第七節(0307)

 トウモロコシ畑は私の想像とはちょっと違ってた。つまり私の想像では、トウモロコシ畑というのは見境をなくすくらい密生しているものだったのだけど、実際のトウモロコシ畑というのは、他の野菜畑がそうであるように、きちんと畝の上に整列しているものだった。畝の左右に等間隔の道を空けて、奥の方まで見通しをよくしてる。

 私はそれを少し残念がった。というのもここに至るまで私は、このトウモロコシ畑にある具体的な印象を重ね合わせていたからだ。


 それでも私はトウモロコシ畑の中をぐっと覗き込む。茎の陰や畑の奥を狩りの目つきで凝視する。無邪気に走り回る子どもたちの姿が、その畑のどこかにないだろうか、って期待しながら。


「なにしてるの?」ってシィちゃんは不思議そうに首を傾げて言った。

「鬼ごっこかな」って私は答えた。

「鬼ごっこ?」

「かくれんぼでも、いいんだけど」

「ヒデくんから隠れるの?」ってシィちゃんは豆粒のイッタを見て言った。

「いや、そうじゃないんだよ。畑の中で遊んでる子を探してるの」

「いたの?」ってシィちゃんもトウモロコシ畑を覗き込む。「ここの畑の子どもかな」

「ああ、そうじゃないんだよ。子どもの姿が見えたわけじゃないの。ただ、そうやって遊んでる子どもたちがいないかなって思っただけ」

「トウモロコシ畑で遊ぶ子ども?」ってシィちゃんは曖昧に微笑んだ。

「そう。もしそういう子どもたちがいたら、そっと見守ってあげるんだ。間違って怪我しないように、注意深くね」


 シィちゃんは多少困ってるようだった。微笑みを崩さないまま首を傾げてみせる。でも私はしばらく気づかない。ふと何かの気配を感じてシィちゃんの方に顔を向けたとき、彼女の目元が変に強張っているのを知らされた。


「ああ、つまり、そういうシーンがあってね」って私は慌てて言った。

「そういうシーン?」

「前に読んだ本の中に」って端的に言う。「子どもたちが崖から落ちないように、主人公が監視してあげてるの」

「その場面にそっくりなんだ?」

「と思ったけど、ちょっと違ってた。雰囲気が似てたからつい連想しちゃったんだよ」

「そうなんだ」ってシィちゃんはやっと納得してくれたようだった。


 それは私の好きな小説『ライ麦畑でつかまえて』の一節だ。真冬のニューヨークに取り残された主人公のホールデンくんが、淡い夢物語を妹に向かって語るシーンがある。彼はそのときこのように語ってる。



『僕はそうやって、ライ麦畑で遊ぶ子どもたちが崖から落ちないように、彼らをずっと見張っていたいのさ。彼らは遊びに夢中で、崖の存在なんか気にも留めてない。だから誤って彼らが崖に近づいてしまったとき、そっとその子の肩に手を当てて、回れ右してやるんだよ。子どもたちは自分がいかに危険な場所へ進もうとしていたかに驚きつつも、ほっと胸をなでおろして、そうしてまた遊びの場に帰ってく。背の高いライ麦畑の奥では、姿の見えない子どもたちが延々はしゃぎあっている。僕は彼らの楽しそうな声に満足してる。つまり僕は、そんなふうにして人生を過ごしてゆきたいんだ』



 いや、これはだいぶ私の意訳なんだけど。でも彼が心から言いたかったのは、きっとこういうことだ。


 大学から追放された若きホールデンくんは、ニューヨークという都会の寒さに打ちのめされていた。洗練された大人たちの傲慢さや冷淡さ、あるいは彼自身の弱さや卑屈さに。たった数日間のあいだに彼は人生の厳しさを学んでく。そうして彼は一つの結論にたどり着く。この世の中で子どもほど純粋で無邪気なものはなく、そうして僕は、彼らを正しい方向に導いてやりたいんだ、って。彼のこの述懐は『ライ麦畑でつかまえて』の中でも最も重要な描写の一つだ。


