第二節(0302)

「それはさ、私に会いたいんじゃなくて、よくいうじゃん、変な虫がつかないように、って。だから相手としては監視役のつもりでしかないんだよ」


「そう、俺が危惧してたのはまさしくそのこと。つまりコオリがそういう疑いを持つんじゃないかって恐れが、情報の伝達を阻止させていたわけ」

「急に約束を反故にされそうだったから?」

「じっくり時間をかけて説明すれば状況も変わるだろうって考えた」って彼は詐欺師のような笑顔でうなずいた。「メールや電話じゃ、途中でぷつっと切られるからね」


 イッタはもうすっかり元の愉快な調子を戻してた。多分最初から深刻になんて考えてない。私は値踏みされた思いからあまり気分がいいとはいえなかったけど、苛立ちというよりは疲労感の方が強くのしかかってた。


「いずれにしろ、あいつに敵意がないのは明らかだよ」ってイッタは話を続けた。「何かの魂胆があるわけじゃなく、純粋にコオリに会いたがってる」

「彼女がそう言ったから?」って私は言った。「本音と建前が一緒とは限らないよ」

「もちろん。もちろんそうだよ。一般的にはね」って彼は恋人に全幅の信頼を寄せているように言った。「でもあいつは間違いなくコオリに会いたがってる。あいつがそう言ったからってだけではなくて、俺にはそれがわかるんだ」

「私にとってはまるで信憑性がない話だよ」


「だろうね」って彼は一旦同意した。「でもそのことは、ちょうど昨日の俺とコオリの立場を逆にしただけのことさ」


「昨日のイッタと私の立場?」

「ほら、つまり今日の約束についてだよ。もしかしたら引っ越しの手伝いがあるかもしれないってコオリは言っただろ。で、兄ちゃんたちに伺いを立てるために一旦自分ちに戻っていった」

「結局聞きそびれちゃったけどね」

「そう。だけどさ、コオリは兄ちゃんたちに訊きに行かなくったって、初めから答えがわかってたはずなんだ。そうだろ? わざわざ訊きに行ったのは、ただその予感を確実なものにするためだけだったはず」


「それが今の件とどう関係があるの?」

「つまりコオリが大体のところ安心してたのには、それなにの根拠があったってこと」

「ああ」って私は言った。「それは確かに」


「でも俺はコオリが感じてるほどにはわからなかった。ほら、ちょうど今と立場が逆じゃないか。そして今日、結果として約束したとおりに事が運んでる。なにも心配はいらない」


 私たちは既にヤシパンから離れ、綿入の中を進み始めてた。自転車の有無やイッタの寝坊、そして彼の策略、どちらの立場からも少なからず予定の食い違いがあったけど、全体の流れとしては概ねイッタの言うとおりだ。トモ兄たちに拘束されるという大前提の未来は避けられた。


「それにしてもイッタは少し楽観的過ぎる気もするけれど」って私はそれでも釈然としない心持ちで言った。

「会えばわかるよ」って彼は笑った。「取り敢えず駅で落ち合うことになってるから、話はそれから。ここで議論を続けたって仕方ないだろ? 実際に対面してみるまでは」


 私は丸め込まれてるのを承知でうなずいた。悔しいけれどイッタの言い分にも一理ある。実際に彼女と会ってみるまで、ここで交わす議論は机上の空論にすぎないわけだ。彼にはそうやって、不思議と他人を納得させてしまう、姑息な説得力が備わっているんだよ。

 もちろん、そうはいっても私はまだ半信半疑だった。仕方なくイッタに追従してはいるけれど、完全に心のもやもやが取り払われたわけじゃない。


「付き合ってからどれくらい経つの?」って私は訊いた。

「まだ疑ってるね?」って彼は素早くそれを見抜く。「交際を始めてからは三年くらい経つ。ただ、それ以前からもクラスはずっと一緒だった。小学校の六年間と、中学の三年間。中学校にあがってからも運良くシズカとは……ああ、シズカって名前なんだけど、あいつとはクラスが別になることはなかったんだ。うちの学校はクラス替えとかもなかったから、入学時のクラス分けがそのまま卒業時まで適用された」

