8月9日(月)

第一節(0401)

 この日は朝から雨だった。昨日の猛暑で溜まった熱気が、夜になって水蒸気に変わっていったらしい。反動は午前中いっぱい空を覆い尽くしてた。


 もうすっかり日課となった朝食の合間に、ニュース番組を見てそのことを知った。縁側から窓の外を見てみると、たしかに鬱屈とした雲がはびこっていた。どんよりと灰色がかった、毛糸みたいな雨雲だ。


「どうだいコヨリ、降りそうかい?」って祖母は縁側に立つ私に訊いた。

「いやあ、ひでえもんだよ。こりゃすぐにでも来るで」って、答えたのは伯父だった。「雨具の用意、しといてくれや」


 彼は離れから母屋への途中に空の様子を観察してきたらしかった。父もサヤコさんもおんなじで、私は祖母の頼みに従って縁側から外を覗いていたの。


「まったく、昨日はあの暑さで今日は雨か。ろくなもんじゃねえな」って父は言った。「人が仕事の日ってなると降りやがる」


 私はもう一度空を仰ぎ見た。正直にいって嘆きたいのは私もおんなじだった。延泊が叶った次の日にこんな空模様だなんて予想もしていなかった。


 昨夕の頼みはあっけなく受け入れられたんだ。あずま屋で想像していたよりも事態は遥かに簡単だった。夕食の手伝いの最中にそれとなく様子をうかがってみると、サヤコさんは二つ返事で承諾してくれた。祖母も伯父も父も、みんなおんなじだった。むしろ彼らは私の滞在が長引いたことを喜んでくれもした。


「しかしコヨリにしても災難だな」って伯父はネクタイを締め付けながら言った。「こりゃあ終日厳しいぞ」

「そんなにひどいんですか?」

「午後になりゃわかんねえけどな。風も出てないみたいだし、こりゃ長引くで」

「まいったな」って私はつぶやくように言う。

「今日もお友だちと遊ぶ約束してたんかい?」って祖母は言った。


 私はうんとうなずいた。二人には昨夜、いつものように部屋に戻ったあとで延泊の事実を伝えておいたんだ。ついでに今日の約束も取り付けていた。


「そりゃあ後で連絡してみた方がいいぞ」って伯父は言う。彼は長年の経験から今日の雨がしぶとくなることを見抜いてた。「なるたけ出歩かねえ方がいいと思うけんな」


 雨は伯父と父が出ていったすぐあとにやってきた。サヤコさんと一緒に朝食の後片付けをしている最中に、お勝手で雨音を耳にした。シンクの水流に混じって、トタンの屋根がかつんと響く。


「あら。来たわね」ってサヤコさんはくもりガラスを覗くようにして言った。

「出かける前で安心ね」って彼女は続ける。

「でも、夏の雨だからすぐにやまないですか?」って私は言った。

「昨日あれだけ暑かったから。どうかしら」

「おじさんが正しい?」

「年の功よ」ってサヤコさんはやんわり言った。


 後片付けが済む前には勢いはもう本格的になっていた。いっそざあざあ降りなら良かったけれど、そうはならずに、この雨は持久戦を望んでいるようだった。トタン屋根の響きを静ませる程度の、じれったい強さだったんだ。


 居間に戻ってイッタたちに連絡を取ろうとすると、マナーモードの携帯端末にシィちゃんからメールが届いてた。

 縁側の端まで移動してシィちゃんに電話を入れる。


「もしもし」って私はできるだけ声を張らないようにして言った。

「リッちゃん、メール見た?」ってシィちゃんは言った。「今日の雨、中々やまないみたい。どうしようか?」

「イッタはなんて言ってる?」

「なんにも」ってシィちゃんは言った。「多分、まだ寝息を立ててるよ」


「ああ」って私は納得して言った。時間を確認しようと思ったけれど、居間までは遠かった。通話をしながら時間を表示するなんて便利な機能が、当時の携帯端末には備わってなかったの。でも大体のところで見当がついた。「いずれにしてもこの雨じゃ無理だよね」

