第八節(0308)

 お昼すぎに着いた大通りの喫茶店には『Open』の看板がかけられていた。すでに一時を回ろうとしていたけれど、店内はまだ少なからず混み合っていて、運良く空席だった二つのテーブルの、奥の席を選ぶことにした。


 道すがらに二人はこのお店のことを「製材所の社長夫人が営んでる喫茶店」と教えてくれた。その通りお店の中はオークやウォルナットをふんだんに使った、しっとりとした雰囲気に包まれていた。場所も製材所の敷地内に建てられている。

「いい雰囲気だね」って私は壁や天井やカウンターを眺めながら言った。


 河川敷からの帰りは滑空場を通らずに、サケの放流行事の正式な道のりから迂回してきたのだけど、土手へ上がる前には正午を過ぎていて、私たちはその事実を町内放送のスピーカーから流れるチャイムによって知らされた。


 堤外地の細い道を進みながら、お昼はどうするのかと二人に訊ねたの。どこかのお店を利用することは匂いでわかったけれど、その問題は差し当たってのところ後回しになっていた。そうして二人に訊くことで、ようやく彼らは「駅の近くにある喫茶店」だと種明かしてくれたんだ。


「私たちも頻繁に利用してるわけじゃないんだけど、内装もおしゃれだし、オリジナルの料理も多くて、素敵なお店なんだよ」ってシィちゃんは、そのとき私の質問に、まるで仲のいい友人を引き合わせるみたいに、魅力的な修飾表現を加えて答えてくれた。


 ありがたいことに私たちの困惑は、グライダーの離陸をきっかけにして勝手に治まった。本当だったら心に感じてる以上の膨大な言葉を用いて解決に当たらなければならなかった事柄は、そのようにして空のどこかに消えてった。


 喫茶店に着くと、イッタはシィちゃんを窓際の席に通して、二人横並びに腰かけた。私は対面の椅子に席を取る。そしてシィちゃんの表現が適切だったことにちょっとした感動を覚えながら、辺りを見回した。


「こんな田舎には出来すぎた店だよ」ってイッタは、まるで何かを褒めるときには何かをけなさなければならないと教え込まれた人のように言った。


「悪くないと思うけど」って私は言った。

「凝りすぎてない?」って彼は顔の動きで外を指す。


 たしかに、綿入という風土に比べると、店内はいささか洗練されすぎてるようにも感じられた。天井のスピーカーからは特に雨の日にでも聞きたいような落ち着きのあるスムースジャズが流れていたし、空調は適切な温度を保ってる。装飾品のシーリングファンはジャズの音色に合わせるように、ゆったりと羽を回してる。


 かたや窓の外に目をやると、そこには野暮ったい田舎の大通りが走ってる。交通の要衝として輸送トラックがひっきりなしに往来しているし、店の反対側には農協の倉庫が建てられている。鉄骨を赤錆に塗れさせた、古ぼけた建物だ。歩道の地面も整備を忘れられている。


 その二つは明らかに別の次元にあるべきものだった。もっと都会的な町並みにこそ、この喫茶店は相応しい。だけれども、そういうちょっと異質な感じもこのお店の魅力の一つだった。窓を境にしてすぱっと切り離された空間は、ちょうど冷房のきいた店内と室外機のように、鮮明なコントラストを生み出してたの。ここが非現実の世界であることを視覚的に実感させている。


「ご注文はお決まりで?」と、このお店のミストレスが優しく私たちの席に近寄った。


 お店には彼女以外に従業員はいなかった。テーブルにお冷を運んでくれたのも、こうして注文を取るのも、そのあとカウンターの奥の調理場でフライパンを振るうのも、すべて彼女の手一つに任されている。


「少々お待ち下さいね」、彼女は注文を取り終えると、たおやかにその場を引き取った。


 年齢は四十半ばほどで、背丈は私より低く、髪はベリーショートに刈り上げられていた。頬は少し痩け、肌は病的なくらい白いんだ。紺色のデニム生地のエプロンに、白いTシャツ、ワインカラーのスラックスのみを身に着けている。店内にいるあいだは結婚指輪も外しているらしかった。


