第七節(0407)

 海底通路をくだってゆくと、祖父のお墓はすぐに目についた。桜並木の参道の裏手に面してて、行きしなにはちょうど民家の陰に隠れる位置だった。


 だだっ広い空き地の、ぽっこりと丘のように盛り上がったところにお墓はあった。外柵によって切り取られた空間に一つの大きな墓石と小ぶりな二つの墓石が建てられてる。五輪塔や墓誌なんかは用意されてないシンプルな造りではあったけど、その野原の中で何よりも目立ってた。


「あちらが堀田家のお墓にございます」ってチハクさんは鐘楼門の手前から腕を伸ばして言った。


 そこからの光景を私はさっきも目にしてるはずだった。本堂へ向かう途中、ちょうど鐘楼門の二階から降りてきたときに、瞬間的にではあったけど私はお墓のある方向と向かい合う形になってた。はずだ。でも案の定私は肝心なところで見落としてたらしかった。さてどうしてだろうね。


 野原に生える背の低い雑草は祖父の墓へ続く道筋の上だけきれいに刈り取られてた。鐘楼門を出て石畳の道を少し行ったところから、チハクさんはその小道に入っていった。私はちょっと気後れしながらついてった。


 全部で三基あるうちの最も立派で最も大きな墓石に祖父の魂は眠ってるらしかった。そこには直近の直系の先祖の骨も納められてあるらしくって、小ぶりなうちの一つが傍系、もう一つの最も古めかしい墓石が歴史上のご先祖様の御霊を祀ったものらしかった。古い墓石の表面には堀田ではなく木田の文字が彫られてる。


 私のお参りが済むまで、チハクさんは横に付き添ってくれていた。いよいよ帰路に就くときも参道の終わり……つまり山門の手前まで随伴してくれた。


「またいつでもお越し下さい、瑚和さんでしたら手前どもも歓迎です」ってチハクさんは見送りの際にそう言った。

「貴重な体験でした。私の方こそ、ありがとうございます」って私は丁寧にお辞儀した。「でも、次にまた来れるのがいつかは、ちょっと」

「重々承知しております」ってチハクさんは言った。そしてこう続ける。「先ほどは失礼しました、さん」

「え?」


「ご挨拶のときにはわからなかったものですから、つい堀田さんとお呼びしてしまいました。それとも、やはり堀田瑚和さん、でしたでしょうか」

「いえ。下間で合ってます」って私は驚いて言った。「っていうことは、チハクさんも、私の家のこと、知ってたんですね」

「この度はご愁傷さまでございます」ってチハクさんは暗に認めるように深々とお辞儀した。


「ごめんなさい、私の方で、なんにも訂正しなくって」

「なかなか機会もございませんでしたから」ってチハクさんは好意的にかぶりを振った。「こちらこそ試すような形になってしまい、申し訳ございません」

「いえ、そんなこと、全然」って私は言った。彼はにこりと笑う。

「いずれにしろ瑚和さんとは楽しいひとときを過ごさせて頂きました」

「私もです。本当に楽しかった」

「サヤコさんにもよろしくお伝え下さい」ってチハクさんは最後に言った。


 彼はうやうやしく頭を下げて、坂をくだる私を見送った。振り返るたびに彼の姿はそこにあり、とうとう頭に巻いたタオルが坂の上に残されるだけになっても、その場に留まり続けてた。チハクさんはとても誠実な人なんだ。


 この帰郷旅行でチハクさんと会ったのは、この一回きりだ。将来的なことをいうとチハクさんはこの出会いより三年後に別のお寺へ修行に出ていった。そして何年かして帰ってき、現在では立派に蓮華寺の住職を務めてる。それより後には彼とも何度か顔を合わせてる。本家に訪問したところに出くわしたり私の方から蓮華寺の住居に挨拶に伺ったり、状況は色々だ。祖母の葬儀でお経をあげてくれたのもチハクさんだった。年々彼の顔にはしわが増えるけど、穏やかな笑顔はそのままだ。


