第四節(0304)

 大きな屋根に覆われた待合室は、ひっそりと暗い影に包まれている。そこにはどんな生命も存在していなくって、私たちが抜け出したあとには沈黙だけが残されている。ただ窓ガラスから差し込む斜めの太陽光だけが、光の細胞を培養してた。


 そして滝沢静香という女の子は、そうした待合室の気配とはまったく正反対の性質だった。

「堀田さん!」って、そう叫んだ後に、彼女は私のもとまで歩み寄った。そこで大きく両手を広げてみせる。「会いたかったよ!」


 私たちはお互いの両腕をつかみ合う、簡単なハグをした。ぐっと距離が狭まると、彼女の体からほのかに甘い柑橘系のフレーバーが漂った。グレープフルーツに砂糖を足したような香りが、浮き出た鎖骨の辺りからこぼれだしている。


「農作業のあとだから、シャワー浴びてきちゃったの」って彼女は私の様子を見て取るように言った。「本当に、遅くなってごめんね」

「ううん」って私はどぎまぎしながら首を振る。

「でも、やっと会えたよ、堀田さん。ねえ、私のこと覚えてる?」、彼女は嬉しさのあまりか、私の腕を離そうとしなかった。

「ああ、うん、えっと」って私はそのとき上手に答えられなかった。


 でも私がどんなにたどたどしく応じても、彼女は自分の裡に居着いた感動を追い払おうとはしなかった。その整った顔立ちで素直に喜びを表現するだけだ。


「急に会いたいだなんて、迷惑だったよね。でも、綿入に帰ってきてるって聞いて、どうしても堀田さんと会いたくなっちゃったの」って彼女は続ける。

「うん、イッタからもそう聞かされた」

「本当に会いたかった」って彼女は言って、ようやく名残惜しそうに腕を下げた。


 会話をなくしてからも、私たちはしばらく見つめ合っていた。その間も彼女は屈託のない笑みを浮かべ続けてた。私が急な出会いにたじろいでいることも、彼女には弊害にならないみたいだった。