「だと思う。中学校まで案内するって話だったのに」ってシィちゃんは通話口の向こうで本当に残念そうに言う。

「とりあえず、やむまで待ってみようと思う」って私は言った。

「そうするしかないね」ってシィちゃんも請け合った。


 それからイッタにも電話してみたけれど、何回かのコール音のあとに留守電案内に切り替わった。仕方なく終了ボタンを押す。

 居間に振り返ると、あらまし通話内容を察したのか、祖母もサヤコさんも実に残念そうな面持ちに変えていた。なんとなく敷居のところで立ち呆けていると、サヤコさんは空きの座布団を優しく叩いてくれた。


「駄目でした」って腰を下ろしながら私は言った。「雨がやむまではなんにも動けない」

「そういうときは、ゆっくりするもんだ」って祖母が言う。「雨が降ったら寝ればいい。晴れたらまた野良仕事」

「野良仕事?」

「心構えのことよ」ってサヤコさんは言った。「お天道さん相手じゃ、焦っても仕方がないですからね」

「でも、せっかく長く泊めてもらえることになったのに」

「そんなことだってあるよ」って祖母は優しく言った。

「私たちに気兼ねしてるのなら、遠慮なんていらないですよ。ねえ、それよりどうしましょう、急にやることがなくなっちゃったもの」

「私ですか?」って私は言った。サヤコさんは静かにうなずく。私はちょっと答えを保留した。


 確かに、どうしよう、って私はそのあいだに考えた。このまま二人に付き合ってテレビを観るでもいいし、部屋に戻って本を読むでもいい。だけどどっちも長続きしそうにはなかった。この時期になると私は、自分の衝動性をある程度把握できるようになっていた。だからこそ逆に、衝動の予感があるときの選択にめっぽう弱い。どう答えてもあとから矛盾になりそうだった。


「少ししたら、部屋に戻るかも」って私はそう返事することにした。

 そして三十分ほどすると、案の定そういう気持ちになっていた。四日目ともなると二人に対しての緊張もだいぶほぐれていたけれど、そうなると私のよくない性質も表に出てきやすいようだった。体がそわそわとし始める。


 祖母とサヤコさんに断って、私は二階へ引くことにした。

「そうだ、あとでお洗濯もの出しておいてちょうだいね」ってサヤコさんはそのとき言った。


「洗濯物?」って私は窓の外に目をやる。

「万一晴れたら、干しておいてあげるから」

「ああ、すみません」って私は言った。

「替えの着るもんは、まだあるのかい?」って祖母が言う。

「えっと、もうこれだけ」って私は襟元を引っ張る。

「それじゃあ、晴れなかったとしても洗っておかなきゃね。ちょっと行けばコインランドリーもあるから大丈夫よ」

「なんか、すみません、本当に」って私は言った。


 正直いって、私はあんまりそういうことに気が回らない。その気になれば三日くらいは同じものを身に着けていても平気なの。それはむしろ現在の方が顕著で、仕事ののりがいいときなんかは、食事も入浴もほったらかすことがある。いや、大丈夫、今日はちゃんとシャワーを浴びてるよ。でも本当にそうなんだ。だからこの場のことも、私はどこか一般的な焦りに欠いていた。


 おかげで部屋に戻ると洗濯物のことはすっかり忘れてた。いや、階段を上がるまでは覚えてたのだけど、一歩部屋へ踏み込んだ瞬間に、読書という目的のために他のことを空っぽにしてしまってた。


 そもそもここ数日私はまともに活字に目を通していなかった。昨日も日中の疲れから早々に眠ってしまって、おかげで綿入に来てから一向に『若きウェルテルの悩み』が進んでいない。よし今日こそはっていう決意にほのかに燃えていた。


 ところで文庫本を手に取ると、なぜか栞が外されていた。文庫本付属のスピンまで表紙の外に飛び出している。仕方なく頭の方からページをぱらぱらとめくっていった。程なくして読みさしの部分に当たりがついた。