「ってことは私とも同じクラスだったの?」って私は言った。「私とイッタは小学校のときに同じクラスだったよね」

「そうだけど、さっきそう言わなかったっけ?」

「言ったっけ?」って私は本当にそのことを忘れて言った。


「ねえ、だけどさ、当時のクラスメイトのことなんて、私全然覚えてないよ」って私は構わず続ける。


「それもさっき聞いた」ってイッタは愉快に笑った。「いずれにしろコオリはなんにも心配する必要なんてない。ありのままのコオリでいればいいんだ。細かなことに目くじら立てるようなやつじゃないよ、シズカは」

「信頼してるんだ」って私はそこに若干の嫉妬のようなものを覚えて言った。

「少なくとも今日のことに関しては」って彼は言った。

 私は肩をすくめた。


「ねえ、じゃあ、もし仮にだけど、向こうに敵意があったなら?」

「そんなことは万に一つも無いと思うけど、そうなったら好きにしてくれ」って彼は投げやりに言った。いや、投げやりというよりは、それが馬鹿馬鹿しい仮定であるとでもいうように。「煮るなり焼くなり、踵を返して帰るなり、もしくは憂さの晴れるまでキャットファイトするなり、ご自由に」


 まったく、これが人を罠にかけた男の態度なんだから呆れるよ。でも彼の弄した策略はともかく、実際にイッタが口にすることは嘘とも思えなかった。なぜかといわれればそれもまた根拠のないことだけど、一方で彼の供述はある程度筋が通っていたし、なにより言い分自体は真面目だった。言い分自体はね。


「面倒くさいなあ」って私は言った。それは私にとって承諾を示すサインなの。

 そして彼は私が意図する通りにその言葉を受け取った。

「つまり面倒は避けて通れないってことだね?」


 そのとき私たちはちょうど、あの頑固なおじいさんが営むガソリンスタンドの十字路に差し掛かってた。十字路をまっすぐに進路を取れば、イッタの恋人との待ち合わせ場所である駅に着く。綿入で駅といえばその一つしか存在しない。


「でも、どうして駅なの?」って私は訊いた。「直接イッタの家まで来てもらえばよかったんじゃない?」

「はじめは俺もそのつもりでいたんだけど、より早く合流するには駅の方が近いんだ。つまりお互いの家から計算すると」

「その割にはずいぶんのんびりしてるよ。今日は九時集合って話だったのに」


 ヤシパンの前で確認した段階で、時間は九時四十三分になっていた。既に一時間弱の遅れだ。


「家の手伝いが思ったより長引いてるらしいんだ」って彼は言った。「さっきの電話もその報告だよ。ちょうどいま片がついたってさ」

「その子の家、お店でも開いてるんだ?」

「いや、農家だよ。かなり手広くやってる農家。いくつも土地を持ってて、この辺りじゃ結構有名な農家なんだ」って彼は言った。「農繁期には近所からお手伝いさんも招いて大々的にやるんだけど、今の時期はそれほどでもないからね。だから逆に身内が割を食うってわけ」


「じゃあ、合流は十時頃になるのかな」って私は特に彼女の家の内情には関心を示さずに言った。

「もしかするともう少し後ろにずれこむかもしれない。さっきの電話は畑からかけてきたんだよ。家に戻って、着替えて、いや、シズカのことだからシャワーも浴びてくるかもしれない。多分、十時半ごろかな」


 私はぽっかりと口を開け、馬鹿にした顔でイッタに目をやった。『もしもしお元気ですか』って彼の頭を叩くような表情だ。一体どういう計算が成り立てば九時の約束が十時半までずれこむんだろう。


「実をいうと九時集合っていうのがそもそもの保険だった」って彼は言った。「コオリが時間通りに着くなんて思ってなかったからね。そして俺自身もその時間に目を覚ましてるなんて思っていなかった」