 十七歳当時の私は、いや、たしかに、それを最も重要な部分だとは考えていなかった。当時の私はただ映像的にその部分が気に入っていただけなんだ。だから物語の最後に妹をメリーゴーラウンドに載せるとき、彼女が木馬から落ちそうなのをホールデンくんが黙って見ていたのにも、ただ矛盾しか感じていなかった。矛盾を感じながらもその光景を美しいと思っていただけなんだよね。でもそれは決して矛盾なんかじゃない。本当に危険なときにだけ手を差し伸べる。そうでない場面では子どもの自主性を重んじなきゃいけない。何年か経って読み返したとき、私はやっと彼の真意に気がついた。


 だからシィちゃんの横でホールデンくんの真似事をしてみせたのも、本当に単なる思いつきでしかなかった。私は別に、ホールデンくんの夢物語に心酔してたわけじゃない。彼の考えに心から共感するようになったのは、もっとずっと未来のことだからね。


「なんていうタイトルなの?」ってシィちゃんは、精一杯歩み寄ろうとしてそう訊いた。「ごめんね、私はあんまり本とか読まないから」


 私はすぐさま『ライ麦畑』の題名を口にした。シィちゃんが純粋な興味から訊いてくれたんだと勘違いして、はしゃいでしまったんだ。そしてその小説のあらすじを一から十までシィちゃんに聞かせてあげようとまで考えた。


 でも実際に口を開きかけたとき、シィちゃんの背後にイッタの姿が見えた。

「畑の奥なんか覗いて、なにしてんの」ってイッタは悪びれもせず笑ってみせた。「盗みたいんなら見張っててやるけど」

「そんなわけないでしょ」ってシィちゃんは大人が子どもに言い聞かせるような口ぶりで言った。「リッちゃんの好きな――」

「いや、遠巻きに見てたら、そうにしか見えないから」ってイッタはシィちゃんの言葉にかぶせて言った。でも彼は恋人の言葉を遮ろうとしたわけではなくて、思いがけず声が重なってしまっただけだった。


「ん。コオリの好物はトウモロコシなんだ?」って、だからイッタはシィちゃんの言葉を汲み取ろうとして言った。

「美味しいよね、トウモロコシ。私は縁日で売ってるしょうゆ味のやつが好き」って私は一応乗っておいた。

「俺はそのまま茹でた方が好きだけどな」って彼は挑戦的に笑って言った。「で、実際のところなんの話?」


 そのとき、近くからモーター音が鳴り出した。青と緑と土くればかりの世界には、とても不釣り合いな機械的音声だ。それが私たちのずいぶん近いところで鳴り出した。


 初め私はその音源を畑の奥からだと疑った。けど、よく耳に注意すると、例の垣根の奥から聞こえてくるらしかった。なによりイッタとシィちゃんは、初めからそっちに顔を向けていた。


 モーター音はしばらくその場に固定されていた。やがて音の強度が増すと、垣根の下から白い機体がにゅっと現れる。彼は一瞬で全身をあらわにし、モーター音に風切り音を混ぜながら、するすると空にのぼっていった。


「わ、飛行機」って私は思わず声を上げた。

 機体までの距離は驚くほど近く、横っ腹に印刷されたJから始まる登録番号らしい文字と数字の組み合わせが、そこからでもはっきり認識できた。


 コックピットには二つの影、パイロットと、その後ろにもうひとり。それだけでこの飛行機は積載量いっぱいだ。あまり大ぶりとはいえなかった。小柄な飛行機が、見る見るうちに点になってゆく。

 彼ははるか上空を目指し、今はもう豆粒ほどになっていた。私は唖然として彼を見送った。


「これって、なに?」って私はわけもわからず二人に訊いた。

「垣根の奥が滑空場になってるんだよ」ってイッタは道の先を指さしながら言った。

「滑空場?」

「飛行機を飛ばす場所。滑走路のある空間」って彼は皮肉ったらしく字義的な説明をしてみせた。そんなことを訊いたんじゃない。

 不真面目なイッタを捨てて、私は垣根の方に目をやった。


 つまりその垣根は防風林の役割をなしてたの。決して私たちの想いを夏空の花火大会に向けるためではなかったんだ。彼らは土手から吹き下ろす風に機体が揺らされないように、そこでしっかり滑空場の護衛をしてた。それが私たちの立場では壁や蓋として機能していたというわけだ。