 その笑顔を思い浮かべながら、祖母の家までの帰路をゆく。

 山道をしばらく下ると、例の六叉路の交差点に繋がった。辺りを見回したけど鍵しっぽの猫くんの姿はない。特徴的なにゃーんと鳴く声が、ちょっと懐かしかった。


 道は完全に乾ききっている。リンゴの木々も、葉っぱの表面についた水滴をすっかり蒸発させていた。夏らしい太陽が真上でぎらっと輝いている。季節外れのうぐいすが山の高いところで一つ二つ鳴き出した。振り返ると山間の夏がそこにある。深緑と青のコントラスト。


 のどかな景色を背に受けて、のんびり山を下っていったんだ。まだチハクさんの静かな声音が耳の奥に残ってて、平和な気持ちに満たされてたの。


 ところが祖母の家に着くと、サヤコさんはちょっと慌てた様子で玄関までやってきた。靴を脱ぐために框にかけてたところで、サヤコさんへは後ろ手に見上げる形になった。


「いま、戻りました」って私は一旦靴を脱ぐ手を止めながら言った。「お寺に連絡してくれたみたいで、ありがとうございます。おかげで助かりました」

「ええ、いいのよ、サトくんには会えた?」

「サトくん?」って私は言った。言ったあとに、ああチハクさんのことかと思い至った。智白と書いてサトシ、それはチハクさんが教えてくれた事柄だ。「色々と、ためになる話を聞かせてもらいました」


「あら、サトくんってば、あんなに釘を差したのに」ってサヤコさんは思わずといった感じで微笑んだ。

「釘?」

「たぶらかしちゃだめよって」

「サヤコさん、そんな冗談言うんですね」

「あら。半分本気よ」ってサヤコさんは魅力的な表情で言った。でも急に気を取り直して、「それよりね、コヨリちゃん。コヨリちゃんが留守のあいだにお友達が訪ねてきたのよ」

「え?」

「二十分ほど前だったかしら。コヨリちゃんが留守だと知って、そのまま帰ってしまったけれど」


「私を訪ねて来たんですか?」

「コヨリちゃんが言ってた女の子かしら。ずいぶん大人びた子でしたよ」

 シィちゃんだ、と私は思った。「名前はなんて言ってました?」


「それがね、聞きそびれちゃったのよ。留守だって伝えたら、本人に連絡してみますって。礼儀正しい子だったのだけれど」ってサヤコさんは心配そうに言う。


 それで私は慌てて携帯端末を開いた。本堂で時間を確認してから先、一度も画面を見てないことに気付く。液晶画面は二件の不在通知を示してた。メールも一件入ってる。どれもシィちゃんからだった。


『田んぼの見回りが終わったから、いつでも自転車を引き渡せるよ』って、メールにはそういった旨が書かれてあった。受信時間を確認すると、四十分くらい前に届いてた。今は四時二十五分。まるで浦島太郎のように、お寺での時間はあっという間に流れてた。


「自転車の件で来てくれたんじゃないかしら」

「どうもそうみたいです」って私は言った。携帯端末は朝からずっとマナーモードになってたの。まったく、なんで私はこんな余計な設定をしていたんだろう。


「ごめんなさいね、引き留めようとも思ったのだけど」

「そんな。気にしないでください」って私は慌てて言った。「ちょっとシィちゃんに連絡してみます」


 玄関を出てシィちゃんに電話を入れると、彼女はすぐに出た。いくらかの謝罪と社交辞令を交わし合って、本題に入る。


「それで、自転車のことだけど」って私は切り出した。「シィちゃんさえ良ければ、今から取りに伺うよ」

「私は大丈夫だよ。でもリッちゃんの方こそ大丈夫? さっき伺ったときは外出中だって聞いたから。今帰ってきたところなんだよね、少し休んでからでも」

「ううん、それは大丈夫」って私は言った。正直いって足に少しむくみを感じていたけれど、これ以上私の理由に付き合わせるのも悪かった。「それで、申し訳ないんだけど、どこかまで迎えに来てくれると助かるんだ」

