第二節(0402)
雨はまだ降り続いてる。祖母の家の周りはとてもひっそりとしていて、土や草むらに落ち込んだ雨粒だけが、小気味よいノイズを立てている。あとはそこに、遠くの小鳥の声が混ぜ合わされる。表を通る車は本当に稀だった。
私はそっと『若きウェルテルの悩み』を畳の上に置く。読んだ場所を失わないように、開いた部分を下にした。栞はそれとは脈絡のない場所に、なんの考えもなく置いた。例えば栞を挟み、本を閉じ、適切な位置に保管する、そういう順序だった行動はとても億劫だった。
雨音を聞いてるうちに、私のまぶたは重くなっていた。畳の固さを受けながら、仰向けに寝転ぶ。まどろみを感じながら、目を閉じる。
雨の日は好きだ。なぜか外からの雑音は静まるし、潤んだ空気はちょっとした感傷的な気分を含んでる。スムースジャズを聞きながら紅茶でも飲んでいると、この世界が悠久だということを深く感じられる。
だけど困ったことに、雨の日はすぐに眠くなってしまう。気圧が低下しているからだとか、シータ波が活性化されるからだとか、そういうことはよくわからないけれど、とにかく雨の日は急な眠気に襲われる。もちろん、そうでなく平穏に悠久を感じられる日もあるけれど、多くの場合、私のもとには睡魔が忍び寄る。このときもそうだった。
こうなってしまうと、もう私にはなんにも手がつけられない。祖母の教えは言い得て妙だ、雨が降ったら寝ればいい。痛む古傷がない代わりに、私の脳はいつもそうなんだ。全ての行動がシャットダウンされ、眠気に襲われるだけになる。結局『若きウェルテル』も十ページくらいしか進まなかった。
目を閉じたまま、私は胸の位置で手を組んだ。いわば眠る前の祈りを欠かさない敬虔な信者のような姿だ。腕を解放したままの姿勢はどうも落ち着かず、鼓動の音を手のひらに感じるこの形が最も安らいだ。まるで遺体みたいだと揶揄されたこともあるけれど、二の腕や肘に少しくらいの緊張があった方がいい。
そうしていみじくも棺桶の中に入れられた人のように、微動だにせずに目を閉じておく。呼吸もできる限り深くする。穏やかに吐いて、穏やかに吸う。体の興奮を排除する。
だけどまだ、実際に夢の中に落ち込むような眠さじゃなかった。脳の一部が休息を求めてて、他の部分は覚醒を呼びかける、そういうたちの悪い眠気だ。雨の日はしばらくこの時間が続く。
眠りたいけれど眠れない、じれったさに襲われる。
こういうとき、君ならどうするだろう。何か別のことをして眠気が飛んでゆくよう努力する? でも私の場合、一旦取り付いた眠気は何をしても拭えない。カフェインの力を利用しても、運動によって脳を起こそうとしても、すべて無駄なんだ。実際に眠りに落ちてしまうまでこの眠気は拭われない。
それにもし無理にでも起きていようものなら、そのとき私の生産性は限りなくゼロになる。活字は決して頭の中に入ってこないし、映画もおんなじだ。仕事なんてのは論外で、覚めた頭で読み返したとき、その原稿はすべてリテイクする羽目になる。
要するにこの場合の眠らないっていう選択は眠っている時間を引き伸ばす結果しかもたらさないんだ。何も得られるものがなければそれは眠っているのと同じだよ。それならば、私はより効率的な方を選びたい。目を覚ましたあとなら気分は晴れやかだ。
ただ、頭ではそうとわかっているんだけれど、体の方がなかなか許容してくれない。なんといったって私はさっきまでぐっすり八時間以上も睡眠を取っていたんだ。肉体は全力で活動を求めてる。パソコンの電源を落とすみたいに指一本で眠りに就くというわけにはいかない。
後頭部に意識を集中する。水の中にいるとイメージし、徐々に後頭部を深い水底に向けて落としてく。やがて実際に頭部全体から重力が失われる。意識を下におろし、首元、肩、胸部まで、段階的に水底に落としてく。組んだままの手や腕にも同じことを行う。足の爪先までそれを続けてく。
