第六節(0306)

 プールからにわかに大きな歓声が湧いて、私たちの視線がそっちに向いた。歓声はすぐに静まったけど、潮時を失っていた私たちには、その一瞬が会話の切り上げにちょうどよく作用した。


 私たちは無言でビオトープの中庭を眺めた。太陽の輝きとセミの声音が、どちらもじりじりと真夏の疼痛を私たちに与えてる。ベランダの日陰はとても陰鬱だ。もしかすると二人が放流行事の顛末を聞かせてくれた背景には、これらのもたらす効果があったのかもしれない。


 しばらくするとイッタは静かにつぶやいた。「俺たちのしたことなんて、ちっぽけなことだったんだな」


「放流行事のこと?」って私は訊いた。

「俺たちが直接手をくださなくても、物事はこの中庭みたいに変わっちまう」

「わからないよ。これだって学級会の決定があったかもしれない」

「たしかに。そうは考えてみなかったな」ってイッタは微かに笑った。

「でも、きっと大人たちが勝手に決めたことだと私は思う」ってシィちゃんは言った。「体育館だって、たぶん」

「まあ、妥当な線だね」

 イッタは柄になく落ち込んでいるようだった。得意の皮肉もこのときは鳴りを潜めてた。辺りはしんと静まり返ってる。ただセミの声があるばかり。


「ヒデくんらしくないね」ってシィちゃんは言った。

「たまには俺だってね」って彼はうなだれるように言った。でも、そんな自分を鼓舞するようにイッタは腰を上げた。


 お尻の汚れを払いながら彼は言う。「じゃあ、俺らしくいこうか。せっかくのこんな日に、しみったれたままでもいられないし」

「具体的に、どういくの?」って私は微かに笑いながら言った。

 彼は東校舎の先を指さした。渡り廊下の奥の、プールのある方向。


「向こうから出ていこう。校内探索はもう終わりだよ」

「出ていくって。見つかっちゃうよ」

「だろうね。じゃなかったら度胸試しにならない」

「度胸試し」ってシィちゃんは笑った。

「それがイッタらしいことなんだ?」って私もくすりと笑う。

「俺らしいかはともかく、気晴らしにはなるんじゃない?」

「ねえ、でも、それはいいけどさ、その後はどうするの?」

「次はどこに行く?」ってシィちゃんも横から加わった。

「そうだな」ってイッタは少し考える素振りをした。「じゃあ、次は河川敷。ちょうど放流行事の話題も上がったことだし。当時と同じ道順をたどっていけば、雰囲気も出るでしょ」


 シィちゃんは曖昧にうなずき、おもむろに腰を上げた。それと同時に携帯端末を取り出して、液晶画面に表示される時間をちらりと確認してた。

「お昼はどうしようか?」

「いま何時?」

「これ」ってシィちゃんは携帯端末をイッタの顔元に寄せる。


 二人はそのまま小声で話し込んでいた。いや、内緒話という感じではなく、単に私の耳元に届かない声量で。私はまだ掃き出し窓の段差に腰をおろしてた。


「それだったらいいね」ってシィちゃんはイッタから離れるのと同時に言った。

「でも、ちょっと遅くなると思うよ」

 イッタの言葉に釣られて携帯端末を開く。十一時をいくらか過ぎていた。

「日曜日だし、時間ずらした方が空いてると思う」

「だな。俺も食ったばっかりだし」って彼は同意する。「なあ、コオリ、昼飯遅くなっても大丈夫?」

「問題ないよ」って私は端的に返事した。


 シィちゃんは私に微笑みかけて右手を差し出した。その手はとても繊細で、ところどころ骨張った固さもあった。私が左手を差し出すと、彼女は指に指を絡ませて、ぐっと私の体を引き起こす。力強いのに優しい感触だった。


 中庭のビオトープに別れを告げて、渡り廊下を飛び越える。そこは東校舎の裏側に位置してて、まっすぐ突き抜ければ裏口から敷地の外に出ることができたんだ。もしくは東校舎づたいに正面に出れば、そこが正門だった。けれどもその前に、私たちは自ら課した試練をくぐり抜けることになる。


