第三節(0303)

 幼稚園の先で道はS字になっていて、わざわざイッタが「駅はすぐそこだ」と断ったのは、この場所からだと駅舎や駅周辺の様子がまるっきり民家に遮られているからだった。


「会えば本当にすぐだよ、コオリだってすぐに気に入るさ」ってイッタは、その道すがらに、恋人の評価を付け加えるように言った。


「そんなに魅力的な子なんだ?」

「会えばわかるよ」って彼は繰り返した。「あいつはコオリに惚れ込んでるからね。俺はその理由をあえて口にはしないけどさ。っていうのも、シズカにしてみたら、自分がその場にいるときに打ち明けたいだろうからね。俺が勝手に喋りでもしたら、三日は口をきいてくれなくなる」


「気難しい子なの?」

「いや、そうじゃない。むしろその反対に分別がありすぎるくらいだよ」

「よくわかんないね」って私は曖昧に笑いながら肩をすくめた。


 けれども、ちょうどそのとき、S字のカーブの終わりに差しかかった。駅周辺の景色が急に明るくなるの。けれども(何度も強調するけれど)、けれども私はその景色を見た瞬間に、曖昧に笑んでいた表情を凍りつかせたんだ。


 駅にはかつて、この扇状地に住む人たちの生活を支えるショッピングモールが隣り合っていた。施設の中にはこんな片田舎にも必要なクリーニング屋、家電の小売店、写真印刷、スポーツ用品店(学校指定の運動着はこの店で扱っていた)、婦人服と子ども服を扱うブティック、と、こういった売り場が入り口から伸びる通路の左右に並んでた。こじんまりとしたアーケード街といった雰囲気だ。


 通路の一番奥にはスーパーマーケットもあり、私は母の買い物に付き合ってよくこのお店まで足を運んでた。品揃えは豊富だったとはいえないけれど、この町の生活を最低限文化的に支えるにはそれで充分だった。シナモンやナンプラーは売ってないけれどブラックペッパーは売っている、そういう量販店。


 ちょっと面白かったのは、レジカウンター付近のテナントコーナーにアイスクリーム屋さんが入っていたことだ。コーンカップ専門のお店で、フードコートのある施設なら必ず一軒は見かけるタイプのアイス屋さんだった。母の買い物について行くと、三回に一回はそのお店のアイスを買ってもらえたの。むしろそれが目当てだったと言えなくもないけどね。


 ショーケースの前でいつも私は悩む。チョコレート味かブルーハワイかマーブルチョコか。その三つが私のお気に入りだった。極端に甘いチョコレートか酸味のきいたブルーハワイか、程よい口当たりのマーブルか。実に五分は悩むんだ。母が店員の苦笑いを気にかけながら両手に提げた買い物袋の重さを訴えると、それでようやく私はどれか一つに指をさす。ショッピングモールの入り口には安っぽいビニールの長椅子があって、その休憩所に座って食べるアイスは何にも勝る贅沢だった。幸せという感覚はそこで学んだものだった。けれども、母に幸せのおすそ分けをしようとすると、彼女はいつも冷静な顔つきで首を振った。そんなとき私は少し悲しい気持ちになる。だけどすぐに忘れる。握られた幸せの味によって口の中がいっぱいだった。


 綿入の駅といえば、私にとってはそのショッピングモールの光景の方が強かった。でも十七歳の夏に見た駅前に、かつてのショッピングモールの姿は存在しなかった。赤レンガ倉庫をモチーフにしたようなレトロな外観だったのが、今や見る影もなく、まっさらな更地と化していた。申し訳程度に分譲地の看板が刺さってるだけで、レンガブロックの破片さえ見つからない。強力なプレス機にかけられて粉々に圧砕されてしまったようだ。


 私は思わずその場に立ち止まった。

 そして私は、ふと何かの気配を感じて真横に目をやった。駅舎から真横に伸びる胴長の駐輪場がそこにはあった。が、それも今はない。コンクリートの土台にトタン屋根をかぶせただけのシンプルな構造で、きっと圧砕しつくすのにもそれほど苦労は要らなかったんじゃないかな。


 この駐輪場は平日にはフリーマーケットの会場として利用され、夕方になると大量の自転車が売れるほどの盛り上がりを見せた。そして翌日の朝には返品の山のため、また会場を賑やかす。週に五日それの繰り返し。この町が労働力で溢れてた頃のありふれた光景だよ。でも、それも今はない。