「鍵、かけておいたよ」ってイッタは横から言った。

 自転車の鍵とカゴに置かれていたハンドバッグを彼女に渡すと、イッタは私と恋人とを見比べた。

「で、感動の再会は終わった?」


「堀田さん変わんないね。可愛いままだよ」って彼女はそれがイッタへの返事のように言う。一方で私は曖昧に顔を動かして二人への返事に代えた。

「コオリはあんまり喜んでないみたいだな」ってイッタはわざとらしく言う。

「そんなことないよ」って私は慌ててかぶりを振った。「ただ、その、なんて言っていいかわかんなくって」

「急にはね」ってイッタは笑う。「じゃ、無事合流できたわけだし、ぼちぼち行こうか」

「もう?」って彼女は、まだ再会の感動を味わっていたいように言う。

「まあ、積もる話があるのはわかるけど、そういうのは行きしなに効率よく済ませよう」


 彼女は私とイッタをとみこうみ見比べて、そのうちどこかの線で妥協したようだった。


「まずはどこに行くの?」って私は言った。

「小学校。すぐそこだし、二人にとっても都合がいい」

「何が?」

「私たちが出会ったところだもん」って彼女は言った。「そうだね、小学校なら丁度いいかも」


 駅から小学校までは歩いて五分ほどだ。幼稚園まで道を引き返して、すぐそばの踏切を横断すると、あとはもう直線の先に目的地が見えている。


「それにしても、堀田さんだなんてさ」ってイッタはその道のりに入ってすぐ、彼女をからかうように言った。「普段からそんなふうに呼んでるっけ?」

「だって、面と向かっては堀田さんとしか呼んでなかったから」

「普段はなんて呼んでるの?」って私は出会いの動揺からいくぶん落ち着きを取り戻して言った。


「シズカはさ、コオリが話題に上がるたびに、コオリのことをリッちゃんリッちゃんって呼んでるんだ」

「リッちゃん?」

「昔、クラスメイトからそう呼ばれてた」

「私が?」って私は言った。「そんなふうに呼ばれてたこと、あるんだ?」

「今はなんて呼ばれてんの、周りから」

「普通に、名字か名前だよ」

「なあ、見ろよ」ってイッタはそのときようやく呆れてみせて、彼女に語りかけた。「昔のこと、なんにも覚えてないんだぜ」


「私はそれより、なんでそんなに意地悪なのかが気になるな」って彼女は返事した。

「だって事実だろ。普段からリッちゃんって呼んでるじゃない」

「それはそうだけど」って彼女は気恥ずかしそうにする。

「第一、堀田さん、なんていうけれど、もう堀田じゃないんだぜ」

「ああ、そういえばそうだね」ってそれは私が言った。「自然と受け入れちゃってた」

「そういえば、今は?」

「下間」って私は端的に答えた。まだ少し緊張が残ってて、彼女には透明のパーテーションごしに向き合っていた。「でも、本当に、好きに呼んでくれて大丈夫」


「下間さん」って彼女は何かを確かめるようにつぶやく。

「他人行儀だね」ってイッタが肩をすくめる。

「私はどっちでも構わないよ」

「普段どおりの方がいいと思うけど」


 そう言い切るとイッタは、どこか寂しそうな表情を眉のあたりに浮かべた。そのかすかな動きを見て、ようやく私は彼がどんな意図で話を切り出したかに気がついた。

「ああ、でも、本当に慣れてる呼び方が一番だと思う」って私は急に気を取り直して言った。


「リッちゃん」ってイッタはすぐに調子を戻して挑発的に言う。

 それでも彼女は躊躇っていた。


 そう、だからこそイッタはいの一番にこの話を切り出したんだ。お互い気兼ねなく付き合うために、呼び名というのは結構大切だ。空白の十年のわだかまりを、呼び名一つで早々と解消させようと努めてた。


「本当に、リッちゃんって呼んでも?」って彼女はしばらく迷ってから言った。もちろん私の答えは決まってる。大きくうなずいた。


「でも、私の方ではなんて呼んだらいいんだろう」って私はそのあとで言った。

「問題はそこだよな。そもそもシズカとはあんまり接点もなかったし」

「滝沢静香、さん、だよね」って私は彼女の名前を噛みしめるように呼んだ。その名前はここに来るまでにイッタから聞かされていた。「みんなからはなんで呼ばれてる?」

「名前で呼ばれることが多いかな。愛称で呼ばれたことってあんまりないの」

「俺でさえシズカだからな」

「そうするとまいったね」って私は苦笑いした。「じゃあ、私がちゃん付けで呼ばれてるなら、シンプルにシィちゃん、なんてどうかな」

「シンプルに」ってイッタは茶化すように復唱する。

「イッタよりはマシだと思うけど」

「呼び捨てよりはね」

「堀田さんがそう呼んでくれるなら嬉しい」って彼女は言った。

 すぐさまイッタが、「シズカ」って端的に注意する。

「ああ、えっと、リッちゃんが」って彼女は照れ笑いを浮かべて言い直す。

「シィちゃん」って私も勇気を出して口にした。


 それで彼女が華やいでくれたから、私は今でも彼女のことをシィちゃんと呼んでいる。彼女の大人びた雰囲気にそぐわないちゃん付けの愛称も、今では彼女の魅力の一つだったんだと感じてる。


