第六節(0406)

「それはさぞかしお疲れになったでしょう」って彼は言う。「立ち話もなんですから、どうぞこちらに」


「すみません」って私は答える。

「どちらまでお登られに?」って彼は先導を務めながら話を続ける。

「上の、集落の方まで。お店があって、そこの人に道を教えてもらいました」

「それはご災難でございました」


 彼の案内に従って私は本堂の縁側に腰かけた。お盆を前にした今時分は家の中もずいぶん散らかってるらしく、同じ縁側に通すということなら家屋よりこちらの方が雰囲気を味わえるという点でお誂えらしかった。


「それで、祖父のお墓なんですが」

「後ほどご案内いたしましょう」って彼はお坊さんらしい穏やかな口調で言う。「少々お待ちになっていてください。お茶をお持ちします」

「いえ、そんな」って私は言った。ところがチハクさんは軽く会釈をすると住居の方へ引いてった。


 三十代前半か、もしくは中盤に差しかかったばかりの若い青年だった。顔立ちは端正でどこか知的な雰囲気を持つ人だ。気色ばんだところはなく常に慈しみのある微笑を浮かばせている。やや低い声に若干のノイズを混じらせていて、でもその声質は耳障りというよりも、聞く人の心を落ち着かせる効果を持っていた。話しぶりも実に冷静で、この時点で彼は既に徳の高い正規のお坊さんのようだった。


 チハクという法名めいた名前を、彼は出会ってすぐに紹介してくれた。本当はまだ修行中の身で、正式な法名は持っていないらしいのだけど、彼の本名であるサトシが漢字で智白って書くところから、周囲からは半ば既成事実のようにチハクさんって呼ばれてる。彼自身もいずれこのお寺を継ぐつもりだから、その呼び名を甘んじて受け入れていた。彼はこのお寺の跡取りだった。


 今はお寺の雑務を担う傍ら仏道の研究に励んでる。大学は仏教系で在学中に僧籍も取得したけれど、学生時代は遊びに夢中で、今になって勉強が楽しいんだとちらっと教えてくれた。


 さてそのチハクさんがなぜ私のことを知っていたかというと、答えはサヤコさんだった。彼女は私の帰りが遅いことを心配してお寺さんまで連絡を入れてくれてたの。まるで迷子の呼び出しみたいでちょっと気恥ずかしかったけど、おかげで電話に出たチハクさんが外まで様子を見に来てくれたというわけだ。


 出会いの瞬間にチハクさんが「堀田瑚和さん」って私のことを旧姓で呼んだのは、サヤコさんが姪っ子としか伝えていなかったからだ。細かい事情を説明するのは手間だったから、私も堀田瑚和のまま通しておいた。


 五分ほど、チハクさんはお盆を手にして戻ってきた。

「熱いですのでお気をつけください」って彼はお茶を差し出しながら言った。


 一口含んで横手に置いた。私は神妙な面持ちに変えて、

「すみません、なんか大事になっちゃったみたいで」


「大事といいますと?」って彼は私の隣にかけながら首を傾げた。

「だって、お寺さんに電話するって」って私は言葉尻を濁した。

「なるほど。ごもっともです」ってチハクさんは笑った。「檀家さんの中でも、堀田さんとは日頃から懇意なんですよ。ですから、瑚和さんが思われているようには深刻というほどでもございません」

「そうなんですか?」

「有り体にいえば、堀田さんとはご近所さんのような間柄です」

「ご近所さん」って私はちょっと驚きながら言った。「お寺さんって、もっと特別な存在かと思ってた」

「もちろん、どの檀家ともそのような関係にあるわけではございません。いわば堀田家との関係は手前どもにとっても特別でございます」

「特別」って私はつぶやくように復唱する。「それって、例えばお布施を多く納めてるとか」


 それを聞くと、チハクさんは大きく相好を崩した。笑いながら彼は、「いえ、決してそういった意味では」って言った。「あるときにはそうしたこともございました。しかしあくまで結果論ですね」


「はあ」

 私が首を捻るとチハクさんはこう続けた。


「失礼ですが瑚和さんはご自身の家についてどれほど理解しておいででしょうか。つまりご本家について」

 私はしばらく考えて、「おばあちゃんの家としか」って答えた。

「なるほど」ってチハクさんは深くうなずく。


 チハクさんは脇に置いておいた汲出型の湯呑みを手にすると、ごく慎ましやかな動作で日本茶を口に含んだ。それは会話が切り出される直前の何かしらの儀式のようにも見えて、私は彼が一息つくのをじっと待っていた。ところが湯呑みが縁側の床に置き直されても、チハクさんの口元は微笑の形を作るばかりだった。