「うん、私もそのつもりだったよ」ってシィちゃんは言い、それから合流場所を取り決めた。昨日シィちゃんと別れた丁字路の近くにある、農協の倉庫でということになった。


 三和土まで引き返すと、サヤコさんは上がり框のところで待ってくれていた。通話の内容を伝えると、彼女はようやくほっとした。


「挨拶もせずにごめんなさいって言ってました」って私はシィちゃんの代わりに言った。サヤコさんはなんでもないことのように首を振る。それからサヤコさんの方でも、

「うちの方でもごめんなさいね、上がって待っててもらった方がよかったのに」って私をシィちゃんに見立てるようにして言った。「それでしたら、すぐにまたお出かけに?」

「待たせるわけにいかないから」

「行って帰ってで大変ね」ってサヤコさんは慈しむように笑う。「ああ、それとね、お洗濯物は庭に干しておきましたから。あと一時間もすれば乾くと思いますよ」

「本当ですか。ありがとうございます」

「明日は晴れるといいわね」

「願ってます」って私は端的に言った。


 引き戸を閉める間際、私は唐突に思い出し、「そうだ、チハクさんもよろしく伝えておいてくれって言ってました!」

 サヤコさんはなんにも言わずに微笑んで、こっくりとうなずいた。


 シィちゃんとの合流場所までは三分とあれば着いた。倉庫という以上にはなんの説明のしようもない建物だ。人気はなくて、外には積み上げられたパレットや年季の入ったフォークリフトが置かれてる。私が到着してから二分後に、シィちゃんは歩きでやってきた。


「自転車じゃなかったんだ」って訊くと、シィちゃんは「近かったから」って簡単に言った。その近い道を彼女に案内されてついて行く。


「さっきまでおじいちゃんのお墓参りに行ってたんだ。シィちゃんは蓮華寺って知ってる?」

「山の上のお寺だよね。ゴガツヨウカのお寺」

「やっぱりこのあたりだと有名なんだ」って私は言った。「本当はすぐに帰ってこれるはずだったんだけど、道に迷って、上の集落まで行っちゃった」

「道に迷って?」って彼女は首をかしげる。「麓の道から、まっすぐだったよね?」

「ところが途中で猫に会っちゃって」って私はシィちゃんにだけは真実を打ち明けた。鍵しっぽの猫くんに案内されて、森のような道をゆき、やがて小さな個人商店にたどり着いたこと。


「素敵な出会いだね。私も会ってみたい」ってシィちゃんはなぜか鍵しっぽの猫くんを褒めるように言った。


「お寺に着いてからもお墓探しに迷っちゃって、それでお寺の人に案内してもらったの。私の家のこととかも、そのとき色々と聞かせてもらっちゃって」って私は真実そう言った。「ケータイもマナーモードになってて、シィちゃんからの連絡に気付くのが遅れちゃった。気を悪くしてたらごめんね」

「本当に大丈夫」ってシィちゃんは言う。そのとき彼女は例の薄らいだ笑みを浮かべてた。


 祖母といいサヤコさんといい、そしてチハクさんといい、この町で出会った人は多くその笑顔を持っていた。私には出来ない種類のほほえみ方だ。


「私の方こそ、リッちゃんちに勝手に押しかけちゃった」って彼女は続けた。

「ううん、むしろサヤコさんも褒めてたよ、礼儀正しい子だったって」って私は言った。「だけど、どうしておばあちゃんちの場所を知ってたの?」

「堀田さんといえば、綿入で知らない人はいないよ。特に昔からこの町に住んでる人なら」

「そうなんだ」って私はぼんやり言った。チハクさんの話を聞いたあとでは、そんなことで驚く頭にもなっていなかった。「でもシィちゃんが訪ねてきたって聞いて、驚いた」

「驚かせるつもりはなかったんだけど、ごめんね」

「ううん」って私は言った。


 シィちゃんの家までは農協の倉庫から五分ほどで着いた。祖母の家から計算すると八分だ。徒歩八分。これが駅までの距離なら、住みたいと思う人も結構いるだろう。そう思える程度には、シィちゃんの家と祖母の家はご近所さんだった。


