第十一節(0211)

 父も父で離れに引いたきりちっとも母屋に戻ってこなかった。駐車場の一件が時間の経過とともに落ち着きを見せてゆくと、祖母の家の居間はまた例の、現象がそこに存在するだけの居心地のいい味気なさをよみがえして行った。


 そうなると祖母とサヤコさんもテレビと自分だけの世界に埋没してゆき、その他には誰もいないような、それでいて誰かに遠慮するようなおだやかな姿勢を作り上げてゆく。


 はっきりいって私はこの感覚が好きだった。気だるくて退屈で、意識すると気詰まりになってそわそわしてしまう、だけどその一部になれれさえすれば妙な心の安らぎとともに空間と同化してしまえる、そんなこの感覚が、祖母の家の雰囲気にも田舎のゆらゆらとただよう空気にも、どちらにもひどく噛み合っていて、私も少なからずその一部になれているという喜びとともに、好きだった。


 本家に厄介になっているあいだ、私は気がつくとその感覚に同化してた。ちょうど眠りに落ちる瞬間に睡魔が深まったことを意識しないように、ううん、意識してしまうと返って目が冴えてしまうように、この感覚はまるで無意識のときにだけ私を取り込んだ。


 父への心配があったこのときは、なかなか思うようにいかなかった。それでもふと気がついたときにはやっぱり私も、祖母やサヤコさんのようにこの空間に同化していた。そしてはっと我に返ってからは、父に対する礼儀のようなものを感じ、心のなかでかぶりを振った。でもまた少しすると時間を忘れてしまった空間に溶け込んでいた。


 何度そんなことを繰り返していたんだろう。陽炎みたいに実体のない世界と氷みたいに痛覚を刺激する世界とを、居間の柱時計が六時を告げるまで、何度となく往復してた。


 六時の鐘は夕食時の合図だ。正確には夕食のお手伝いをする、かな。とにかくやっとこれで開放された。感情が行ったり来たりするのにもそろそろ飽きて来ていた頃だ。ううん、飽きたというより疲れ切ってしまってた。


 サヤコさんが腰を浮かせかけると、祖母はそれまでぼんやりテレビに注いでいた視線をおもむろに離れに向けた。


「案外深刻だねえ」

「お夕飯までには戻られるでしょうか」

「昔っから、風邪を引いたって食い意地だけは負けない子だったよ」


 それを聞いてサヤコさんはくすりと笑った。だけど大体彼女たちが気にかけていたというのはこの程度だ。心のなかではもうちょっと深い憂慮があったかもしれないけれど、二人はおくびにも出さなかった。


「それでしたら、そろそろお支度のほう始めましょうか」ってサヤコさんは私に視線をくれた。


 昨日の手際の悪さもあって、私は遠慮がちにうなずいた。

 それでも昨夕に比べるといくぶんか上達を感じられた。まだまだいっぱしには程遠いけれど、習ったり慣れたりというのは水気を含む含まないみたいなもので、元々が砂漠の土壌とおんなじだったから今のところ吸水性はずば抜けて高い。サヤコさんに褒められると、つい私は相好を崩した。


 それならと私は供米の当番も買って出た。成長を認められたのが嬉しかったのもあったし、私たち一家がもたらした迷惑への、せめてもの罪滅ぼしという気持ちもあった。


「そうね……折角ですから甘えちゃおうかしら」ってサヤコさんも受け入れてくれた。彼女は子どもの背伸びした気遣いを悪く思うような人ではなかった。


 ところでこの日も伯父は私たちが夕食の支度をしている最中に帰宅していたらしくて、仏間に向かうために居間を通り抜けようとすると、でかでかとしたお尻を座布団に載せてくつろぐ彼の姿があった。ワイシャツにスーツという、朝出かける前にしていたのとおんなじ格好で、スーツは長押のハンガーにかけられていた。どうも離れの部屋へは寄らず、直接母屋に顔を出したらしい。


「おかえりなさい」って私はその挨拶が正しいのかどうか意識せず言った。

 伯父はそれとなく答えて、それから私の手に抱えられた仕事を見ると感心したように声を上げた。


 仏前に白米を供えて引き返すと(夕方には遺影も闇の中だった)、伯父は背をのけぞらせるように顔を上げ、

「シゲオはまだ部屋にいるんかや」ってなぜだか私に向けて訊いた。「いつもならあいつの方が早いんだが」

「みたいですね。呼んできましょうか?」って私は遠慮がちに答えながら、ちらりと祖母に目をやった。

「ええ、気にしなくていいよ」って祖母は私の目に答えるように言った。「じきにやってくる」

「なにかあったんかい」、伯父は私たちの様子から何かを感じたらしくそう言った。それで私が困っていると、祖母はなんてことないように伯父に真実を打ち明けた。

「夕方にお兄ちゃんたち(トモ兄たちのことね)が訪ねてね、たんまり灸をすえられたんだよ」

「なんだ、あいつらも顔を出しに来たんか」

「コヨリを送ってくれたついでにね」

「はあ。それで鉢合わせになったってわけか」、すると伯父は急に大きな声で笑い出した。「そりゃあ息子に叱られちゃ、イジケもする」


 私は一旦呼び止められたおかげで次に動き出すタイミングを失っていた。愛想笑いで済ませたあと、その場に立ち尽くしたままでいると、徐々に気まずい雰囲気が立ち込めてきた。


