8月8日(日)
第一節(0301)
昨夜イッタと連絡を取り合った中で、彼の家へは九時ごろに訪問するという約束をとりつけていた。私は彼のその日の起床時間を知っていたから、また玄関先で待ちぼうけを食うような不安をほんのり感じていたのだけれども、実際にその時間に彼の家に着くと、イッタはこと起きているという約束だけは遵守したような眼で私を出迎えた。
この日は朝から穏やかな空気が流れてた。朝食を過ぎても伯父や父が出かけることはなく、おかげでサヤコさんものんびりと片付けをしていたし、祖母もどこか眠たそうな目で微笑を浮かべてた。テレビからは日曜日特有のなごやかなワイドショーが流れ、網戸を通してくる風も午前中にはまだ涼やかだった。
その中で伯父は、誰の目から見ても明らかにそわそわと、なにか浮足立っているようだった。でもそれは伯父ばかりでなく、父も、サヤコさんも、そして祖母も、共通して一つの思いをめぐらしているようだった。それをみんな上手に隠していたけれど、彼らの頭は私を無事にイッタのもとへ送り出すことでいっぱいだったんだ。きっとサヤコさんがみんなに伝えたんだと思う。そうなると父も昨日の一件をすっかり忘れたようで、祖母の家では誰もがこの特別に与えられたイベントを祝福してくれた。
とりわけ父以外の三人は顕著だった。昨日トモ兄も途中まで言いかけてやめたように、祖母たちにしてみると私を生家の問題に巻き込むことには元から懐疑的だったらしいんだ。だからこそ帰郷の最中に私が見出してきた新たな目的は、彼らからするとひとしお喜ばしいものだった。伯父は私の出発時間を見誤るまいと、ことあるごとに柱時計へ視線を送ってた。
けれども途中で来客があったとき、その伯父がサヤコさんとともに玄関先まで向かっていった。
来客というのは近所の農家のおじさんだった。彼は朝方に採ってきた収穫物のおすそ分けにやってきた。でもそれは単なる口実で、本当のところはとりとめのない世間話で伯父とサヤコさんを拘束する狙いだった。
彼らは長いこと框の上と下とで雑談を交わしあっていた。伯父のよく通る野太い声は、時おり私たちの耳にまで届けられた。
居間まで引き返してきたサヤコさんの手には、夏野菜の詰まったビニール袋が提げられていた。彼女は戸口に立って中身を広げてみせた。どこどこのなにさんからだと、祖母に報告してた。伯父は玄関の外までお客さんを見送っていた。
サヤコさんはそのままお勝手へ引き、伯父の戻りはちょうど入れ違いの形になった。「まあず話が長いもんでよ」って彼は居間の戸口をまたぐとき、義理のような不満を垂らしてた。
だけど鳩時計に目をやって、すぐに態度を変える。
「おお、もうこんな時間だでねえか」
みんなの視線がそれで一斉に鳩時計に注がれる。でも慌てることはない、鳩時計の針は予定ちょうどを指していた。
昨日とは違って私の準備は万全に整っている。ゆっくりと座布団から腰を浮かせて、祖母たちに外出の挨拶をした。
お勝手から戻りしなのサヤコさんとは書斎のところで出くわした。
「あら、もうそんな時間?」って彼女は言った。
「ちょうどです」って私は期待を隠せない様子で会釈した。
サヤコさんは書斎から私を見送ろうとしてくれたけど、伯父に呼びつけられると顔だけ居間の中に覗かせた。私はその間に框へかけて靴の踵を直し、玄関の引き戸をがらがらと開けた。
「いってきます」って最後に言ったとき、サヤコさんは慌てて顔をこちらに向けながら、
「気をつけて行ってらっしゃいね!」って急な笑顔を振りまいた。
私はそのまま祖母の家の坂を下りてった。
表の道に出てからも、違和感は何も感じていなかった。心に何一つ引っかかりの覚えない素晴らしい出立だよ。でも、ようやく気がついたのはアンダーパスをくぐり抜けた瞬間だ。そのときになってようやく、今日の日程を丸々徒歩で行うのだろうか疑問が湧いた。
イッタがこの狭い田舎のどこを案内してくれるつもりにしても、足はあったほうが楽に違いない。きっとイッタだってそう考えてるはずだ。