 S字のカーブと幼稚園を過ぎて、私たちはその先の踏切に足をかけていた。あと数百メートルも行ったところに小学校が見えていて、校舎の前面には校庭が張り出している。


「でもさ、今でも私の話題があがるなんて、面白い話だね」

「そんなこと言ったっけ?」ってイッタは空とぼけて言った。

「だから呼び方の話に繋がったんでしょ?」

「そうだな。シズカとはたった一年しか一緒じゃなかったのに、変な話だよな」って、こういうときのイッタはわざとらしくわざとらしいことを言う。


「うん。それも気になるところ。なんで私のことをそこまで覚えてくれてたのか」って私は言った。「さっきイッタにも聞いたんだけど、詳しくは教えてくれなかったんだよ」

「そうなんだ?」

「シズカのいないところで教えるのも、なんか違うと思ったからね」

「変に気遣ってくれなくてもよかったのに」

「感謝してほしかったんだけどね」ってイッタは肩をすくめた。

 シィちゃんはなんにも答えず、薄らいだ笑みを口元に浮かべた。


 二人のそうした空気感は、単なる恋人というよりも、長い間連れ添ってきた夫婦のそれに近かった。意思疎通にそれほど多くの言葉を必要としない。

 確かにイッタの言う通りなら、彼らは小学校の六年間と中学にあがってからの三年間、つごう九年間を同じクラスで過ごし、そして今でもその関係を、より深くさせながら続けてる。そこに何かの完成の形がないわけはなかったの。


「で、どうする、自分から説明する?」ってイッタはシィちゃんに訊いた。

「ううん」ってシィちゃんが遠慮がちに首を振ると、イッタはわかりきっていたことのように首を縦に振る。

「といっても、どこから話せばいいのかな」

「もったいぶるね」って私は言った。

「そうだな。簡単にいえばコオリは、シズカにとっていわば憧れの人とでもいうような存在だったんだ」


「憧れの存在?」って私はその形容をおかしく感じて言った。

「駅までの途中にも言ったと思うけど、当時のシズカは引っ込み思案で、人前に出るのを嫌がるようなやつだった」

「うん。それは聞かせてもらった」

「本当にそうなの」ってシィちゃんは言った。「小学校へ入学する前にこの町に引っ越してきて、まだ誰とも知り合えていなかったから、いつも何かに怯えてるような子だったんだ」

「ああ」って私は曖昧に返事した。その姿が今のシィちゃんの姿とどうしても結びつかなかったからだ。


 シィちゃん――滝沢静香という女の子は七歳になるまで同じ県内の、だけど綿入からは少し離れた町に暮らしてた。彼女の父親はこんな地方都市にはどこにでもある製造工場の内勤に従事してたのだけど、それでも事務主任という役職にあったおかげで、農家の跡取りであるという事実からは目をそらし続けてた。ところが彼女が小学校に上がるのを契機にいよいよ父親も腹を決めたらしくって、幼稚園の卒園から小学校の入学までのあいだに(もちろん書類の上ではもっと以前から)、すっぱりと、職も辞し、アパートも引き払い、家族ともども綿入の実家に転居した。


 ただ、それはシィちゃんにとって、新たな人間関係の構築を意味してた。その苦労は私もよく知っている。特にこの綿入という狭い土地では、幼稚園での生活や近所付き合いのなかで結ばれた関係が、子どもながらに強固に働いている。小学校にあがってからも彼らは自分たちの築き上げたコミューンを維持し、間口を広げることに恐れてた。つまりこの土地の子どもたちは七歳という年齢にありながら、既に村社会の大人たちが持つ、言葉よくいえば繊細な一面を獲得してしまってた。それがシィちゃんにとってマイナスに働いたのは言うまでもなくって、入学式というスタート地点は、決して横並びのフラットなラインではなかったの。シィちゃんは入学からしばらく、友人のない孤独のなかで暮らしてた。


 授業中も休み時間も、彼女には話し相手がなく、集団の登下校の際にも、彼女は一人列の後ろをついていった。給食の時間は何よりもの苦痛だったんじゃないかと私は思う。いや、つまり、同じ経験をした身として。


 でも幸いなことにシィちゃんの孤独は長くは続かなかった。

 入学から一ヶ月ほど経ったとき、クラス内で班分けが行われた。公平にくじで決めるという提案もあったけど、結局はみんな仲の良い友だちと結託する方を選んで、自由競争の時間が設けられた。そうしてみんなが思い思いの友人と相談し合うなか、シィちゃんは教室の角にぽつんと佇み、自分とは無関係な物事を見るように彼らの賑わいを眺めてた。


 私はふとした拍子に彼女の存在に気がついた。らしい。二人が言うにはね。そして彼女のもとまで歩み寄り、何か優しい言葉をかけたあと、シィちゃんの両腕を掴んだの。それから彼女を無理やり引っ張って、みんなの輪の中に入れてあげたというわけだ。


