第四節(0404)
彼は君と違って大人の猫だった。彼、とはいうけど、もしかしたらメスだったかもしれない。でもなんとなくオスの気がしたの。毛の色は君と一緒で真っ黒だ。それにさっきまで雨に濡れていたせいか、ずいぶんくたびれている。しっぽは中途半端な高さに固定されていて、おまけに途中で折れ曲がってた。彼はその鍵しっぽをたまにちょこんちょこんって左右に揺らす。見たところ首元は自由で、野良猫か、はたまた放し飼いの猫かってところだ。
「こんにちは」って私は声をかける。
彼はじっと私の目を見た。ちょっと読み解きにくい表情だ。
その場に蹲踞して手招きしてみせたけど、彼はまたしてもにゃーんって気だるそうな声をあげるだけで、特に何かの行動を起こそうとはしなかった。警戒もしなければ懐きもしてやらないって態度なの。しゃんとして、佇まいは堂に入っている。嬉しくなって私は満面の笑みを浮かべた。
慎重に一歩近づいてみた。すると彼は初めて動きを見せた。私が近づいた距離の分だけ彼は後ろへ下がったの。その下がり方というのにも怯えは見えず、くるりと反転すると四足をしゃなりと前へ進めるんだ。とても堂々としている。
もう一歩近づくと彼はやっぱり同じ分だけ遠ざかった。私たちのあいだに透明な発泡スチロールの壁があるみたいに、彼はゆっくりとその壁に押し出されてく。要するにそれが彼にとって最も適切な距離感らしかった。
私は充分に納得して、彼に近づくのを諦めた。彼は顔だけをこちらに向けた姿勢で、気だるそうににゃーんと鳴いた。
特別な警戒心は持ってないけれど、必要限度の防衛本能は備えてる。きっと私だけでなく、知らない人には常にこういう身構えなんだと思う。ずいぶん賢く、経験を積んでる猫くんだ。
だから私はすぐに彼にサヨナラを告げた。こういう手合いの猫くんは絶対に体に触れさせてくれないし、無理に追いかけるのも可哀想だからね。いや、私の足では追いつけもしないだろうけど。
それで目的の道に戻りかけたんだ。でも鍵しっぽの猫くんは、私が坂の上を目指そうとした途端に、さっと六叉路の別の道に入り込んで、顔だけこっちに振り返ると、何か私を誘い込みでもするように、またしてもその気だるそうな声でにゃーんって鳴いたんだ。
「うん?」って私は言った。彼はじっと私の目を見つめてる。
しばらく視線を交わしあったあと、彼は道幅の狭いその登り坂を先に進んでいった。だけど数歩ほどゆくと急に立ち止まり、立ち止まったまま、また私の目を見つめるために振り返った。さっきより抑揚を抑えた声でにゃーんと鳴く。
「どうしたの?」って私は首を傾げた。
彼は返事をしなかった。ただその場にじっとして、私の目を見つめてる。立ち去る様子はないし、かといって座り込む様子もない。
試しに近寄ってみると、彼は黙ってその動きを見守った。私は不思議に感じながら、とりあえずもう一歩、二歩と近づいた。
ある程度間隔が狭まると、彼はおもむろに道の先へ進みだした。更に私が追いかけると、彼はその分だけ前に進んでく。適切な距離感を保ちながら彼は歩みをやめようとしない。
さて、私はちょっと実験的な気分になった。試しに立ち止まってみる。すると鍵しっぽの猫くんも立ち止まる。近づいてみると彼も歩みを再開する。止まる、歩く、止まる、歩く。何度か繰り返してみたけれど、彼はまるで融通のきかない人工知能のように、私の進む距離を精密に模倣した。
実験中、鍵しっぽの猫くんは一度もこちらに振り向きはしなかった。それなのに、寸分の狂いなく適正距離を保ち続けてた。どうもお互いの間隔は鍵しっぽのセンサーか優れた聴覚によって測られているらしかった。実験の最後に私は立ち止まる。
「ねえ、猫くん、この先に何かあるの?」って私は言った。この道は私の進むべき道じゃない。
だけど鍵しっぽの猫くんはなんにも答えない。
「もしかして、私、からかわれてる?」
にゃーん、って聞こえた気がした。でも実際はなんにも答えてくれてない。
「わかった。どこかに迷い込ませるつもりなんでしょ」って私は言った。