そもそも今日は私の方でも自転車を借りるつもりでいた。祖母の家に自転車があることは、トモ兄の詭計によって生家まで歩いて向かう羽目になった昨日の朝、サヤコさんが提案してくれたことで明らかになっていた。だけど今朝になってみんなうっかり忘れてたんだ。
私はアンダーパス越しに祖母の家に振り返った。振り返ったまま私は迷う。いきおい飛び出してきたのに今からお願いに戻るのもなんだかバツが悪かった。ううん、恥ずかしいというだけじゃなく、気乗りもしなかった。
それに変な感覚も働いた。なんとなく「そうはならないだろうな」って予感がしたんだ。漠然とはしてるけど答えは揺るがない感覚。私がこういう予感に襲われるとき、大体のところは想像した通りの結末になってしまう。だから祖母の家まで戻っても無駄な気さえした。
結局少し躊躇しただけで、このまま二本足でイッタの家まで向かうことにした。
アンダーパスの先の十字路を曲がって、田園風景の道をゆく。昨日にも私は生家へ向かうために同じ道を辿ったわけだけど、二度三度に関わらず、この景色はいつ見ても新鮮だった。それにこの日はイッタがどこを案内してくれるのか考える楽しみもあったんだ。小学校が見えてきたとき、その期待は大きく跳ね上がった。そうして例の給排水場、新興霊園、トレッキングコースの入り口、きのこ工場、ガソリンスタンド、製鉄工場、と、徐々に早まってゆく足取りでそれらの横を通り過ぎてった。
とうとうヤシパンの前に着いたとき、私はそこの十字路を右折しかけた。でもとっさに思い直してまっすぐに進路を取った。生家に通じる道を使うのは、なんとなく気持ちがまずかった。
ガレージ側から入って玄関の呼び鈴を鳴らすと、ドアはチャイムが鳴り終えてからきっかり二分後に開かれた。中から姿を見せたイッタは、まるで緊張感のない伸び切った面持ちだった。
「おはよ」ってあくびまじりに言う。
私はその一言、あるいは見た目一つで彼の準備不足を見破った。上下とも黒のスウェットに、髪もセットされてない。第一にあくびを押し殺した声だけでも明らかだ。
「寝癖、ひどいよ」って私は苦笑いした。「いま起きたところ?」
「いや」って彼はまだ血の巡りきっていない、厚ぼったい眼で返事した。
まだ酸素が充分に頭に行き届いてないんだ。そのまましばらくうらうえの世界を往復して、彼はようやく「五分くらい前」とだけぼそっと答えた。
「直してきなよ」って私は自分の髪を巻くようにして言った。
彼が自室に引くあいだ、私は上がり框にかけて待つことにした。部屋へ戻る途中、彼は吹き抜けの廊下から「リビングで待ってて」って、絞り出すようにして声をかけてくれたけど、私はそれには応じずその場所を保持することにした。
だけどイッタが例の無機質で生き心地のしない白と黒の部屋から出てきたのは、それから十五分も経ってのことだった。それらないっそリビングのソファを占拠している方が正解だったし、実際にそうしようかとも迷い始めてた。彼が部屋から出てきたのは私が靴を脱ぎかけたのとほぼ同時だ。
部屋から出てきたイッタはすっかり見違えていた。髪も服も身ぎれいに整えられて、あの厚ぼったい目も、一度クリーニング店に出したみたいにぱりっとのりがきいていた。
彼は手すりから身を乗り出すようにしてこっちを見下ろした。
「リビングで待っててくれてよかったのに」って、今や口調もはっきりしてた。彼は吹き抜けの廊下をぐるっと回ると、玄関横の階段をエイトビートのリズムでおりてきた。
「いや、おまたせおまたせ」
「起きてると思ってたんだけどな」って私は携帯端末をポケットにしまいながら言った。
けれどもイッタは階段の脇に立ったまま、なぜか次の行動に移ろうとしなかった。私とは反対に携帯端末をボトムスのポケットから取り出すと、液晶画面をじっと睨んだり、ボタンを指で操作したりした。たまにセットしたばかりの頭をぼりぼりかいて、もしくは何か腑に落ちないとでもいうように渋い顔をしてみせた。
「どうしたの?」って私は、もう一秒も待ちきれない子どもみたいにそわそわして言った。「早く、行こうよ」
「いや。うん」って彼は気のない返事をしながら、親指で必死にボタンを操作した。誰かに宛ててメールを打っているようだった。送信完了の効果音が鳴ってからも、彼は首を傾げて納得いかない様子を見せていた。