一種の催眠誘導の手法なんだけど、どうしても眠れないときに頼る私なりのルーティーンなの。なぜ初めからやらないかといえば、これは時間を要するからなんだ。どうごまかしたって背中は固い床と密着してるわけだから、柔らかな水のイメージがなかなか湧いてこない。そのイメージが結実するまで焦りを徹底的に排除して繰り返すんだよ。
そしてまた、誘導の最中に邪魔が入らないとも限らない。外部からの騒音で水面まで引き戻されることもあるし、それより厄介なのは肉体自らが拒絶反応を起こすことだ。
体がびくっと痙攣し、意識を覚ます。
めげずに後頭部からやり直すと、今度は肩を沈めてゆくあたりで痙攣が起こった。次は腰のあたりで。何度か試してみてもそのたびに痙攣が起こる。どうもこの日は駄目そうだった。
もしかしたらと期待して『若きウェルテル』を手にしてみたけれど、やっぱりそこに書かれてあるものは漠然とした文字の群体でしかなかった。言葉として、あるいは意味を持つ文章としてのていをなしてない。
仕方なく私は元の遺体の姿になって、もう一度目を閉じた。
でもね、そもそも私の肉体は、長いあいだ同じ格好を維持しておけるようには、作られてないんだよ。私の肉体っていうのは、常に動きを求めてる。それを無理やり封じ込めようとすれば、反動は私の内部に蓄積されてゆく。必ずといっていいくらい確実に、体の内側に熱が溜まってく。
熱ははじめ胸より上のあたりに溜まりだす。胸から肩、鎖骨、首、頬の裏、耳元と、徐々に熱が伝播する。その熱は私が体を固定し続ければし続けるほど、どんどん膨張し、同時に熱源である中心部分の温度を上げてゆく。
やがてそれは疼きという名前に変わり、疼きが起こると体は小刻みに震えだす。さっきまでの痙攣とは違い、これは継続的にずっとやまないんだ。
この疼きが起こった時点で、私はもう、直線的なやり方では眠れないことを悟る。ただ目を閉じているだけでは決して眠れないことを知っている。
どんな場合にもそうだけれど、一度内側に溜まった何かは、適切な手段で除去してやらなければ発散されることはない。ストレスも恨みも疲労も、そういったものは正しい部位に穴を開け、そこから外に放出してやらなければ解決しない。この熱や疼きに対しても、同じことが言える。
それでも私は身じろぎ一つせず、限界までまぶたを閉じたままでいた。適切な処置の仕方は知っている。けれどもそれは可能な限り回避したい手段だった。
そうしている間にも熱は膨張を続けてく。小刻みな震えが全身を覆い、とうとう私は胸元に組んでいた手を離して体をぐっと丸め込んだ。
雨音はやまない。彼らは心地のよいノイズで私の熱や疼きを掻き立てる。
上半身を覆った熱が足先に飛び移る。初めに親指が痺れだし、そこから人差し指、薬指って順繰りに熱と疼きを広げてく。五指全体が熱に満たされると、土踏まずを経由して、ふくらはぎ、太ももと、徐々に這い上がってく。
両足が支配されると次は背中に熱が沸き起こる。背骨を伝って、肩甲骨のあたりまで飲み込んでゆく。肩から腕へと伸びてゆき、そうなると体の自由を完全に奪われる。
熱は最後に体の最も柔らかい部分を目指す。それまで全身を覆っていたそれらがその一点に集約しだす。肉体の自由とともに思考の大部分も奪われていた、その思考まで、ある一点に向かいだす。
火種は私の内部を材料にして、更に内燃の強度を高めてく。
結局のところ解決の糸口は私の知る唯一にして無二の方法しかないの。その方法をとらなければいつまでも熱や疼きが治まらない。治まらないだけならまだしも彼らは際限なく増長してく。
でも本当に、私はその行為を嫌ってるんだ。それは私が好きでやっていることではなくて、自分という肉体の性質と折り合いをつけるために、必要犠牲と感じながらとる方法だ。いうなれば手段であって、決して目的のための行為じゃない。人の活動には脂質とタンパク質が必要だから、仕方なく家畜を殺す、そういうようなこと。殺さなければ殺さずに済んだ方が良い。そんなこと決まってる。