 前面から覗うと、シィちゃんの家は予想以上に広かった。板塀に囲まれて、入り口には屋根のない冠木の門がついている。それは昨日あずま屋で見当をつけた、あの豪勢なお屋敷とちょうど同じ場所に建っていた。門から母屋までは距離があって、立派な庭園や蔵の横を通り抜けてゆく。


 よく手入れされた松が何本も庭園の中に植えられてる。大きな池には七匹か八匹の錦鯉が泳いでて、周囲には御影の石畳や丸く整えられた柘植の木、それからいびつな形の岩が、一見適当に思えるんだけど実は計算された数と配置で散りばめられてある。地面は高麗芝に覆われていた。規模は、祖母の家の倍もある。


 敷地の端っこに建つ蔵は、一つだけなまこ壁のあしらわれた、どっしり雰囲気のある土蔵だったけど、ほかは全て木造の、ちょっぴり古びた感じのあるものだった。木造の蔵のうちのいくつかは一階部分がくり抜かれていて、そのうちの一つはガレージハウスに改造されている。軽トラックや乗用車、それに数種類の農耕機が停められてる。


 庭園の向こう側に建つ、おんなじように一階部分がくり抜かれた蔵には、無数の農具が所狭しと置かれ、そっちは農業用の倉庫として扱われてるようだった。自転車はそっちの農具置場に数台並んで停められてあった。私たちは母屋の前を横切るように庭園を迂回して農具置場を目指した。


 着くと、シィちゃんは三台横並びに停められてある自転車の一台を指差した。

「昨年の今頃まで使われてたから、見栄えはそんなに悪くないと思う。どうかな?」

「シンプルで良いよ。イッタ趣味ならどうしようかと思った」

「貸す方でも困っちゃう」ってシィちゃんは言った。「それでね、さっきリッちゃんちを訪ねるついでに乗ってみたんだけど、パンクとかの心配もないみたい。問題なく行って帰ってこれたから」

「あれ、乗ってきたの?」

「うん。点検しておかないといけないと思ったから」


「ああ」って私はつぶやく。なんとなく腑に落ちない疑問が飛来した。それで私は勢いこう続けた。「この自転車に乗って、おばあちゃんちまで来たの?」


「うん。そうだよ」ってシィちゃんはきょとんとして返す。

「えっと、確認だけど、この自転車を貸してもらえるんだよね?」


 見たところ本当に普通の自転車だ。U字型のハンドルに、前カゴもついていて、後輪はアルミフレームにカバーされている。ボディカラーはダークブルー。必要な機能を必要な分だけ備えた、いい意味で無個性なママチャリだよ。


「他の自転車の方が良かったかな?」

「いや、そうじゃないんだよ」


 その先を続けずに、黙って彼女の目を見つめる。するとシィちゃんも、いくらかの間を置いて、あっと眼を見張る。


「そっか、リッちゃんちに置いてくればよかったんだね」

「私の立場から言うことじゃないけれど」って私は笑った。

「そこまで気が回らなかったよ、ごめん」ってシィちゃんも愉快そうに笑う。

「ううん。それに、考えてみたら歩いて帰らせるわけにはいかないもんね」

「でも本当に、どうして思いつかなかったんだろう」

「シィちゃんにしては意外」


 シィちゃんは照れくさそうに目を泳がせながら顔をうつむかせる。その仕草はちょっと可愛かった。

 そのとき、母屋の方からシィちゃんを呼ぶ声があった。振り向くと母屋の縁側に一人の女の人が立っていた。


「あら、お友だちもご一緒だったのね」って彼女は言った。

 目があって私は会釈する。彼女もたおやかに腰を折る。

「お母さん」ってシィちゃんが耳打ちしてくれた。


 たしかに、それはシィちゃんのお母さんだった。つまりシィちゃんによく似てたんだ。容姿というよりも、雰囲気がそっくりだった。


「シズカ、ちょっと来てもらえる?」って彼女は言った。

「どうしたのお母さん?」

「お兄ちゃんがなんだか言ってるのよ。シズカに手伝ってほしいことがあるみたい」

「でも、いま友だちが来てるのに」

「私なら構わないよ」って私は言った。


 シィちゃんは困った様子で母親の方に向き直る。そして突然、

「兄貴、なんて言ってるの?」って聞こえた。はっきりシィちゃんが言った。兄貴?