「お母さんのところ行っておやり」って祖母が言ってくれるとようやく解放された。

 だけど私はそのままの格好でお勝手まで引いてしまったんだ。


「あら、お茶碗は置いてきてくれてよかったのよ」ってサヤコさんは私が手に抱えたままの物を見て言った。

「ああ……そうでした。すみません」

「ええ、ええ」って彼女は首を振る。「あらかた出来上がりましたから、一緒に運んじゃってくれるかしら」


 いや、サヤコさんはあらかたと言ったけど、私が仏前で手を合わせているあいだに夕ご飯は九割がた完成されていた。あとは銀鮭が焼けるのを待つのと、居間まで配膳の盆に載せて運ぶだけだった。


 食卓に料理を並べている最中になって、父はようやく母屋にやってきた。食事が始まってからの父は(当然かもしれないけれど)昨日よりどことなくおとなしかった。その様子は悄然を悟られまいと無理に繕ってるようにも、ある程度は気持ちの整理がついたようにも、どちらにも感じられた。


 誰も何も訊かなかった。伯父も気にはなっているようだったけど、事件に関係のない話題ばかり振っていた。おんなじに、父も何一つ切り出さなかった。「家の様子はどうだった」って有り体なところを掘り下げるばかりで、砂利敷の駐車場でどんな口論がなされたのか、そしてトモ兄たちとのあいだにどんな結末を迎えたのか、それらについて私たちは憶測だけをはめ込むしかなかった。


 夕食が済むと父はすぐにその場を辞した。

 離れへ戻ってゆく父の姿を見て、「あれは深刻だね」って、祖母は自分の予想を修正するように言った。それでも彼女は笑ってた。


「なに、明日になりゃ元通りだ」って今度は伯父が請け合った。「あれは昔から時間がかかるだけなんだ」

「喉元すぎれば平気な顔してね」


 それで三人ともくすりと笑った。刃物でついた傷だっていずれは塞ぎ、場合によっては跡さえ残らない。彼らは人生や生活をそれくらい長い目で見てた。当時の私がそこまで達観できるような年齢じゃなかっただけだ。

 サヤコさんが腰を浮かせかけ夕食の片付けに取りかかると、私もあとに続いた。


「あんまり気にしちゃだめよ」って彼女は洗い物をシンクに積み重ねながら言った。

「はい。でも」

「お夕飯の最中、コヨリちゃんの方が深刻そうな顔なんだもの」

「わかってはいるんです。でも、どっちにも傷ついてほしくないから」

「どちらにも?」

「えっと。トモ兄たちにも、お父さんにも」

「優しいのね、コヨリちゃんは」ってサヤコさんは言った。


 だけど本当にそうなんだろうか。私は他人が傷つくのを見て自分まで傷つくのが嫌だから平和を望んでるんじゃないだろうか。自分でもそこのところがよくわからなくて、サヤコさんの言葉を素直に受け入れられなかった。

 そうすると途端にこの会話は途切れ、妙な沈黙がやってくる。


「そういえば、明日なんですけど」、沈黙にいたたまれなくなって、洗い物も三分の一くらいが済んだとき私は切り出した。

「どうかされました?」ってサヤコさんは言った。「コヨリちゃんもまたお手伝いに出るのかしら」

「いえ。今日だけで大丈夫だって言われました。それで明日は……」


 そこで私はイッタのことを明かすべきか一瞬迷う。でもここではぐらかすと後々面倒になる予感がした。女の勘というやつなのかな、とにかく祖母たちには(この場にはサヤコさんしかいなかったけど)打ち明けておいたほうがいいって気がしたんだ。