「でも、飛行機にしては思ったより小さかったね」って私は言った。

「グライダー専用の滑空場だからね、大きなやつは飛ばないよ」ってイッタは私の興奮を興味深げに眺めて言った。「いや、たしかにどこにでもあるってものじゃないけど、この町に滑空場があること、知らなかったっけ?」

「知らないよ」って私は冷めやらぬ興奮で言下に言った。けれども急に自信をなくして、「この先にあるってことは、放流行事のときも、通ったりした?」


「ううん、放流行事のときは、そこの道を迂回して河川敷までいくんだよ」ってシィちゃんは、私たちが走り抜けてしまった、道の途中にある丁字路を指さして言った。

「といっても滑空場のすぐ奥が目的地だからね。手っ取り早いのは滑走路を突っ切っちゃうことだよ」

「ついでに見学させてもらうのもありだね」ってシィちゃんは言った。

「そうだな、ついでにな」ってイッタは携帯端末の時計を見ながら言った。


「勝手に見学しちゃっていいものなの?」

「だめなら引き返せばいいよ。怒られそうになったら、また俺がピエロになるし」

「ピエロ?」

「パントマイムで謝るピエロ」って彼はやや事務的に言う。


 滑空場は河川沿いの台地に作られた、全長三百メートルの長い滑走路と、その周囲に天然芝を植えた待機所からなっていた。


 私たちが垣根を越えたとき、芝生の待機所には数台のグライダーが停まってた。イッタが言うにはグライダーを飛ばさない日でもいつもそこに置かれてあるらしい。敷地の端っこの方に五台か六台連なって停められている。


 そのうちの一台が、いま滑走路にほど近いところまで引っ張り出されて、数人の大人たちに囲まれながら機体を整備されていた。一人乗りのコックピットには既にパイロットの姿があった。


「さっきのと形が違うね」って私は言った。

「ああ、あれは動力を持たないグライダーだよ」ってイッタは整備中の機体を指して言った。「さっきのはエンジン付きのモーターグライダー。で、こっちは便宜的にピュアグライダーって呼ばれてる」

「ふうん」って私は言った。


 整備士のなかに一人恰幅のいい中年太りの男の人がいて、彼は赤いTシャツにブルージーンズのオーバーオールという、どこかで見たような目立つ格好をしてた。私の視線が彼を動かしたのか、おじさんはふとした拍子にこちらに体を向けた。


 彼は両腕をぴんと天に突き上げて歓迎の合図に代えた。経験上、私たちのような珍客があることを彼は心得ているらしかった。お互いの声は距離によって隔てられていて、そうするとこっちのピエロも身振り手振りで何やら交渉をし始めた。


 元から相手が好意的だったおかげで交渉は簡単に終わったらしかった。「向こうのベンチ使ってくれってさ」ってイッタは滑空場の中腹あたりに設けられた木造の赤いベンチを指して言った。


 見渡す限り他に見物客はいなかった。地元の人にとっては特に珍しいものでもないのか、それとも単に関心がないのか。とにかく関係者を除いては滑空場にある人影は私たちのものだけだった。


 長いあいだ野ざらしだったからか赤ベンチの塗装は所々剥げていた。真ん中のあたりにコカ・コーラの文字が印刷されてあったけど、それもどうにか読み解けるといった具合だ。


 そのベンチに腰を下ろしたとき、グライダーは突然空に飛び立った。それはあまりに唐突で、直前まで彼は芝生の上で点検整備にかけられていた。


 てっきり滑走路まで移動してから飛ばすものと思っていた私は、「え、もう飛ぶの?」って驚きの声を上げた。グライダーはあっという間に地上を離れ、するすると高度をあげてゆく。あっと思ったときにはもう豆粒だった。機体の高度がある地点まで達すると、機体の下部に取り付けられていたロープがぷつんと切り離された。ロープは自動式のパラシュートを開いてゆらゆらと地面に戻ってく。


 ロープの行方に気を取られていると、ふと目を戻したときにはグライダーは姿をくらませていた。

「ほら、あそこ」ってシィちゃんが指さした方向は、私の見当とは全然違う場所だった。入道雲に白い機体が溶け込んでいる。


 やがて彼は綿入の奥の奥へと進路をとって、その最も奥にある山際へおもむろに近づいてった。いよいよ山とぶつかりそうになったとき、彼はぐっと高度を上げて、そして山の頂上をくるくると旋回し始めた。


