆこうとしたけれど、そっちはシィちゃんに引き止められた。「ちゃんと私の方で言ってあるから大丈夫」って彼女はどこか恥ずかしそうに言った。


 それからシィちゃんの祖父とは、自転車を受け取っている最中にまた出くわした。彼は私の到来を待っていたようで、夏野菜の詰まった袋を手に提げていた。

「堀田さんちに届けてくれたい」って彼はその袋を渡しながら言った。機嫌はすっかり上向きに修正されているようだった。「まあず孫だなんて知らなかったもんでよ」


 シィちゃんの祖父が去ってから、彼女にも自転車のお礼を言った。

「天気予報では、明日は朝から晴れだって」ってそのときシィちゃんは嬉しそうにそう言った。


「じゃあ、明日はいよいよ大丈夫だね」

「リッちゃんちまで迎えに行くよ。今日のお詫びも兼ねて」

「それならおばあちゃんちで待ってる」って私は言った。

 野菜の詰まった袋を前カゴに載せて、シィちゃんにサヨナラを告げる。


 空は昨日の別れ際とおんなじ淡い色模様だった。シィちゃんの教えてくれたクリーム色の夕日には、まだ遠い。でもおそらくそれは、あと一時間もしないうちにやってくる。夕暮れの変化の早さと多さに、私はいつも戸惑う。

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