「その割には出がけに渋い顔してたけど」

「まさかシズカまで野良作業に駆り出されるなんて思ってなかった」

「イッタの予定って崩れることが前提なの?」

「まあ、でも、大勢に影響はないよ」

「狭い綿入だから」

「そういうこと」


 それから少しとりとめのない会話を交わしたあと、私はまた例のシズカちゃんの話題を引っ張った。


「でもさ、話を戻すようだけど」って私は言った。「私さ、綿入にいたころのクラスメイトのことなんて、本当に、まるっきり覚えてないんだよね」

「だろうね」って彼は初めから一貫した驚きのない態度で返事する。「何度も聞いたよ。わかってる」

「そうじゃなくて。それなのに向こうは私に会いたがってるんだよね?」

「うん?」

「それってどういうこと?」って私は続けた。「よく意味がわからないんだよ。イッタの口ぶりからすると、その子はどうしても私に会わなきゃ気がすまないみたいに感じる」

「もしかしてまだ疑ってる?」

「そうじゃなくて、純粋に疑問なの。シズカちゃんだっけ。彼女が私に会いたいと思う理由はなんだろうってこと。もしも悪い虫を追い払うって理由でないんだとしたらね」


「ああ。なるほど」ってイッタはつぶやいた。「そうだな。まずコオリがシズカのことを覚えていないのは無理もないよ。当時のシズカは引っ込み思案だったし、とにかく目立つことを嫌ってた。俺だってその頃のシズカについてはほとんど覚えがないんだから」


「それで?」

「で、コオリはいわばシズカとは正反対の立ち位置だった。とにかくクラスの中じゃ目立って仕方がなかった。良くも悪くも、両方の意味でね。コオリが転校したあとも、しばらくはコオリの話題で持ちきりになるくらいにだよ。たまにコオリがいなくなったことを忘れて、何かの頭数に入れてるるやつだっていたくらいだ。要するにコオリは、それまでクラスの中心人物の一人だったわけ」


「だからみんなの印象も強くて、彼女も私に会いたがってる?」

「乱暴にいえば」

「ふうん」って私はなにか腑に落ちないものを感じながらも一応うなずいた。


 そして続けざまに質問を投げかけようと口を開きかけた瞬間(それがどんな質問だったかも忘れちゃったけど)、遠くから大きな音が鳴り出した。田舎の静寂を切り裂く、甲高くって機械的で、一分の狂いもないリズムを刻む、踏切の警報機の音だった。


 音は背中から響いてきて、私はふっと振り返る。そうしているあいだにも警報音に混じってレールを軋ませる音が聞こえだす。がたんがたん、って軋みは徐々に大きくなって、その大きさがある一定の線を越えたとき、地面がかすかに揺れだした。軋み音がそれより大きくなると踏切の警報音は反対にぷつんとやんだ。同時に銀色の車体が私たちの前に現れる。


 電車は私たちのすぐ隣、用水路を挟んだ先から顔を覗かせた。銀色の車体とはいっても、派手さはなく、どちらかというと年老いたネズミのような色合いだった。いみじくも年老いて弱ったネズミのように、彼の動きはとても緩慢で、ちっとも前へ行き過ぎようとしない。車体には一本、頭から尻尾へと抜ける印象的な赤いラインが走ってた。空気中に線を引くように、その赤いラインがゆっくりと私たちの進行方向に伸びてゆく。


 二両編成の小さな電車だった。その体長も、色合いも、それから速度も、つまり全身全霊で彼は自分がローカル線の主だってことを物語ってた。窓の奥に乗客の姿はなく、空っぽの箱がほとんど義務のように右から左へと通過していった。


 レールを進んでいった先で、彼はこれも一つ私の義務であるというように、次の踏切の警報機を鳴らしていった。その踏切のすぐ先には私たちの目指す駅がある。

「乗せてってくれりゃ、楽なんだけどね」ってイッタはバックパッカーのようなことを言う。


 私は心を別の場所に置きながら曖昧にうなずいた。毎日の義務に拘束された、くたびれたサラリーマンのような鉄の箱に、見とれてた。

 もちろん綿入の中を電車が走ることは知っていた。でも知っているだけで懐かしさは覚えなかった。この瞬間私が感じていたことは、黄昏時の壮年のような姿が綿入の牧歌的な風景にとてもよく馴染んでいるなって、ただそういうときめきのようなことだけだった。


 私はしばらく線路の奥に目を注いでた。彼の姿は踏切より手前で民家の陰に隠れてしまった。でもその奥を透視するように眺めてた。


 そしてふと意識を戻したときに、なぜ今までそれに気がつかなかったのか自分でも不思議なんだけど、駅へ続くこの道の上に一つの発見をした。それは文字通り私たちの頭の上にぶら下げられていて、電柱と電柱のあいだに無数に並べられていた。白や黒や赤、配色はそれぞれ違っていたけれど、どの表面にも『祭』の一字かもしくは巴模様が描かれていた。