「あんなところ飛んで、危ない」って言葉とは反対に愉快そうに私は言った。

「いや、あれでいいんだよ」ってイッタは得意がって言う。「こういう晴れた日には麓から頂上に吹き上げる風が発生しやすいんだ。動力を持たない機体だからさ、風の力を利用して飛ぶんだよ」

「やけに詳しいね!」

「ちょっとした興味で調べたことがある。そういう風のことを滑昇風って呼ぶらしい」

「本当は春や秋の方が条件としては適してるみたいだけどね」ってシィちゃんが補足する。


「じゃあ、川の近くでは飛ばないの?」

「いや、滑昇風を利用するのは技術がいるらしいからね。初心者は川べりの風を利用してこの近くを飛び回る。で、数分して降りてくる。つまり山と川とに挟まれてる綿入は、グライダー飛行におあつらえってわけ」

「それって、昔からあったものなの?」

「よくグライダーの飛んでる音を聞いてたじゃないか。覚えてないの?」

「全然」って私は少し考えて結論づけた。


 多分それは当たり前のようにそこにあったからなんだ。生まれた土地の常識に疑問を持つ人はそう多くない。子どもの頃なら尚更ね。そして引っ越した先でその常識が消えたことも、大した問題ではないから特に気に留めていなかった。多分。


「ねえ、じゃあ、なんでさっきのグライダーは芝生の上から飛び立ったの?」って興味に絶えずに私は言った。「せっかく滑走路があるのに」

「着陸のときに使うんだろ。ピュアグライダーは動力がないんだから、離陸のときに滑走路の上を走ったりしないよ。ロープで巻き上げるんだ」


「そういえば、パラシュートで落ちてきてた」って私は、まるで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』みたいに切り離されたロープを思い返して言った。

「ウィンチで牽引する力を揚力に変えて浮かび上がるんだ」って彼は答える。「機体が風を受けられる高さまで達したら、ワイヤーロープを切り離す」


「なるほど。で、そのウィンチっていう機械はどこにあるの?」

「ほら、あっちだよ」って彼はグライダーの停留場とは逆側の端に注意を向けた。「今のコオリ、三歳児みたいに質問攻めだ」

「だって知らないんだもん」って私が笑うと、シィちゃんもくすりと笑う。


「見えるだろ、あの大きな機械」って彼は続けた。

 滑走路の逆側には農耕機のような大きな機械が置かれてた。いみじくも農耕機のように運転席があって、ドライバーが周りのクルーに何やら指示を出している。ウィンチ側にも四人から五人ほどのクルーがいたの。


 パラシュートの開いたロープはいつかの時点で地面に着陸し、私たちが山上のグライダーを追ってるあいだにすっかり回収されたらしかった。今はクルーの一人が新しいワイヤーロープをウィンチから引っ張り出している。


 ワイヤーロープを手にしたクルーは滑走路をとぼとぼと縦断してた。そのさなかにウィンチの操縦席に載ったドライバーは無線機で点検整備側のクルーと何やら交信してた。どうもその無線交信でグライダーを飛ばすタイミングやワイヤーロープの受け渡しを図ってるらしかった。


 ピュアグライダーの離陸方法は主に二つあって、この滑空場で用いられているのは見ての通りウィンチ曳航の方だった。もう一つにモーターグライダーにピュアグライダーを牽引させて飛ばす航空機曳航という方法があるけれど、この滑空場のモーターグライダーは単独飛行にだけ使われていた。


 ウィンチから引っ張り出したワイヤーロープは、滑走路の中ほどで点検整備側のクルーに渡された。彼らは受け取ったロープを手繰り寄せると、機体下部の曳行レリーズに取り付けて、その部分を入念にチェックした。


 いざウィンチが作動すると、グライダーはゼロ地点から浮上を開始する。引力を揚力にかえるため、グライダーの頭は離陸前から常に空に向いている。そうして強力な牽引によって機体の高度をぐんぐん上げてゆく。


 車輪が滑走路の摩擦を受けることは一度もなかった。それは着陸のときにだけ使われるもので、離陸の際には単なるお飾りか機体のバランサー代わりにしかなってない。車輪が地面をこするよりも前に機体は大地を離れてる。