「よく聞く話だね」って私は言った。「じゃあ、班分けのあと、私たちはすっかり打ち解けあったんだ?」


「そうでもないんだよ」ってシィちゃんはどこか恥ずかしそうに言った。

 当時の私はなぜか引く手あまたの存在だった。だから多くの班に誘われて、シィちゃんとは別々の班になってしまったの。班分けに伴う席替えでも彼女とは遠く離れた場所になってしまった。だから私とシィちゃんの関係はそれ以上進展しなかった。ただシィちゃんにおいては、班分けの出来事がきっかけとなって、徐々に周囲と馴染むようになっていったんだ。それが彼女が私に憧れを抱くことになった理由の、まず一つ。


 第二に小学一年生という限られた時間の中では、私は際立って優秀な子どもだった。女子にも男子にも顔が利いたし、先生たちのウケもよかった。それにとても活発な子どもでもあった。体育の授業では一年生にして跳び箱の六段を飛んでいた。国語や算数の授業にも悩むことはなかった。テストの時間には設問と答えが必然性で繋がれていて、だから成績はいつでもクラスで一番だった。図工の時間にもみんなが構図や彩色について先生からアドバイスを受けるなか、私だけは自分の感性を頼りに自由に絵を描いていた。その絵が県主催のコンクールに入賞すると、朝の全校集会で校長先生から表彰された。当時のことは今でもかすかに覚えてる、たしか天まで伸びる大木の絵だ。


 自分を孤独から救ってくれた相手がそういう輝かしい存在であった場合、多くの人はそこに憧れを抱くと思う。けれども私は一年後に忽然と姿を消してしまう。その事件はシィちゃんの人生に大きな鉄の柱を打ち込んだ。十年の月日に彼女の憧れが色褪せなかったのは、つまりそういう経緯があったからなんだ。大げさにいえば、私はシィちゃんにとって聖像のようなものになっていたわけだ。


「納得してもらえたかな、どうしてシズカがコオリに会いたがっていたか」

「迷惑なのはわかっていたけれど、どうしても」ってシィちゃんは言った。

「迷惑なんて、そんな。それを言うなら私の方こそ謝らなきゃいけないよ」

「謝る? どうして?」

「今の話、他人のこととしては納得できたから」

「え?」

「いや、コオリ、それじゃ伝わんないよ」

「ああ、えっと。つまりね、転校する前のこと、私、ほとんど覚えていないんだ」

「シズカだけじゃなく、クラスメイトのこと全く覚えてないってさ」

「そうなんだ」って、だけどシィちゃんはなぜか笑った。「だけど気にしないで、一方的な想いだってことは、ずっとわかっていたから」


 私は返事に困ってただ微笑んだ。彼女の態度に嘘がないことは明らかだったけど、一方で自分という存在が他人の中で大きく膨れ上がってたという事実を、このとき私は上手に受け止めきれなかった。


「でも、シズカもきっと驚くよ。この十年でコオリもずいぶん見違えた。昔のコオリのイメージは捨てた方がいいかもしれないね」

「昔よりもっと素敵に?」って彼女は言った。シィちゃんはそういうことを隠さない人だった。

「解釈は人それぞれだね。少なくとも俺は驚いたよ。昔の雰囲気とは全然違う」

「それって褒められてるのかな?」

「客観的な意見」って彼はとぼけてみせた。


 小学校まではあと二十メートルほどだった。私たちはわざと足取りを遅くして会話に没頭してた。けれどもそれももう限界で、校庭への入り口が道の反対側に見えている。

 イッタがその場に立ち止まり、奥からの車が行き過ぎるのを待っているのを見て、私は慌ててシィちゃんに振り向いた。


「でも、驚いたのはむしろ私の方」って私は勢いに任せて言った。「イッタの彼女がこんなに綺麗な子だとは思わなかった」

「え?」ってシィちゃんは目を丸くした。イッタもおんなじだ。急に何を言い出すんだって目で私を見てた。


 もちろん、私にしたってそれは信じられない行動だ。手放しに相手を褒めるってことには結構な勇気がいる。けれども確実に伝えておく必要があった。そしてひとたび小学校の敷地を踏めば、新しい話題のために切り出すタイミングを失うこともわかってた。