「その、なにか関係があるんですか?」って私は訊いた。「おばあちゃんちの由来と、おばあちゃんちが特別だってことと」

「そうですね、どこからお話したものか」って彼は静かに答える。「それに、若い娘さんには興味がないお話かもしれません」

「若い娘さん」って、その表現が愉快で思わず言った。「でも、チハクさんは知ってるんですね。私、興味あります、そういう歴史的なこと。おばあちゃんちには、なにかそういう由来があるんじゃないかと思ってた」


 事実祖母の家を見れば誰だってそう感じるはずだ。古い石垣の上に建てられた母屋と、かつては土蔵だったという巨大冷蔵庫群。それらの紐解かれる音が私の『ワールハイムの乙女』的興味をくすぐっていた。


「しかし実際にどこからお話したものか」、そう言うとチハクさんはやや上目遣いに私を見た。「お時間の方は大丈夫でしょうか」


 携帯端末を開くと三時をほんのちょっぴり過ぎていた。液晶画面は平板で、誰からの連絡も入ってない。多分シィちゃんもまだ祖父と一緒に田んぼの水量を見て回ってる最中なんだろう。水門の調節をしたりして、意外と手間取ってるのかもしれない。少なくとも四時過ぎまでかかるだろうって彼女は言っていた。


「一時間くらいなら」って私はそのことを簡単な言葉に代えて言った。

 チハクさんは深くうなずく。「それでしたら順を追ってにしましょうか。恥ずかしながら要点をまとめるということに不得手でして」

「ぜひ、聞かせてください」って私は目を輝かせて言った。


 実際のこととして十七歳の夏の頃になると、物事を掘り下げるというのは私の興味の中心になっていた。それは私の性質的にも適してて、忘れっぽい私が流行や時事を追いかけても、ようやく身につけたときには使い物にならなくなってしまう。過去の事象や歴史といった、定型句のように固定された知識なら、消化にどれだけ時間がかかっても期限の切れることがない。そういった意味でいえば私の特性と食指の動きはうまく噛み合っていた。


「堀田の姓が初めて文面において確認されるのは、江戸時代も後期に入ってからのことです」、チハクさんはぽつぽつと語り始めた。「当時の須坂藩主・堀直虎が宛てた書状にその名がしたためられております」

「江戸後期」って私は相槌を打つ。チハクさんは一つうなずく。


 私はこの堀田家にまつわる一連の物語を、こうして合間に相槌や質問を差し挟みながら聞いていた。だけど物語の全容はかなり長いんだ。それこそ一時間を要するほどにね。だから君には敢えて私たちの掛け合いの多くを省いて紹介しようと思う。


「江戸時代以前の堀田家は諏訪地方を拠点とした国人の一つであり、諏訪大社の大祝を務めていた諏訪氏の支族と伝わっております。平安期ごろになりますと諏訪氏は支族を束ねて神氏と呼ばれる一つの集団を結成し、更に時代が下がった鎌倉期には神氏は諏訪神党という武士団として組織されるようになります。堀田家の祖先もまた諏訪氏庶家として諏訪神党に名を連ねていたといわれております」


「戦国期に入りますと彼らは諏訪地方を拠点とした国人衆としての向きを強くしてゆき、やがて周辺国に対しての軍事介入も行うようになります。かの騎馬隊で有名な甲斐の武田家とも幾度か刃を交えることとなり、天文十一年に起こった戦ではとうとう武田晴信(信玄公のことですね)の指揮する軍勢に押され本城が陥落、諏訪氏側は当主であった頼重の身柄の保障を条件に武田方に降伏します。しかし頼重はのちに甲斐国へ連行され、戦からひと月も経たないうちに幽閉先で自害を命じられました。


 本来であれば武田方の約定違反により諏訪氏側が蜂起するはずですが、この頃の諏訪家は無理な軍拡政策などを原因として求心力を失っており、一族の結束である諏訪神党も半ば形骸化しておりました。事実として同じ神氏一族であった高遠家がこの戦の直前に寝返っており、堀田家の祖先もまた同様に武田方を支援していたとされています。