 見た目には素朴で気取ったところのない人だった。ところがひとたび声が発せられると、そこに独特の品の良さが現れる。そのことは彼女の身のこなしや所作にも現れていた。私の目からはそれが無理や演技ではない自然な態度として見えた。つまり彼女の一挙手一投足もまた、天井で羽を回すシーリングファンとおんなじだった。


 イッタたちが説明してくれた事柄の中で唯一間違っていたのは、このミストレスについての事柄だ。厳密にいうと彼女は製材所の社長夫人ではなくて、製材所の跡取り息子である次期社長の奥さんだった。便宜的に専務夫人とでも呼べばいいんだろうか。


「それにしても」って私はミストレスから顔を戻して、隣同士に寄り添う二人を見て言った。「ちゃんと恋人らしいこと、してるんだね。こういうお店でデートなんて、定番中の定番じゃん」

 返事はなかった。イッタは苦い顔をして視線を逸した。


「ねえ、シィちゃんはさ、イッタのどこが気に入ったの?」って私は続ける。

「どこって言われても……」ってシィちゃんも戸惑ってるようだった。そしてイッタに助けを求めるように、やや上目遣いに目をやって、「ねえ?」

「急にどうした、コオリ?」ってイッタは呆れながら言う。


「気になったから。駄目だった?」

「駄目ってことはないけれど……」ってシィちゃんは困り果てている。

「そういうのは時と場所を選ぶ質問だよ」

「じゃあ、どういう時と場所ならいいの?」

 彼はしばらく答えを保留して、ついに肩をすくめた。

「答えてやれよ。俺のどこが気に入ったか」って彼は投げやりに言う。

「リッちゃん、そういうのはよくないよ」ってシィちゃんは恥じらいに微笑んだ。私もそれを見て肩をすくめる。


「じゃあ質問の内容を変える。二人が付き合ったきっかけは?」

「それはさっき言わなかったっけ。自然と付き合ってた」

「聞いたけど、そうじゃなくってさ。つまり、二人の仲が良くなったきっかけとか」

「仲が良くなったきっかけ?」

「気づいたら友だちになってたの? 付き合い出したときとおんなじように?」って私は言った。

「ああ、それなら、原因はコオリだよ」


「私?」って私は目を丸くした。「なんで私?」

「シズカにとってコオリは特別な存在だった。これはさっき聞かせたよな。そして俺はコオリの幼馴染みだった。意味わかる?」

「友だちの友だちは、また友だちである?」

「あながち間違いではないね。コオリが引っ越していったあとも、シズカはどこかでコオリとの繋がりを保ちたかったんだ。そして幼馴染みである俺に白羽の矢が立った」

「それだとシィちゃんが打算的な子みたいに聞こえるよ」って私は言った。

「でも、語弊はあるかもしれないけれど、そのとおりだよ」って想像に反してシィちゃんが答える。「ヒデくんには私の方から話しかけたの。リッちゃんのこと、色々知りたかったから」

「そうなんだ」って私は予想外の答えに驚いた。


「だけど気が合ったのも確かだよ」ってイッタはなにか観念した様子で言う。「コオリについて知ってることを全部教えたあとも、俺たちの関係は変わんなかった。ある意味ではクラスの中で一番打ち解け合ってたかもしれない」


「でも女子と男子って、ある時期から変に意識し合うよね?」

「俺とシズカに限っては、そういうこともなかったんだよ。男子と女子のいがみ合いも、俺たちにしてみれば対岸の火事だった。それに考え方もよく似てたし、話が噛み合う相手も、男友達より、シズカだったんだ」

「元々相性が良かったんだ」って私は言った。「じゃあ、私が原因とも言えないよ。私がいなくても、二人はいずれそうなってたと思う」

「そんなことはないよ、引き合わせたのはコオリだ。俺とシズカの馬が合ったというのもあるけれど、相性の良さだけで付き合いが始まるわけじゃない。もしそうだとしたら、星占いは何千万組もカップルを作ってる」