 渡り廊下を越えるとプールは目と鼻の先にあった。私の記憶となんの変化もない屋外プールだ。巨大な消しゴムのような塊がそこにどすんと置かれてる。ちょうど休憩の時間にぶつかってしまったようで、塊からは多くの児童が出てきたり、もしくは新たに塊へ向かう児童たちの姿が、その近くに散らばっていた。


「タイミング悪かったね」って私は小声で言った。

「声がやんだ時点で気付くべきだった」

「どうする?」ってシィちゃんは言う。


 でももう乗りかかった船だった。いずれにしても私たちには引き返すという選択肢はなかったの。踵を返せばそこにはビオトープと体育館が待っている。また元の木阿弥だ。度胸試しっていう言葉のとおり、この道をゆくしかない。


 子どもたちは何事かという様子で私たちに視線をくれていた。でも多くの子どもたちは一瞥しただけで、あとは見て見ぬ振りをする。幼いながらに防衛本能が備わっているらしかった。たまに「こんにちは」って挨拶してくる子もいた。その場合私たちも律儀に倣う。


 そうやってプールの前を行き過ぎようとしたときに、出入り口の段差にいた男の子と目があった。彼ははじめそこに群がる靴から自分の一足を探し出そうと視線を地面に落としていたけれど、ふと何かの異変に気がついたように、おもむろに顔を上げたんだ。


 彼はきょとんとした様子で私たちの方を見た。私たちも思わずその場に立ち止まる。そして五秒くらいその子の目を見つめてた。


 彼は出し抜けに後ろへ振り返る。そして「先生」って手を振った。

 すぐに監視当番の教員がやってきた。白いTシャツに紺の短パンという、わかりやすい監視員の格好をした女の人だ。首元にはホイッスルまでぶら下がってた。彼女は男の子の背中を押して無理やり家路に就かせると、彼に代わってじっと私たちを見下ろした。腰に当てた両手が歓迎のサインでないことは、誰の目にも明らかだった。


 見たところ四十前後の女性教諭らしい。肌は日に焼けて、隠しきれないしわが頬に浮かんでる。彼女はそのしわを一層深く彫り刻み、声は一言も発さないまま、私たちをその場に押し留めた。不思議そうな顔をした何人もの子どもたちが、彼女の横を通り抜けてゆく。


 そのとき私は、思わず吹き出しそうになっていた。子どもたちは状況を理解してないし、女性教諭は不満を露わにしてる。そして私たちはまばたきすら許されないほどその場に固定されている。その光景はちょっと愉快だったんだ。


 もちろん一方で緊張もしていたよ。だけどそういう緊張のさなかに、私はよく笑い出しそうになってしまうんだ。緊張の糸が張り詰めるほど、そこに面白さを感じてしまう。あまり行儀の良い性質ではないけどね。


 私たちは長いこと見つめ合っていた。一分かもしれないし三十秒かもしれない。彼女はそのあいだ微動だにしなかった。だけどとうとう私たちの方に行動が無いことを悟ると、彼女は深く息を吐き、それから段差を一つ降りかけようとした。


 イッタはとっさに一歩前に出た。そして大げさに両手を合わせてみせた。おかげで女性教諭はその場に留まり、イッタはその間に身振り手振りで私たちがすぐに立ち去ることを告げた。女性教諭はため息をつきながら渋々うなずいた。とうとう言葉を介さずに事態が納まってしまった。


 再び始まっていた子どもたちの喧騒の中、私たちは女性教諭の指図に従って、プール横の裏口から敷地の外に出た。それでも振り返ると彼女はまだ警戒の眼差しをこっちに向けていた。軽い会釈をして垣根の死角に飛び込むと、ようやくそこで一息つけたというわけだ。