 それでありのまま今日あったことをサヤコさんに聞いてもらった。お昼過ぎに生家を抜け出して、幼馴染みと会っていたという、そのあたりのくだりを。


「そう。それはいいわね」、聞き終えたとき、サヤコさんはまるで自分のことみたいに華やいだ。「お友だちと会えただけでも、来た甲斐がありましたね」

「だから明日は一緒に綿入の中を見て回ろうって」

「コヨリちゃんも退屈せずに済むわね」

「大丈夫かな。私だけ楽しんじゃって」

「何年かぶりに会えたんですから、大切にしませんと」

「そう、ですね」って私はなんとなくその言葉に勇気をもらえた気がして微笑んだ。ただ、その瞬間まで私は肝心なことを忘れてた。「あっ」


「どうかしました?」

「いえ、なんでもないです」って私は言い繕う。


 さて、それで肝心のイッタへの連絡は、母屋がすっかり寝静まってからだった。片付けを終えてからも祖母の家の生活に身を委ねたり、彼女たちの前で携帯端末に没頭することもはばかられて、彼のことは優先順位の最後まで回されていた。


 一階の明かりを落として自室へ引くと、すぐに携帯端末を取り出した。明日の予定が滞りなく履行されそうだって旨をメールで伝えると、イッタからの返信は一分とかからずやってきた。


『じゃあ、集合場所と時間はどうしようか。たしか本家の方に泊めてもらってるんだよね。それならそっちまで迎えに行こうか?』


 私は少し考えて返信をした。


『ううん、明日もイッタの家まで行くよ。十時頃っていえば、起きてる?』

『なるほどね。確かにその方が効率的だ』って彼は私が意図するところ――時間と距離とイッタの起床時刻の関係――を汲み取って返事した。その証拠に改行された下の文には、『もう少し早くてもいいよ。一応、目覚ましはかけておくつもり』って書かれてあった。


『じゃあ、九時頃を目処に。迎えにいくね』って打ち込む。そのまま送信しようと思ったけれど、すこし迷ってから、連絡が遅れたことをこの場で謝っておくことにした。


 これで話はついた。そう思って二つ折りの携帯端末を閉じると、しばらくしてまたイッタからメールが届いた。


『まだ十時前だからね、早いもんだよ。てっきり十年は待つかもと予感してたところだったからさ』


 彼の皮肉を愉快に感じながら改めて携帯端末を閉じた。

 それから三十分もすると私のまぶたは閉ざされた。布団に潜り込んですぐには日中お預けを食らった『若きウェルテルの悩み』を開いていたのだけど、五ページか十ページか進めたところで限界がやってきた。


 まだ十時にもなっていなくて、眠気というんじゃなかった。今日の出来事があまりに多すぎて本に集中するのが難しくなったんだ。色んな想起が目まぐるしく活動して、文字をただ目で追っているだけになっていた。内容を理解できずに同じところを何度も読み返す。どうにか物語が区切りをつける、ウェルテルが新天地へ赴いたところまでを把握して、ひとまずの落とし所と見出した。


 トモ兄の詭計、様変わりしたナオ兄の印象、生家の様子……イッタとの再会や彼への印象、それに駐車場での一件もそうだし、その後の父の反応もそうだ、今日一日、私の経験は動乱めいていた。そこに私自身の出来事も加えるといよいよい整理がつかなくなってくる。


 体の外側からくる印象に頭が揺さぶられたとき、誰だってそうだとは思うけど、私には特に整理の時間が必要だった。ランタン型のライトの明かりも消された薄闇の室内で、私はぼんやり天井を仰ぎ見た。


 今日一日を思い返すたびに、色んな感情が起こっては消え起こっては消えた。そういう場合の整理の仕方には何種類かの方法があるけれど、このときの私は直接手に触れず、それらの感情や記憶が右から左へ行き過ぎるのを、客体的に観測するってやり方をとることにした。私はその場には関わっていなくって、ただ事象だけが目の前を過ぎてゆく。


 本当はこういう整理のとり方はあんまり好みではないのだけれど、この方法は素直に眠ってしまうためでもあった。煩雑な頭の中も、目が覚めればいくぶんか柔らかくなっている。もう過去になった出来事をもっともっと遠い過去にすることで、どんどん私の生身から離れてく。だけどそれって途方もない時間だ。いつ切り離されるのかもわからない途方もない時間。


 私はそっと目を閉じた。過ぎ去らせてしまえばいいだけだ。難しいことは何も考えないで、ただ時間だけを流してく。感情も思考も洗い流して心のどこかぽっかり空いた場所でただ傍観する。たしかにそれなら私の得意だ。祖母たちの物事の捉え方とは、これは若干異なるけれど。


 万が一にも私が寝坊したんじゃイッタにも言い訳がたたない。まだ十時。だけどいい口実を見つけた。努めて自分を客観的な観測者の立場に置いて、意識を一つ下層に追いやる。


 やがてやってきたまどろみの中で、最後に記憶している映像は、あの白と黒の部屋だった。部屋には実際には存在しなかった肘掛け椅子があった。その椅子に腰かけた、悪辣な税理士みたいな態度の主人が、膝を高く組んだ状態できざったらしく客を出迎える。私は部屋の扉をノックし、深い眠りに入ってく。

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