第十二節(0312)
五時五分になった。刻々と山上からの風が冷えてゆく。空はまだ青いままで、薄らいできてもいないのに、全ては順調に夕方へと移ろいつつあった。
私たちの活動という意味でも今日という一日は既に終わりに向かってた。イッタが和菓子屋さんの袋にごみを収めているあいだ、私は名残惜しげにあずま屋の壁を見回した。
「そんなに気に入った?」って彼は袋の口を縛りながら言った。
「うん」ってぼんやり返事する。
「まだ時間あるから、しばらくそうしててもいいよ」
「十分くらいでしょ?」
「まあ、コオリが遅れても構わないなら、それ以上でも」
「向かい風になるようなことはしないよ。失敗したくないもん」
「でも、リッちゃんなら気に入ってくれると思ってた」
「ありがとね、シィちゃん」って私は、なんとなくそう感じて、言った。
卒業、失恋、別れ、旅立ち、まだそういうものに慣れてない、非常に高度で複雑な柔らかい感受性の、全霊の叫びたちがそこにある。見れば見るほど素敵なんだよ。きっと私たちの肉体はいつかそれを失わせてゆくけれど、ここに刻まれた言葉たちからは剥がれ落ちてゆくことはない。生々しい傷の痛みと叫びが、この薄暗い図書館の中に抽出されている。
はっきりと言ってしまえば、ここにある物語たちには、巧みな筆致技術なんてものは存在していなかった。だけじゃなく、多くの人の琴線に触れるための表現力も客観性も存在していない。ここにあるのは書いた本人たちだけに通じる、ごく主観的な物語だけだった。でも、だからこそこの図書館に収められた物語は崇高なんだ。下手に奇をてらわない無骨さが美しい。
「そんなに気に入ったなら、また来ようか?」
「え?」
「延泊が叶ったなら」
「そうだね。それも良いかも」って私は言った。だけどイッタは冗談で言っていたようだった。
「ずいぶん熱が入ってる」って彼は肩をすくめた。「いや、本当にそのつもりなら、いいよ、また来よう。さしずめ花蕊祭のときにでも」
「花蕊祭?」って私はイッタに振り返った。「でも花蕊祭って、夕方からでしょ?」
「そう。日が落ちてから登るんだ」
「危なくないかな」ってシィちゃんが言った。「いくらゴマ山だとしても」
「ここからなら花火がよく見えるんだよ。シズカにも言ってなかったけど、中1と中3のときに二度登ったことがある。あいつらに誘われて」
そう言ってイッタは天井を指さした。
「意外とやんちゃだよねイッタって」
「つるんでる仲間が悪い」って彼は笑った。
その横でシィちゃんは、「私にまで平気で黙ってるんだから」って、余裕たっぷりに言ってのけた。その姿はもう元のシィちゃんだった。
「でも、本当に危なくないの?」
「俺も最初はそう思ってたんだけどね。あいつらは先輩に教えてもらったとか言ってたけど、それだってどうせ、からかわれてるだけだろうって思ってた。でも案外問題はなかったよ。あずま屋までなら道も整備されてるし、この辺りまではクマも降りてこない」
「足の無いようなのは?」って私はふざけて言った。
「そこの慰霊碑の連中とかか?」って彼はあずま屋の外を指さす。「実際に眠ってる場所は個人の墓なんだし、ここに出てくるはずはないでしょ。もしもそういう存在があればだけど」
私とシィちゃんはお互いの顔を見合わせた。
「もちろん懐中電灯は必要だけどね。それと、何か羽織るもの」って彼は続けた。「でも、本当にいい場所だよ。眺めは最高だった。それに、祭りの最中に登山しようなんて酔狂な奴もいない。いわば特等席」
「特等席ね。どうする、シィちゃん?」
「リッちゃんはどう?」
「そこまでいわれたら、見てみたい気もする」
「うん、じゃあ私も」ってシィちゃんは微笑んだ。
「でも羽織るものか。私、夏物の服しか持ってきてないよ」
「じゃあコオリの分は俺が用意しておくよ。さもないと間違いなく風邪を引くからな。想像以上に夜風がきついから」
「引いたの?」ってシィちゃんは興味深そうに訊いた。
「次の日、全員寝込んだよ。だから中3のときにはジャケットを用意していったんだ」
「二度も見る価値があるわけだ」
「少なくとも俺は」
「他に必要なものは?」ってシィちゃんが言う。
「細かいことは追々でいいんじゃない? コオリの延泊が確定してからでも」
「うん、そうだね」ってシィちゃんは一旦承知した。「ねえ、そのとき油性ペンも持ってこない?」
「油性ペン?」
「それいいね」って私は言った。「私たちもここに書き残す」
「なるほどね。わかった、油性ペンも用意しておく」ってイッタは簡単に請け合った。「考えるのは俺じゃないけどな?」
そしてまたあずま屋の壁を眺め回していった。シィちゃんと相談し合いながら、私たちの結晶を残すに相応しい余白を品定めしていったんだ。山上からの風が日暮れを告げるなか、私たちはそうして時間いっぱいまであずま屋に留まった。
……
…………
麓に到着すると熱気はもわっと蘇る。時刻は五時二十五分。空の色は若干薄らいできているようだったけど、この夏一番の暑さはまだまだ静まる気配を見せていない。
「じゃあ、俺はこれで」
麓に下りてから、シィちゃんが自転車を再回収するところまでは着いてきて、その場でイッタはそう告げた。
「あれ。イッタとはここでお別れ?」
「途中まで一緒に行かない?」ってシィちゃんは言った。
「やめとくよ。あとは二人でどうぞ」