「ごめん、私が立ち止まったから」って私は言った。事実、段差の男の子と最初に目があったのは私だった。

「リッちゃんのせいじゃないよ」ってシィちゃんは言った。「元々はヒデくんが言い出したことなんだから」

「まさか教師を呼ぶとはね」

 でも二人ともなぜか愉快そうだった。


 脇の道には児童の姿もなかった。彼らは正門の方からだけやってくるらしい。

「でも、もう私たちの場所じゃないんだね」って改まった様子でシィちゃんは言った。


「あの先生は?」

「見たことなかったな。多分、俺たちの卒業後に赴任してきたんだよ。顔なじみの先生なら大目に見てもらえたんだろうけど」

「小学校の先生って入れ替わり早いもんね」

「シズカの言う通り、もう俺たちの場所じゃないらしい。箱がおんなじなだけで」

「中身はそっくり入れ替わってる」って私は言った。

「俺たちもここにいたはずなんだけどね」って彼は同じ内容のことを強調するように言った。


 そうやって、時とともに立ち入り禁止区域が増えてゆく。私たちの思い出は至るところにキープアウトのテープを張られてく。一つ一つ丁寧に。成長するっていうのは、きっとそういうことなんだ。


 そして、そうでなくても時間というものは、いくつもの変化を私たちに与えにかかる。駅前の有り様、体育館、中庭。それからもう一つ、女性教諭に追い出せれてやってきた、この場所にも変化があった。


 それは小学校の隣に隘路を挟んで建つ小さな文具店だった。気のいいおじいさんが一人で切り盛りしてた個人経営の文具店。


 広い三和土に陳列棚を並べた、立て付けの悪いお店だった。店主のおじいさんは、引き戸が開く音を聞きつけて奥の居間から現れる。そして框に腰かけて私たちの商品選びの時間を待っている。レジスターは框の横のラックに置かれてた。かびと埃の混じった落ち着きのある匂いが漂っていて、私はいつまでもこの場にいたいと感じてた。それはたったの一度きりの出来事だったけど、機会があれば何度も利用したいと思うような、穏やかな空間だった。


 だけど「いつかまたここに来たい」と思いながら、ついに用事が見つからないまま私はこの町を出ていった。そしてとうとうその願いは叶えられないの。私たちがそのお店を行き過ぎようとしたとき、店の奥にはただモルタルの床が広がっているだけだった。陳列棚もラックの上のレジスターも、消えている。


 ガラス戸越しに見えるその光景に、私の足はつと止められた。お店はちょうど十字路の角にあって、イッタとシィちゃんは道を渡る必要のために、私の変化からは気がそれていた。彼らが私の様子に気付いたのは車道を半ばまで進んでからた。


「リッちゃん?」って彼女はその場に立ち止まり振り向いた。

「ああ、なんでもない」って私は言った。


 でも彼らが妙な違和感を覚えるのに、その僅かな遅れは充分すぎる効果を発してた。すぐにシィちゃんは、それがなんのためであるかに気付いたらしかった。

 私が駆け寄ると、彼女は言った。「そういえば、そこの文具屋さんも店じまいしちゃったね」

「昔一度だけ利用したことがあったんだ」って私は言った。「優しいおじいさんがいて、印象的だったの」

「私も一緒だよ」ってシィちゃんはその場に留まりながら話を続けた。「大通りの方まで行けば品揃えのいい文具店もあったんだけど、私はいつもこのお店を使ってた。リッちゃんとおんなじ理由」


 シィちゃんは言葉にこそ出さなかったけど、明らかに私を気遣っていた。声の柔らかさや所作で私にもそれが伝わってくる。


「大丈夫だよ、ただちょっと驚いただけだから」って私は言った。

「そう?」って彼女は微笑んだ。それから彼女はかつての文具店に目をやった。「何年か前に、もう歳だからってお店を畳んじゃったんだ。それに、お孫さんが結婚して家も手狭になってきたみたい。近々建て替えるんだって」

「やけに詳しいな」って横で見ていたイッタが笑う。

「うちのおじいちゃんがね」って彼女は言った。


 アスファルトの向こうに車が見えて、私たちは残りの距離をいちどきに渡った。振り返ってみると、不思議と文具店はずっと遠くに見える。私たちはいよいよ放流行事の回想に飛び込んだ。