 二人は私をよそに会話を続ける。お兄さんの用事は大したものでもなかったようだけど、いずれシィちゃんが向かわないと場が収まらないらしかった。


「すぐに戻るね」って彼女は断って、母屋の方へ引いてった。


 一人その場に残った私に、シィちゃんのお母さんは「良ければお上がりになって」って勧めてくれた。私は丁重に断ってその場に留まった。それより、兄貴って?


 その呼び方はシィちゃんにはひどく不釣り合いだった。シィちゃんの品格からすると、なんとなく野蛮な感じがする。なにしろ私でさえトモ兄やナオ兄のことを兄貴だなんて呼んだことはないんだ。いや、つまり、少なくとも普段遣いでは。


 メールや電話ではシィちゃんはお兄さんのことを「兄」とだけ呼んでいた。対外的にはそれが正しいとわかっている上で、普段の自然な態度としては兄貴呼びを使ってるようだった。お兄さんと仲違いしてる感じもなさそうだったから、まさにそういうことなんだろうって私は納得した。


 でも状況として理解できただけで、心は愉快だった。だってあまりにもシィちゃんの印象とかけ離れてるんだ。うまく噛み合わない物事に感じるおかしさや決して完璧ではない未完成のものに感じる愛らしさが内側からこみ上げてくる。


 シィちゃんは決して一分の隙もない女の子じゃなかったの。一人の女の子だった。

 ところでそのシィちゃんは、母屋に引いたきりなかなか戻ってこなかった。徐々に私は手持ち無沙汰を感じ始め、辺りをきょろきょろ見回した。


 土蔵の中はたくさんの農具で溢れてる。巨大なポリタンク、固い合成繊維で編まれた米袋、目盛りが目線の高さにある大きな計量器、稲架掛け用の三脚、精米機、冷蔵室……奥の壁にはクワやスキも立てかけられてあった、けど、それらは長いこと使われた形跡がなかった。


 あらゆる農具が乱雑に散らばったそこは農具置場というよりも年季の入った町工場を彷彿とさせた。ちょっとした興味で私はそれらをまじまじ見つめ、触れて祟りのなさそうなものは実際に指先で撫でてみたりもした。


 母の実家は一般的なサラリーマンの家庭で、農業の文化は私の目に物珍しかったんだ。一つ一つの農機具をどんなときどんな用途で使われるものか推理する作業が面白かった。


 ふと、その目に薪の束が留まった。薪と呼ぶにはずいぶん小ぶりで、だけど枝と呼ぶにはそれらは太すぎた。積み上げられた木箱の最上段に五本か六本まとめて置かれてあった。


 表面にはオルゴールのロール紙もしくはモールス信号の点線みたいな模様がついていた。色合いは普通の薪よりずいぶん浅く、そうだな、ミルクティーくらいの薄茶色だった。


 指先で触れてみるとべこっとへこんだ。思ってたより脆く、ちょっと予想してたのとは違う感触だった。持ち上げてみると麩菓子のように軽かった。


 それもそのはずで、向きを変えてみると薪の中身は空洞だった。端を掴むと一枚のパピルス紙のように広がった。いや、まさしくパピルス紙のように、薄い板状の物体がくるくると丸められてあるだけだったの。


 それにしてもこれは一体なんだろう。円筒形に戻して空にかざしてみた。

 さあ、だけど大変なのはここからだ。ちょうどそのとき倉庫の脇から音がして、振り返ってみると一人の男の人が立っていた。


「お前さん、何してるんだ」って、目が合うとその男の人は言った。

 背筋のやや丸まった、全身グレーの作業服に帽子も同じ色の農協のマークがついたものをかぶった、見るからに農家の老夫といった出で立ちの人だった。顔には乾季のサバンナかってくらい無数のしわが刻まれてる。そのしわを更に深くして、彼はこちらを睨んでた。


「ここいらじゃ見ねえもんだな」って彼は言う。声はしわがれて、どすが効いていた。「人んちのもんに勝手に手えつけて、どういう教育受けてんだ」


 勝手に手をつける?