 つまり駅前の光景はあまりにも見違えてたの。残されたのはショッピングモールの駐車場であった、広大なアスファルトの空き地と、それから木造の駅舎、この二つだけ。

 私はその場に立ち止まったまま呆然とそれらを眺めてた。


 イッタは何かを察したように口を開かなかった。しばらく私の急な変化に付き合ってくれていた。そしてややあとになってから、駅舎までエスコートするように、黙って私の背中を押してくれた。


 ありがたいことに、駅舎は中も外も手つかずのままだった。木造の壁と天井と打ちっぱなしのコンクリートの床。とてもひんやりとしていて薄暗い。私たちが物心ついた頃には無人駅になっていて、だから人気もないの。


 イッタの恋人の姿もまだ見えなかった。イッタの予言通り、先に着いたのは私たちの方だ。壁と一体化した木製の長椅子に腰かけて、戸のない入り口から再び外の様子を眺め回した。イッタは少し離れた座席でそれを見守っていた。彼はホーム側の角に体を預けるようにして座ってた。


「信じらんない。本当に?」って私はひとしきり状況を飲み込んだあと、そう言った。

「誰かのマジックショーに付き合ってるんでもなければね」って彼はこんなときでも皮肉を混ぜながら肩をすくめた。「いや、迂闊だったよ。俺もすっかり忘れてたんだ」

「忘れてた?」

「ここが取り壊されたのは、えっと、もう七年か八年くらい前だったかな。忘れてたっていうより記憶違いといった方が正しいかな。てっきりコオリも知ってるものだと思いこんでたんだよ」

「私が居た頃には取り壊されてたって?」

「そう。悪いな、わかってれば事前に教えたんだけど」

「ううん、イッタが悪いわけじゃないよ」って私は言った。「ただ、ちょっと驚いただけなんだ」

「それはもっともな反応だよ」って彼は最大限寄り添うように言った。


 でも、もちろん驚いていただけじゃない。当然ながら在りし日の光景が失われたことに対する喪失感に襲われていたし、同時に幸先の悪さも感じてた。今日という一日は楽しさばかりが保証されてると思い込んでいた。それが早くも水を差された感覚だ。


「全部なくなっちゃったんだね、残念」って私は彼の手前、声の調子に気をつけながら、さもなんでもないことのように振る舞った。「まあ、駅舎は残ってるんだから充分だよ」

 イッタはうつむき具合に微笑んだ。


「懐かしいよ。よくここで遊んだんだ」って私は続けた。

「遊んだ?」って彼は訊く。「駅で遊んだ?」

「うん、暇になるとこの椅子に腰かけてた」

「どういう状況になればそうなるの?」って彼は話をよく飲み込めずに眉をひそめた。

「ショッピングモールの家電屋さん、覚えてる?」って私は言った。

「家電屋」って彼はおうむ返しにつぶやく。「覚えてるけど、どうかした?」

「うちのお母さんが、そこのマスターによく捕まってたの」

「まだよくわかんないね。それで?」って彼は笑う。


 長通路の一角に店を構えていた家電屋のマスターは、小学校時代からの父の同級生だった。それもずいぶん仲の良い相手だったらしく、生家で電化製品のトラブルが起こりでもすると、父はすぐにここのマスターに助言を仰いでた。電球一つの交換にも彼を呼びつけようとしたくらいだ。


 そういった関係から母がショッピングモールに出かけると、何回かに一回は家電屋のマスターに捕まって、店内で世間話に興じさせられることがあった。お店の中央にビストロテーブルを置き、レジカウンターには海外メーカーのコーヒーサイフォンが用意されている。本来ならそれらは購入を検討するお客さんの応接に使われるものだけど、私の知る限り正しい用途で使われていた試しはない。


 彼らはサイフォンで挽いたコーヒーを最低二杯は飲み干すまで、話し相手を解放しようとはしなかった。付き合いとして割り切っていた母に対して、私はそんな風に良い子ちゃんを演じることは出来はしない。すぐにじっとしていることに飽きて、店の外に救いを求めに飛び出した。そんなとき時間を潰していたのがこの駅舎の中だった。同じ座るという動作でも、駅舎の環境は私を居心地良くさせた。