 けれどもね、その文具店の結末は、この今日という晴れやかな一日に決定的なまでに不吉な予感を植え付けたんだ。駅前からの一連の変化が、ぬめった液体のようにすっきりとしない感覚をへばりつかせてた。翻ってみれば、それはこの帰郷旅行の原因からしてそうだったんだけど。


 十年のあいだに私の故郷は変化した。それは決して大きな変化とはいえなかったけど、微弱な電流みたいに細かく肌を震わせた。この先でも何度かそういう変化を目の当たりにすることになる。いってみればそれがこの帰郷旅行の一つの根幹だった。私はそういう変化を見せつけられるために、この地に戻されたんだ。


 ――サケの放流場所になっていた河川敷と出発地点である小学校とは、直線距離でざっと2キロくらい離れてた。でも実際の道のりは児童の安全を考慮して迂回路をとっていたから、それより少し時間がかかる。入り組んだ住宅街の中をくねくねと歩いてく。私はその道をいくらか覚えてた。


 狭い道に入ってすぐ、景色の大きく開ける空間がある。住宅街と住宅街のあいだに、ぽっかりと田園風景が広がっている。その場所にはコンクリート製の大きな調整池もあった。ちょうどバスケットコートほどの大きさで、深さは3mくらいあった。周りはフェンスで覆われている。なんとなくスラム街の溜まり場を彷彿させる。


 その先の十字路では電柱とカーブミラーを従えた道祖神が佇んでいる。これは水戸黄門みたいなやつだった。近くにある消火栓がお銀さん。何かのイメージに結びつくと、私はそういうことをよく覚えてる。


 道の途中に出来ていた土の轍も、田舎にはよくあるものだった。仕事帰りの農耕機が田んぼの泥で作る軌跡だ。キャタピラの接地面に従って波の形を作ってる。朝方に作られたそれがこの時間にもなると、日光に当てられて乾いた砂岩のように固く変質してる。蹴ってみると砂岩はぼろぼろと崩れ落ちるんだ。面白くって、路端の小石にも同じことをした。


「俺たち高校生なんだけどね」ってイッタは呆れるように言った。

「たぶん、当時も私はこういう暇つぶしをしてたと思うんだ」

「してただろうね」ってイッタは請け合った。「それで俺は、いつコオリが叱られるかって不安そうに眺めてた」

「二人とも仲が良かったからね」ってシィちゃんが言う。

 小石はやがて側溝の穴にぽちゃんと落ちた。


 でも、その先にも微弱な電流が流れてた。肌を震わせる微弱な電流。

 十字路からしばらく行ったところに、土くれの空き地が待ち構えてる。宅地開発の最中に弥生時代の土器が発見されて、一時期綿入の住民を賑わせた場所だった。その後研究調査のため、一時的に役所と大学が共同でこの土地を確保したのだけど、私たちは近隣住民の協力という名目でその中に立ち入らせてもらったことがある。初めに役所の人から簡単なレクチャーを受けて、一年生全員で空き地の地面を掘り返したの。地面は私たちが掘り返す前から穴ぼこだらけで、まるで大きなもぐらたたき会場のようだった。クラスメイトのうち何人かは、実際にその会場で土器のかけらを掘り当てていた。


「あれは事前にかけらを埋めておいたんだよ。目を輝かせた子どもを手ぶらで帰すわけにはいかないからね」、いつかイッタは当時を振り返ってこう推理した。


 ところで今そのもぐらたたき会場はすっかり見違えて、かつての穴ぼこだらけの空き地は真っ平らに均されていた。立入禁止のために張られていたテープは縁石ほどの高さしかないコンクリートの囲いに代えられている。敷地の適当なところに『売地』の看板も立てかけられていた。