 ようやく思い出してきた。そう、ちょうどウェルテルが新天地へ移ったところで止まってたんだ。ロッテとの恋に散ったウェルテルが、失意のうちに彼女のもとを離れると決めた、その直後のことだ。たしか、区切りがいいからといって、そこで読むのをやめていた。新しい環境で彼は鬱屈に日々を過ごしてく。


 ああ、ところで私は、現在でもこの場面のことをよく覚えてる。物語の上では特に重要ともいえない場面なのだけれど、ここには私が『ワールハイムの乙女』と呼ぶ少女が登場するんだ。


 ある日ウェルテルが招かれた社交場に、この『ワールハイムの乙女』も出席してた。彼女はそこにいる参加者に、父親の業務がいかに重要なものかとか、生まれ育った町がいかに素晴らしいかとか、いかに恵まれた環境で教育を受けてきたかとか、そういったことを自慢気に吹聴するの。ところが彼女の父親の職業というのは役所の書記で、ウェルテルいわくそれは大した重職でもなかった。住んでいる町も平凡だし、書記の娘なら教育のほども知れている。でもそれなりに賑わいのある町に住んでいて、それなりに英才的な教育を受けてきたという事実が、彼女を並々ならぬ自信に溢れさせていた。


 友人に宛てた手紙の中でウェルテルは彼女のことを「井の中の蛙」だって評してる。世間知らずの田舎娘が自分の周りにあるものこそが全てであり最良のものであると勘違いしているんだって風にね。


 それはちょうどこの帰郷旅行のさなかに、私のことを言われているようだった。綿入という生まれ故郷に、私は『ワールハイムの乙女』と同じようなことを感じてた。とても普遍的でちっぽけな町なんだけど、そこには唯一にしてここにしかない魅力が溢れていると、そう感じてたんだ。


 例えば初日に訪れたレンコン畑や寂れた神社、あと湧き水の神社もそうだし、昨日のアンさんの喫茶店もそうかもしれない。私は君に聞かせる物語として、こういったものの素晴らしさをわざと大げさに表現していたわけだけど、実際に十七歳の夏に感じていたことも、それと遠くないところにあったんだよ。


 でもどんなに私が素晴らしいと感じても他人の目からはなんの変哲もない田舎の村であり、そのへんに転がってる小石とも変わりがないわけだ。つまり何かの思い入れがない以上はね。


 主観的なことと客観的なもののあいだには、それだけの差が生じてる。だからこそ自分の中にあるものを常に客観的に見つめなければいけないということを、私はそのとき気付かされたんだ。言い換えれば、それが一般的には価値がないものだと理解した上で、自分にとってどうなのか改めて考える。その手段、あるいは思考形態を、私は『ワールハイムの乙女』を通じて学んだの。そしてもちろん、そのことは今も私の中にちゃんとある。誇大表現はあくまで君を楽しませるための手段だよ。


 それからもう一つ。私は彼女のことを便宜的に『ワールハイムの乙女』と呼んでいるけれど、これも正確には二つ間違いだ。ワールハイムはそれ以前にウェルテルやロッテが住んでいた町の名前で、この少女とはなんの関係もない土地なんだ。そして今も少女と呼んだけれど、彼女の年齢は作中では明らかになってない。ウェルテルは彼女のことをシンプルに「女性」とだけ称してる。もしかしたら立派な大人かもしれない。なにしろ彼女の存在は作中のたった一行にしか出てこないんだから。いわば謎多き女性、いや、少女だ。


 でも私はその一行にずいぶん時間をかけていた。何度となく繰り返し読み解いて、私のものにした。きっと多くの人が注意も払わずに読み進めるであろう箇所に、私はそうやって自分だけの付箋を貼った。


 優れた小説には往々にしてそういうことがある。なんでもない平凡な文章の中に時として大きな発見が隠されている。だからやめられないんだよ。

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