しつこいようだけど、私は本当にその行為を嫌悪してるんだ。少なくとも君にだけは、そのことをわかってもらいたい。
そっと、指で触れる。付け根の谷にあてがって、両側から肉を中心に押し込んでゆく。ぎゅっと力強く、でも柔らかく。そうすると、まだ全身でくすぶっていた熱の残り火がそちらに流れてく。
それから谷を上って丘に手を移す。服の上からゆっくりとその膨らみをさすってく。まだ直接には手を触れない。体中のすべてのくすぶりが肉体の最も柔らかい部分へ集中するように、じれったくも誘導してやるんだ。
次第に全身のくすぶりが私の思惑通りに蠢き出す。彼らは上澄みの心地よい熱だけをその場に残して、少しずつ肉体の一点に移動を開始する。やがて燃え盛る炎になるまで、私はその動きを繰り返す。
もちろん、ことが手早く済むなら手早く済ましてしまいたい。でもそういう簡単で最短距離の方法では駄目なんだ。熱が一極に集中し、明確な炎になるまで、その行為には意味がない。もしもタイミングを見誤ると、それはいみじくも不完全燃焼のように、相変わらず私の体内で火照り続け、やがてまた大きな熱として再燃しだす。背徳的な行為を私は何度でもやり直す羽目になる。必要なのは一網打尽にすることだ。だからこの瞬間には感情も熱と同化させ、私自身も彼らの望みの一部になるの。彼らがそうじゃないと望むなら私もそうではないのだと信じ込む。
おもむろに服の内側に手を入れる。下着の上から熱源を撫で、それの硬さを確かめる。少し刺激する。反応が返ってくる。でも、まだ足りてない。
使われてない方の手で耳の裏や鎖骨を撫でてやる。私の体が、そこに触れてほしいと求めているところ。適切に対処してやれば、彼らは熱の高まりという形で応えてくれる。そうして新たに生まれた熱も、徐々に体の一点に推移する。そこにはもう一方の手が待ち構えてる。一極に集中した熱を更にたぎらせようと対処する。指数関数的に熱の深度が高まってゆく。
いよいよだ。指先で水気を確かめる。隆起した芯を確かめる。それは錆鉄くらいに固くなっている。次のシークエンスに進む。
閾値を超えるまで微醺さす。指先、指の腹、ときには根本まで使って、この酔を酩酊にまで落とし込む。無闇に呑んで、無闇に正体を失えばいいわけじゃない、適切に、息を荒くさせ、適切に、押し殺した声を細切れに漏れさせる。それでようやく全身に震えがやってくる。
熱源もさっきより感触的だ。指の動きに合わせて分泌される脳内物質が加速度的に肥大化してく。体中が加熱され、額に粒の汗が浮く。容積を超えた痺れがうなじから溢れ出す。
もう、大丈夫。私は思う。よし終わらせよう。
感覚が高みにのぼってき、快感が全身からほとばしる。光が白い。
……。
事切れた腕を私は見てる。腕も体も、ぐったりと床に倒れ込んでいる。荒らぐ呼吸の中で、私は行為が完遂されたことを知る。全身の熱が揮発してゆくさまを内側からも外側からも、ありありと感じてる。
腕の感覚だけでティッシュをつかみ取り、熱源に触れていた方の指を拭い、それから熱源の周りもきれいに拭き取った。ティッシュは表面が未使用の側になるように丸めて、そのまま床に転がした。眠いのは相変わらずだ。何もしたくない。
深い蒸発と、そして満足を覚えながら、私はそっと目を閉じた。
窓の外を通過する雨たちは、強くも弱くもならずに、依然として心地よい音色を作ってた。彼らが跳ね上がるたび、その音色が怠惰な感情に染み込んでゆく。小鳥のさえずりが妙に煩わしい。
突然、私は涙した。
私は一体何をしているんだろう。無性に自分を許せなくなった。だってこんなこと、滞在を延長させてもらってまでするような行為じゃない。肉体の特性と折り合いをつけるための必要犠牲? それって一体、どんな言い訳なんだ? あまりにも言い訳がましく、冒涜的だ。
祖母たちの笑顔が脳裏によぎった。昨晩私が延泊のお願いをしたときに見せてくれた笑顔だった。その笑顔に対して、私のやってることはまるで裏切りだ。本当に、私は一体、何をしているんだろう。