「なるほど」って私は言った。


「中学に上がってからも、ヒデくんとはおんなじクラスだったの。お互いに運動部に入ってて、帰りの時間が重なることも多かったんだ。私たちの学校はクラス替えもなかったから、そうやってずっと近くにいた」

「気付いたらお互いに意識し合ってた」

 シィちゃんは曖昧に、もしくは照れくさそうに、小さくうなずいた。


「満足したか?」

「うん」って私は言った。


 一つ間をおいて私は続ける。「でもよかったよ。私が綿入を離れたことに、少なくとも一つは意味があったんだから」


「俺とシズカをくっつけた?」

「曲げようのない事実だからね」って私は言った。


 正直にいってしまうとね、私はこの一言を伝えるために、二人の馴れ初めに探りを入れたんだ。不器用なりの、私の策略だ。二人を手放しで祝福していると知ってもらえれば、安心を得られる人がいる。シィちゃんに対して、立場を明らかにしておきたかった。


「リッちゃんは、リッちゃんのまんまだね」って彼女は微笑んだ。

 その答えに満足と、そして私自身も安心を得る。


 ちょうどそのとき頃合いを見計らったように料理が運ばれた。三種類のトーストセットが二回に渡って運ばれる。


「すぐに残りもお持ちしますね」って一回目にミストレスのアンさんは言い、

「ごゆっくりどうぞ」ってイッタのピザトーストセットを置いたあと彼女は言った。


 媚びたところのない上品な振る舞い。それがアンさんの魅力だ。

 でもそれは私が心の中で勝手に呼んでる名前。残念ながら彼女の本名を聞いてみたことはない。後年見た映画、『レ・ミゼラブル』に影響を受けて、勝手にそう呼んでいるんだよ。


 ヴィクトル・ユゴーのレ・ミゼラブルは過去に何度も映画化されたけど、2012年版でヒロインを務めたアン・ハサウェイの雰囲気に彼女はよく似てた。役柄のフォンティーヌというよりは、髪を刈り上げたあとのハサウェイにそっくりだった。特にラストシーン、ジャン・バルジャンの迎えに上がったアン・ハサウェイの、シルクのように透き通って柔らかな仕草と表情が、このお店の印象と強く噛み合った。以来私は彼女のことをアンさんと呼んでいる。勝手にね。


 アンさんが一人でプロデュースするこの喫茶店の料理は、味も見栄えもよくて、すっかり気持ちを弾ませた。ワンプレートの木製のお皿にトーストとサラダと冷製スープが盛り付けられている。華やか、というよりは、洒落た色合いだ。


 昼食のあいだに私たちはそれぞれの過去について語り合った。私が堀田の姓を捨て、下間瑚和と名乗るようになってからの十年間。昨日のイッタとの再会時には遠慮がちに回避されてしまった、その十年間の空白が、いまアンさんの料理によって埋め合わされてった。


 彼らの十年間は、私と違って、綿入の生活とイコールだった。私がいなくなってからの残りの五年を彼らは地元の小学校で過ごし、中学に上がってからの三年間も、同様に地元の学校に通い続けた。彼らは綿入の子どもがおしなべてそうであるように、ある時期まで山と川とに囲まれた、この小さな扇状地、この小さな箱庭だけを全世界と信じて生きてきた。それは幼い頃に綿入に移住してきたシィちゃんにしても、例外なくそうだった。


 子どもたちは綿入の自然の中だけで成長し、遊び、友情を育んでゆく。小学校の規定する『学校区域外での遊行を禁ずる』という一文は、この扇状地にあっては意味のないものだった。


 中学生になってもそれはあんまり変わらない。やんちゃな子どもたちはこぞって橋の向こうに遊び場を求めるけれど、多くの子どもたちはそうした労力を嫌ってこじんまりとこの町に居座った。町には山があり、川があり、そして多くの寺社がある(この小さな町に数えられるだけで二十以上もの寺院と神社がある)。アウトドアから文化的な活動まで、綿入という大地は子どもたちの興味を尽かせない。それに、そういうことにも飽きたら家に閉じこもってビデオゲームに没頭できるような時代だ。