 大名家としての諏訪惣領家が滅亡した後、武田家は諏訪地方の支配を強め、神氏一族の多くもこの流れに恭順したとされております。ところが天文十七年に北信濃一帯を治める村上氏とのあいだで起こった戦(一般に上田原の戦いと呼ばれておりますが)、これに武田氏が敗れると、機と見た神氏一族の残党が信濃守護・小笠原氏のもとに集結し、武田氏に対して反旗を翻します。こちらの戦は塩尻峠の戦いと呼ばれるものですが、しかし多くの文献からも明らかになっているように、ここでは武田方の大勝という形で幕が下ろされます。


 堀田家の祖先もこの戦で反武田勢に与しており、残念ながら敗戦の後に主家は滅亡、居城であった城も破却の処分がなされました」


「それでは現在の堀田家がどのように存続したかにつきましてですが、これは同じ神氏一族の保科氏の助力があったものと考えられます。この保科氏は神氏一族であったと同時に高遠家の家臣でもあり、塩尻峠の戦いが起きた頃には高遠家もまた諏訪の領有権を巡り武田家との争いの最中でした。戦後、残された堀田の女子衆や庶子がこの保科氏を頼ったものと考えても、なんら不思議はございません。


 と言いますのも、ここ綿入は昭和の大合併時代に近隣二村と合わせて一つの町になったのですが、その村の一つに保科氏ゆかりの地がございます。平安末ごろにこの地に移住した諏訪大祝の末裔・四郎太夫行遠が保科氏の祖とされ、彼はこの地に諏訪社を建立すると共に姓を保科と改め、爾来数百年、保科氏は綿入の周辺地域を本貫地として家名を存続してまいりました。戦国期に入り、先の村上氏がこの地を含む北信地域に侵攻しますと、これに敗れ、南信は諏訪の高遠家に身を寄せるようになったそうです。つまりはこうした神氏一族の繋がりから、堀田家の祖先はここ綿入に逃れてきたのではないかと考えられるのです」


 このときチハクさんは、その推測を一つの可能性だと断った。実際に私の祖先が保科氏を頼ったとする文献的資料はどこを探しても見当たらないんだそうだ。ただ彼は歴史上の事実を点と点で結んだ結果、そうした一つの物語が出来上がったと教えてくれた。


「平面的な事実だけじゃ、決して歴史は紐解けない」って私は好意的に言った。


「そしてときにそういった考察が真実に繋がることもあるわけです。歴史の面白い点ですね」ってチハクさんは静かにうなずく。「しかし、なるほど、サヤコさんの仰っていたとおりですね」


「サヤコさん、私のことどんな風に?」

「魅力的な子だと」って彼は言った。「このようなお話でも、しっかり耳を傾けてくださる」


「面白いです、チハクさんの話」

 たしかに、あまりにも聞き慣れない単語が多くて混乱はしていたけれど、私の体に流れる血のこと、それからチハクさんのゆったりとして説得力のある話しぶりが、少しも私の興味を絶えさせなかった。


 ところで私はここで一つ気になったのだけど、チハクさんは堀田という名前について、江戸末期の文献に初めてその名が記されるって紹介してた。そうするとこれまでの話は何なんだろう。私はその疑問を率直にチハクさんにぶつけてみた。


「そうですね。それでしたら途中を省きまして、その部分をご説明しましょう」って彼は目元に柔らかさを宿して言った。


「江戸時代に入りますと綿入は須坂藩の領有とされ、この地に逃げ延びた堀田家の末裔も郷士として藩に仕えます。郷士とは簡単にいってしまえば武士と農家を兼任した者たちの総称で、彼らは苗字帯刀を認められた上で農村部への居住が許されておりました。藩政の中枢からは遠のいていましたので、江戸初期から中期における堀田家の詳細は、残念ながらどの文献からも伺うことができません。


 幕末になり世の中に維新の動きが起こりだした頃、ここ須坂藩では堀家十三代当主・直虎を新たに藩主として迎えます。堀直虎は革新派の人物として知られており、彼が家督を継ぐと、直ちに藩政改革が行われます。軍事においては英国式の軍制を導入し、内政においては藩財政の圧迫により農民を苦しめていたことから、租税免除のお触れを発します。このとき改革に反対した旧体制派の家老が、実に四十名あまりも粛清されたとのことです。