 元々宅地開発のために掘削された場所だから、用が済めば元の計画に戻るのは当然だった。でもすっかり見違えたのはその空き地のことだけではなかったの。空き地の周りには古い民家が並んでた。民家の奥は広大なリンゴ畑にもなっていた。宅地開発の空き地は、まるでゆっくり広がる菌糸のように、長い年月をかけて周辺の環境を同じように変えていた。


 いくつものコンクリートの仕切りと、いくつもの『売地』の看板。道に面した古民家は取り払われ、奥のリンゴ畑も大部分が切り開かれていた。分譲地のあいだには黒く濡れそぼった真新しい舗装路が敷設されてある。彼らは毛細血管のように細かく枝分かれしながら、終わるともしれない先まで伸びている。


 分譲地のいくつかには既に近代様式の家が竣成されていた。赤や青や緑や、カラフルな屋根の家々だ。計算された角度にこそ美があるとでもいうように、ほとんどの壁は直角に設計されている。


 それは安い路線価を売りにして郊外の土地に新しい風を呼び込む、都市計画の一つだった。無人家屋や休耕地を横づたいに買い取って、一つのコミューンとして再生させる。地上げ屋はそれで儲かるし、自治体としても高齢化対策には必要な取り組みだった。


「人を呼び込もうとして、張り切ってんだよ、いま」ってイッタはどこか言い訳っぽく言った。

「そういえば、駅前も分譲地になってたね」

「色んな所でそうなってるよ。ここもゆくゆくは今より拡張するらしい」

「綿入に限ったことではないけどね」ってシィちゃんは言った。

「田舎じゃ人口確保が難しいからな。うちじゃ『綿入ニュータウン・十年計画』なんて大々的に銘打ってやってるよ」ってイッタは自嘲気味にそう言った。


 高齢化問題はこの時期から社会的な懸念となってたの。脅威的な数値ではないにせよ、綿入にもその兆候が見え始めてたんだ。でも山と川とに挟まれた発展性に乏しい扇状地では、その兆候自体が既に問題だった。放っておけば蓋然的にやってくる事態に、綿入の自治体は先手を打とうとしてたってわけ。


「反対意見もなかったわけじゃないけど、結局は推進派が押し切ったんだ」

「どこまで広げる予定なんだろう」って私は言った。

「線路沿いに広げられるだけ広げるんだってさ。向こうの通りまで」

「線路沿いに」


 私は道の奥にあった踏切に目を向けた。この分譲地は駅のちょうど裏手あたりに位置してて、踏切を越えて左に進路をとれば、すぐに綿入駅に着く。要するに私たちは駅を起点にぐるっと一周してきたわけだ。ということは、その計画によれば新興住宅地は幼稚園の方までその手を伸ばすつもりらしい。


「畑の所有者とはもう話し合いがついてるみたい」ってシィちゃんは言った。


 そして実際にここはそうなった。今から十年後、綿入ニュータウンは彼らが想像した通りの姿になるの。古い民家はまるごと取り潰されて、広大なリンゴ畑は全ての木々を伐採される。代わりに近代様式の家々が建ち並び、そのあいだを真っ黒な舗装路がアメーバ状に広がってゆく。おかげでこの町は限界集落の仲間入りを回避した。


 当然私はその変貌を上手に飲み下せていない。駅の裏手に広がるリンゴ畑は私にとって、ある意味で綿入のシンボルといってもよかった。幼稚園の園庭から私はそれをよく眺めてた。夏には緑豊かな葉っぱが生い茂り、冬には白い傘が被される。春になると葉っぱの合間に花が咲き散らばった。田畑は人工物であると主張する人もいるけれど、私にしてみたらそれは立派な自然の摂理だった。人工物というのはその後に建てられる直角の家々だ。


「でもきっと」って私はつぶやく。

 これから綿入に生まれてくる子どもたちは、直角の家々こそを原風景として受け入れてゆく。ちょうど私が母の手に引かれて移り住んだ町の風景を、まっさらな気持ちで受け入れたのとおんなじように。そしてそれは、私が思い描く綿入の原風景に対してもおんなじだ。私が生まれるよりずっと前には、この土地には、アスファルトの舗装路もなかったし、電線だって張り巡らされていなかった。田畑の周りにぽつぽつと木造の家が並ぶ姿をこそ原風景と感じるお年寄りだって、この綿入にはいるだろう。環境はそこに住む人たちの利便性に応じて適宜変えられ続けてる。それなら直角の家々だって本来あるべき姿だし、だとしたら私は一体、なにを基準にして綿入の原風景を定めているんだろう。