彼は答えない。振り返って、私の目をじっと見つめただけだ。じっとりとして、眠たそうで、それでいながら冷静な眼差しだった。ついてくる気があるならついてくればいい。そう言ってるみたいだ。
やれやれ、って私は肩をすくめる。観念して彼の後を追うことにした。だってさ、こんな無愛想な態度をされて、猫好きとしては追わないわけにいかないよ。それって一種の使命みたいなものだ。仕方なく私は鍵しっぽの猫くんに水先案内を任せることにした。どうせ一本道だ。本当に迷わせるつもりでも、そうと気づいた時点で引き返せばいい。
「じゃあ、案内よろしくね」って私は言った。
彼の選んだ道はずいぶん曲がりくねってた。それに見通しも悪かった。段々畑に積まれた石垣は私の腰丈くらいまであって、その上にリンゴの木々が生えている。緑に色づいた葉っぱたちが連なることで視界を遮っていた。
道が曲がりくねってるおかげで傾斜はずいぶん緩やかだ。鍵しっぽの猫くんはすたすた先をゆくけれど、それでもどうにか彼の後についてゆくことができた。それに鍵しっぽの猫くんは、私との間隔が広がりすぎると、ぴたっと立ち止まり、私が追いつくまで、その場で待ってくれもした。そんなときこちらに振り向いた顔はどこか退屈そうではあった。
ひげの伸び方から察するに、鍵しっぽの猫くんはまだ若かった。生後三年から四年ってとこだと思う。毛並みはくたびれているけれど、痩せ細ってるわけでもないし、かといって丸々としてるわけでもない。どちらかといえば健康的な体つきだった。手足は比較的短くて太い。
私たちの間隔がまた適正距離に保たれると、鍵しっぽの猫くんも歩みを再開する。
鍵しっぽは足の動きに合わせて左右に揺れていた。私との間隔が適正に保たれている限り、その動きはメトロノームのように規則的だった。私はそのしっぽに誘われて、息が上がりながらも前へ前へ進んでいった。たまに何かの間違いで彼との距離が縮んでしまうと、鍵しっぽの猫くんは小走りに駆け出した。ちょこちょこちょこって慌てたように四足を動かすの。メトロノームがその分だけ慌ただしく揺れる。そしてまた適切な間隔が保たれると、彼はまるで何事もなかったように歩調を戻し、そういう場合にはこっちに振り返りもしなかった。メトロノームが再び規則性を取り戻す。
ある程度進んだところでふっと後ろを確認すると、六叉路の交差点はすっかり果樹園の木々に隠されていた。麓の景色もまったくわからない。ここにあるのは左右の森と、くねくねしたアスファルトの舗装路だけだった。出口も相変わらず見えてこない。
雨上がりともなると、こんな辺鄙な道を通る人もいなかった。いや、仮に朝からずっと快晴だったとしても、こんな不都合な場所へは地元の人でもめったに足を運ばせないかもしれない。せいぜい道に隣接した果樹園の所有者くらいだ。
「ねえ、出口まであとどれくらい?」って私は猫くんに訊いてみた。
答えはもちろんない。鍵しっぽの猫くんは規則正しくメトロノームを揺らす。
「ちゃんと帰れるんだよね?」って私は訊いた。
「ちょっとは意思疎通を図らない?」って私は訊いた。
鍵しっぽの猫くんは規則正しくメトロノームを揺らす。答えはない。
「君は人間をたぶらかすのが上手いんだ」って私は言った。もう答えは期待していなかった。鍵しっぽの猫くんは規則正しくメトロノームを揺らす。
いくらか喋ったせいで私の息はとうとう切れ切れになっていた。
「もう駄目。ちょっと休憩」って私は言った。
近くの石垣に見当をつけて、おもむろに腰かけた。濡れそぼった表面がひんやりと冷たかったけど、そんなことには構っていられない。どうせすぐ乾くんだ。簡単にそう考えた。
私が腰をおろすと、鍵しっぽの猫くんも道の上にちょこんと座り込む。
「待っててくれる?」って私は言った。呼吸が荒い。「それはありがたいね」
すると猫くんは急に立ち上がり、適当な石垣の上に飛び乗った。ごろんと体を横にして、また私をじっと見る。そして例の気だるい声でにゃーんと鳴く。口の中に向かって発しているような、くぐもった声色だ。彼のコミュニケーション手段はその二つしかない。目と、声。
「ねえ、本当にさ、どこまで行くの?」って私はいくらか整った呼吸で言った。