いつもそうだ。取り返しのつかなくなったときになって、私はいつも後悔する。自分の中の獣のような衝動に負けることを私は常に忌み嫌ってる。だけれども衝動はいつでも私をあざ笑う。こんなもの、なければいい。
絶えずやまない雨の音を聞き、私はこの雨も憎みだしていた。こんな雨さえ降っていなければ、きっと獣が目覚めることはなかったはずだ。ううん、それだけじゃない、延泊が叶った翌日に雨を降らせる、そんな天の邪鬼な運命も許せなかった。これじゃあなんのためにここに留まったのかもわからない。
イッタやシィちゃんに対しても申し訳なかった。私の行為は彼らの純粋さに対する背信でもあった。次に彼らに会ったとき、私はまた二人への嘘を塗り重ねなければならないんだ。嘘をつくことも平気じゃない。それは空白の十年を聞かせた、あの一回きりで済むと思ってた。
私の内部に獣が住んでいることを、私は、私を知る全ての人から隠しておかなければならないの。それが私に課せられた宿命であって、そうでなければ誰も私を受け入れてはくれない。
そういう後ろ暗い事実が、このとき私をどんどん沈鬱の底に落ち込ませてった。
やがて本当の眠気がやってきて、いつか私は眠りに落ちた。
短い眠りのあいだに夢を見た。いや、夢と呼べるほど具体的なものではなかった。丸い球体が緩やかに坂を転がり続ける、抽象的な一つの映像だ。球体は膨らんだり萎んだり、ときにはアメーバ状になったりと様々に形を変えた。夢は潜在意識の表れだっていう人もいるし、場合によってそれは正しい見解だと思う。でもこの夢には特に意味合いやメッセージ性は含まれていなかった。ただただ球体が不安定に形を変えてゆく。それだけの夢。
目が覚めたとき私は妙にすっきりとしていた。
耳に注意すると雨は依然として降り続いてるようだった。携帯端末で時間を確認すると部屋に戻ってからは一時間ほどが経っているようだった。
あらゆる感情が眠りとともに消えていた。夢の球体が膨らんだり萎んだりしているうちに、鬱屈とした感情はそのポンプのような働きによって濾過されていったらしかった。
はっとして私は起き上がる。部屋を出、一階の洗面所まで駆けてった。サヤコさんや祖母とは極力目を合わさないように、縁側では顔を伏せたままにした。
薬用石鹸で入念に指の汚れを落としてく。爪の中や水かきのところにまでこの汚れは入り込んでいる。一度水で流し、もう一度薬用石鹸を手につけた。
個室に入って下着を確認すると、幸いなことにそっちには目立った痕跡が滲んでいなかった。
ようやく私は安堵した。
帰り、縁側を通ったときは、それっぽい苦笑いでごまかした。おそらく二人は単純にトイレに駆け込んだものだと思ったはずだ。いや、そう思ってくれることを願った。まさか背徳的な行為の後始末だなんて、見透かされるわけにはいかない。だけど私は、もうそれを、さっきほど後ろ暗い行為とも感じていなかった。
部屋に戻って携帯端末を確認すると、一件の不在着信が入ってた。発信先を見るとイッタからだった。留守電は残されてない。折返しその番号にかけ直す。
「もしもし」って私は言った。
彼はとてもクリアな声で「おはよう」って言った。
「いま起きたとこ?」って私は試しに訊いた。
「いや、一時間くらい前。さっきシズカと話し合ってたところだよ」
「一時間くらい前」って私は言った。「その時間なら、こっちから電話かけたはずだけど」
「鳴らせば自動的に通話が始まる道具ではないからね」って彼は皮肉っぽく言った。「その時間はまだ寝起きだった」
「無視してたわけだ」
「そんなにはっきり言っちゃうなよ」
「まあいいけどさ。それで、シィちゃんはなんだって?」
「ああ、いや、今日の予定は見直した方がいいかもねって話だよ。これだけ降られてるとね」
「雨が降ったら濡れればいい」
「うん?」
「いや、昨日イッタがそう言ってたから」
「言ったね」って彼はすんなり請け合った。「だけどまさか、既に降ってるところに出ていくこともないでしょ」
