第三節(0403)
やっと雨が引いたのは二時を回ってからだった。階段を下りて縁側を通ったときには雨足は相変わらずだったけど、手洗いを済ませて戻ってきたときには、心なし勢いが弱まっていた。その場で様子を伺っていると、地面がぴちゃぴちゃと音を立て始め、雨の線は目で数えられるくらいにまでなった。
私は胸をなでおろした。『若きウェルテル』の余韻があったせいか、昼食を終えてからの読書はあまり捗っていなかった。かといって他にはなにもやれることがない。雨に拘束されている状態に苛立ち始めてもいた。
自転車の件でシィちゃんとは連絡を取り合っていたけれど、それも実務的な内容が主立っていて、二つ三つやり取りをしたら会話はぱたんと切れた。私もシィちゃんもメールや電話で雑談を交わし合うタイプではなかった。
「やっとお日様が見えてきたわね」ってサヤコさんは居間から縁側を覗き込むようにして言った。「これで遊べるかしら」
「本当にようやく」って私は少し首を傾けて言った。「友だちに電話してみます」
携帯端末を操作しながら縁側の端まで引いた。階段に腰かけて相手が出るのを待っていると、九コール目でようやく通話が開始された。
「ああ、もしもし」ってイッタは気のない調子で言った。
「もしかして寝てた?」って私は様子を伺うように訊いた。
「いや、別に」って彼は言う。
通話スピーカーの奥からは微かにエレキギターの音色が聞こえてた。とてもテンポの早い曲で、エモーショナル・ハードコアやオルタナティブ系のロック・ミュージックだったと思う。誰かが生演奏しているというよりは、何かの再生機にかけられているような完成された音源だった。とても無機質で機械的な弦の運びだ。そこにハスキーな声のボーカルや、ベースやドラムスの音色が混ぜられている。彼らはギターの音と比べると、ずいぶん遠くにいるようだった。
「課題、やってたんじゃなかったの?」って私はその音をやや耳障りに感じながら言った。
「やってるよ。今。ちょうど」って彼は一単語ずつ区切りながら言った。
「音楽聞きながら?」
「集中できるんだ。その方が」
どうも彼はビートに自分の言葉を載せているらしい。無意識にそうなっているようだった。
「ねえ、窓の外は見た?」
「窓?」って彼は言った。「いや。カーテンは閉じてある」
「雨上がったよ」
「雨?」って彼はまた言った。皮膚で音楽を感じながら、頭で課題を解いている。その傍ら、耳で私の声を聞いている。「そうなんだ。いま何時?」
「とりあえず、その音楽は止められない?」って私はじれったく感じて言った。
「え?」って彼は言った。そのあと急に電話の後ろが静かになった。「悪い悪い。聞こえてたのか。好きな曲だったからつい」
「さっきそう言ったよ」って私は言った。
「聞いてなかった」って彼はあっさり認める。
「だけど、ロックなんて聞くんだ」
「そこまで聞こえてたの?」
「ばっちりね」
「むしろ俺はロック以外の曲を知らないよ」って彼は一拍子遅れて答えた。「で、なんだって。雨が上がった?」
「うん。ちょうど今、晴れ間が見えてきた」
「ちょっと待って、リビングまで移動する」って彼は言う。
「自分の部屋じゃないんだ?」
「親父の書斎にいたんだよ。気分転換に」
「あの部屋と比べたらどこでも快適だよ」って私は言った。「おじさんたち、まだ帰ってきてないんだ?」
「夕方以降。多分夜になる」って彼は言った。カーテンの引く音が微かに聞こえる。「ああ、本当だ、雨上がってるじゃん」
「それで、どうする?」
「いま何時なんだっけ。ああいいや、キッチンに時計がある。ちょっと待ってて」、そう言ってイッタは本当にちょっとのあいだ耳元から通話口を遠ざけた。足音の近さでそれがわかる。「二時半か。中途半端だな」
「今日は無理そう?」って私は訊いた。
「自転車はどうなったんだっけ?」
「それならシィちゃんに借りるってことで話がついたよ」って私は言った。それから少し声を抑えて、「おばあちゃんちのは、やっぱり駄目だったみたい」
「なるほど。つまりこれから出かけるにしても、まずシズカと連絡を取り合って、あいつんちに出向いて、それから自転車を借りるって段取りが必要になるわけだ」
「せいぜい今から三十分くらいでしょ?」
「三十分後にはもう三時だよ。おれんちに集まる頃には三時三十分」
「イッタもシィちゃんちに向かえばいいじゃん」