「なるほど、あの家電屋ってやっぱりそういう店だったんだ」って彼は、今度は納得したように笑った。「いつ行ってもコーヒーの香りが漂ってくるからさ、ある時までそういう形式のラウンジなんだって勘違いしてたんだ、俺」

「家電喫茶」って私は請け合った。「勘違いじゃないと思うよ」

「電子的な味がしそう」って彼は言った。私はそれに簡単にうなずいて、辺りを見回した。イッタも特に話を伸ばそうとはしていないみたいだった。


 駅舎は窓口や駅員の待機室を除けば四畳半ほどしかない。狭い室内の一辺に椅子が伸びているだけで、後はのっぺりととらえどころのない空間だ。窓口のガラスは白くくすんで、元々は白かったらしい仕切りのカーテンは、黄色くあるいは茶色く陽に焼けている。床の所々には原油をこぼしたような黒い染みが滲んでる。入り口の近くに、妙に隆起したひび割れの部分があって、そこはダルマストーブが置かれてた名残のようだった。


 壁にはいくつもの装飾品があてがわれてる。窓口の壁は時刻表や料金表、ワンマン電車の利用方法、駆け込み乗車注意のパネルが飾られていて、逆側の壁は私たちの座る、この長椅子だ。入り口側とホーム側の壁には、観光案内用のポスターが無数に貼り付けられてあった。ポスターは定期的に更新されているようで、他に比べてずいぶんと真新しいの。


 ホーム側の天井付近を見ると、アナログ時計が掲げられている。その時計は一般的なアラビア数字の代わりに十二個のひらがなを円状に並べさせていた。てっぺんから順繰りに読んでくと『こちらはわたいりえきです』っていう短い文章ができあがる。短針はそのうちの『え』より『き』に近い辺りを指していた。


「ほんと、ここは昔のまんまだね」って私はアナログ時計の文字に注目しながら言った。ああ、ただ、その時計だけは記憶になかったのだけど。でも全体の雰囲気にはよく調和してた。


「どこにでもある、田舎の無人駅って感じだよ。昔は賑わってたらしいけど」

「でも、私が遊び場にしてた頃から、昼間はずっとそうだったよ」

「そうなんだ?」ってイッタは覚えのないことのように言う。

「うん。そうじゃなかったら駅まで逃げ出してなんかこないよ。人のいるところって雑音がひどいから、あんまり落ち着かない。ここはひっそりとしててよかったんだ」

「へえ、コオリがそんな論理的に行動してたとはね」

「もちろん、今だからそう思うってだけで」って私は言った。

 イッタはなにか言う代わりにうなずいた。


「まあ、いずれにしろ、最近じゃ朝も夕方もそんな感じだよ。一部の連中が通学に使ってるくらいで、通勤用にっていうのは聞いたことないね」

「車社会だもんね」って私はここ数日で体感したことを訳知り顔で言う。

「そうね」って彼は一旦同意した。「それに、俺たちの幼少期のほうが異常だったんだ。今のほうが、むしろ自然な状態だよ」

「それって、バブルのこと?」

「こんな田舎にも恩恵はあったってことさ」って彼は暗にうなずいた。

「イッタはその頃のこと覚えてる?」

「覚えてないけど変化は実感してる」

「例えば」

「小さいときは世界が無限に広がってくような希望に溢れてた。周りも笑顔だったし、町も賑やかだった。成長するに連れてそれがどんどん灰色になっていく」

「急に詩的だね」って私は言った。「でもそういう感覚って、子どものときにはみんなそうだと思う」


「かもね」ってそれについては彼も充分承知してるといったように重くうなずいた。「だけど客観的に見ても事実だよ。この町だって確実に衰退していってる。現にショッピングモールも……」


「大丈夫だよ」って彼が言い淀んだのを見て私は言った。


 イッタの恋人は中々現れなかった。私たちの会話は一旦始まると中々やまなかったけど、どこかでブレーキがかかると途端に急停止してしまう、妙なリズム感を持っていた。そしてそうなると私は、また辺りを見回すようにして自己世界への没入を始めた。


 壁じゅうに貼られた観光用のポスターはこの地域にあるあらゆる観光地を宣伝してる。志賀高原、黒部峡谷、善光寺、戸隠神社、白樺湖、中には旅行代理店が用意したらしいツアー案内のポスターもあった。でもほとんどは地元の観光課や自治体の作品だ。