 そうしてワイヤーロープに引っ張られたグライダーは、ある高度にまで達すると、途端に重力を失ったようなふわっとした挙動に変わる。機首がまたほんの少し上に傾いて、その時点で彼は羽に風を受けて鳥のようになる。それから曳航レリーズに取りつけられたワイヤーロープが地面に放たれると、彼は完全に独立した一匹の自由な鳥だった。親鳥の元から巣立つ立派な成鳥だ。


 この日綿入の滑空場では全部で五機のグライダーが離陸した。初めに飛んだモーターグライダーを除けば、ほかはすべてピュアグライダーだった。地面に落ちたワイヤーロープはそのたびウィンチまで回収される。


 四機目のグライダーが点検整備を受けているとき、垣根の向こうで見送ったモーターグライダーが地上に降りてきた。私たちはそのとき初めて滑走路が使われている姿を目に留めた。着陸はよどみなく行われ、彼は自力でグライダーの停留場まで戻っていった。


「次のやつが飛んだら、俺たちも行こうか」ってイッタはさりげない調子で言った。

 グライダー一機に費やす点検整備の時間は、おおよそ十分から十五分くらいだった。それだけの長い時間の割に、離陸の瞬間はあっという間なんだ。だから私たちは点検整備の終わりをじっと注意深く見つめてた。ちょっと目を離した隙にグライダーは空高く消えてしまう。


 曳航レリーズにロープが取り付けられる。機体の向きが調整される。クルーの一人がパイロットに何やら話しかけている。コックピットが閉じられる。無線機が交信を開始する。ウィンチがけたたましくエンジンを吹き上げる。静かに空気を切り裂いて、グライダーは空の引力に吸い込まれてく。


 彼は他のピュアグライダーと違って、川の上を悠々と飛び回ってた。イッタの言葉を信じるならば、彼はまだ風の力を知らない小鳥らしい。天敵を欺くように、白い機体は時おり入道雲の一部に溶け込んだ。再び青空に現れたとき、彼の翼は凛々しくぴんと伸ばされていた。容赦のない日差しの中で、彼のいる空はとても心地よさそうだった。


 それから十分ほど経って彼は地上に降りてきた。停留場側のクルーが彼を手厚く迎え入れる。結局私たちはその一部始終を見届けてしまってた。思わず口からため息が漏れる。


「改めて見てみると、そう悪くもないね。まともに見学したのなんて小学生

 以来だけど」ってイッタは批評家気取りに言った。「コオリはどう、堪能した?」

「うん。見入っちゃった」って私は素直に言った。

「私も」ってシィちゃんが言う。「ちゃんと見学したのは初めて」


 イッタは口元の片側だけを大きく上げて笑ってみせた。彼はなにかに満足したときに、そういう笑い方をする癖がある。

「じゃ、ぼちぼち行くとしようか」って彼は腰を上げながら言った。


「滑走路突っ切っちゃって大丈夫?」って私は言った。

「まさか。迂回して行くよ」


 ベンチを離れてからも、私は地上に舞い戻ったグライダーへちらちらと目をやっていた。その目にグライダーは徐々に遠ざかってく。河川敷へは滑走路を迂回するにしても停留場の方まで戻るのが最短だったけど、それはなんとなく気が引けて、私たちはウィンチの置かれている方に進路を取ったんだ。ウィンチ側のクルーと目が合ったときも簡単な会釈だけで済ませてしまった。

 彼らとの世間話に興じるには私たちはあまりに若すぎたし、適切な話題も思いつけなかった。何よりその光景はとてもいびつで不釣り合いに思われたんだ。


 滑空場の奥は背の高い茂みに覆われていた。入口側の垣根と違って河川敷側にあるのは自生の雑草らしかったけど、いずれにしてもこの滑空場は、両側の植物によって無風状態を保存しているようだった。


 茂みの先はちょっとした崖になっていて、腰丈くらいの段差を降りると、そこはもう砂利の地面が広がる河川敷だった。茂み一つで急に景色が変わるんだ。


 私はちょっとした興奮から二人より先に崖を飛び降りた。思っていたよりも高さがあって、硬い砂利の地面の衝撃が膝にまで伝わった。

 振り返ると、シィちゃんはイッタの手を掴みながら恐る恐る崖のふちまで足を運んでた。


「ハンドバッグ、持っててやるよ」ってイッタはそんな恋人を気遣って言った。

 でもシィちゃんは「ありがとね」って、言葉だけで済ませてそのまま飛び降りた。


 着地の瞬間、彼女は体勢を崩してよろめいた。悪いことに小石に足を滑らせたみたいで、シィちゃんはそのまま膝から崩れそうになる。とっさに手を伸ばし、体を支えてあげた。彼女はあっと驚いて私の顔を見た。