「今からおじいちゃんのお墓参りに行くんだよ。そのあと友だちと会う約束にもなってる」って私は物言わぬ猫くんに向かって続ける。「この山のどこかにお寺さんがあるらしいんだ。そこにおじいちゃんが眠ってる。だから、できれば君には、そのお寺さんまで案内してほしいんだけど」
彼は退屈そうに目をそむけた。「それは君の都合であって、僕の知るところじゃないね」、まるでそう言っているようだった。もしくは「わかってるよ。そんなわかりきったことをわざわざ口にしないでくれよ」とも考えられた。彼の本心がどちらであるかはちょっと判断がつかなかった。
だけど少なくとも彼の方では私の言葉を理解してるらしかった。
例えば私が「猫くんの、そういう不遜な態度、嫌いじゃないけどね」って肩をすくめながら言うと、彼はくぐもった声で短くにゃんって返した。
「可愛いやつだな」って言ってやると、それにも応えてくれた。「そんなこと知ってるよ」とでも言いたげな様子でね。
こっちの言葉を理解していながら、気が向いたときにしか答えない。やれやれ本当に可愛いやつだなと私は思う。
しばらくすると鍵しっぽの猫くんは石垣から飛び降りて、水先案内の続きを開始した。私の呼吸が回復したことを、彼は理解しているようだった。そのうえで私がもう少し休んでいたいなと怠けていたことも見抜いているようだった。彼は人間の言葉がわかるだけじゃなく、洞察力も鋭いらしかったんだ。仕方なく腰をあげ彼の後を追う。
出口は間もなくやってきた。森の切れ目が見えてくると、すぐに山腹を横切る道路と合流したの。二車線の車道と歩道からなる、こんな山道にしては大きな道だった。だけど鍵しっぽの猫くんは、そっちの道には乗らないで、大きな道を横断した先の、またしても隘路の方に進路をとった。
「そっちで合ってるの?」って私は訊いた。だけどやっぱり彼はなんにも答えない。これが答えだというようにすたすた歩く。メトロノームを左右に揺らす。
二回目の隘路は平板なあぜ道だった。見通しはそれなりによかったし、曲がりくねるというほどの曲線も描いてない。それに、距離もそれほど長くはなかった。いくつかの分岐路を越えた先で、すぐにまた大きな道と合流したの。
二度目に合流したとき、二車線の道路は山上に向かって伸びていた。さっき横断した道がどこかで大きなカーブを描き、鍵しっぽの猫くんは、迂回するのを嫌って隘路を突っ切っていたらしかった。今度こそ彼は大きな道に乗り、メトロノームを左右に揺らしながらセンターラインの上をすたすた歩く。
「そんなところ歩いたら、危ないよ」って私は言ってやった。もちろん彼は何も答えない。歩道まで退避しようって様子もない。メトロノームの規則性を守りながらセンターラインの上をゆく。
「やれやれ」って私は肩をすくめる。仕方なく私もセンターラインの上をゆく。
大きな道に出てからも依然として周囲はリンゴ畑ばかりだった。視界は充分な幅員のおかげである程度確保されていたけれど、左にも右にも前方にも緑の木々って様子は変わらない。道の脇にある農具置き場の掘っ立て小屋を除けば、お寺さんはおろか、建造物さえ見えてこないんだ。
しばらくするとそんな景色にも変化が現れた。私たちが坂道を登ってゆくに連れ、リンゴ畑の木々が徐々に背丈を低くしていったんだ。低くなった障害物の奥に山間の集落が見えだした。
リンゴの木々は麓にあるものほど背が高く、例の曲がりくねった森の中でも、空を隠そうとするくらいには幹を伸ばしてた。それが今は私の頭をちょこんと抜けたくらいにしかなってない。若木のせいかなとも思ったけれど、よく見るとどの木々も深い色と濃いしわを湛えてる。まるで老人のように腰を折り曲げた木々たちだった。枝も細いのはすべて剪定されてるようで、緑の葉っぱよりも、隙間から漏れ出す光の方が多かった。豪雪地帯の山間では果樹にもそういう雪害対策が必要らしかった。
道の先の集落が徐々に近づいてくる。この道は途中で何度も大きく曲線を描きながら、それでも確実に集落を目指してた。
ここまで来ると私は、祖母の指していたお寺さんが集落のどこかにあるんじゃないかって見当をつけていた。