「お祭り、あるの?」って私は等間隔に吊るされたその祭提灯たちを見上げながら訊いた。

「え?」


 振り返ると背後にも提灯の列は続いてた。ちょうど例のガソリンスタンドの十字路から始まっている。よく見ると彼らは電線というよりも、その下に張られた通線ワイヤーにぶら下がっているようだった。


「夏祭り?」って私は言葉を変えて聞き直した。

「ああ。花蕊祭だけど、覚えてない?」

?」

「まいったね」って彼は肩をすくめた。「コオリも覚えてるものだと思ったから、わざわざ話題にあげなかったのに」

「変な親切心」って私は言った。

「参加できない祭りの話を聞いたって、面白くないだろ?」

「特別な行事なの?」

「じゃなくって、明日には帰るんだろ?」

「ああ」って私は苦笑いした。「そういうことね」

「普通の祭りだよ。誰でも参加できる、普通の夏祭り」ってイッタは皮肉屋らしくわざと強調して言った。「昔一緒に遊びに行ったことだってあるよ」

「私と?」


 イッタはまたしても肩をすくめる。「刹那的だね」って彼は感心したようにつぶやいた。


「多分、色んなお祭りの記憶とごっちゃになってるんだと思う」

「じゃあ、そういうことにしておこう」って彼は言った。「あのときはコオリの兄ちゃんも付き添いで来てくれた。たしか下の方の兄ちゃんだよ」

「ナオ兄だ」

「悪い、名前は覚えてない」って彼は言った。

「この道でお祭りが行われるんだ?」って私はそれには受け合わずに言った。

「いや、駅前の一角だけ。このあたりまでは屋台も伸びてこないよ」

「ふうん」って私は言った。

「昔はもっと大々的にやってたんだけどね。それこそ大通り一帯を封鎖してさ」

「大通り?」って私は言った。その大通りというのは私の記憶に間違いがなければ、ここから一本脇道に入った先にある通りのことだった。線路とは反対側を指差しながら、「それって向こうの道のことだよね?」


「そうだよ。思い出してきた?」

「花蕊祭のこと? ううん、全然」って私は特に感情を定めずに答えた。「えっと、つまりさ、どうしてこの道に提灯が飾られてあるのかなってこと」

「さあ。深くは考えたことなかったね。会場の近くだからじゃない?」ってイッタはそっけなく答えた。「特別な理由はないと思うよ」

「そっか」


「でも、たしかさ、そう、思い出した。昔コオリと祭りに行ったとき、帰りにこの道を通ったんだよ。それで、そのときも祭提灯がこうやって吊るされてあってさ。これ、中に電飾が入ってて祭りの夜はライトアップされるんだ。だからもしかすると、祭り客の安全に配慮して吊るされてあるのかもしれない。見ての通り街灯もまばらな道だからね」


「なるほど。光源としての役割」

「いや、でさ、思い出したっていうのはそのことじゃないんだよ」イッタはやけに嬉しそうに口角を上げた。「その祭りの帰り、コオリがさ、光ってる提灯を取ろうとして、ぴょんぴょん飛び跳ねてたんだよ。まるでウサギみたいに」

「ウサギなら可愛くていいじゃん」って私は笑った。

「だけど遊びって感じじゃなかった。本当に必死に取ろうとしてるんだ。兄ちゃんに肩車までせがんでさ」

「でも結局取れなかったんでしょ?」

「もちろん。全然高さが足りないからね。でもいつの間にか肩車の方が目的に変わってて、そのまま兄ちゃんの肩に乗って家まで帰ったんだ」

「信憑性のある話だけど、それのどこが面白いの?」って私は好意的な態度でイッタに訊いた。


「コオリが目移りをしやすいって話。今だって、電車に、提灯に。な?」


「だって、珍しいんだもん、色んなことが」って私はイッタに見られていたことをちょっと恥ずかしく感じながら言った。

「珍しい?」って、ところがイッタは急にきょとんとして言った。「懐かしいじゃなくて?」


「覚えてないよ、全然」

「祭りはともかく、電車まで?」

「新鮮だね」って私は答えた。

「へえ」ってイッタはどこか首をかしげる様子だった。


 でも幼い頃の記憶については本当に自信がないの。まるで一向に列の揃わないビンゴゲームみたいに、ところどころ鮮明に記憶を保ちつつも、そのほとんどを歯抜けにしてしまってる。子どもの頃の記憶なんて、みんなそんなものなのかもしれない。けれど私の場合特にその度合いが強かった。