「びっくりした」ってシィちゃんははしゃいだ様子で言った。それから恥ずかしそうに、うっすらと頬を染めて微笑んだ。

 その笑顔になぜか私までどぎまぎしてしまう。


 そんなシィちゃんに、崖下に降りてきたイッタも「大丈夫か?」って声をかけていた。


「地面が不安定だったみたい。小石を踏んじゃった」ってシィちゃんは言った。

「そっか」って、だけどイッタの返事はどこか平坦だった。ただ義務として訊いただけという感じで、そして本当に興味がなかったように、もうそのことには一切触れないで川べりの浅瀬に向かっていった。


「イッタ?」って私は呆然としながら彼の背中に呼びかけた。

 でも届かなかったのか、彼は動きを止めずに水べりまで行った。


「大丈夫だよリッちゃん」ってシィちゃんが言う。

「え、でも」

 シィちゃんは何も言わずに私の腕を取った。


 どうしてイッタは突然冷淡になったのか。ううん、これは彼なりの気遣いだったんだ。ちょうどこのときのシィちゃんの失敗はイッタの助けを断った上で起こったものだから、もしもイッタが必要以上に心配してしまうと、彼女を余計に居心地悪くさせてしまう。バツの悪さを相手に感じさせないように、あえてイッタはそっけない態度を演じてみせたんだよ。


 イッタはよくこういう遠回しな機転の利かせ方をする。その場の衝動にあんまり流されないし、私たちよりいくらか先を見て動いてる。もちろん完全にというわけではないけれど。でも間違いなくこのときの態度はそれだった。そうでもなければイッタのことだ、皮肉の一つくらい飛ばすはず。


 だけどこのとき最も肝心なのはシィちゃんの態度の方だった。呆然としてた私と違って、シィちゃんはイッタの回りくどい配慮を充分に理解しているようだった。一歩間違えば無関心とも捉えられかねないイッタの言動は、そうやってお互いの信頼のもとに、適切な形で相手に届けられていた。


 そのことに理解した瞬間、私はもう一度呆然とした。

 私たちが浅瀬に着くまでのあいだ、イッタは小石が浮かぶあたりに首を伸ばして、川面の様子を観察してた。背後に近づく足音を察すると、彼はおもむろに顔を上げ、妙な笑顔をこっちに差し向けた。


「いたよ、いた。コオリ、ほら、早く来いよ」って彼はわざとらしい身振りで私たちを呼び寄せた。


「いたって、なにが?」

「ほら、ここにサケがいる」

「サケ?」

「稚魚が群れで泳いでる」


 私とシィちゃんは思わず顔を見合わせ、そして思わず吹き出した。私たちはお互いの目元や口元に浮かんだかすかなニュアンスから、イッタの三文芝居に付き合ってやる気があるのを読み取った。


「変だな、私にはなんにも見えないけれど」って私は浅瀬を覗き込みながら言った。「イッタにだけ見えてるの?」

「さっきまでここにいたんだけどね」って彼は乾いた満足を口元に湛えながら言った。「コオリの姿を見たら驚いて逃げたんだ」


「それは残念」って私は言った。「ねえ、シィちゃんには見えてた?」

「そうだね。ヒデくんの想像の中になら」って彼女は言った。

「つれないね」ってイッタは肩をすくめた。でも口元の笑みは崩されていなかった。「いずれにしろ、この辺りが放流行事の場所だよ。ちょうど最後の年に、ここから稚魚を還した」

「五年生のときに?」って私は言った。「よくわかったね」

「周りの景色でな」って彼は言う。


 そこからは対岸に続くローゼ橋や自然林の密生する半島なんかが見えた。河川敷はチリの国土みたいに長細く続いてて、左右の距離の違いからも厳密な場所を定められるらしかった。