 そこには例のお祭りのポスターもあった。電車を降りてきた人の目に留まりやすいようにか、入口側の壁に貼られてある。夜空に浮かぶ一輪の花火を映した、一目でお祭りの案内だってわかるデザインだ。とても大きな菊型の花火が、満開の一瞬を見事にシャッターに納められている。全生命力がその瞬間のためだけに注がれているっていう、まさにその一瞬をだよ。私の注目が引かれたのも、その満開の花びらの美しさのためだった。


 次いで『花蕊祭』って文字に気がついた。ポスターの耳のあたりに大きな筆字で書かれてる。でもそのとき私は直前にイッタから聞かされた夏祭りと、この『花蕊祭』って書かれたポスターとをうまく結び付けられていなかった。


「はな……なんて読むんだろう、はな、なんとか、さい?」ってだから私は言った。

「花蕊祭だよ、さっき教えただろ?」って背後からイッタの声が届いた。私が振り返ると、彼は得意そうに手のひらを上に向けて、「漢字だとそうやって書くんだよ」


 ポスター下部の案内を見てみると、そこにはたしかに、八月十一日開催、そして『綿入駅周辺・駅前通り』が開催場所だと明記してあった。


「ああ、本当だ」って私はあまり興味なくつぶやいた。「でも、こんな字で書くんだね。『蕊』っていう字。草かんむりに心が三つで……?」

「雄しべとか雌しべのシベだよ」って彼は言った。

「ああ、そっか、その蕊なんだ」って私は、普段の彼らがひらがなであることを彷彿しながらうなずいた。「難しい字だね」

「この町の人間なら誰でも書けるけどな」

「でも、どうして雄しべとか雌しべのお祭りなんだろう」って私は既に興味を次に移して訊いた。

「ああ、それは」って言って彼は少し考える。「乱暴に言っちゃえば単なる洒落かな」

「洒落?」

 私が訊くとイッタは少し得意そうな顔をした。


 そもそも花蕊祭という夏祭りは元来綿入には存在しなかったもので、それ以前は町内の各神社が個別に例祭を行ってたらしいんだ。けれども昭和の中頃に地元の商工会を中心として一つの運動が起きた。小規模の例祭を乱発するより大規模に一つあったほうが町の発展に繋がるっていう主張の運動だったみたい。実際にその主張が正しかったかは別にして、結果綿入に花蕊祭っていうお祭りが生まれた。


 要するに花蕊祭は由緒ある歴史や伝統なんかを持たない、比較的新しいお祭りってことだね。ということは花蕊祭という名前自体にも特別な意味はないってことさ。この名前はいみじくもイッタが洒落といったように、七十二候の処暑の時期にあたる綿柎開(わたのはなしべひらく)という節季名から取られてるんだ。綿入で開催される花蕊祭。つまり綿柎開というわけだ。


 だけどイッタの説明によると実際の綿柎開は暦の上では八月二十三~二十八日に当たるらしいんだ。さっき私は花蕊祭の開催日が八月十一日と見てたから、由来の事実とちょっと噛み合わない。これには商業的な理由があった。


 というのもさ、ちょっと夏祭りというものを想像してほしいのだけど、大体のところこれらのお祭りはお盆の前後を中心にしていると思うんだよね。八月の下旬ともなると客足も遠のいて盛り上がりに欠ける。そこで初めは綿柎開の時期に催されていた花蕊祭もこの時期に開催日を移したというわけだ。お盆直前の十一日っていう妙な日程も、近隣の大規模なお祭りと競合しないための案だったらしい。元々が由緒あるお祭りというわけではなかったから、そのあたりは柔軟に対応できたんだって。


「結局は祭りの規模も縮小しちゃったから、日程を移した意味があったかどうか、今になっちゃわかんないけどね」って彼はそう締めくくった。


「ちなみに、私たちが遊びに行ったときは何日だったの?」

「いや、ずっと前から十一日だよ。平日だろうが雨が降ろうが、つまり土砂降りにでもならない限り十一日」


 そのときイッタの携帯端末から通話を知らせる着信音が鳴り出した。さっきも道すがらに耳にしたメロディだ。どうやら恋人さんがいま家を出るところだって連絡してきたらしい。それが一方の口ぶりから伺えた。