 そのことをよく象徴する建物がこの道の先にあった。手前の十字路にはちょうどさっきの電車が警報機を鳴らしにいった踏切があって、踏切を越えて進めば小学校に、逆側に曲がれば大通りにって、それぞれ通じるのだけど、どちらにも曲がらずまっすぐ進むと、駅への道すがらにかつて私たちの通っていた幼稚園があった。


 最初に見えてくるのは通園バス用の駐車スペースだ。駐車スペースにはこの時期、稼働していない二台の通園バスが隣り合わせに停められていた。この幼稚園では送迎ルートがバスの色によって決まってて、私たちが利用していたのはオレンジ色のボディの方だった。


 敷地の外から見た限り、通園バスはかつての車体がそのまま使われているようだった。当時に比べて塗装が剥げたり色の褪せたりといった変化はあったけど、車自体が買い換えられたということはなかった。


「あそこの傷」って私はオレンジ色のバスを指して言った。後輪のあたりに横一文字の大きな引っかき傷が付いている。「あれ、私がつけたんだよね」


「そのへんの小石拾ってな」

「イッタも覚えてたんだ」

「逆に訊くけどさ、コオリはなんでそんなことをしたのか、覚えてるの?」

「なんでだったっけな。特に意味はなかったよ」

「覚えてる。無邪気に笑いながら引っ掻いてたよ」

「じゃあ、わざわざ聞かなくてもいいじゃん」

「いや、さ、そのバスに限らず、どうしてコオリはそういういたずらを平気でできたのかなって」


「なんでだろうね」って私は言った。「多分、身の回りにあるものは全部自分の所有物だって思い込んでたんだよ」


「なるほどね。確かにそういう節があったかも」って彼は笑って済ます。

 駐車スペースはこじんまりした園庭とつながっている。園庭には滑り台や雲梯といったありきたりな遊具が設置されてあった。でもいまこの季節にはそれらで遊ぶ子は誰もいない。


 子どもたちだけじゃなく、大人の姿も、夏の時期にはもぬけの殻だ。この幼稚園は各教室の前に木造の外廊下を張り出させていて、外部からでも園舎全体が見渡せる造りになってる。だけど教室の窓にはどれもカーテンがされて、おまけに廊下にも人影がないわけだから、通常の活動に溢れた雰囲気とは違う、ひっそりとした寒々しい感じが目の前にあった。


 廊下の床板を踏みしだくのは、かつての私たちの残像でしかない。小さな子どもたちが無邪気に廊下を走り回ってる。


「懐かしい」って私はその情景を思い浮かべながら言った。「イッタはよくあの廊下を走って逃げてたね。上級生たちにからかわれながら」

「みんな面白がってたんだ」って彼は言った。「俺を追えばコオリが助けにくるからね。撒き餌みたいなもんだよ」


「そうなの?」って私は言った。「じゃあ、助けないほうがよかった?」

「まさか。感謝してたよ。だけど、コオリの基準がわからないね。どういうことなら覚えてるの?」

「さあ」って私は自分でも愉快に感じながら首を傾げた。

「じゃあさ、これは覚えてる?」

「どれ?」


 彼はおもむろに正門を指さした。幅二メートルくらいの小さな門が、鉄製のぶ厚いスライドゲートで閉ざされている。どうも彼の指は門全体よりもこのスライドゲートに向けられてるらしかった。


「どうしてこの門が閉じられてるか」

「どうして?」って私は言った。「防犯のためにでしょ?」

「今はね。だけどこの門は登園日でも閉じられてるんだ。バス乗り場の門もおんなじだよ。開放してるのは行きと帰りの時間だけで、園児が授業を受けてるあいだも門はずっと閉ざされている」