 学校生活では、イッタはテニス部に、シィちゃんはバレー部に所属した。イッタは地方予選のシングルスで二位に入賞し、シィちゃんもミドルブロッカーの要としてチームを二位と三位に導いた。彼らの健康は自然豊かな土壌によって鍛えられてたの。


 そして、もしも誰かが『文武両道』という理念を彼らに吹き込んでいたのだとしたら、二人はその教えを忠実に実行していたことになる。学業の上では驚くことに、イッタの方が成績が優秀だった。シィちゃんは生徒会の書記に任命され、イッタは生徒会長に推薦された。本人が立候補を取り消したことで実現は叶わなかったけど、もし順当に選挙に臨んでいれば、当選は確実だと目されていた。


「どうして生徒会長にならなかったの?」って私が訊くと、彼の答えはシンプルだ。『必要なこと以外には関わらない』。


 彼は文武において優秀な成績を納めていたけれど、教員からは熱意の足りない生徒とも見られてた。進路希望調査の用紙を第一志望から第三志望まですべて地元の高校で埋めたとき、クラス担任は彼を進路指導室に呼び出した。


「お前の成績だったら、もっと上を目指せるぞ」って彼はそのときイッタの情熱を揺さぶるように言った。


 だけどイッタは意見を変えずに、そのまま第一志望の高校に進学した。そこは県内でもトップクラスの進学校だったけど、イッタの学績なら内申点を無視しても通過できる難易度だった。


 シィちゃんも第一志望はイッタと同じ高校を選んでた。でも試験に通過せず、滑り止めに受けた女子校に進学したというわけだ。

 

 もしかするとイッタはシィちゃんに気兼ねして地元の高校に進んだのかも知れない。私は初めそう思った。でもイッタの言い分は違ってる。

「県外の高校に入ると、どうしても寮生活になるからな。俺にはとても無理だよ。集団行動、門限、それに相部屋」

「白黒にされたらかなわないもんね」って私は、それならそういうことにしておいた。


 ともかくそのようにして、生活の拠点という意味では変わらず綿入に身を置いたまま、二人は空白の十年を過ごしてた。


「で、コオリの方はどうだった? まあ、コオリのことだから、上手くやっていたんだろうけど」

「うん、まあ、それなりに」って私は言った。


 でもそれは嘘だった。私の歩んだ十年は、彼らの歩んだいわば華々しい十年とは、まるで正反対だった。学籍も身体能力も人格も、それらはすべて綿入に置いてきた。このことは君にも前もって聞かせたはずだ。


 でもね、君に聞かせた事柄の中にも嘘がある。嘘というよりは敢えて黙っておいた事柄だ。だってそれはあまりに鬱屈として、胸の躍るようなことは一つもない真実だったから。


 敢えていまその話をするよ。

 転校してからの私は、いわゆる不登校児だったんだ。週に二回か三回登校すればいい方で、大半は日中を家の中で暗く過ごしてた。クラスに馴染めないということもあったけど、それよりももっと大きな、閉塞的な感情に包まれていた。


 朝目覚めると学校に行きたくない。理由はわからない。ただそういう感情が全身を包んでる。肉体もそれに呼応するように気だるいんだ。


 母はそんな私を叩き起こそうとして必死になった。ときにその必死さは暴力という形に転換された。それでも私は頑なにベッドにしがみつく。やがて母は諦めて出勤の支度にとりかかる。私の抵抗はそうなることを見越したものだった。母がヒステリックに玄関の扉を閉めるとき、私は勝ち得た権利の甘さを味わった。


 けれどもその余韻は長くは続かない。アパートの駐車場から車のエンジン音が鳴り出すと、突然後悔に襲われる。音が遠ざかり、耳から離れると、痛いほどの罪悪感に打ちのめされる。また母を困らせてしまったと。


 力ない足取りでリビングまで向かい、適当な位置に座り込む。ランドセルは部屋に置いたままだ。今からでも学校へゆこうという気には、どうしてもなれないの。


 平日の日中には子ども受けするような番組はやってない。どのチャンネルを回してもテレビはワイドショーや情報バラエティだらけだし、NHKの教育番組はいつかの再放送を垂れ流しているだけだ。この時代にはまだパソコンもスマートフォンもなかった。あっても持たせてもらえたとは思えない。ビデオゲームにも疎遠だった。