「聞こえた?」って彼は通話を終えたあと、私の背中に問いかけた。「シズカの家から駅まで、歩いて十五分くらいだよ」


 私はずっと花蕊祭のポスターに目をやっていた。そのポスターに妙に惹き込まれてたんだ。イッタには適当に「うん」って相槌のように答えておいた。


 それは特に芸術的でもないし創造的でもない、ありふれたデザインのありきたりなポスターだ。たった一輪の打ち上げ花火が満開とはいえ映っているだけの、安っぽい仕上がり。それも若干ピントがずれている。でも私の故郷で行われる祭りというだけで、そこに大きな価値が生まれてた。


 ポスターの下部には花蕊祭の詳細情報が記載されている。開催場所、日時、文字だけで説明されたアクセス方法。『八月十一日(水)PM 18:00~』という日にちもしっかりここに印字されている。


「本当に曜日は関係ないんだね」って私はポスターを見つめながら言った。「今年は水曜日なんだ」

「そう。月曜でも金曜でも、決まって八月の十一日」

「だけど、そうすると、何年かに一回は週末と重なるよね?」

「七分の三の確率でね」って彼は素早く言った。「うるう年を考慮しなければだけど」


「ねえ、大したことじゃないんだけど、それだと他のお祭りに日程がかぶる年もあるんじゃない?」って私はいよいよ彼に振り返って言った。「大きなお祭りって、週末に日程を合わせるよね」


「あるだろうね」って彼は簡単な言葉でうなずく。

「だとすると、その年だけ客足が途絶えちゃわない?」

「いや、どうだったかな。何年か前に土日と重なったことがあったけど」って彼はその記憶をたぐっているようだった。でもすぐに諦めて、「まあ、いずれにしろ、そういうことだってあるよ」


「それならいっそ、曜日で決めちゃった方がいいと思うんだけどな」って私は言った。「毎年八月二週の水曜日、みたいに」

「わざわざ平日に設定したら苦情がくると思うけど」ってイッタは鼻で笑うように言った。「何年かに一回は週末と重なるっていう曖昧さで、みんな納得してるんじゃないかな」


「どうして毎年平日だとみんなが困るの?」

「どうして?」って彼は耳を疑うように言った。「そりゃ俺たちは夏休みだからいいけれど、次の日仕事があるのに心から祭りを楽しめる大人が、一体どれだけいる?」

「それはわかるよ。私が言いたいのはそうじゃなくって、基本的には花蕊祭って平日に開催されるんだよね。でもそれって、そもそも花蕊祭はよそからの客足を望んでないってことの証拠だと思うんだ。いまイッタが言った通り、平日の夜に他の地域の祭りに参加しようなんて考える人は、少ないだろうから。だけど花蕊祭はそういうことも織り込み済みで、十一日っていう開催日に限定してる」、私はそこで一旦言葉を切った。「でもさ、そうすると、たまに開催日が週末と重なることって、お祭りの主催者側からするとデメリットにしかならないと思うんだよ。だって週末に開催する年は、いつもの年より、もっと客足が遠のくんだから」


「えっと?」って彼は言った。確かに、思い返してみるに私の説明には難があったかもしれない。難があったというよりも、私の立場が見えてこない。彼はそれを必死に咀嚼しようとしてくれていた。


「要するに花蕊祭は、綿入に住む人間だけが楽しむツールにすればいいってこと?」ってイッタは様子を伺いながら言う。

「もしくは花蕊祭に愛着を持ってくれてる人たちのために」って私はうなずいた。「だって、よその大きなお祭りと日程がかぶったら、そういう人たちだって、その年だけは心変わりしちゃうかもしれない」


「なるほど。味方の支持まで失いかねないってわけね」って彼は納得したように言う。

「だから平日に限定した方が、みんな幸せになれると思う。十一日にこだわる必要はないんだから」

「だけどそうするといよいよ皆の気持ちが離れていかない?」

「どうして?」

「さっき俺が言ったことだよ。平日に祭りを楽しめる大人は少ない。でも何年かごとに週末に開催されるって点で、納得してる。もし平日に限定したら、今度はそういう連中の支持まで失ってしまう。他の祭りに浮気しない、一途な連中の支持までね」