「よくわかんないクイズだね。特別珍しいことでもないと思うよ、単なる安全上の問題だと思う」

「最近は物騒だからな」ってイッタはひとまず請け合った。「でもこの幼稚園では、十年以上も前からそういう取り決めになってるんだ。当時はまだ防犯意識なんて薄かったような時代なのにさ。それって、なんでだと思う?」


 なんでだと思う、って、そう言った瞬間のイッタは妙にいやらしい顔つきだった。皮肉的っていうよりも、底意地の悪い、人を小馬鹿にしたような笑顔だ。一人だけで物事を楽しんでいる。


「要するに、私が何か関係してるんだ?」って私はその表情から察して言った。「まどろっこしく言わないで、直截に教えてよ」


「っていうと、思い出さない?」

「それが何であるかも含めてね」って私は言った。

「一度コオリの頭を解剖してみたいね」

「いいから」って私はじれったさを感じながら言う。

「聞けば簡単な話だよ。この門は外からの守りっていうより、内側を閉じ込めるために機能してる。してた、かな」

「内側?」

 イッタはどこか満足そうに笑ってみせた。


 それは幼少期の私を紐解くうえで重要な手がかりになる事柄だ。当時私は年中さんで、幼稚園生活も一年を過ぎ、この小さな社会の規則についてはすっかり心得えているはずの頃だった。


 ある日のお昼寝中に私はむっくり起き上がる。この幼稚園では給食を終えたあと教室に布団を敷き詰めて、三十分ほど仮眠をとる決まりになっていた。いつもは私もそれに倣って隣の子の寝息を聞きながら目を閉じる。でもその日は特別に早く目が覚めて、周りがしんと静まっていることに言い知れぬ不安感を覚えたの。そこはなにか非現実的な薄闇だった。みんなの眠りを妨げないように、私はそっと教室の外へ出る。


 彼女が引き戸を開けて出てゆくのを、漏れ出す明かりの中で僕はぼんやり見つめていた。扉がそっと閉じられる。コオリちゃんなにしているんだろう、そう思いながらも僕は再び眠りについた。彼女が出てゆくと、室内は無音の闇に帰って行った。


 いつまで経っても彼女は戻らなかった。おそらく上履きのまま園庭に飛び降りて、脇目もふらずに外の世界へ抜け出した。閉ざされていないスライドゲートの隙間から。ううん、隙間というには大きすぎるほどの穴からね。


 そのあとの彼女の顛末についてなら、私もよく覚えてる。玄関扉を開けて、大きな声で「ただいま」と叫んだの。慌てた様子で母が居間からやってくる。私は歩いて生家まで帰ってきてたんだ。うなだれる母とは反対に、途中で脱げたらしい靴を誇らしげに両手で掲げてた。


 つまりその、三和土から見上げた映像だけが妙に脳裏に焼き付いてたの。途中のことはイッタの言葉を借りないと補完できなかった。


「幼稚園の方じゃ大騒ぎだよ。お昼寝の時間が終わったらコオリだけいないんだから。コオリんちに連絡入れたり外まで探しに出たり、先生たちは必死さ」って彼は言った。「俺なんかしつこいくらいコオリの行き先について訊ねられたんだから」


「唯一の目撃者だからね」

「いや、それは黙ってた。質問の矛先が俺に向いたのは、単にコオリと仲が良かったからだよ。俺たちが共謀して何かを企てたんじゃないかって疑われてたの」

「ああ、とばっちりだ」

「その上コオリが出てゆくのを見てたなんて知れたら、どんなお叱りを受けるか知れなかったからね。俺はずっと首を振り続けてたよ。あとでコオリんちから無事の報せがあって、俺の濡れ衣は晴れたわけだけど」


「それで、それ以来この門は閉じられるようになった?」

「そういうこと。誰かさんが抜け出さないように厳重にな」

「ちっちゃな女の子が犯人だったんだ」って私は笑った。


「コオリはルール作りが得意だったからね。女の子が男の子を泣かせてはいけませんとか、お絵かきの時間は自分のクレパスを使いましょうとか」

「覚えてないけどね」


「ま、いいさ」って彼ははじめから答えがわかっていたように笑った。「それじゃ、ぼちぼち行こうか、足止めして悪かったな。まあ、といっても、駅はすぐそこだし、シズカはまだ着いてないだろうけど」

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