「本気で言ったわけじゃないよ」って私は言った。
「もちろんね」って彼は笑う。「いずれにしてもこの雨じゃどうしようもないよ。ああ、それよりさ、自転車どうなった?」
「自転車?」
「ばあちゃんちに置いてあるやつ、貸してもらえるんだろ?」って彼は言った。実際に昨夜にはそういう算段で話がついていた。
「そういえば忘れてた。またあとで聞いてみないと」
「いや、それなんだけどさ、もし良かったらシズカが貸そうかって言ってるんだよ」
「シィちゃんが?」
「シズカんち、妹の他に兄ちゃんもいるんだけど、その兄ちゃんが使わなくなった自転車を、コオリに貸そうかって話になってる」
「でも、おばあちゃんちにも自転車はあるんだよ?」
「使えるならいいんだけどね。長いこと放置してあるんだろ、パンクとか色々問題起きてなきゃいいんだけど」
「じゃあ、それもあとで確認してみるよ」
「できるだけ早めに」って彼は言った。
「雨がやんでからでもいいよね?」って私はちょっとためらいがちに言った。
するとイッタは、「いや、それなんだよね。要するにこの雨がいつ上がるかによるんだよ」って急に声のトーンを変えて言った。「昼までに上がってくれれば出かけようもあるんだけど、午後の中途半端な時間に晴れてもらっても困るんだよね。そうなったらいっそ、予定は全部明日に回した方が楽だしさ。で、仮にそうなったとしたら、まあ、自転車のことは今日中に確認してもらえれば」
「できるだけ早めにって言ったのはそっちだよ」
「そう言わないとコオリが忘れそうだから」って彼はさっぱり言った。
「午後には晴れるかな」
「どうかな。夕方まで降りっぱなしってことは、ないと思うけど」って彼は言った。そして念を押すように、「いずれにしろ自転車のことは忘れずに」
「うん。晴れたらすぐに確認するよ」
「で、結果使えそうになかったらシズカに連絡してみて。予定がどっちに転ぶにしても明日には必要になるわけだから」
「そうだね。わかった」って私は肯った。「できるだけ晴れてほしいけどな」
通話を終えたあと、私はまた『若きウェルテル』を開いた。
結局ウェルテルはロッテを忘れられずに、またワールハイムの町に舞い戻ってくる。けれども既にロッテは婚約者と結婚していて、ウェルテルの再三の告白も冷たくあしらうようになってしまう。やがてウェルテルは失意のうちにピストル自殺を画策し、その計画は忠実に実行される。
書簡体で進められていた『若きウェルテル』は、ウェルテルが自殺を遂げる前後から第三者の語りという切り口に変えられるけど、私はその部分も含めて一気にこの小説を読み上げた。
本を閉じてから携帯端末を開くと、時間は正午に差し掛かっていた。イッタとの通話を終えたのが十時から十一時のあいだと考えると、おおよそ一時間ほどで残り100ページあまりを読み進めた計算だ。『ワールハイムの乙女』から先は大体それくらいのページ数だった。
私は普段、どんなに早くても時速40ページほどしか出せないの。それ以上の速度になると読み飛ばしが多くなるし、内容も頭に入ってこない。一文一文を丁寧に拾い上げてゆくには、その速度が限界だった。
ただ、これは私にとって珍しい現象でもなくて、適切な環境と適切な興味が噛み合ったとき、よくこういった集中状態に陥ることがある。このときは『若きウェルテル』の全体的に読みやすい文章と、眠気をもたらさない種類の雨音と、それからこの小説の優れた文学性が、私に一時間あたり100ページの速度を与えてた。
けれども本を閉じたあと、私はその反動に苦悶する。あまりに集中がすぎたとき、私は自分の体に起こっていることにさえ注意を払わなくなってしまうんだ。それは場合によって空腹や低血糖って形で現れることもあるけれど、このときは両足の血行不良だった。
あぐらをかいたまま寝そべるっていう無理な姿勢を続けていたせいで、私の足はいっとき感覚をなくしてた。足を伸ばしてやると足裏に温かい血流を感じ、そのすぐあとにでっかい痺れがやってきた。私はちょっとのあいだのたくった。