「いえ、違うんです」って私はとっさにかぶりを振った。

「んだども、じゃあどう説明すんだ」

「その、気になって、つい。ちょっと興味に駆られただけなんです」、私は恐る恐る巻物を木箱の上に戻す。「見たことのないものだったので」

「見たこんないだ?」

「少なくとも、私は」って私は正確に言った。でもそれが返っておじいさんの勘気に触れたらしかった。


「んなもんが珍しいことあるもんかい。


 ああ、それはまったく私の習得言語の外にある語句だった。彼の形相と解読不能な方言に圧されてたじたじになっていた。


「一つくらい盗んでもばれねえそもったか」って彼は更に畳み掛けてくる。

「いえ、本当に違うんです」って私は焦りを覚えながら言う。「本当にただ調べてみようと思っただけで……」


 こちらを睨む彼を恐る恐る見返しながら、これは間違いなくシィちゃんの祖父だなと、いよいよ私は確信した。昨日のイッタの話では彼は「頑固で偏屈なじいさん」とのことだった。イッタはそれに加えて今日も「年老いた男には気をつけろ」って忠告してた。残念ながらこの場の状況はまさにそれだ。

 とすると、これは誤解を解かないと悲惨だ。


「シィちゃんが」って私は理屈で正すしかないと腹に決めて言った。「いえ、シズカちゃんから自転車を貸してもらえることになったので、ここで待っていただけなんです。それで、待ってるあいだに色々と周りが気になりはじめて……」

「シズカ?」っておじいさんは言った。「ほんだけん、当のシズカがおらんでねえか」

「お兄さんに呼ばれて母屋の方に行きました。すぐに戻るからって、私はここで待ってたんです」


 ふん、って鼻から息を吐いて、おじいさんは口を一文字に閉じた。どこか値踏みするような様子だ。


「自転車せったか」

「はい?」

「自転車」っておじいさんは一文字ずつ強調して言い直す。


「そうです、貸してもらえることになったので」


 ふん、って今度はやや柔らかく息を吐く。

「自転車ってせや、堀田さんとこに貸しに行くちゅう話になってたはずだがな」


「そうです。実際にさっき、おばあちゃんちまで届けてくれようとしたみたいです。でもそのときは私が留守にしてたので」

「うん? ちょっと待て、ちゅうてえと、おめさんが堀田さんとこの孫娘ってことだかい」

「そう、ですね。今は名字は違いますけれど」って私は敢えてその不要な情報を加えて言った。頑固で偏屈。っていうことは、ちょっとした齟齬でもあとが怖くなりそうだった。案の定おじいさんはそこに食いつく。


「名字が違うちゅうのはどういうこったい」

「その、両親が離婚してるので」

「ああ?」って彼は言う。いや、声の調子は脅しの質感というよりも、まるで話が噛み合っていないときに生じる、一種の思索に近かった。


 彼は私の顔をじっと見る。私はそれを証明写真を撮るときの姿勢で受けた。

「ふん。盗人にしちゃ堂々としてんな」って彼は言う。盗人。突然出てきた仰々しい言葉に笑いがこみ上げる。でもぐっと我慢する。


 おじいさんの視線が私の顔を這い回る。その状況にも不意に笑いがこみ上げる。蛇に睨まれる、なんてよくいうけれど、実際に蛇と鉢合わせたときもこんな緊張が走るのかな、なんて、私は不適当な考えをよぎらせていた。