「私たちが稚魚を還したのはどの辺り?」って私は、そこにしっかり私を含めるようにして言った。


「多分、向こうの方だよ」ってシィちゃんが左を指して言う。グライダーの滑空場を基準にしていうと、停留場の芝生よりもっと奥の方。

「行ってみようか」ってイッタは私の背中を押した。「どうせ帰り道は向こうの方なんだし」


 砂利を踏みしだく心地いい音が、足元にこだまする。私たちの重みに圧迫された小石たちが、お互いの体をぶつけ合い、もしくは下の柔らかな地面にめり込んで、くぐもった音を鳴らしてる。


「ヒデくんはここにもよく来るんだよね?」ってシィちゃんはそのとき、そう切り出した。


「俺? なんで?」

「ほら、今でもユウくんたちと遊んだりするんでしょ?」ってシィちゃんは言う。それは見かけにはなんの変哲もない会話のように思われた。

「最近はそれほどでもないよ。月に一回くらいは会ってるけど」ってイッタは答える。

「前はもっと頻繁に遊んでた」

「そりゃ中学のときはね。嫌でも毎日顔を突き合わせるんだから」

「ヒデくんだけ別の高校になっちゃったからね」って彼女は残念そうに言う。

「あいつらがどうかした?」ってイッタは首をかしげながら言った。シィちゃんの追求になにか腑に落ちないものを感じたらしい。


 だけどそれは私もおんなじだ。どうしてイッタの友だちの話をここまで引っ張るんだろうって、そう不思議に感じてた。


「みんなと魚釣りして遊ぶって、前に聞いたから」ってシィちゃんは続ける。そのとき私は、彼女の語調に何かしらの焦りが混じっているのに気がついた。注意しなければわからないくらい、小さな焦り。


「うん。それで?」ってイッタは興味深く訊く。

「だから、ほら、ここが魚釣りの穴場だって、教えてくれたでしょ?」

「いや、穴場になってるのは、あっちの突き出たところだよ」ってイッタは例の密林の半島を指して言った。「ちょうど入り江みたいになってるから、迷い込んだ魚がよく釣れるんだ。前に言わなかったっけ?」

「この辺りも穴場だって教えてくれた」

「そんなことはないと思うけど」ってイッタは即座に否定した。「俺の持ってる竿じゃ本格的な川釣りは無理だからね」

「でも」ってシィちゃんは言った。既に彼女は動揺を隠そうともしていなかった。


 イッタは返事に困ったらしく、きょとんとした顔で肩をすくめた。でも私にはわかった。この場になってようやく、彼女の焦りの原因が、私にあるんだと気がついた。


 実際のところ彼女は釣りの話がしたいわけではなかった。どんな種類の話題であれ、イッタの同意が得られればそれで良かったの。特に私の知らない、二人だけが保有する種類の話題なら。


 それってつまり私への牽制だ。シィちゃんはイッタとだけ共有できる話題をちらつかせることで、暗に恋人としての地位を示したかったんだ。私とイッタが歯に衣着せぬ掛け合いをすることが、彼女の不安を募らせていたみたい。もちろん、だからシィちゃんに悪意なんてないんだよ。シィちゃんは最初に彼女自身が言ったとおり、監視役として今日という一日に参加したわけではなかったんだから。それでも急に沸き起こる感情っていうのは誰にも止められない。特に私とイッタの場合、シィちゃんが望んでも得られない、幼馴染みという関係で結ばれていたわけだからね。男女の幼馴染み。それってわかりやすい恋愛のテーマだもん。


「それにしても、釣りなんてするんだね」って私は、なるべくシィちゃんを刺激しないように、当たり障りなく会話に参加した。静観した方がいいとも考えたけど、なんとなく居心地が悪かった。