「それはさ、そういう意識を根付かせる努力をするんだよ。花蕊祭が平日に開催されるってことを自然に受け入れられるように」

「具体的にどうやって?」

「それは。今すぐには浮かばないけれど」って私は言った。「でもそういう努力をするべきだと思うんだ」


 ――それは誰が見たって無意味な議論でしかなかった。内容が陳腐だったというだけでなく、私たちがこの場でいくら答えを模索しようとも、その答えがなにかに影響を及ぼすことは決してないからだ。私たちは花蕊祭の実行委員でもなければ彼らに意見陳述できる立場の人間でもない。ただこの場で真剣な議論の真似事をして、勝手に満足しているだけだった。そこには合理性も生産性も存在してないの。


 要するにこの時期の私はまだ、既にそうなってしまっている矛盾に対して、すんなりと納得してしまえない潔癖さを持っていた。社会の曖昧さや整合性のなさを頭では理解していたけれど、感情の方はまだまだ頑固らしかった。それはひとえに若さのためで、もしくは無知のせいだった。


 でも、もちろん本気でこんな議論を交わしてたわけじゃない。それはイッタの恋人がやってくるまでの単なる暇つぶしでしかなかった。暇つぶし、というわりには、ずいぶん熱っぽくなってたかもしれないけれど。


 だから、駅舎の外に彼女の姿が見えるまで、この無意味な議論は続けられてたの。でも彼女はさっきの通話を終えてから五分かそれくらいでやってきた。議論は本気の熱を帯びる前にぱたっと閉じられる。


「あれ、シズカもう来た」ってイッタは立ち上がりざまに言った。


 外に振り返ったとき、そこには自転車にまたがる彼女の姿があった。

 短い髪の子だ、って私の視線はまずそこに向いていた。肩口までの、私より少し長いくらいの、色素の薄い髪。それが太陽の光を裏から表に透してた。風を受けてふわりとなびいてる。私の心臓が、なぜかそのときどくんと鼓動した。


 うっすら日焼けした肌と、ラメのついた白いTシャツ、それとスキニーのジーンズ。それだけ見れば、飾り気のない純朴な田舎の女の子だった。遠目にもわかる均整の取れた体つきと、すらっと伸びる細い腕。足はそれ以上に長く感じた。


「ほら」ってイッタは私の肩を叩いて外に出ていった。私は気後れしながら慌ててその場に立ち上がる。意味もなく手櫛で髪を梳く。


 待合室から出たとき、彼女は駅舎に横付けされた駐輪場に自転車を停めていた。ポリカーボネートの屋根の下にいる彼女の横顔を、私の目が捉えることになる。


「乗ってきたんだ?」ってそのときイッタは彼女に話しかけていた。

「待たせると悪いから」って彼女は恥ずかしそうに答えてた。

「で、ここに停めてくの?」

「二人とも歩きなら、私も合わせるよ」、その声もとても透き通ってた。

「ああ」って、その言葉を聞いて私は呻くようにつぶやいた。徒歩になった原因について、この場で謝らなければいけないと感じたからだ。だけど思うように声が出なかった。


 彼女は声に反応するように、こちらに向いた。そしてその瞬間、彼女はぐっと表情を華やがせた。正面から私はその顔を見る。

 とても美しい女の子だった。目元や鼻梁、それに口元も、どれもはっきりとして特徴的な顔立ちだ。切れ長なんだけど優しさの感じる目と、筋の通った鼻、適度に厚ぼったい唇と、その下には薄灰色の縁取りが浮かんでる。目元には小さな泣きぼくろもあった。

 輪郭も、そして体の線も、限りなく細められていた。でもそれは美しさの境界線上に立っていて、決して病的な印象を与えるものではなかったの。背丈もイッタと並ぶくらい高かった。

 でも何より魅力的なのは、彼女がその全身を使って織りなす仕草の方だ。イッタに対しての対応と、そして私を見た瞬間の表情の変化と、その二つから私は、彼女に敵意がないことと、それから彼女の内面にある明るさと慎ましやかさを、すぐに見て取った。


 あれほど強くイッタが請け合っていたとおり、私は一目で彼女への疑念を取り払ってた。ううん、それは何か強烈な力によって、勝手にどこかへ消えていた。

「堀田さん!」って彼女は叫ぶ。

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