「まあ、いいか」ってイッタは携帯端末を閉じながら言った。「いや、悪い、本当におまたせ」
「もう行ける?」
「ああ。それと悪いついでにあれだけど、行きがけにヤシパンに寄ってもいいかな」
「ヤシパン?」って私は言った。「いいけど、おなかすいてるの?」
「そりゃね」って彼は言った。そしてまるで彼の中では今まで時間が止まっていたみたいに、「五分前に起きたばっかりだからさ」
「いいけどさ」って私は半ば呆れ顔でうなずいた。
「とりあえず、行こうか。どうせ向かう方角は変わらないんだし」って彼は陽気に言って、その陽気さは玄関を出てガレージに着くまで保たれていた。
ガレージの端っこに停めてあったクロスバイクにはニシキヘビくらいの太さのチェーンロックがかけられていて、イッタはガレージの壁につけられたキーケースから専用の鍵を取り出すと、後輪とステーのいあいだに結ばれたその輪っかに差し込んだ。
「あれ」って彼はそのとき表情を平坦に戻して言った。「そういえば、コオリは歩き?」
「そうだよ」って私はうそぶいた。「借りられるはずもないからね」
そうするとイッタは今その手に握ったチェーンロックと私の顔とをとみこうみ見比べた。
「歩き?」って彼は少し間を置いてから聞き返した。
「うん」って私はうなずく。「ごめん、問題あったかな」
「いや、まあ、いいか」ってイッタは呆然とつぶやく。「狭い田舎だし、チャリの一つくらい大勢に影響はないよな。多分」
でも彼はすぐに気を取り直して、「待てよ。そうすると俺も歩きの方がいいのか?」って誰に訊くでもなく言った。
「二人乗りは?」
イッタはそれに黙って首を振った。そしてチェーンロックの握られていない方の手で、クロスバイクの後輪部分をすっと指さした。
ガレージの隅に置かれてあった彼のクロスバイクは、よくある軽量ボディのアルミフレームで、けれども量販店に並べられてあるそれらと違うのは、ボディにしろスポークにしろギアにしろ、すべてのパーツが真っ黒に塗りつぶされていたことだった。ボディはもともと黒だった上から更にトップガードのスプレーを上塗りしたらしく、光沢とともに本来チューブフレームに印刷されてあるはずのブランド名まで蓋をされていた。塗装の厚みで根詰まりが起きないように、ギアとチェーンだけはわざわざ黒い部品に換えたんだと、イッタは得意そうに語ってた。
見た限り彼のクロスバイクには妥協が許されていなかった。その点は彼の自室とおんなじだ。唯一違うのは、ボディの部分に権力への屈従を示す通学許可のステッカーが貼られてあることだけだった。
そしてもしかするとイッタの執念は、このクロスバイクの方こそ、より強く注がれていた。塗装を施すだけでは飽き足らず、あらゆる機能までが単純化されてたの。カゴも荷台も鈴もこのクロスバイクには取り付けられてない。普通は好みでカスタマイズするようなグリップとかサドルだって、面白みのないストイックなデザインのものが用いられている。まるで生きるためには水とパンだけあればいいというサドゥーのように、ただただ走るということだけを目的とした機能美が追求されていた。泥除けのフェンダーさえ外されてあるんだから。
そしてこのときイッタが指さしていたのは後輪のハブ部分で、彼はそこに二人乗り用のハブステップが装着されていないことを訴えていた。突起部にはアポロチョコくらいの小さなカバーが被されてあるだけなんだ。
「乗るのは無理?」って私はその頼りない足場を見ながら言った。
「頑張ればやれないことはないだろうけど、かなりしんどいよ」
「しんどいって、どれくらい?」
「友だちが一分で音を上げるくらい」って彼は、間違いなくその友だちが男の子であると断定して言った。
試しに私はその突起部に両足を載せてみた。すぐに鈍い痛みが足の裏を刺激する。
「駄目そうだね」って私はたまらずクロスバイクから飛び降りた。
「本当に試すんだな」ってイッタは笑った。「ハブステップくらいはつけても良いかなとは思うんだけど、見かけを損なわないようなやつが中々売ってなくてね」