 この事件は周辺にも大きく轟き、藩外でも大きな事件として扱われたようです。そしてこのとき、堀田家の祖先は堀直虎に従い、大きく功績を挙げたといいます。詳しい経緯は定かではありませんが、堀直虎はこの働きを大変喜ばしく感じ、感状をしたためるとともに彼らに堀田の姓を与えると約束されました。その書状こそが先に申し上げたものとなります」


「それより以前には堀田家は木田の姓を名乗っておられました。神氏一族としても瑚和さんのご祖先は木田として名を連ねております。堀田という名は元来の木田姓に堀の一字を融合したことで生まれたものです。


 偏諱授与、もしくはこの場合ですと名字拝領といいまして、目上のものから名を賜ることは、古来より日本の武家社会では大変な栄誉とされてきました。特に堀田家の場合ですと元々の木田姓の一字を残した、ことに珍しい形での拝領となります。これには諏訪大祝の末裔であることに配慮したという向きもありますが、いずれにせよ木田家は以来公的に堀田姓を名乗るようになりました」


「堀直虎は更にその書状で堀田家への加増も約束され、それらの土地は版籍奉還や地租改正ののちも新政府によって安堵されました。往時は堀田家のお屋敷からここ蓮華寺に至るまでの全域が堀田家所有の私有地であったと聞いております」


「ああ」って私は思わず声を漏らした。ということはつまり、あの平凡な絵画の六叉路や、鍵しっぽの猫くんに案内されて行った一面リンゴ畑の細道も、かつては祖母の家が持つ土地だったということだ。


 それらの土地は私から見て高祖父に当たるご先祖様が地域の発展を願って近隣住民に農耕地として譲与したのだと、このときチハクさんは加えてくれた。


「残念ながら現在の堀田さんは、当時の面影をわずかに残すばかりとなってしまいましたが、それでもこのように由縁のはっきりしている家柄というのは、そうそうあるものではございません」


「じゃあ、それが、おばあちゃんちが特別な檀家である理由なんですか?」って私は言った。「つまり、由緒ある家系だったから」

「堀田さんが隆盛の頃は、当寺も大変にご厚意を頂いていたようで、理由の半分としては、間接的に正しいかもしれません。過去の奉加帳にも幾度となくご寄進頂いた旨が記載されてあります」


「やっぱり」

「いえ、しかしながらですね」ってチハクさんは言う。彼の話にはまだ続きがあった。


「そうですね……当寺と堀田さんの関係をお聞かせする前に、次は当寺の由縁をご紹介させていただきたく思うのですが」

「大切なものは最後までとっておく」って私は言った。

「なかなか話し手を喜ばせてくれますね」って彼は微笑んだ。


 すこしぬるくなったお茶で口を潤して、口上は次のシーンに移る。


「ここ蓮華寺は奈良時代の僧正、越智泰澄禅師の開基とされ、正式には越智山九品院蓮華寺と称しております。泰澄禅師は越前国、今でいう福井県の生まれでして、ときの天皇である文武天皇から鎮護国家の法師にも任命される、大変徳の高い上人でした。泰澄禅師は、越前は白山において修行を積んだのち、仏教の教えを説くために全国行脚を始めます。その途上、この地に信仰の中心を見て蓮華寺を開かれました。参道入口の仁王門はご覧になられましたか? 古くはあの仁王門から本堂までの参道に七堂伽藍と十二の院が並び、それは華美絢爛な仏寺であったそうです。奈良時代ですから、今よりざっと千二百年ほど前の姿ですね。ところが当寺は過去幾度も火難に見舞われ、そのたびにお堂を焼失させてしまいます。特に平安時代末頃に起こった火災では本堂が炎上し、寺名の由来ともなっている九品仏のうち八尊までが失われてしまったとのことです。


 九品仏は文字通り九尊の阿弥陀如来坐像を指します。これは仏教の九品往生という観念に基づいており、極楽浄土には九つの階層があるという教えを表しております。最も上位の層から上品上生、上品中生、上品下生、中品に入って中品上生、と、これが最も下位の層である下品下生まで続きます。かいつまんでいえば生前の行いによって極楽浄土の行き先が異なるという考えです。九品仏とはこの九品往生の考えを阿弥陀如来像に宿したもので、一尊の阿弥陀如来像がそれぞれ一つずつ各位の印相を持ち、九尊が合わさることで全ての浄土を体現しているといった具合になります。ちょうどこちらの本堂内陣に祀られてありますので、ご覧になられますか?」