 シィちゃんは照れくさそうに笑みを浮かべて「ありがとう」ってうなずいた。

「ああ、じゃあ」ってイッタは一人呆然とし続けた。「取り敢えず、車行ったから」


 校庭の入り口には小さな石橋が架かってる。校舎と校庭の前面には底の深い用水路が走ってて、だからもしその橋を渡らなければ、次に敷地内に進入できるのは同じように石橋の架けられた校庭の向こう端からだけだった。さもなければ正門まで我慢するかだ。

 イッタは私たちの答えを待たずに道路を横断し始めていた。私たちは彼の焦りを愉快に感じながら後を追った。


 校庭の隅には日よけの広葉樹が、ちょうど革財布のミシン跡みたいに等間隔に植えられている。石橋を渡りきった私たちはそうした広葉樹の一つを木陰に選んで、校庭の先を眺め見た。


 夏休みだからか子どもの姿は一つもなかった。ただ荒涼とした砂漠の光景が広がってるだけだ。校庭の外れには段違いの鉄棒や、地元の少年野球団のために設けられたバックネットや、屋根つきの小さな土俵が、私たちと同じように広葉樹の木陰に埋もれながら存在してる。距離も位置もてんでばらばらの彼らは、私が知っている頃の彼らとなんにも変わっていなかった。屋根つきの土俵はかつて私が何人もの男子を手玉に取っていた場所だ。なぜかそういうことだけはよく覚えてる。


「懐かしい!」って私の口から思わずその言葉が出かかった。いや、けれどもそれは喉元に引っかかって、そのまま食道を落ちてった。


 校庭の奥には体育館があるはずだった。ううん、それは今も変わらずそこにあるのだけど、ただ、私が知る体育館の姿とは違ってた。


「体育館、建て直したの?」って私は言った。

「え?」ってイッタはこちらに振り向いた。「ああ、そうだよ。よく覚えてたな」

「だって、見ればわかるよ」って私は言った。


 真新しい塗装の体育館が校庭と校舎のあいだに寝そべっている。白い壁面にえんじ色のスレート屋根をかぶせただけのシンプルな寝姿が、薄いピンクのパジャマと濃灰色のナイトキャップに着替えさせられていた。それがまるで、こなれた画家が遠近法の矛盾をごまかすように、奥の風景の前面に大きく立ちはだかってる。


 校庭側の出入り口にはスロープの階段も後付けされていた。その階段も在校中には存在しなかった。かつて私の知っている頃には、宙に浮いた三つの扉が、大きなボタンのようにパジャマに張り付いているだけだったの。


 見かけも一回り大きくなっているようだった。体育館の切れ目が私の知っている位置と少し違う。要するに彼は外装を変えられただけでなく、根っこから建て直されたようだった。


「昔はここから中庭が見えたのに」

「よく覚えてるね」ってイッタは感心したように言った。「いよいよコオリの基準がわかんない」

「私だってわかんないよ。でも」


「俺たちが卒業したのとほぼ同時に建て直されたんだ」ってイッタはそれには応じず答えた。「半年くらいかけて建て直してたと思う。話に聞いてから一度様子を見に行ったことがあるんだけど、そのときにはもう、全体がバリケードに覆われてたね」