「だって中学に案内するって話だろ、それなら俺んちの方が近い」って彼は言った。「いや、行き先を変えてもいいけれど、どうせその相談でも時間を食うよ」
「なんだか、あんまり気乗りしてないみたいだね」って私はなんとなく察してそう言った。
「そういうわけじゃないんだけどさ。切羽詰まって動くのって得意じゃないんだよ。時間を気にかけながら分刻みで動くのって。それに、一度やりだしたら課題の消化が止まんないんだ。正直にいっちゃうと、できれば今日はこっちに集中したい。そういう気分になっちゃってる」
「わからないでもないけどね」って私は言った。「じゃあ、予定は全部明日に回す?」
「コオリが問題なければ」
「異存はないよ」って私は言った。
午後を過ぎた時点でそうなる予感はしてたんだ。もしかしたら、という浅い予感ではあったけど、でも一旦そういう気が起こると、私の意固地は具体的な形を作り上げてゆく。『今日はたぶんイッタたちとは会えない』、なんとなくのそんな予感が、すんなりと今日の予定を諦めさせてたの。
「いずれにしろシズカとは連絡とっておいた方が良いよ」ってイッタは続けた。「今日中に借りられるなら、借りておいた方が良い」
「そうだね」って私は簡単に返事した。
それからすぐに電話は切られたのだけど、イッタは通話を終える前に面白いことを口にした。彼はもったいつけた口ぶりでこう訊いた。
「そういえば、ヴィックス・ノーズ・ドロップスってどんな匂いがするのかな」
「え?」って私は言った。「なに、それ?」
「いや、なんでもない。年老いた男には気をつけろってことさ」
通話はそれで切れた。当時の私は彼が何を言いたかったのか、さっぱりわかんなかった。わからないまま、長いあいだ彼の言葉を忘れてた。
ヴィックス・ノーズ・ドロップスっていうのは、昨日イッタとシィちゃんに聞かせた『ライ麦畑でつかまえて』に出てくる単語だ。物語の序盤でホールデンくんは大学から退学処分を言い渡されるのだけど、彼はそのことを日頃懇意にしてもらってる先生に報告しようと、家まで訪問するの。先生は老齢であまり体の自由がきかず、自身のいる自室まで彼を招く。案内された部屋の中は「きつい匂い」が漂っていて、匂いの元は先生が服用している常備薬からだった。その常備薬の匂いが、まさにヴィックス・ノーズ・ドロップスみたいだとホールデンくんは形容してるんだ。
つまりイッタは、暗に『ライ麦畑でつかまえて』を読んだことがあるって私に伝えたかったの。もしくはそれは序盤に出てくる単語だから、私に触発されて読み始めたばかりなのかもしれない。それ以前からあの真っ黒の本棚の一部として保管されていた。いや、事実がどちらかはわからないけどね。でも少なくとも彼は遠回しな方法で私とシンパシーを得たいと考えたんだ。だけどそれはほんの思いつきだったから、私の反応に手応えがないと感じるやいなや、すぐに踵を返してしまったってわけ。
私がそのことに気づいたのは、後年『ライ麦畑でつかまえて』を読み返したときのことだ。そのときヴィックス・ノーズ・ドロップスという単語を見て、このときのやりとりをふっと思い出したんだよ。
イッタの不器用さを可愛くも感じたし、同時に残念にも感じた。だってあのとき、もっとクリアな言葉ではっきりと伝えてくれたなら、私は彼と趣味を共有できたに違いないんだから。でも彼がしっぽを見せたのはその一回きりで、あとには自分が読書家であることをうんともすんとも明かさなくなった。もし本当にその気があったなら、昨日の段階で趣味が共通していることに触れていたはずでもあるからね。
彼がなぜその点において明け透けな態度を取らなかったかは、多分、思春期特有の背伸びがあったと思う。イッタはシィちゃんのように、心の全てを表に出せる人ではなかったの。あんなにも口達者なのに、当時の彼は肝心なところで臆病だったんだ。そしてそのおかげで、私にとっては貴重な機会を一つ失った。
ねえ、仔猫くん、だから素直になるってことは、結構重要なことなんだ。ほんのちょっとの背伸びや躊躇いで、出会いのポイントは呆気なく逸れてしまう。それって私たちが考えているよりも、かなり大きな損失だよ。
イッタとの通話を終えた後、私はすぐにアドレス帳を開き直した。そこからシィちゃんの番号を呼び出そうとしたときに、電話はシィちゃんの方からかかってきた。