 それは頭ではわかっていることなんだ。だけど上手に飲み下せていない。


 もやもやしたままその場を行き過ぎた。

 踏切を越えてまっすぐに進むと、道は大きな通りと交差する。交通量は混雑というほどではなかったけれど、横断するにはタイミングが難しかった。小さな隙間をみつけて一息に渡り切ると、私たちはまた小さな路地に入っていった。


 その路地の道幅は今までよりも極端に狭かった。車一台通るのがやっとの広さで、私たちが横並びに歩くのでさえ窮屈だった。入り口からしばらくはリンゴ畑が続いて、そこより先に古い民家の並ぶ住宅街が待っている。民家の塀に左右を圧迫されると、より強く窮屈さを感じられるんだ。


 それでも家々の駐車スペースにはしっかりと乗用車や軽トラックが停められている。規則正しく鼻先が出口に向いてる車もあった。彼らが普段どういう技術で出入りしてるのかは、本当にもう謎としかいいようがない。


 門をくぐってすぐのところをコンクリートで舗装しただけの、そうした家々の駐車スペースには、自家用車のほか、コンバインやスピードレイヤーといった、一般的な農耕機も置かれてあった。タイヤに付着した土は完全に乾いてる。どこの田畑もすっかり作業を終えて、今はのんびりと家の中でくつろいでるようだった。


 でもその路地はとてもひっそりとしてたんだ。出くわす人影もなかったし、家々からは生活音さえ響いてこない。開け放した窓からテレビのノイズが聞こえてくるというようなことは、一切なかったの。ただただ木陰で鳴くセミと、大通りからの車の音が、ここではない別の世界からの残響のように、微かに空気を震わすだけだった。


 周辺の静寂に私たちの話し声はよく響いてた。左右の板塀に反射した音の軌跡が、目に見えない線を描いてる。自然々々と私たちは誰かに遠慮するように小声で話すようになっていた。


「本当に人が住んでるのかな」って私は二人に顔を寄せて言った。

「土手へ上がるのによく通る道だよ」ってイッタは私の不安を見抜いたように言った。「人とはほとんど出くわさない道だけどね」

「この辺りのことは、あんまり覚えてない?」

「うん。こんなに雰囲気のある場所なら、覚えてても良さそうなのに」

「他人事みたいだな」

「自分の記憶に自信がないからね」って私は言った。そして辺りを眺め見る。

「まるで異次元に迷い込んだみたい」って私は続けた。

「異次元は大げさじゃない?」

「一歩知らない道に踏み込んだら、そこは知らない世界でした。そういう都市伝説、よく聞くじゃん」

「よく使う道」ってイッタは一語ずつ丁寧に指摘した。


 だけどそこは本当に異次元のようだった。路地の幅はとても狭く、そして古い民家がすし詰めになっているから、道の上にはどこを探しても日なたが見つからない。通り全てが湿った日陰に包まれてる。どの家々も一様に古びれ、薄汚れ、朽ちて腐った板塀もあった。路地で一番大きな屋敷の土蔵は、白漆喰の壁がぼろっと剥がれ落ちて土と藁がむき出しになっている。だけど雨樋が折れたり障子が破れていたりは、どこの家もおんなじだ。塀に貼られたブリキの看板は、広告塔の俳優を赤錆まみれにさせていた。彼の目からは赤茶色の涙が流れてる。


 きっとこの路地は、私が覚えていなかったように、地球上の誰からも関心を払われなくなった場所なんだ。存在自体どこかへ置き去りにしたような、そんな抜け殻の世界だった。どの角を曲がっても延々と抜け殻の世界が続いてる。