「梅雨頃に工事が始まって、冬になる前には完成してたよ。ちょうど中学校への通学路だったから、私は毎日工事の様子を見てた」ってシィちゃんは言った。


「この道?」って私は今歩いてきた道を指して言った。

「うん。ここを通って、踏切の十字路を曲がるの」

「イッタは別の道だったんだ?」

「俺?」って彼は言った。「いや、中学は俺んちからの方が近いし。多分コオリが考えてるのと逆方向だよ」

「ああ、そうなんだ」って私は言った。「場所を全然知らないからさ」

「かもね。綿入の外だしな」ってイッタは簡単に済ませた。


 だけどそのとき、ふっと別の疑問が湧いた。

「ねえ、二人は中学の頃から付き合ってるんだよね?」って私はその疑問を投げかけた。


「そうだけど、急にどうしたの」

「お互いの家に遊びに行くことってなかったの? 例えばその途中で工事の様子を見るようなことがさ」

「ああ、いや。そのときはまだ付き合ってなかった。それに……」

「それに?」


 イッタはシィちゃんの顔をちらと見た。するとシィちゃんが続きを引き取った。

「私たちが交際を始めたのは中学二年生になってから。でも、それでも初めのうちは町の外で会うようにしてたの。もしくはあんまり人目に触れないようなところ」


「へえ。なんか時代劇みたい」

「神社の裏で人目を忍んで?」ってイッタもそれに乗っかった。「田舎の噂には油が敷かれてるからね。俺らはそれを嫌って、なるべく目立たないように行動してたんだ。なあ、だけど、こんな話興味ある?」


(興味があるわけではないんだけどね)って私は声に出そうか迷ってた。ただ私は無意識に目の前の光景から話題を逸らそうとしてた。


「噂って意外と窮屈なんだよ」ってシィちゃんが言う。「実際にそういうことが原因で別れちゃった子もいるの。その子に話を聞いたら、なんとなく居心地が悪かったんだって。だから私たちは、そうならないように慎重に付き合ってたんだ」


「まあ、俺たちが付き合ってることも、親しい何人かは知ってたけどね。それでもお互いの家に遊びに行くようになったのは、中学を卒業してからだよ」

「結構苦労してるんだ」って私は言った。「ねえ、じゃあ、告白はどっちから?」

「いや、あのさ」ってイッタは顔を歪ませた。


「どっちからってこともなかったよ」って、だけどシィちゃんは楽しそうに答えてくれた。「きっかけになる事柄はあったと思うけど、二人して忘れちゃってるの。きっと忘れちゃうくらい些細なことだったんだよね」


「自然と付き合ってた」

「うん、そんな感じかな」

「なんかいいね、そういうの」

「そろそろやめにしないか、この手の話は」ってイッタは苦々しい顔で言った。「それより、体育館の扉、開いてるんかな」

「乗り込むの?」ってシィちゃんが驚くと、イッタはもう足を前に出していた。

「入れそうならね」って彼は駆け出すのと同時に言った。


 私とシィちゃんは肩をすくめて彼の背中を見送った。仕方なく私たちもその場から離れる。


「照れてるんだよ」ってシィちゃんはくすりと笑った。

「ちょっといじわるだったかな」

「いい薬」ってシィちゃんは笑顔の質を変えて言う。「だけど、体育館、残念だったね」

「え?」

「昔と違ってて、ショックだったんだよね。なんとなくわかったよ」

「ううん、そんなことないよ」って私はとっさにかぶりを振った。シィちゃんは敢えて話を合わせてくれてたんだ。「古い建物だったもん、仕方ないよ」

「そう?」って彼女はまた薄らいだ表情で微笑んだ。

 その穏やかで慈愛に満ちたような笑顔には、思わず惹きつけられる何かがあるの。


「正直に言うとシィちゃんの思っている通り」、その笑顔にあてられて私は諦めた。「ありがとね、話に乗ってくれて」


「気にしないでいいよ。リッちゃんにはいくらお返しをしても足りないんだから」

「そんなことないと思うけどな」って私は無理にでも微笑んでみせた。

「それに今日のことだって、リッちゃんの方では私に会うのに気乗りしてなかったと思うから」ってシィちゃんは突然そのことに切り込んできた。


「いや、それは」って私は言葉を詰まらせる。


「でも、リッちゃんがすんなり受け入れてくれて、ほっとした。身構えられていたらどうしようって、ずっと不安だったの」

「ああ」って私は言った。シィちゃんも私とおんなじように考えてたってことを、その一言にようやく気がつかされたんだ。つまり彼女の方では自分を監視役と思われたくないという願いだった。「私たち、二人して誤解してたんだ」