イッタと違ってシィちゃんとは、会話を進めるのも楽だった。今日の予定が中止になったことと、今日中に自転車を借りに行きたい旨を彼女に伝えるまでは、最短の距離で会話が進んでいった。そう考えるとイッタの道はずいぶん曲がりくねってる。
だけどシィちゃんが電話をかけてきたのにはもう一つ別の理由があったんだ。
「今からおじいちゃんと一緒に田んぼの様子を見に行かなきゃいけないの。思ったより長い雨だったから、田んぼの水量を確認したいんだって」ってシィちゃんは言った。「何ヶ所か回るから、リッちゃんとの約束は四時過ぎくらいになっちゃうかもしれない」
「それで構わないよ」って私は言った。「でも、農家って大変なんだね」
「本当はそこまでする必要ないんだけどね。でも、うちのおじいちゃん、田畑のことに関しては神経質だから」
「あれだよね、台風のときとか、よくニュースで聞く」
「そう。だから私が付き添いってことになっちゃった。おじいちゃんが流されないように」ってシィちゃんは冗談とも本気ともつかない調子で言った。
「シィちゃんも大変だ。頑張ってね」
「用事が済んだら、すぐに連絡するね」ってシィちゃんは言った。
居間に戻って祖母たちに予定が流れたことを伝えると、二人は我が身のように残念がった。柱時計はあれからずっと眠っていたように針を動かしてない。テレビも相変わらず高校野球を映してた。
サヤコさんに言われて洗濯物を洗濯カゴまで持ってゆくと、もうそれっきりでやることがなくなった。サヤコさんはすぐに洗濯を始め、居間には私と祖母が二人っきりで取り残された。
パーカーのカンガルーポケットには絶えず文庫本が納められていたけれど、取り出してページを繰ってみる気にはなれなかった。さっきまで散々試してみて、少なくとも今日のところは無理だと結論づいていた。それでもポケットに納めておいたのは急な心変わりを信じてのことだった。けれども、どうにも噛み合いそうにない。
しばらくは祖母と一緒になってぼんやりと高校野球を観戦してた。でも相変わらずルールについては暗いままなんだ。白球がどこに入ればストライクでどこまで逸れればボールなのか、それさえ見当がついてない。固定されたキャッチャーミットにすっぽり入ってもボールカウントをとられるときがある。
そのうちに打者が一塁に走り出す。ウグイス嬢が次の打者の名前をコールする。吹奏楽部が『ルパン三世のテーマ』を演奏し、チア部が派手なパフォーマンスを披露する。マウンドに戻ったカメラが打者のヒットを捉える。白球は弧を描いてスタンドに飛んでゆく。解説が高いボール球と言う。飛んでいったボールはファールの扱いになって、ストライクが一つ増える。ストライクが一つ増える? 情報量の多さに私はくらくらしてた。
結局テレビよりも、開放された襖から仏間を眺めている方が落ち着いた。仏間には一本の木から切り出した切り株のテーブルが置かれてあって、天板の側面には無数の起伏や模様や黒ずみが浮かんでる。私にとってはそっちの方がよっぽど情緒豊かに感じられたんだ。
「コヨリは退屈だね」って、祖母は私に寄り添うように言った。
「ううん、そんなこと」って私は言った。でも他人から見ればどうしようもなく退屈そうだった。
それから二分くらい間を置いて、祖母は言った。「おじいちゃんのお墓参りにでも、行って来るかい」
「お墓参り?」
祖母はゆっくりとうなずいた。
「お盆の前だから、まだお墓にいるよ」
「お墓」って私は言った。「ここから近いんですか?」
「山を登っていけばすぐだよ」って祖母は縁側の外を指さして言った。「道なりに行けば、お寺さんの山門が見えてくる」
「そのお寺の中に、お墓がある?」
「そこまでいったら、また探してみるといい」って祖母はうなずきながら言った。「大きなお墓だから、すぐに目につくよ」
「往復でどれくらいかかるのかな。四時過ぎに友だちと会わなくちゃいけないから」ってそれはさっき予定が流れたことと一緒に祖母たちにも伝えてあったことだったけど、私はこの場でも繰り返すように言った。
「三十分もあれば帰ってこられるよ」って祖母は優しく言う。「ちょっとした暇つぶしだ」
縁側に立って空を見回した。あれだけの雨が嘘みたいに、今は雲の隙間から平板な青が覗いてる。雲の色味もどことなく白さが増してきているようだった。
「それじゃあ、行ってみようかな」って私は言った。「お盆の前だけど、大丈夫ですよね?」