「実をいうと、さっき、ちょっと」って私は体を縮こませるようにして言った。「でも、そのとき数えてみたら、八体しか見当たらなくて」


「本堂に祀られてあります八尊はレプリカなんですよ」って彼は一度うなずくと、何事もなかったように話を再開した。「火難により焼失した八尊はのちに再造され、焼失を免れた一尊は現在本堂裏手の庫裏に保管されてあります。重要文化財にも指定されてある大変貴重な仏尊ですので、特別な行事のときのみ公開させて頂いております」


「特別な行事」って私は言った。「それって、もしかして五月八日に行われたりしますか?」

「おや。瑚和さんは五月八日をご存知でしたか」

「五月八日?」って私は首を傾げた。


 というのは、このときチハクさんの発した五月八日のイントネーションが、ちょっとおかしかったんだ。単なる日付として読み上げる五月の八日ではなくて、なにか一つの成句としてのゴガツヨウカだった。そういう音の流れだったんだよ。ゴとヨにアクセントがかかってる。文字と音との違いはあるけれど、それってまるで山門のノートに書かれてある五月八日とおんなじ使われ方だった。


「その、ゴガツヨウカっていうのは?」って私は訊いた。


「灌仏会、お花祭りのことですね。お釈迦様の生誕を祝うお祭りです。一般的に灌仏会は四月八日に行われるものが有名ですが、このような田舎ですと月遅れの風習が残っており、当寺でも一月遅い五月八日を祭日とさせて頂いております(このときの五月八日は日付の読み上げ方だった)」


「それをこの辺りの人はゴガツヨウカって呼んでいる?」


「いつの時代からそう呼ばれるようになったのかは定かではありませんが、地元の方からはそのような呼び名で親しまれております。古くは村をあげての盛大なお祭りだったようで、現在でも手前どもの方で参拝者に甘茶を振る舞ったり、参道にも多くの屋台が並んだりと、その日はこの寺も大いに賑わいます。あまりご想像につかないでしょう?」ってチハクさんは人気のない静寂を指して言った。


「いえ、そんなこと」って私は有り体に返事する。「でも、参道って、仁王門から鐘楼門までの、あの桜並木のことですよね。あそこに屋台が並ぶんですか」

「ずいぶん狭い道ですから、驚かれるでしょう。民家のある側や、それに桜の木々の合間にも屋台が置かれます。背が崖になっていますから、皆さん上手に工夫されているのですよ。いえ、工夫といっても、要は慣れですけれどもね」


「大変だ」って私は笑った。チハクさんの話は深い知識だけでなく、表情の豊かさにも魅力があった。


「ときにゴガツヨウカといいますと、例年その日は手前どもの方で堀田さんのご在所に上がらせてもらうお約束になっているんですよ。 当寺の灌仏会は午後からですので、午前中に堀田さんのご在所に訪問し、仏前で読経をあげさせて頂いております」


「それもやっぱり、おばあちゃんちが特別だから」

「通常は灌仏会に檀家を訪問するという風習はないと思われます」

「いよいよその謎が解けるんですね」って私はチハクさんの顔に浮かんだ、どこか挑戦的な表情を見て取って言った。


「蓮華寺は過去の度重なる火難によって零落し、江戸中期まで興亡を繰り返したと伝わっております。手前どもが蓮華寺の住職を世襲的に継ぐようになりましたのは、今からおよそ三百年前のことでして、これは手前どもの祖先である智光律師が当寺の住職に就いたときからを起源としております。


 智光律師の功績としましては、焼失した本堂の再建と先の九品仏の再造が挙げられますが、このときも堀田家はささやかながら当寺にご寄進下さっていたようです。ささやかながら、と言いますのは、その頃はまだ堀田家も木田姓を名乗っており、一般的な郷士の立場でしたので」


 私はうんうんと小刻みに首を揺らしてた。


「元々智光律師はこの地の土豪の次男として生まれた者でした」ってチハクさんは続ける。「木田氏が塩尻峠の戦いに敗れ、この地に逃れてきましたたときも、手前どもの祖先は木田氏を手厚くもてなしたようで、また木田氏が当地にて再興して以降も、同郷の土豪として互いに手を取り合っていたようです」