 お昼は冷蔵庫の残り物で済ませる。火を使うのは目玉焼きくらいで、大抵は6ピースのチーズやカットハムをそのまま食べる。買い置きのインスタント麺があるときはそれをスナック代わりにした。そういう惨めな行為が相応しいんだろうと私は感じてた。


 あるとき家に何一つ食材のないことがあった。仕方なく私はお小遣いを握りしめ、スーパーマーケットまで向かった。でも会計を済ませようとしたときに、レジのおばさんから「今日は学校どうしたの?」って言われて返事に窮した。それからは日中に外を出歩くのをやめにした。食べ物がないときは水で我慢した。凍らせた方が満腹感を得られることはそのとき知った。


 第一、外の世界にだって面白いことなんか転がってない。近所に大きな児童公園があったけど、ベンチにはいつも赤ちゃん連れの母親たちの姿があった。それに、仮に彼女たちがいなかったとしても、遊具は一人で遊ぶものじゃない。それは虚しさを助長するだけなんだ。


 夕方まで私はひたすら無味乾燥な時間を過ごす。その頃はまだ本や映画という世界があることも知りはしなかった。


 日が傾くにつれて悲しさが増してくる。外の世界が賑わいだして、学校帰りの子どもたちがはしゃぎ出す。私にはいつもそれが、被告人を責め立てる傍聴席からのシュプレヒコールのように聞こえてた。何よりも辛いのは五時を回ってからだ。定時で仕事を終えた母がそろそろ帰宅する。帰宅したあと、私はどんな態度で彼女に接していいかわからない。帰ってこなければいいと思ったこともある。


 でも実際に母の帰宅が少しでも遅れると、私はとてつもない不安に襲われた。もしかすると母はもうこの家に戻ってこないのかもしれない。私みたいな駄目な子を置いて、どこかで新しい生活を始めてしまうのかも。その妄想がどんどん膨らんでゆく。六時を過ぎても帰ってこないとき、私は暗い部屋の中で泣き出した。


 帰宅した母はまだ朝の怒りを燻ぶらせてる。車の音を聞きつけて玄関先に飛び出しても、出迎えた私を母は軽蔑の目で見下ろした。


「明日こそはいい子になろう」って私はそのたび決心する。同じことを母にも伝える。でもそれは何度となく繰り返された。


 学校でも私は問題児として扱われてた。授業に集中できず、進行を妨害することはしょっちゅうだったし、勝手に教室の外へ飛び出すこともあったんだ。開始から三十分は集中できる。でもそれ以上になると体が勝手にうずき出す。一旦体が運動を求めると、頭もそのことでいっぱいになってしまう。先生の声も耳に入らない。


 椅子から立ち上がり、あまりにも自然な動きで教室を後にする。ひとたび廊下に出ると追手を払うように走り抜け、そして授業が終わるまで勝手気ままに校内をうろついた。場合によってはそのまま家に帰ることだってあった。ランドセルは次の日まで教室のロッカーに置かれてる。


 見兼ねた先生たちは空き教室に私専用の空間を用意した。授業を抜け出すのは構わないけれど、居場所だけは特定できるようにしておいてくれということだ。


 もう一つ先生たちを困らせたのは私の物忘れの酷さだった。とにかく私はなんでもかんでも忘れる子どもだった。行事の日程や宿題、提出物の期限、母に渡すはずのプリント、遠足の服装指定だって忘れたことがある。合流場所に行ってみたら私だけ運動着だった。


「前日のうちに用意を済ませておけば、こんなことにはならないよ」ってクラス担任の男の先生は、ことあるごと私に注意した。「手のひらに書いておけばいい」とも彼は言った。