「おじいちゃんも喜ぶよ」って祖母が言う。
出がけにサヤコさんに挨拶すると、彼女も祖母の提案には賛成のようだった。
「コヨリちゃんのだけ先に洗ってるから、すぐに干しちゃうわね。晴れ間さえあれば、夕方までには乾くでしょう」ってサヤコさんは洗濯機を回しながら言った。
「思ったより多くて、すみません」
「ええ、ええ、いいのよ。女の子の服なんか洗ってるとね、なんだか新鮮で。うちは男の子ばっかりだったから」
「もっと女の子っぽい服だけ持ってくればよかった」って私は照れ隠しに言った。
外には濡れそぼった地面と雲間の光があった。太陽がまだ雲の後ろに隠れてくれているおかげで、熱気を感じない、夏とは思えない穏やかな気候だった。
山上へ続く道は例のアンダーパスの直線上に伸びていて、祖母の家を出てからだと民家を三軒ほど挟んだ先にある。勾配は思ったより効いていて、昨日のゴマ山より急だった。幸い道はしっかり舗装されていたからちぐはぐな段差に体力を消耗させられるようなことはなかった。もちろん、それでも息はすぐに上がるんだけど。
山道の入り口からしばらくは民家が並び、それより先には小さな町工場の製材所が二軒、三軒ぽつぽつと建っている。山の深いところはどこを見渡しても鬱蒼とした杉林だ。その杉を山から切り出して加工する製材業がこの町の基幹産業の一つだった。工場の前を横切れば、つんと鼻を突く香りが漂う。
でも人の気配を感じられるのは山道のごく手前ばかりで、製材所の並びを過ぎると、そこからは一面段々畑の果樹園に変化する。
果樹園は道より窪んでいるところもあれば石垣を積み高台になっているところもあった。植えられている木はどれもリンゴのようで、誤ってナシの木が生っているというようなところはどこにも見当たらない。
道でないところは奥の奥までリンゴ園だった。それはちょっとすると忘れ去られた文明の遺跡みたいでもあった。かつて石垣の上にあった建造物が果樹の木々に変わり、時代そのものを風化させるように下草が茂ってる。
その旧跡に雲間からの光が差すと、神秘性がぐっと増す。リンゴの木々はこの時期緑に賑わっていて、雨上がりにはどの葉っぱも表面に丸い粒を浮かせてた。水滴の重みで葉っぱたちはどれもこうべを垂らしてる。
表面を濡らした果実はこの町で見たどの果実よりもずっと若々しい。全体的にやや赤みを帯びてきているけれど、半分以上はまだ青い。実一つで赤と青を表してるのもあった。
爽やかな雨上がりの空に、この光景はよく似合ってた。
山上を目指してゆくと、道はある地点で複雑に分岐した。麓からの一本道が突如難解な六叉路に変化する。いや、つまり、三叉路の一本がその先でまた枝分かれして、そうした分岐路まで含めての六叉路だ。更にその先まで目で追うと道は無数に広がった。
つと、私はその場に立ち止まる。
祖母の教えでは道なりに進めばお寺さんに着くはずだった。ということは今までと同じ幅員の道を選べばいいはずだから、私が足を止めたのは進むべき道を迷わせたからではなかった。
ただ六叉路の美しさに見とれてた。分岐した道は山上を目指しているものもあれば麓に下っているものもあって、また同じ下るにしても途中でうねったり曲線を描くというようなそれぞれの違いがあった。その間を埋める果樹園もそれぞれによって広さや形が違ったし、その違いは石垣の高さにも現れていた。
その交差点は誰かがキャンパスに描き残した一枚絵のようだった。額縁もキャプションもない、平凡な画家が描いた平凡な風景画だ。だけどぐっと引き込まれる味わいがあった。
俯瞰的な興味だけでなく、直接手で触れてみたくもなった。石垣はひんやりと冷たく、ざらっとした質感の中に水気が含まれている。リンゴの葉っぱには水分の滑らかさの他に、粉を吹いたような摩擦もあった。窪地に広がる果樹園を覗いてみると、そこに生えてる草花は濃い陰に包まれて深緑の色に変えていた。
近代的な建造物の立ち並ぶ私の地元とは、何もかもが異なる光景だ。
ちょうどそのときだ。ひとしきり満足して六叉路の中心部に振り返ると、そこに一匹の猫がいた。道の端っこでもなく、物陰の隙間でもなく、堂々と道の真ん中に立っていた。
いつの間に?
目が合うと、彼は気だるそうに、にゃーんって鳴いた。
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