「やっぱり」ってシィちゃんは薄らいだ。


「だって、イッタってばひどいんだよ。今日、イッタんちに迎えに行くまで、シィちゃんのこと黙ってたんだから。それも初めは『一人合流する』ってことだけ明かして、段々『女の子』だ『恋人』だって付け足してくんだ。最初から全部打ち明けてくれてれば、私だって疑いはしなかったのに」

「場当たり的だね」って彼女は言った。「でも、そう見せかけて、全部計画のうちなんだよ」

「そうなの?」

「ヒデくんは頭が切れるから」

「イッタがね」って私はそれを自然と受け止めていた。でもふっとして、今シィちゃんが初めて恋人の名前を呼んだことに気がついた。


「ねえ、それってイッタのこと?」

「え?」

「いま、ヒデくん、って呼んだ」

「ヒデくん」ってシィちゃんは自分がその名を口にしたかどうか検討するみたいに地面を見た。「うん、そうだよ、私はヒデくんって呼んでる」

「そっか。言われてみれば、イッタの名前ってヒデトシだ」


 そのヒデトシくん本人は、既に体育館のスロープまでたどり着いていた。扉が開かないことを知り、手すりに肘を預けて私たちの到来を待っていた。


「ずいぶん会話が弾んでるようだけどね」って彼はお互いの声が届く距離になったとき、言った。「こっちは見ての通りだよ。こんな田舎でもセキュリティ対策は万全らしい」


「昼寝のあいだに逃げ出す子がいたら困るからね」って私は言った。

 イッタは呆れたように鼻で笑う。反対にシィちゃんは首を傾げてた。だから私は幼稚園を抜け出した女の子の話を彼女にも聞かせようと思ったの。


 けれどもそのとき、遠くの方から子どもたちのはしゃぎ声が響いてきた。風に乗って微かに届くってくらいの心もとなさだったけど、確かにそれは何重にも重なったソプラノの声だった。

 声は体育館の更に奥の方から発せられている。自然と私の目はそっちに向けられた。


「プールだよ、きっと」

「ああ、学校のプール」って私は言った。「開放してるんだ?」

「夏休みだからな。みんな遊びに来てるんだ。他に娯楽もないような町だし」

「私たち、大丈夫かな」ってシィちゃんは言った。「見守りの先生とかも、いるよね?」

「見つかったら問題だろうね」ってイッタはあっさりと認めた。「でも、下手に近寄らなきゃ大丈夫でしょ。プールの監視役はプールからは離れない」

「確かに道理だけど」って私は疑うように言った。


「もし何かあってもどうにでもなるよ、俺たちだってここの卒業生なんだから」

「それって、私も含まれてるの?」って私は言った。

 彼は少し考えた。

「仮に部外者が一人含まれてたって変わりはないでしょ」ってイッタは開き直ったような態度で言った。「コオリの場合、立ち位置が本当に微妙だけれど」

「いずれにしても目立たないように行動したほうがいいね」ってシィちゃんは言葉とは裏腹に笑いながら言った。


 けれども無理に注意を払う必要なんてなかったの。プールは校舎の反対側にあったし、先んじての私たちの用事は体育館のすぐ裏手に位置する一年生の教室だったから。


 教室は日当たりのいい南校舎の角に面してた。私たちはそれを外から眺めるために、体育館を迂回して一旦ベランダの側に出た。南校舎のベランダからはプールが一直線に見えていたけれど、目隠しのフェンスのおかげでお互いの様子は都合よく遮られていた。

 照明の落ちた室内は薄暗く、その中に黒板や学用机や蓋のないロッカーや、そういったありふれた光景が広がっている。


「懐かしい?」ってイッタは掃き出し窓に寄りかかりながら訊いた。

「ベランダの景色はね」って私はちょっと皮肉っぽく言った。

「だよな。廊下に出られれば少しは違うんだろうけど」

「変わるかな、そんなことで」

「教室の作りはどこも同じだけど、廊下って案外特徴が出るんじゃない?」

「かもしれないね」って私は言った。「微々たる差だとは思うけど」


 それでも一応、中に入れそうな場所を点検してみたの。イッタの寄りかかる掃き出し窓や教室の窓、まずそれらは駄目だった。他の教室やトイレの窓も調べてみたけれど、やっぱりどこも鍵がかかってる。それに、あまりベランダを進みすぎるとプールとの距離が狭まるから、裏手の探索はある程度のところで切り上げざるを得なかった。イッタはそのとき雨樋の強度を確かめていたけれど、私たちはまともに取り合わなかった。登れたとして、どうせ二階だってしっかり施錠されている。