 その通りにしてみても、人間は一日のうちにそう何度も手のひらを見るわけじゃない。手のひらに注意事項を書いた記憶そのものを忘れたら、一体誰がそれを質してくれるのだろう。そして私の物忘れは常に忙しい時間にやってくる。ランドセルを背負って家を出てゆくとき、前日のうちに用意しておいた提出物は、そっくりそのままリビングのテーブルか勉強机の上に置き去られたままになっている。何しろ自分が鍵っ子なのを忘れて、母の帰宅まで玄関の前に座り込んでることさえあったくらいなんだから。


「あんた、また鍵忘れたの?」って母はそのたび呆れた。


 でも私はそれが嬉しくって、何一つ改善しない。目の前にある一瞬のことだけが私の全てだった。結局鍵の問題は鉢植えの裏に隠しておくとうい古典的な手法で解決された。もちろん、それさえ無いときがあったけど。


 当時の私が何を考え何を思って生きていたかを私は知らない。わかるのは瞬間瞬間に感じていたことだけで、断片的に現れる点の思想を見るだけだ。イッタやシィちゃんが放流行事の問題に取り組んだ小学五年生のときにも、私の頭の中は相変わらず空虚なままだった。自我の芽生えた人が書く線の思考が、私にはなかった。喩えるならそれは昆虫か微生物のようなもので、まるで知的生命体ではなかったの。その刹那だけを生きていた。


 学校の成績もそれほど良くはなかった。特に理数系は学年が上がるにつれて成績を悪くした。割り算や分数の解法は、教えられた次には忘れてる。社会科もおんなじだ。年号や事柄の名前を留めておけない。


 主要教科の中で国語だけはかろうじて成績を保ってた。テスト用紙に印刷された小文を流し読みすれば、作者の意図だとか『それ』が何を意味するかといった設問の答えがすぐにひらめく。その教科だけは記憶力とは別の作業領域だった。漢字の読みは当たり前のように自然と出来てたし、書き取りについては一つの図形として捉えてた。


 小学校在学中に何度か絵画コンクールに入賞したことがある。綿入にいたときの一回を別にしても、低学年のときに一度、それから高学年になってからも二度ほど賞状をもらった。特別な工夫とかはしていない。描けといわれたものをそのまま描いたものが審査員の目に止まった。その中には提出期限を過ぎてからクラス担任に渡したものもあった。


 それは『私の好きな学校』というテーマで、校舎内の思い思いの場所を切り抜いた絵だ。私は下書きだけをさくっと終わらせて、あとはそのまま放置した。図工の時間にも好きなことをして遊んでいたし、それに学校へだって頻繁に登校していたわけじゃない。久しぶりに教室へ顔を出したとき、とうとう提出期限が三日も過ぎていた。朝のHRのあとクラス担任の先生から「意地でも今日中に仕上げなさい」って描きかけの絵を手渡された。私はそれでも気乗りしなかった。ようやく描き始めたのは給食の時間を過ぎてからだ。のそのそとパレットを用意し、適当な筆の動きで色を塗る。完成したのは帰りのHRが終わった直後で、まだ教室内に多くのクラスメイトが残ってた。


 だから私の作品がコンクールで入賞したと発表されたとき、教室内は一時騒然とした。私のやる気のなさを彼らはよくよくその目に捉えていたわけだからね。でも次の瞬間にはみんなうなだれるか納得するかした。私のこうした態度と結果は、特に珍しいものでもなかったの。


 おかげでクラスメイトからは異質な存在として煙たがられ、先生たちからは授業態度だけを取り沙汰されてよく叱られた。


「みんな普通に授業を受けている。提出期限だってちゃんと守ってる。どうして下間だけみんなと同じに出来ないんだ?」


 放課後の教室で、私はこの手の説教をよく受けた。先生は反省の色が見えるまで私を帰そうとはしなかった。長いときは一時間以上にも及んだ。


 でも私も常がらそうしたかった。みんなとおんなじように毎日通学し、授業を受け、先生たちの言い分をしっかり守れる子になりたかった。けれども肉体や脳の一部はそれを拒んでた。まともな社会的生活を送ろうとすればするほど、抗いようのない強迫観念が私を襲った。叫びたいのを必死に抑える。逃げ出したい体をそこに固定する。ほとばしる疼きに堪え続ける。でも水はいつかグラスから溢れ出す。私にはそれを抑える術はない。テーブルや床が水浸しになってゆくのを、悲痛の面持ちで眺めているしかなかったの。私だってそんなこと望んでない。