 世界はとても入り組んでいた。イッタとシィちゃんはこなれた足取りで先をゆくけれど、私はただただ二人についてくばかり。ニューヨークの下水に迷い込んだときだって、きっとそうなる自信がある。だけどある角を曲がった瞬間、急に視界が開けたの。すると目の前には土手へ続く坂が伸びていた。


 ふう、と私は息をつく。

 土手の上からは広大な野菜畑が一望できた。多分エーカーで数えるのが正しい大きさだ。水田はなく、土くれの野菜畑ばかりが広がっている。それが右にも左にも延々と、堤外地はパノラマの農耕地だった。ところどころ自然林の密集している場所もあったけど、大まかには畑ばかりと言って間違ってない。


 千曲川は野菜畑のずっと奥の方を流れてる。土手からの距離はざっと見て400mほどあった。ここからだと水の流れが止まって見える。


 私たちが放流行事に用いた河川敷はちょっとした窪地になっていて、土手の上からでは姿が見えなかった。なにより野菜畑と河川敷の狭間に大きな垣根が連なって壁になっていた。土手から伸びる直線の舗装路は、その壁に向かって長細く続いてる。

 私たちは土手の上で一息つきながら、真下に広がる景色を眺めてた。坂は思ったよりも急だったし、頂上では冷たい風が吹いていた。


「気持ちいいね」ってシィちゃんはたなびく髪を手で抑えながら声を張り上げた。そこに吹く風は少し強すぎるくらいだったんだ。でも真夏の暑さにはそれくらいがちょうどよかった。


「さっきの道より涼しいかも」って私は言った。

「こんなに暑い日だと、日陰も意味ないね」


 シィちゃんの額に浮いた粒状の汗が太陽に反射してきらっと輝いている。

 その汗を拭おうとしたとき、シィちゃんの腕にとても適切な速度が働いた。早すぎもせず遅すぎもせず、何かの映像表現として完成された動きだった。汗を拭ったあとの腕を、彼女の瞳が追うと、そこに一瞬儚げな表情が表れた。


 私はその一瞬に目を奪われていた。それはシィちゃんにしか表現できないものだった。まるで人生を終える間際の、寂しげな大人びた仕草。女性的な悲哀と柔らかさがその一点に宿されてたの。


 慌てて腰のベルトからフェイスタオルを抜き取った。顔を覆い尽くして、見なかったことにする。


「それにしても、本当に風強いね」って私は気を取り直すように言った。「いつもこうなの?」

「年中吹き荒れてるよ」ってイッタも声を張り上げる。「コオリの住んでるところには土手ってないの?」

「少し行けばあるけど、こんなに強くない」

「山に囲まれてるからだよ。だから他より厳しいんじゃないかな。つまりコオリがそう感じるんならね」


 実際この風は誰にとっても厳しいらしかった。土手の末端は千曲川を渡す橋に結ばれていて、そこから一人の少年が自転車にまたがっておりてくる。彼は私たちの横を行き過ぎるまで必死に立ち漕ぎを続けてた。けれども逆側からやってきたおばさんもおんなじだ。彼女は立ち漕ぎこそしなかったものの、強風に煽られて前かがみになっていた。山と川の両方から来る風は、土手の側面にぶつかって絶えず左右に別れてた。