「つまり、昔から家同士の付き合いがあった」

「現在の堀田さんとのご関係も、古くから足がかりは出来ていたというわけです」

「だけどまだ理由がある」


「本堂へ伺う前に山門にはお立ち寄りになられたでしょうか。当寺の仁王門には二組四尊の仁王像が祀られており、うち手前側の二尊は焼け落ちた状態で安置されております。明治四十二年の失火により門ごと焼失し、このときは参拝者のご献灯が原因とされております。それから七十年あまり当寺には仁王門が存在しませんでした。昭和五十三年に檀家側から再建の話が持ち上がりまして、ようやく復興と相成った次第です。


 そして再建のご提案を下さった方というのが、他でもない瑚和さんのおじいさまだったのです。堀田さん以外の檀家も連名になってのご提案でしたので、厳密には音頭を取られたといった言い回しが正しいように思われますが、その際堀田家からは格別のご寄進を賜ってもおります」


「おじいちゃんが」って私は言った。

「瑚和さんのおじいさまはことに素晴らしい方でした。若い頃は隣村二村を合わせた町議会の町長を務め、また、産業に乏しい綿入にエノキの菌床栽培を広めたのもおじいさまです。更に晩年になりますと地元有志とともに調査委員会を立ち上げて、この土地の風土記をまとめた『綿入文化財』という郷土資料も編纂されました。もし地元の図書館に足を運ぶ機会がありましたら一度お手に取られてみると良いでしょう。


 近代においても堀田家は綿入村中において一目置かれる存在ですが、これはひとえに瑚和さんのおじいさまの功績あってのものと考えてよろしいかと存じます」

「ああ」って私は言った。

 私はそのとき、ちょっと言葉を失っていた。


 だって、それってまさしく『ワールハイムの乙女』のような話だったんだ。私はチハクさんの聞かせてくれる事柄を、自身の背景として素直に誇っていいものなのか、それとも何でもないこととして心に沈めるべきなのか、心の中で迷わせていた。ううん、それだけじゃなくて、純粋に祖父の功績に唖然ともしてた。郷土資料の編纂? それってつまり、本を出版していたってこと?


 ああ、だけど、そうだ、それだけでもないんだ。


「ずいぶんと話が長くなってしまいましたが、つまるところ仁王門の再建にご尽力頂いたことが、手前どもの方で堀田さんを特別な檀家であると考えさせて頂いている由縁にございます」ってチハクさんは続ける。


「そうなんですね」って私はぼんやりとしか答えられなかった。

 私の頭の中には昨日の出来事がフラッシュバックされていた。生家が差し押さえになったという事実を、イッタもシィちゃんも、ましてあのヤシパンのおじさんまでもが知っていた。それをイッタは事あるごとに小さな町のスキャンダルだからという風に言い聞かせていたけれど、実際のところそればかりではなかったんだ。堀田という名前はこの町では特別な意味を持っていた。


 だけどそれって驚きの事実だよ。まるで今まで平民の娘として育てられていた普通の女の子が、あるとき「実は貴方はさる城のお姫様だったのです」って告げられる、よくあるおとぎ話のようだ。幼少期の私のおてんばと、それを看過してくれていたであろう大人たちの姿を彷彿として、急に恥ずかしくなる。全部は堀田っていう加護があったからなんだ。


「仁王門再建にご尽力頂いた三年後、おじいさまは脳溢血により急没されました。おそらくは瑚和さんがお生まれになる前のことと存じます」ってチハクさんは言った。


「そうですね。私は遺影でしか見たことがない」って私は気を取り直して答えた。「おばあちゃんも、お父さんも、誰もそんなこと教えてくれなかった」

「ご身内の自慢というものは、人によっては慎ましやかなものです」

「かもしれません」って私はぎこちなく微笑む。日本茶はすっかり冷めていた。


 休息っていうには充分すぎる時間が経っていた。チハクさんは空の湯呑みをお盆に載せて、おもむろに立ち上がる。


 いや、実際にはもう少しだけチハクさんのお話が続いた。だけどそれはチハクさん的にいうところの慎ましやかなものだったし、私がいうところでも、これ以上は余分な『ワールハイムの乙女』だった。だから君に聞かせる物語としてはこの辺りで切り上げるのがちょうどいい。

 私のご先祖様にまつわる崇高なお話は、これでおしまい。

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