 中学に上がると、そんな私にも変化が起きる。突発的な奇行も徐々に鳴りを潜め、学校へもほぼ毎日通うようになった。身につけるものが私服から制服に変わったことで、私は一歩知的生命体に近づいた。


 でも、それは同時に、失うことも意味してた。「図画工作」という授業が「美術」という名前に変えられて、そこに技術的な画法が要求されるようになると、途端に私の長所は色あせてった。今までのように感覚で描くことができなくなった。その点でいうと神様は平等だ。得た物の代価は支払わなくちゃいけない。


 私はほんの少しの人間性を得たことで、返って無個性な人間に成り果てた。だから友人の獲得も相変わらず失敗に終始した。小学校時代を知るスクールメイトは私を煙たがり、新しいクラスメイトもすぐに私への興味をなくしていった。


 そんな中で出会ったのが映画と小説だ。初めて小説を読んだのは中学一年の秋だったか冬だったかで、映画の魅力を知るようになったのはそれより半年ほど後のことだった。


 一冊目の小説のことを私はよく覚えてる。母に頼まれた雑誌を買いに訪れた近所の書店に、その本は平積みされていた。店を入ってすぐのところに女流作家の作品だけを集めたコーナーが設けられ、その作品は『昨年度のなんとか賞受賞』というポップ付きで紹介されていた。装丁が真っ白ですぐに目に止まったし、短い題名にも興味がそそられた。何気なく手にとって、帰宅してからページを開いてみた。


 いくつかの短編をまとめた文庫本だった。表題作は一話目に掲載されていた。アパートの隣室に人語を話す動物が引っ越してきて、彼と主人公とのちょっと不思議な交流を描いた物語だ。


 その世界観に一気に惹き込まれていた。掲載されている作品はどれも一風変わってて面白かった。わかりやすい文章だし、表現もユニークだった。そうして私は、自分の知らない世界がこの中にあることを知った。


 それからというもの手当たりしだいに小説を読み漁った。なにしろ時間は存分にあった。みんなが友だちと会話している時間を、私は読書に割いていた。そのうちにすっかり小説の魅力に取りつかれ、元々美術部に所属していたのを、無理をいって二年生からは文芸部に転部させてもらった。


 ただ、私はミステリーや恋愛といった大衆小説をあまり好まなかった。どちらかといえば私は『人間』というものの描かれている作品が好きだった。社会との摩擦や行動心理を掘り下げたような、厚みのある作品だ。独特の感性で描かれた作品もその中に含まれる。後にそれが純文学というジャンルなんだということを知った。そしてその中でも私の選り好みは激しかった。つまらないと思う作品はすぐに捨て、面白いと感じる作品だけを集めてた。中学生のときは川端康成や太宰治をよく読んでいた。遠藤周作のエッセイ集も好きだった。


 この点で文芸部のみんなとは趣味が異なっていた。彼らの勧める作品を読んでみても、どれも砂を噛んでいるように私には感じられたし、逆の場合には彼らは露骨に嫌な顔をした。彼らは私が本を読むという行為を一種のステイタスのようにしていると考えていた。せっかく出会えた小説という世界でも、私は孤独を感じるようになっていった。


 そうして次に出会ったのが映画という世界だ。ここでも私は大衆的な映画より興行的でない作品を好んだ。この世界を掘り下げてみるきっかけになったのは『スタンド・バイ・ミー』だ。最後にstand by meが流れてくるところで思わず私は涙した。

 映画と小説、この二つは私に言葉では表し尽くせないほどの多くの物を与えてくれた。彼らの明文化された形象は私の想像力をとてもよく掻き立てた。そして一方は表面から、一方は深い闇の奥から、私という存在の形を定めてくれた。


 私は『私』がなにであるかということと『他人』がなにであるかということと『社会』がなにであるかということを、ひとえにこの二つから学んでいった。現実世界からやってくる教えは残念ながら私には何一つ響かなかった。それはあまりにも一般的すぎて、いつも私の存在の横を通過する。映画と小説だけが私の存在をしっかり捉えてた。