「みんな必死なんだね」って私はその光景が微笑ましくって、言った。

「俺たちも通学に使ってるけど、ほんとしんどいよ。行きも帰りも向かい風だから嫌になる」

「じゃあ、下の道を使ったらいいんじゃない?」って私は言った。堤内地には土手に沿うようにして舗装路が走ってる。

「歩道が狭すぎて往来の邪魔になるんだよ。どんなに風が強くっても、結局土手の上が一番都合がいいの」ってイッタは下の道を指さしながら言った。「田舎の道だからな」


 豆粒ほどになった立ち漕ぎの少年が別の坂から下ってゆくのを見届けて、私たちも堤外地におりてった。面白いことに、坂を少し下ると風はぴたっとやんだ。


「そういえば、二人は高校も一緒なの?」って私は坂を降りしな二人に訊いた。「通学のために毎日土手を使うんだよね?」

「いや、方角が一緒なだけだよ。高校は別々」

「私が通ってるのは女子校だから」

「そうなんだ。じゃあ、途中まで一緒に通ったり?」

「ううん、ヒデくんは朝早いから、時間が合わないの」ってシィちゃんは言った。それから彼女はイッタに挑戦的な目を向けた。「帰りは何をしてるんだろうね?」

「別にやましいことなんか。シズカはそういうことしたいわけ?」

「ヒデくんは恥ずかしがり屋さんだから」ってシィちゃんは私の目を見て微笑んだ。


 坂を下りきると、堤外地の風景はがらっと姿を変える。土手の上から見る堤外地は比較的のっぺりとなだらかだったのに、いま彼と同じ高さに立つと、そこにははっきりとした起伏があった。


 路面より一段くぼんだところに土くれの地面が広がっていて、根菜類の畑では比較的なだらかなのが、ナスやキュウリの畑ではつるを支える緑色の支柱が私たちの腰丈まで伸びている。トマトの木はそれより高くって、舗装路より低い位置から生えていたのが私たちの目線と同じ高さにまで達してる。夏野菜はどれも葉っぱの色を濃くさせていた。


 そうした中でとりわけ目を引いたのは、道の中ほどにあるトウモロコシ畑だった。彼らは他の夏野菜と比べても一際背が高く、遠目にも私たちの背丈以上あるのが見て取れた。茎の頭から黄色いひげを放射状に吹かせた彼らが、横一列に均整に並んでる。ちょっとすると逆さまにしたナイアガラ花火のようでもあった。


 彼らの姿は堤外地の一角にだけ存在してた。見渡してみても他にトウモロコシ畑は見つからなかったんだ。そして道の脇にはなにかの案内板代わりに一輪のヒマワリが植えられていた。そのヒマワリも特別に幹が太く、隣接する彼らをナイアガラ花火になぞらえるなら、ちょうど打ち上げ花火のように満開だった。


 何物にも隔てられることのない空は真っ青な海のようで、ヒマワリとトウモロコシ畑と、まるで夏空の花火大会だった。河川敷へ続くあぜ道は河原に近づくほど緩やかな上り傾斜をきかせてて、その先の無粋な景色は例の垣根によって遮られている。この狂った消失点の道の上には、ただ海と、花火と、そして水面に反射した太陽があるだけだった。入道雲が白いしぶきを立てている。


 私とシィちゃんはほとんど同時に駆け出していた。砂浜に着いた誰もがそうするように、感動を足の動きに変えていた。だってそうでもしなければ、長い400mの直線だ、早くしないと花火大会が終わってしまう。


 その行動に言葉なんて要らなかった。私たちの足取りは会話の余力を残す程度だったけど、それでも言葉を交わしはしなかった。お互いの顔を見て笑い合うだけで、二人とも夏空の花火に夢中になっていた。


 一方でイッタは相変わらずだった。彼はとてもすました態度で私たちの後ろをとぼとぼと歩いてた。振り向いて手招きしても、やる気のない動きで手を振り返すだけなの。


 途中で走るのをやめても彼との距離は縮まらなかった。ううん、むしろどんどん開いてく。まるで彼の情熱まで私たちが吸い尽くしてしまったようにだよ。


「イッタってば、なにしてるんだろう」って私は言った。

「子どもっぽくはしゃぐのが好きじゃないんだよ」

「今しか出来ないのに」

「ヒデくんは大人なんだろうね」ってシィちゃんはからかうように言った。


 花火大会の会場はもう目の前だった。トウモロコシ畑の手前にはトマトの畑があり、それより手前の畑にはキュウリが生っている。それぞれの畑がうまい具合に段差を作ってた。ヒマワリはゴール地点にぽつんと立っていて、満開の花がじっとこちらを見つめてる。


 川の方から静かな風が吹いてきた。

「イッタ、早くおいでよ!」って私は大きく手を振った。

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