「たまにね。誘われたときにしかやらないけど」ってイッタは一人なにも気付かず言った。

「そうなんだ。竿は自前なの?」って私は仕方なく話に乗っかる。

「そう。別に俺の趣味ってわけでもないのに、わざわざ買った。友だちが使わなくなったやつをくれるとも言ったんだけどね」

「付き合いでやるだけなら、貰っておけばよかったのに」

「まさか貰い物を塗りつぶすわけにもいかないだろ」って彼は言った。

「ああ、例の白黒?」って、私も思わず言ってしまった。言った後にまずいことが起きたと気がついた。


「そうそう、真っ黒に仕上げたよ。ほら、昨日聞かせた本棚の塗装とおんなじ要領で。テグスが白いから、それでバランスが取れてるってわけ」

「釣り竿なんて見当たらなかったけど」って私はなるべくシィちゃんを見ないようにして言った。

「普段はクローゼットにしまってあるからね」

「ヒデくん、部屋に案内してくれたんだ?」って、だけどシィちゃんは私に向かって言った。

「ああ、うん、昨日ね」って私は恐る恐る答える。彼女の表情はちょっと読み取れなかった。

「変な趣味で驚かなかった?」

「確かに変わってる」


「いいんだよ、個人的な趣味なんだから。それに誰でも彼でも部屋に通すわけじゃない。ちゃんと人は選んでる」ってイッタは言った。

 ああ、紹介が遅れたね、彼はちょっと頭が悪いんだ。空き巣が空き巣に入られるというやつで、自分が策略を巡らすようには相手も策略を巡らしているとは、考えもしないんだ。普段はそれが憎めないやつって印象に変わるんだけれど、この瞬間には本当にまずかった。


 会話はそれ以上続かなかった。気まずさと沈黙が訪れる。私とシィちゃんの困惑した表情に、イッタもいよいよ何かしらを感じたらしかった。踏みしだく砂利の音だけが足元にこだまする。川のせせらぎ、吹き抜ける風、橋を行き交う車のタイヤ音、それらは遠い世界のことだ。


 この状況を打開できるのは、間違いなく私だけだった。それでシィちゃんの不安を解こうと彼女に顔を向けたけど、シィちゃんの方では視線を合わせようとはしてくれなかった。一瞬目が合ったときも、怯えたように顔を伏せられた。


 シィちゃんの中に後悔が浮かんでることも、その仕草でわかった。でも解決の糸口がみつからない。残念ながら私はとても不器用だ。イッタやシィちゃんのように、遠回しに何かを始めるってことができない。かといって端的に表現するのにも勇気が要った。


 しばらく悩んだ末に、私は「あのね」って出るに任せて勝負することにした。

 だけどいざ何か言葉を発しかけたとき、私は一瞬でもイッタに異性を感じていたことを思い出してしまった。十年ぶりの昨日の奇跡、そしてヤシパンでの別れ際、遠ざかってゆく彼の姿に物語的な情景を描いていたことを。


 私ってやつは本当に、実に不器用な人間なんだ。昨日の心模様を思い出してしまったら(そして実のところ今日もシィちゃんの存在を聞かされるまで抱いていたことだけど)、もう両手を広げて無実を主張することができなくなってしまってた。もちろん河川敷をゆく今となってはイッタに恋愛感情なんて抱いてない。まだ出会ってどれだけ経ったとも知れないけれど、彼の横に相応しいのはシィちゃんだと、芯からそう感じてた。二人の間には決して他人が介入できないくらいの信頼が築かれている。それでも過去のやましさが私の口を塞いでしまう。


「やっぱりなんでもない」って私は首を振りかけた。その言葉が喉元にまで出かかっていた。


 ちょうどそのとき、私たちの背後から、この日最後のグライダーが空に飛び立った。それは茂みのすぐ向こう、わずか目と鼻の先に起こったことだった。


 グライダーは今日どの位置から見たものよりも遥かに大きかった。機体についた切り傷や小さな汚れも、ここからならはっきり見える。白い機体は思っていたより白くはなく、うっすらと灰色のフィルターが塗布されている。


 ウィンチのエンジン音が遠くから轟いて、グライダーの羽翼が空を切る。何に変えてもこの瞬間にだけ集中する、真剣な眼差しのパイロット。ぐっと機首が傾いて、グライダーのお腹が見える。曳航レリーズに繋留されたワイヤーロープがいま限界まで張り詰められて、ぎんぎんと鋼を鳴動させながら、ウィンチの駆動力をあますことなくグライダーに伝えてる。見えない坂を滑り落ちるように、機体がなめらかに舞い上がってく。やがて真っ青な空の点になる。


 耳の奥で風切りの残響が鳴り止まない。あのグライダーはもう空を舞っている。

 ふわっと草いきれの香りが漂った。なんとなく心が軽くなる。

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