イッタは本当にそれっきりで帰ってしまった。きのこ工場から踏切へと、彼は自分だけの道をゆく。私たちはしばらくその背中を見送った。
「本当に帰っちゃった」ってシィちゃんは角の立たないような微笑み方をした。
「多分、イッタなりの願掛けだよ」って私は言った。「あんまり仰々しくすると、これで最後になると思ったんじゃないかな」
「リッちゃんが上手くいくように」
「多分ね」って私は言った。
そしてもう一つ、イッタは多分、私とシィちゃんを二人っきりにしようと考えていた。多分というよりはもう少し確実なくらい、多分ね。私たちは途中まで帰り道が一緒だったんだ。
自転車を引くシィちゃんの歩幅は普通に歩くよりも柔らかで、おかげで私たちには充分な猶予が与えられていた。イッタを抜きにした、二人っきりの会話を楽しんだ。
会話が進むに連れ、私はシィちゃんという女の子の魅力を次々と知ることになる。彼女はとても純粋で裏表のない人だった。そしてありがたいことに、こんな私に好意を寄せてくれている。彼女はこの十年間の想いや再会の感動を恥じることなく伝えてくれた。そのときの表情や仕草や声の調子には、少しも伏せられているところはなかったの。
私は幼い頃から他人の顔色を伺って生きてきた。私が癇癪を起こすとき、母はその怒りを物理的な力に変えることがあり、そうでないときとの差は僅かなニュアンスに表されていた。私にはその差を見極める能力が必要だった。だけどそうする必要がある相手は母ばかりじゃない。周囲の人間が私に対してどう感じているかを知っておくことは、発作的な衝動に駆られて自我を失う私にとって、何よりも重要なことだった。瞬間々々の相手の顔色を伺いながら、綱渡りのように生きてゆくしかなかったの。ほんのちょっとの表情の変化や口調の違いに、私はとても敏感だった。直接会えば、それがお世辞かどうかはすぐにわかるんだ。
だからこそ、シィちゃんの魅力にどんどん惹き込まれていったんだよ。彼女の美しさというのは純朴な内面こそが作り上げてたの。
そして私もシィちゃんの魅力を素直な言葉で表現した。シィちゃんは恥ずかしがっているようだったけど、それでも私の気持ちを真摯に受け止めてくれた。
別れの丁字路に立ってからも私たちは会話を続けてた。もちろん、その間にも陽は刻々と傾いていて、この瞬間を楽しみながらも私は内心そわそわとし始めてた。その焦りを感じ取ったのか、シィちゃんは何気ない様子で時間を訊ねてきた。
そのとき時間は五時四十五分を三分過ぎていた。少なくとも六時までには祖母の家に帰っておかなければならない。日本人的感覚からいうと残り二分だ。
「今日は楽しかったよ」ってシィちゃんは落ち着いた気配に変えて、そう言った。「リッちゃんに会えて、本当に良かった」
「私もだよ。本当に」って私は笑う。慎ましやかに、けれども素直に。
「花蕊祭のこと、楽しみにしてるね」
「頑張るよ。私も楽しみだから」
「プレッシャーになるから、言わないでおこうと思ってたんだけど」ってシィちゃんは申し訳無さそうに照れ笑いした。
「ううん、わかってる。大丈夫だよ」って私は言った。「じゃあ、遅れるとまずいから」
「うん。また明日ね」って彼女は言った。
「また明日」って私も返事する。
でも、しばらくして振り向くと、シィちゃんはまだその辺りにいた。丁字路より少し先のところで立ち止まり、私の背中を見送っていた。私は小さく手を振った。彼女も小さく振り返す。
二度三度そういうことが繰り返された。私は後ろ髪を引かれる思いで帰路を行き、振り向くたびにシィちゃんがいることに安堵した。でもその姿は私の足のために段々と小さくなってゆく。いよいよ何度目かに振り返ったとき、シィちゃんも自分の帰路を行くと決めたようだった。彼女の背中にそっとさよならを振る。
「また明日」って小さくつぶやいた。
アンダーパスに着いたとき、空はとてもくたびれていた。力強いほどの濃い青が、いまは薄みがかった水色に変じてる。水色というよりも白に近い。アンダーパスの中は深い暗闇だった。
振り向くとシィちゃんの姿はもうなかった。私はなんとなくその場に立ち止まった。携帯端末を開くと時間は五時五十一分だった。日本人的感覚からすると、あとは遅刻の時間を増やすだけ。そう考えると、どっと虚無感が湧いてきた。今日のことをぼんやり思い出す。
たしか、祖母の家を出たのは朝の八時半頃だったはず。もう九時間も過ぎている。九時間。あっという間だった。その中にいるときは長いのに、過ぎてしまうといつも呆気ない。
ベルトに噛ませてあったフェイスタオルで額の汗を拭い、もう使うことの無いもののように真四角に折りたたむ。片手に握りしめてアンダーパスをゆく。
暗闇を抜け出すと、祖母の家には強烈な陰が出来ていた。石垣や壁や屋根にくっきりとしたコントラストが生まれてる。どれも定規で引いたように鋭く、直線的な陰だった。そしてその上から薄い膜が貼られてる。薄く薄く、限りなく薄く引き伸ばしたオレンジのフィルターだ。
西と南に山を配置した祖母の家には、ひと足早く夕暮れが訪れるようだった。アンダーパスが外の世界とこの中を切り離してる。
だけどどちらの世界でも時間は均一に流れてく。もう少しすれば茜色が世界を覆う。最高気温34度の夏が、その一日を終わりに近づけていた。
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