おそらく彼の要求を満たすアクセサリは世界中のどこにも売ってないんだろうなと、そう感じながらシャープに引き締まった黒塗りのボディに目をやった。
「今からでも自転車借りに戻ったほうがいいかな」って私はいよいよい自分の失敗を感じて言った。
「いいよいいよ。さっきもいったけど、どうせ狭い田舎なんだし」って彼は言った。チェーンロックは後輪とステーを挟むようにして巻き直された。
「今日、最高気温34度だって」ってイッタはヤシパンまでの行きしなに言った。
「うそ。そんなに暑くなるんだ?」
「さっき着替えの合間にテレビつけてたら、上に快晴のマークが出てた」
「天気予報なんて全然チェックしてなかったよ。朝、ワイドショー見てたのに」
「ワイドショーじゃ天気の情報なんて扱わないんじゃないか? 扱ってるっけ?」
「少なくとも、おばあちゃんたちも気付いてなかったよ」
「まあ、俺も普段は特に気にしないけどね。雨が降ったら濡れればいいだけだし」
「それもどうなんだろう」
そのときイッタの携帯端末から着信を知らせるメロディーが鳴り出した。イッタは「ちょっと失礼」って大人びた態度をとりながら、道の向こう側に移った。
通話は思ったよりも長引いた。電話を切るよりもヤシパンに着く方が早く、彼は店先に立ったまま相手と話し込んでいた。
私の耳にはほとんど通話内容が届かなかった。というのもイッタはほとんど相槌を打つだけで、彼らの会話はイッタを聞き役にして成り立ってたの。私はあんまり手持ち無沙汰に感じさせないように、店先に設置された自販機の缶ジュースの銘柄を意味もなくチェックしてみたりしてた。
ところが通話を終える直前に、イッタは一つ気がかりなことを口にした。
「うん、わかった。こっちもあと十五分くらいだよ」って彼は通話相手に告げていた。「ああ、そうだ、それと、ちょっと予定変更して、歩きになったから。そう、そうそう、いや、そうなんだよ。うん、じゃあ、悪いけど、そのつもりで」
通話終了のボタンが押されたのと同時に私は口を開きかけた。だけどイッタはしっかり予測していたかのように、空いてる方の手で待ったをかけた。
「とりあえず買い物だけ済ませちゃおう」って彼は平然として言った。「どうせ店先で食べていくから、そのとき聞くよ」
私は仕方なくそれに従った。
店内はどこを向いても酵母の匂いが漂っていた。匂いは陳列棚に並べられた包装済みのパンよりも、多くは店の奥の工房から流れてきてた。内装はかつて私がトモ兄やナオ兄の従順な小間使いとして利用されていた頃から何一つ変わってない。それは扉を開けたときのメロディサインや、そして、その音を聞きつけて隣の事務室から姿を表した店主のおじさん――昔に比べて白髪が増したようなことはあったけど――にしてもおんなじだった。
彼はカウンターに立つときいつも、その人のよさそうな丸っこい体に、よく使い込まれたダブルのコックスーツを羽織って来、開いた胸元からは肌着の白いシャツと、そして足元からも必ずベージュのチノを覗かせていた。彼は跡取りのないこの店に婿養子として入ったのだけど、むしろそれさえ運命が導いたとでもいうように、パン屋さんの店主という想像に似つかわしい風体をとっていた。
古くからの常連客とその店の店主という間柄の二人は、会計のさなかにも気さくに雑談を交わしてた。私はそれを少し離れた位置から眺めてた。
店主のおじさんは私の存在を珍しく感じてか、ちらちらとこちらに目を運ばせていた。何回かその目が私に向いたとき、ようやくイッタもその視線に気がついたらしかった。
「覚えてるかな。堀田さんのところの。一番下の」ってイッタは言葉少なに説明した。
おじさんはレジ打ちの手を休めずに耳を傾けた。けれどもふとその言葉の意味に行き着くと、ぐっと顔をこちらに向けて、驚きの表情を浮かばせた。
「おお、堀田さんのところのお嬢ちゃんかい!」って彼はテノール歌手みたいに野太い声で言った。声の太さは伯父に引けを取ってない。「いや、道理で、どこかで見たような気がしてたんだ。そうかい、堀田さんとこのねえ。昔はよくあんちゃんたちのお使いで店にも来てくれてたね。あんときはまだカウンターに隠れるくらい背も小さかったのに」