 しばらく経って、おじいさんはおもむろに口を開いた。「せってることは、どうも嘘とも思えんな」

 私は当たり障りない態度でこくりとうなずいた。


「んだども、あんまり似てねえもんだな」って彼はそれを見てか見ずにか勝手に話を進める。「本当に堀田さんとこの孫娘か?」

「訳あって、いま、綿入に戻ってきてるんです」

「ふん」っておじいさんはまた鼻から息を吐く。「その事情ちゅうんはシズカから聞いとる。なんだい、ほんなら本物の孫娘かい」

「血は繋がってるはずですね」って私は言った。

「そんなら、最初からそうせや良いもんを」

「はあ。すみません」って私はどうにか場が収まったことを感じながら頭を下げた。でもその裏で考える。一体いつ言い出すタイミングがあったのか。


「シズカは何しとるだや」、おじいさんはもうすっかり声の棘を剪定して言った。

「母屋に行ったっきり、まだ戻ってこないんです。用事が長引いてるみたいで」

「ふん。友だち待たせておくなんて、まいった孫だな」

「ああ、いえ、待つのは苦手な方ではないので」


 するとおじいさんはまた私をじっと見た。『そういう問題じゃない』とでも言いたげな表情だった。いや、どうだったろう、元々が険しい顔の人だった。


「にしても、カンバなんぞがそんなに珍しいかい」

「カンバ?」

「そこにあるもんだ。さっき手に持ってたでねえか」

「ああ、これ」って私は木箱を見て言った。「カンバって言うんですか」

「なんだい、本当に知んねえんかい」

「初めて見ました。どういうものなんですか?」

「見てわかんねえか。樺の木の表皮だ。ここいらじゃ盆に焼く」

「ああ」


 これは駄目そうだなと私は諦めた。もしかすると世間話で関係をフラットに戻せないかと考えたけど、どうも彼は会話なんてする気もなさそうだった。


 ああ、だから一応、カンバについて説明しておくよ。彼が言葉少なに語った通り、これは樺の木の表面を剥がしたもので、この地方ではお盆の迎え火や送り火としてこれを焚き上げるんだ。燃やすと独特の香りがあがって、その匂いでお盆を感じる人も多いみたい。時期になるとスーパーマーケットやホームセンター、場合によってコンビニでも売られてる。七歳でこの地を離れた私は、例のごとくそんな風習を知らなかったか忘れていただけという話なんだ。それだけなのに、全く大変な目に遭った。


 ようやく、シィちゃんが母屋から戻ってきた。彼女は私と祖父の姿を認めるなり、慌てた様子で駆け出した。


「ああ、リッちゃん、ごめん、私のおじいちゃん」ってシィちゃんは言った。

「うん。大丈夫」って私はぎこちなく笑う。それだけでシィちゃんはなんとなく察したようだった。


「おじいちゃん、この子が堀田さんのところの」

「誰だかわかんねかったもんだから、泥棒かそもったで」

「泥棒?」

「ちょっとそれが気になったから、触って調べてたの」って私がカンバを指さすと、シィちゃんは泣きそうな顔になる。

「カンバなんぞでも盗みゃ盗人だ」って、おじいさんはどこかツボに入りでもしたように大きく笑う。


 結局その場は適当に繕って、私とシィちゃんは逃げるようにして母屋へ引いてった。おじいさんとの距離が開くと、シィちゃんはごめんねと謝った。


「ほとぼりが冷めるまで、私の部屋に案内するね」って彼女は言う。

「勝手に触ってた私の方が悪いよ」って私は首を振った。でもシィちゃんの方でもううんと首を振る。

「そんなことで疑われる方が不憫だよ」

「誤解も解けたわけだから」って私は有り体に言った。


 ちらと振り返ると彼は農具置場の中で何やら作業を始めてた。私たちにはすっかり背を向けて一人の世界に没入してる。その場はしばらく空きそうになかった。


 玄関をまたぐと、色んな思惑の詰まったため息が出た。疲労? 安堵? 反省? 中でも一番強かったのは、こうなってみるとあまりに安請け合いだった、昨日の私に対する呆れに近い感情だ。「会うことがあったら気をつけろ」ってイッタは昨日も私に注意を促してた。それを私は『空飛ぶ豚と青いバラ』って言葉を思い浮かべながら簡単に受け流してた。意味はどちらも『ありえない』。


 でもそのうちの一つは品種改良によって実在し、花言葉も『夢叶う』に変化した。とするとこの遭遇はある程度決定づけられていたわけだ。どんな夢でも夢には違いないもんね。


「それにしても、シィちゃん、すぐに駆けつけてくれたね。もしかして、どこかで見てた?」

「ううん、おじいちゃんが友だちと出くわすと、ろくなことにならないから」ってシィちゃんは肩をすぼめて言った。

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