 もちろん全ての作品がそうだったわけじゃない。優れた作り手によって用意された優れた作品だけが、私をまともな知的生命体へと押し上げてった。


 だから敢えていうならば、私は映画や小説が好きなわけではないんだよ。優れた映画であり優れた小説が好きなんだ。そこに価値を見いだせなければ、映画であろうと小説であろうと、すぐに捨ててしまう。だからきっと創作物の形式にこだわる必要はなかったんだと思う。クラシック音楽でも、グラフィティアートでも、そこにダイヤモンドの価値が備わってさえいれば。ただ私には映画や小説という表現方法が一番わかりやすかった。それだけ。


 高校に進学してからは、以前のように突発的な発作に苦しめられることはなくなった。頻度自体も減っていったし、堪えられない疼きが起こった場合にも、後天的に獲得したものによってどうにか対処できていた。つまり優れた小説が私を救ってくれたというわけだ。こればっかりは内面に支柱を作る小説のおかげだった。


 相変わらず文芸部に所属しているけれど、何かの行事にしか顔を出さない幽霊部員だよ、と、イッタとシィちゃんには空白の十年の大部分を隠した上で、簡単にそう説明しておいた。


「多分、下の学年の子は私のことを正式な部員とは思ってないんじゃないかな。文化祭や文集編纂のときにだけ現れる助っ人要員みたいな」

「コオリらしいっちゃらしいね。根無し草」ってイッタは笑った。

「でも、リッちゃんが文芸部員なんて、意外だね」

「そうかな?」

「絶対に運動部だと思ってた」

「バスケ部あたりが妥当だろうな、って、よく二人で話し合ってたよ」

「まったく無理だね」って私は肩をすくめる。「集団競技は本当に苦手」


「何度も繰り返すようだけど、本当に昔のコオリとは全然違うんだな」

「そうだね。本と映画が私を変えた」って私は当たり障りなく言った。

「そっか、それでさっき?」ってシィちゃんは言った。

「さっき?」

「ほら、トウモロコシ畑のところで」

「ああ、冷静に考えてみると、恥ずかしいことしてたよね」って私は言った。

「ん、盗み取ろうとしてたんじゃないの?」


「あのトウモロコシ畑がね、リッちゃんの好きな小説の風景に、よく似てたんだって」

「へえ。好きな小説。タイトルは?」

「ライ麦畑でつかまえて」って私は端的に答えた。

「ライ麦畑でつかまえて」って彼はピザトーストを頬張りながら繰り返す。

「海外の小説だよね。名前は聞いたことある」

「有名な作品だからね、名前だけはみんな知ってると思う。サリンジャーの中では一番売れた小説だから。彼の書いた他の小説も読んでみたいけど、本屋さんには中々置いてないんだよ」

「じゃあ、どこなら置いてあるの?」ってイッタは皮肉っぽく言った。

「古本屋には見かけたら入るようにしてる」って私はそれを皮肉とは思わずに受け取った。イッタは肩をすくめて愛想笑いした。


「で、つまり、作品の中の真似事をして遊んでたわけだ」って彼は続けた。

「子どもたちが畑の中で鬼ごっこをしてるんだって。だったよね?」

「うん、大まかにはそんな感じ」


 シィちゃんは熱心に私の話に耳を傾けてくれていた。イッタはそれほどでもなかったけどね。でも他人が私の話を聞いてくれるのはあまり経験のないことで、それがとても嬉しかった。二人には『ライ麦畑でつかまえて』のことだけでなく、最近読んだ小説やお気に入りの小説についても話したの。『若きウェルテルの悩み』、『グレート・ギャツビー』、『老人と海』、その他諸々ね。


 お皿の上のトーストを切り分けながら、それはとても楽しいお昼になった。


「本当に文学少女なんだな」ってイッタは最後に感心したように言った。

「違うよ、好きな作品が好きなだけ」

 二人はそれを認めてくれるように微笑んだ。

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