「俺の背がおじさんを抜くくらいだからね」ってイッタは私たちが同い年であることを強調するように言った。
「いや本当に。そう考えると二人とも大きくなったもんだ。でもあれだね、三つ子の魂っていうけれど、どことなく面影が残ってるもんだ。上のあんちゃんたちには似ないで済んだ」
「そうですかね」って私は苦笑いした。「でも、ご無沙汰してます」
ところが彼は急に神妙な面持ちになって、
「それにしても、今回のことはずいぶん災難だったね」
「今回のこと?」
「いやあ、ほら、あんまり言っちゃ悪いことだけれども。本当に残念だった。こっちに戻ってきたのも、それが理由かい?」
私はイッタに目を向けた。彼は黙ってうなずいた。
店主のおじさんもまた、生家の事情についてあらまし通じているらしかった。父と母が離婚し私がこの地を離れることになった十年前の騒動も、その口ぶりから概ね詳しいようだ。
私は相槌を打つようにそれとなく返事した。
おじさんの方でもそれ以上は追求してこなかった。「大変だったね」と親身な態度でうなずくだけだ。商売人特有の配慮と距離感がそこにはあった。
「なんにしても元気そうで良かったよ。またうちにも顔を出してやったい」って彼は会話の最後を引き取って大きく笑った。
店を出るとイッタはすぐに振り向いた。
「この辺の人たちはみんな知ってるよ」
「そうなんだね。ちょっと驚いた」
「プライバシーなんて筒抜けだからな。よっぽど注意深くしてないと」
「別にそれはいいよ」って私は言った。「それより、昔のまんまだったね。服装まで一緒だった。小麦粉だらけのコックスーツ」
「ああ。本当に覚えてたんだ?」って彼は言い、入り口から少し離れた場所に蹲踞した。
レジ袋を地面に置いて、そこから調理パンを一つ取り出すと、つなぎ目を探すようなことはしないで強引にラップフィルムの包装をやぶく。
私ははじめ彼の食事風景をぼんやり見下ろしていた。その姿はどこかイッタには不似合いであったけど、同時に微笑ましくもあった。男の子っていうのは一皮むけばどれもおんなじで、夜のコンビニにたむろしてカップ麺をすするような野蛮さが、誰のなかにもあるらしいんだ。なんとなく今の彼に親近感を覚えたの。
でもその瞬間にふっと思い出す。
「ねえ、イッタさ」って私は言った。「今日の予定を確認したいんだけど」
「ん」って彼は口の中をいっぱいにして返事した。
私は率直に問いかけた。「もしかして、他に誰か来る予定なの?」
けれども返事はすぐにはない。寝ているあいだの代謝分を補給する方が、今の彼には重要だったらしい。ゆっくりと味わうように咀嚼し、食道に通すまで、彼は一言も声を発しなかった。
ようやく一息ついたとき、彼はおもむろに口を開く。
「一人ね。合流したいって」
「さっきの電話も?」って私は彼の頭頂部を見ながら言った。
「そう」って彼は言う。
私は続きを待った。でも彼は食事の続きを始めるだけだった。丸めたラップフィルムをレジ袋の中に放り込み、代わりに二個目の料理パンを取り出した。
彼のあまりに堂々とした態度から、私は自分の勘違いを疑った。もしかすると昨夜連絡を取り合っているあいだにどこかで齟齬が生じていたのかもしれない。でもメールの履歴をさかのぼってみても、イッタは特にそのことについて触れていなかった。
「なんで最初から教えてくれなかったの?」
「悪い悪い。メールじゃどう説明していいかわかんなくてさ」って彼は二個目の調理パンの包装をやぶきながら言った。「伝えなきゃいけないことはわかってたんだけどね。だけど悩んでるあいだに俺も寝ちゃった」
「ってことは、夜のうちに決まってた?」
「そりゃそうだよ。さっきまで寝てたんだから」
私はことのなりゆきに頭を巡らせた。一体どういう経緯でそんなことになったんだろう。
「二人より三人の方が、楽しくなると思うんだけどね」って彼は口の中にパンを詰めながら、喋りにくそうに言った。
「楽しいかどうかじゃなくて」
「コオリに伝えそびれたのはすまないと思ってるけどさ、いや、だけど、悪い奴じゃないんだよ」