「ひょっとして近道だった?」って私は鍵しっぽの猫くんに訊いた。彼は相変わらずセンターラインの上をすたすた歩くだけだ。
でも、近道にしてはちょっと腑に落ちなかった。おばあちゃんの話では、お寺さんまでは行って帰って三十分くらいってことだった。休憩の時間を省いたとしても、すでに彼女の説明の半分は過ぎている。だけど一向にお寺さんは見えてこない。私は首を傾げる。
祖母の記憶違いか、もしくは私の体力の低さを見誤っていたか、まあ多分そんなところだろうと私は考えた。
とうとう集落の入り口に差しかかる。リンゴの果樹園は平坦な野菜畑に取って代わられ、その間を埋めるようにまばらに民家が並ぶ。それまでセンターラインを描いていた二車線の舗装路も、ここにきてぐっと幅員を狭めた。
それはもうどこにでもある田舎のありふれた光景だ。昨日の抜け殻の路地にも通じるところがあったけど、それよりはいくらか身ぎれいではあった。ただ切り崩された山の斜面に拓かれているというだけの、特別な固有名詞で語られることのない町並みだ。
そこまで到達すると、鍵しっぽの猫くんの誘導もそろそろ終わる。結局彼が案内したかったのは、私の目指すお寺さんではなくて、山上の集落に一軒だけ店を構える、小さな個人商店だった。
猫くんは店の入り口に立つと、おもむろにこちらに振り返り、やる気のない声でにゃーんて鳴いた。それから彼はその場に座りこむ。
「ここ、君の家?」って私は言った。「おうちに招待しようと思ったの?」
彼はどっちつかずに返事した。そしてこれが答えだとでもいうように、入り口の引き戸に肉球を押し当てた。ガラスに張り付いた肉球を、彼は懸命に横方向にスライドさせている。
私はその様子を不思議そうに眺めてた。どうやら彼は店の中に入りたがっているらしい。だけど彼の力ではそのドアは開かない。しばらくすると鍵しっぽの猫くんは諦めて、私の方にじっと目を向けた。
「私に開けろってこと?」って私は言った。彼は短くにゃんと鳴く。心なしかさっきよりも誠意が込められている。
仕方なくそのとおりにしてやると、彼は私の真下で可愛らしくにゃおんと鳴いた。文字通りの猫なで声だ。どうやら感謝はしているらしい。
だけど彼は一向に店内に入る素振りを見せないの。私の開けてやった隙間は彼の幅の倍くらいあって、余裕をもって通り抜けられるはずだった。それでも彼はただ私をじっと見上げるだけで、その場に固定されている。
それと前後して店内には来客を告げるチャイムが流れてた。どうも店先に敷かれたマットに感圧センサーが仕込まれてあるらしかったんだ。しばらくすると店の奥から店主らしいおばさんが現れた。彼女と目が合う。
店の中に入っても猫くんはついてこようとはしなかった。マットの横に座りこんだまま、眠たそうな目でこっちを見上げてる。なにか変に感じながらも仕方なくドアを閉める。
見たところ主に食料品を扱うお店のようだった。陳列棚の一つにはお味噌や醤油といった調味料、それから乾物や缶詰といった食材が並べられている。一つ奥の棚にはお菓子や文房具類も取り揃えられていて、飲み物はボックス型の冷蔵ケースに詰められていた。食料品店と定義するよりは、山村の生活を手助けする雑貨店といった感じだ。週刊誌だとか生鮮食品だとか、そういった足の早いものは扱わないようだった。
私はちょっと迷って、冷蔵ケースの麦茶に手を伸ばし、そのままレジに向かおうとした。だけどそのときふっと入り口に目をやると、鍵しっぽの猫くんがこちらを睨んでた。水気の多い、なにか敵意さえ含んでいるような眼差しだ。
ああ、って私は心の中でつぶやく。ようやく彼の意図を解したの。反転してお菓子の棚にゆき、小袋サイズのスナック菓子を一つ取る。
会計中に私は訊いた。
「この家って、猫、飼ってるんですか?」
「猫?」って店主のおばさんは不思議そうに首を傾げる。「うちでは犬しか飼っていませんよ」
「そうなんですか?」って私は言った。「でも、今、入り口に」
「あら」って彼女はレジカウンターの奥から店の入り口に顔を覗かせる。「見かけない子ね。どこの猫かしら」
「首輪はしてないみたいです」
「ずっとそこに?」って彼女は言った。