 渡り廊下から内廊下への侵入も試みた。でも実際そうしてみると、廊下間を隔てるステンレスドアが立ちはだかった。ノブはきつく締められて微塵も動かない。


「打つ手なしだな」ってイッタはステンレスドアのノブに手をつきながら言った。「もう少し管理が甘いと思ってたんだけど」

「ヒデくんの割には計画が甘かったね」ってシィちゃんは嬉しそうに言う。

「良いんだよ、どうせそんなに長居するつもりはなかったんだから」

「じゃあ、これでおしまい?」って私は言った。

「いや」って彼は少し考えてから首を振る。「そうだな。中庭にでも行ってみようか。まさかそこまで封鎖されてるってことはないだろうし」

「中庭か。それだったら、このまま渡り廊下から出られるよね」って私は過去の記憶を思い返しながら言った。


 でもその道は体育館の改装に伴って若干形を変えていた。途中のクランクを曲がったとき、そこでもステンレスドアが立ちはだかった。中庭へ出るにはこのドアを越えなくちゃならない。


「外から回っていくしかないね」ってシィちゃんは柔らかい態度で言う。渡り廊下は外縁をプラスチック板に囲わせていて、中庭に出ることも、その姿を見ることも、この場所からは叶わなかったんだ。


 プラスチックの板とトタンの屋根でしっかり目張りされた渡り廊下は、暗渠のように薄暗かった。来るときよりも踵を返してゆくときのほうがそのことを強く感じられた。ベランダに出る前に渡り廊下へ振り返ると、筒型の通路は沈黙の中だった。


 再び校庭に出た私たちは体育館を迂回する。向こう端まで行けば中庭に出られることはわかってた。ちょうどそこだけ渡り廊下がくり抜かれ、自由に横断できるようになってるの。


 拡張された体育館を壁伝いに回り込むあいだ、中庭の姿は渡り廊下のプラスチック板に阻まれて伺えなかった。ようやく臨むことができたのは建物を迂回しきって正面に立ったときだ。そしてそのとき、私たちの足は思わずその場に釘付けにされた。


 またしてもステンレスドア、ではなかった。中庭へ抜けるためにそこだけを空洞にした造りは昔のままだった。私たちが立ち止まったのは、その奥にはっきり見える、中庭の変貌のせいだった。


 中央に大きな噴水がある。噴水の周りには放射状に花壇が広がっている。そして花壇の周りでは、土の地面が蜘蛛の巣のような幾何学模様を描いてる。季節によって色とりどりの花が植えられて、サルビアやアヤメやチューリップ、ガーベラ、コスモス、フリージア、と、春にも冬にも私たちの目を養わせる。中庭の四隅には桜や柏の木が植えられている。彼らが広葉樹を茂らせることで、長方形の中庭と放射状の花壇の矛盾に体裁が取られてる。秋には熟した葉っぱたちが、冬には枯れ木が、その役割を果たしてる。それが私たちの知る綿入小学校の中庭だ。


 いまそこは、自然環境を模したビオトープの林に作り変えられている。噴水も、花壇も、桜の木も、私たちの知るものは何一つ存在しない。

「え?」って声をあげたのは、意外にも私ではなく、私たちだった。


「噴水は?」ってシィちゃんは言った。

 イッタは恐る恐る首をひねった。

 中庭の変貌に関して、ここにいる誰一人知る者はいなかったんだ。


「いや、すごいな、これ」ってイッタは持ち味の皮肉を絞り出すように言った。驚きのあまりぎこちない笑みが浮かんでる。

 一歩、私はビオトープに近寄った。そしてもう一歩。

 近づけば近づくほど、中庭は体育館とおんなじだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る