「悪いかどうかもいまは問題にしてないよ」
「そうだけど本当に悪い奴じゃないんだよ」って彼は続けた。「むしろコオリがこっちに帰ってきてることを伝えたら、是非とも会いたいってしつこいんだ」
「それって、どういうこと?」って私は言った。「もしかして私の知ってる人?」
「覚えてるかどうかって点を抜きにすれば、知ってるといって差し支えないだろうね」って彼はまどろっこしく答えた。悪どい人がよくやる遅延工作だ。「でも向こうはしっかり覚えてる。だから俺も一応の礼儀として伝えたんだよ、コオリが綿入に戻ってきてるってことをさ」
「それを聞いて、向こうは私に会いたがった」って私は確認するように言った。
「そういうこと。まあ、そうなるんじゃないかとは予感してたけどさ。だけどそれにしても予想以上の熱意だったね。俺だっていくらかは諦めるよう説得したんだよ。少しは俺の努力も買ってほしい」
「でも結果こうなってるよ?」
「だって、かなりしつこかったんだ。ずるい、私も会わせてって、こっちの言い分になんて聞く耳もってないんだよ」
「私?」
彼は一瞬動きを止めた。そして諦めたように「そう、私」ってうなずいた。
「女の子なの?」
「そう、そうなんだよ、そう」って彼は小刻みに首を動かした。「そう、だからもし変な男を想像してたなら、その点は心配いらない。コオリとは小1のときにクラスが一緒だった女の子だよ。つまり俺とは六年間一緒だったわけだけど」
私は彼のつむじを睨むように見た。イッタは依然として視線を合わせようとしない。
「絶対に覚えてないよ、私」
「会えば思い出すってこともあるかもしれない。いずれにしろ向こうはコオリのことを覚えてるんだから、問題ないよ」
「むしろそっちの方が問題だよ」って私は言下に言った。「私だけ覚えてないなんて気まずいじゃん」
「いや、大丈夫、そのことについては俺の口から伝えておいた。あいつはそのことも織り込み済みでコオリと会わせてくれって頼み込んできたんだ。案の定コオリがそういう様子だから、伝えておいて正解だったようだけど」
私は深くため息をついた。どうもこの流れは止められそうになかったからだ。私は心の中のもう一人の自分に言い聞かせ、急な予定の変更を納得させる。
イッタはそのとき初めて私の顔を見上げた。
「一人増えるだけだよ」って彼は言う。
「それをどうして今まで黙ってたの?」って私は額を覆いながら返した。
「別に黙ってたわけじゃない」
でも詰問の目で見つめると彼はすぐに主張を変えた。
「いや、たしかに黙ってたんだけどさ。だって、もしありのまま伝えたら、コオリが今日の約束さえキャンセルしかねなかったから」
「私ってそんなに信用ないのかな」
「昔のコオリならね」
言い切ったのち、彼はまた目を伏せた。そして私は、その仕草に何かしらの不穏な気配を察知する。なんとなく彼にはまだ秘密があるように思われたんだ。特に根拠のない女の勘だよ。それで私はこう訊いた。
「それってどういう子?」
「どういう子?」って彼は反復した。「いや、普通の奴だよ。やばい連中とつるんでるとか、少年院に通ってたとか、猟奇的な性格だとか、そういうことのない潔白な奴」
「ただ?」って私は言った。
「ただ?」って彼はまた顔を上げる。
「ねえ、イッタ、何か隠してるよね?」
「まいったね」って彼は実にまいったねって顔で言う。「仕方ない。ご想像の通りだよ。コオリもしっかり女なんだな」
「つまり?」
「聞いたあとでこの場から立ち去るなよ?」
「相手がライオンでもなければね。いや、それは聞いてみないとわからないけどさ」
「そりゃそうだ」って彼は言った。「つまりさ……」
でもイッタはその先を言い淀む。視線はまた前方に戻された。
彼はおもむろに立ち上がり、店先に設置されたくずかごに今や純然たるごみと化したビニール袋をくしゃくしゃに丸めて放り込む。底に落ちてからもその塊をぼんやり眺めてた。
一つ決意したように深く息を吐き、彼は私に振り返る。
「つまりさ、俺の彼女なんだよ」
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