「ああ、ええ」って私は曖昧に返事した。
彼女の様子には疑わしいところはなかった。それで私は、いよいよこれが鍵しっぽの猫くん単独の犯行だと読み取った。
「それと、この近くにお寺さんってありますか?」って私は会計を済ませて商品を受け取る間際に、もう一つ訊いた。
「お寺さんですか」
「祖父のお墓参りに来たんですけど、道に迷っちゃって」
「もしかして蓮華寺さんのことかしら。この近くでお寺といえば、蓮華寺さんしかないけれど」
「多分、それです。山を登ったところにあるって聞いてきたので」
「だけどここより下ったところですよ」
「下ったところ?」って私は言った。
店主のおばさんはそのとき怪訝そうな表情を浮かべた。でも彼女からお寺さんまでの道順を聞くとそんな表情にも納得がいった。蓮華寺へは今まで私たちが登ってきたセンターラインの道を、そのまま下ってゆけば着くとのことだった。
おばさんにお礼を言って店の外に出ると、鍵しっぽの猫くんは相変わらずその場に座り込んでいた。はあ、と私はため息をつく。
「君ね、食べるものが欲しかったなら、最初からそう言ってくれればよかったんじゃない?」って私は店の死角に移りながら言った。
鍵しっぽの猫くんはなんにも答えない。彼は私が移動するのを、黙って目で追い続けてた。いや、その視線は私というよりも、私が手に提げる袋に注がれていた。
「念のため小銭入れを持ってきておいてよかったよ」って私は言った。「もし私が手ぶらだったらどうするつもりだったのさ」
彼は平然としてにゃんと鳴く。「君のポケットからお金の音がしたんだよ」とでも言いたげな様子でね。
「ふてぶてしい猫くんだ」って私は笑った。
買ったばかりのスナック菓子の袋を空けて、鍵しっぽの猫くんにくれてやった。ある程度中身が少なくなってきたところで、袋の中に麦茶を注いでやった。猫くんはそれも嬉しそうに飲み干した。
「満足したかい?」って彼が食事を終えたところで聞いてみた。
彼は今までと代わり映えのない調子でにゃんと鳴く。感謝や謝罪なんてのは当然含まれていなかった。
食事を終えると、彼は何事もなかったように道路に向かってすたすたと歩き出した。お店に着いたときから彼には適正距離なんてものは存在していなかった。それは近い距離にもそうだったし、遠い距離にもそうだった。一度も振り返ることなく、彼はそのまま姿を消した。
「ああ、一回くらい撫でておくんだった」って私はひとりごちた。「またね、猫くん」
残りの麦茶を飲み干して、店先のくずかごに捨ててから、私も教えてもらった通りの道に乗っかった。行きしなに鍵しっぽの猫くんを探してみたけれど、ついにその姿はどこにも見当たらなかったんだ。お礼の一つも言わずに消えてしまった。彼の身体に触れそこねたことを、私は少し残念がった。
余談ではあるけれど、数年後にまったく同じ姿の猫くんを見かけたの。場所もこの綿入の、祖父のお墓参りに向かう途中の山道だ。彼は麓近くにある製材所の敷地から、ひょっこり姿を現した。懐かしさから私は彼に手を振った。だけど彼は私のことなんか覚えてもいないように、ぷいっと背を向けて、すたすたと民家の隙間に入り込んでった。
後ろ姿は間違いなく鍵しっぽの猫くんだった。しっぽは空中に固定され、途中で折れ曲がり、歩くたびにメトロノームのように左右に揺れていた。ほんのちょっと正面を見た限りでは、ひげはやや元気を失ってるようだった。でも眠たそうな目は相変わらずだし、首輪もつけていなかった。
その時も私は連休を利用して祖母の家に厄介になってたの。残念ながら小銭入れを持たずに出てきたから、そのせいで鍵しっぽの猫くんの興味に入れなかったんだと思う。
彼と会ったのはそれで最後。そのとき以外にも綿入への逗留は何度かあったのだけど、ついに一度も見かけてない。道行く最中に猫の姿があったとしても、それは別の猫くんたちだけだった。
鍵しっぽの猫くんは都市伝説のような存在だ。会いたいと思って会えるものじゃない。今でも逞しく生きてればいいんだけどね。
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