しばらくして痺れが和らぐと、体を這わせてバックパックまで移動し、『若きウェルテル』を納める代わりに予備として持ってきた二冊の文庫本を取り出した。どちらを読むかは決めていなくって、私は指をワイパーのように動かした。
ところでそうしている最中に階下からサヤコさんの呼ぶ声があった。適当に右側に置いた一冊を持ち出して下までおりてった。
居間に着くともうお昼の支度が済んでいた。朝の残りやありあわせの料理が並んでる。サヤコさんはお勝手から最後のお皿を運んできたとこだった。
「ごめんなさい、手伝わなくて」って私は言った。
「ええ、いいのよ。お昼はいつも簡単に済ませちゃうんだから」ってサヤコさんは煮物のお皿を食卓に置きながら言った。
仏前への供米も昼にははしょってしまうみたいで、食卓には人数分のご飯茶碗しかなかった。
考えてみれば祖母の家でお昼を貰うのはこれが初めてだった。お漬物とお味噌汁と白米と、そこに一品添え物があるくらい。煮物は程よく火を通してあったけど、ほかはどれも熱気を立たせていなかった。お冷のご飯とお冷のお味噌汁。でも雨の日とはいえ夏にはちょうどよかったし、この家の雰囲気にもなんとなく合っていた。それに、案外と悪くないんだよ。白米は冷えてる方が甘みを強く感じる。
「そういえば、コヨリちゃん、きんなは大丈夫でした?」ってサヤコさんは食事の合間に唐突に言った。
「昨日?」って私は言った。それからやや考えて、きっと34度という熱暑に触れられているのだと結論づけた。「暑いには暑かったけど、体調は問題ないみたいです。ちゃんと涼めるところを探してたから」
「あら、やあね、自転車のことよ」ってサヤコさんはなぜか彼女自身が勘違いをしたみたいに照れた様子で言った。「でも、本当に、大事なくてよかったわ。あんなに暑い中、歩きで送り出しちゃったんだから」
ああ、自転車。って私はその単語を頭に巡らせた。今日はみんなが自転車に夢中だ。イッタも、シィちゃんも、サヤコさんも。なんとなくその偶然性をおかしく感じてた。もちろん、これは決して偶然なんかじゃなかったんだけど。
「今朝んなって急に思い出してね」ってサヤコさんは続けた。「それでさっき様子を見てきたのだけれど、どうも駄目のようなの」
「さっき?」って私は言った。「この雨の中ですか?」
「忘れないうちにと思ってね」
「すみません、何から何まで」
ええ、ええ、って彼女は首を振る。「ところでパンクもしているみたいだし、チェーンも錆びてしまっているようなの」
「他に使えそうなのはないんかい?」って祖母が言う。
「うちにはもうアレ一台きりなんですよ」ってサヤコさんは祖母に向いて言った。そして私に向き直り、「もし使うのなら、大通りの自転車屋さんまで持っていかないと」
「ああ」って私はつぶやいた。「あ、でも、それなら友だちに借りられるかも。さっき電話でそう言ってました」
「お友だちが?」
「近所に住んでるらしいんです。多分その子から借りられると思う。昨日話した、女の子の方」って私は言った。昨日の出来事はいくらか祖母たちにも聞かせていた。延泊が叶ったあとだったからみんな喜ばしいことのように耳を傾けてくれていた。
「ほんなら、そうして貰うのが一番だ」ってこのときもまた祖母は喜んだ。その喜びは自転車の代えが見つかったことよりも、孫娘が故郷を謳歌していることの方に向けられていた。
「じゃあ、シィちゃんにも後で連絡しておかないと」って私は言った。
「シィちゃんっていうのね」ってサヤコさんは穏やかに微笑んだ。
「素敵な子です」って私はちょっと控えめにはにかんだ。
雨はまだ上がらない。このまま終わりなく降り続いていそうな勢いだった。少なくともお昼時の空模様では。
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