第十節(0210)

 最後にさよならと手を振って、円満にそれぞれの道につく。祖母の家の石垣を横切っている瞬間まではそんな未来を疑わなかった。


 車が搦手の坂に乗り上げると風向きが急に変わった。それまで続いていた会話もぷつりと切れ、車内の雰囲気が一掃された。トモ兄とナオ兄の顔から刃物で削ぎ落としたみたいに表情が失われる。


 もちろん別れを惜しんでのことじゃない。砂利敷の駐車場に一台の車を見たからだ。少し型の古い小豆色の軽自動車。昨夜にも私は離れまで伯父を呼びにいく途中にこの車を目撃してる。そのとき私は父の車だと判断してた。


「まいったな」ってトモ兄が深刻そうにつぶやいた。

「私、ここで降りようか?」って私は二人の急な変化を見て言った。「お父さんと鉢合わせたくないんでしょ?」

「顔を出さないわけにもいかないよ」ってナオ兄は運転を止めずに言った。

「おい、本当に今日仕事だったのか?」

「仕事着っぽい服は着てたよ。それに、サヤコさんもそう言ってた」

「そうか」、トモ兄は私の落ち度でないことを知るとため息をついた。「すんなりいかねえもんだよなあ、物事ってのは」

「なんか、ごめん」

「お前が悪いわけじゃねえ。だからお前はもう黙ってろ」


 父は私たちより三十分ほど早く祖母の家へ戻ってた。土曜日は三時に仕事が上がり、これといって予定のないときは職場からまっすぐ祖母の家へ帰宅する。それが彼の毎週末のルーチンだった。駐車場に彼の車を発見した瞬間には、私もトモ兄たちもそんな事実をつゆとも知らなかったけど、事情はどうあれ二人はもう覚悟を決めたらしかった。


 そしてまったく悪かったのは、この瞬間の父の姿だ。彼は畳に寝転がりながら肘をついて新聞に目を通してた。いわばそれも土曜日にとる父の習慣だったわけだけど、いま生家の問題に着手してきたばかりのトモ兄たちが触れるには、あまりに挑戦的な体勢だった。


 縁側の前を横切るときに父の姿を目にしたトモ兄たちは、さっきよりもう一つ身を固くした。


 その瞬間、もしかすると父はこんな事態を避けるために出勤の事実を隠しておきたかったのかもしれない、初めから父がこの時間本家にいるとわかっていればトモ兄たちの行動も変わっていただろう、そう私はひらめいた。だけどすぐに私の直感がおかしなものだと気がついた。もし鉢合わせになる事態を避けるためだというのなら、退勤後どこか適当なところで時間を潰していればよかっただけだし、もしくは日ごろと違う行動を取ることで敗北感を味わいたくなかったのだとしても、それなら私に秘密の共有を持ちかけた時点で父は負けを認めたことになる。もちろん理屈通りにいかないのが人間のさがではある。けれどもそれにしたってあまりにも行動原理に矛盾をはらんでるように思われて、私の目には父が何をしたかったのかがわからなかった。だから後日母の口から説明されて、彼女の言うことが正しいんだろうと思った。でも結局それも違ってた。


 父と同じく居間にいたサヤコさんは、私たちに気づくといち早く玄関先までやってきた。玄関の引き戸を開けたとき、既に彼女が框の上で待ってたの。


「お帰んなさい、コヨリちゃん」って彼女はトモ兄たちを迎えたあと言った。「お家のことはどうでした?」

「充分見納めてきました」って私が遠慮がちに答えると、彼女もまた「そう」って遠慮がちというか、全てを包み込むように言った。


「トモくんたちは? ずいぶん進展あったかしら」

「ええ、まあそれなりに」


 サヤコさんは明らかに場を和まそうとしてた。だけどトモ兄が極めて社交的に切り捨てるように答えると、彼女はそこで深く息をした。トモ兄の様子から丸く収まらないことを悟ったらしい。


「親父呼んでもらえますか」ってトモ兄はすこし間を置いてから続けた。口調は社交的というより機械的だった。


「コヨリちゃん、先にお上がりんなって」

「え。でも」

「その方がいいよ」ってナオ兄が言った。


 靴を脱いで框に上がると、入れ替わりにすぐ父が呼ばれた。私は書斎から居間に、父は縁側から玄関先に、それぞれ顔を認めることなく場所を移した。父とトモ兄たちはそのまま砂利敷の駐車場まで引いてった。


 縁側の網戸越しに父たちの背を見送ると、居間の最も深いところに腰かけていた祖母はなぜだか嬉しそうに笑い出した。


「そうら、面白いことになってきたよ」


 私はどう答えていいかわからず、引きつらせ気味に愛想笑いした。そこにサヤコさんがやってきて、立ち尽くしたままの私を座らせた。


 居間に戻ってみると、さっきトモ兄たちを宥めすかそうとしていたサヤコさんまで普段の平坦な様子に変わってた。無理して繕っているという風ではなくて本当にそう見えた。その中で私だけがそわそわしてた。


 先んじて私は父のもトモ兄のも、どちらの肩も持ちたくないといったけれど、裏を返せばそれはどちらの肩も持ちたいということだ。平和裏にことが治まってくれるならそのほうがいい。誰も傷つかないのが一番だ。


 だけどどう考えたって父の方が分が悪かった。砂利敷の駐車場で一体どんな議論が交わされるのか知らないけれど、直前にあんな気の抜けた様子を見られたら、あとに何を言ったって狼少年のそれだ。まったく説得力なんか生まれやしない。


 一応、私の立場から父の弁護をすると、彼はトモ兄以上に不器用な人だった。相手の意思を汲み取ってやれず、自身のそうした性質に苦しんでるってところまでは二人ともおんなじなんだけど、父の場合、これらの苦しみに対処する術を持っていなかった。他者との間で問題が起こったときも早々と言葉での解決を諦めて、相手のなるように任せると、自分はすっかり殻の中に閉じこもってしまうというような人だった。その閉じこもり方というのも、概ね普段どおりの言動をとるというやり方で実行される。要するにこの日も父はトモ兄たちと鉢合わせになることまですべて織り込み済みで、普段の行動を忠実に再現していただけなんだ。そうしなければ自己を保てない、自意識と自尊心の高い人ではあるんだけれど、それでも他人の目からはただただ迂闊だったり矛盾だったりと見える中にも、いくらかの葛藤が内在してたんだ。


 いや、実際のところ父のそうした性格を、トモ兄たちも感づいてはいた。祖母の葬儀から何年か経ったあと、ナオ兄と一対一でお酒を酌み交わす機会に恵まれたとき、彼は酔いが回った勢いでこのときの口論についても言及した。いわくトモ兄も心のどこかでは父に同情していたらしい。父の負債は連帯保証人になったためで、本来の借り主は父とは遠縁の親戚筋にも当たる中学校来の友人だった。いわば父も裏切られた形で、さすがにトモ兄も借用書に名義を貸したことへの是非までは追及しなかった。


 けれどもそういう思いやりがもっと上手な形として結びつかなかったのは、父に寄り添うことはできないという立場的な問題や、純然たる不満を持ち合わせてたせいでもあった。


「相手のことを理解していても、歩み寄れないことがあるんだよ」ってナオ兄は言っていた。この時期になると彼もトモ兄との関係に頭を悩ませていた。


 居間から駐車場までは、近所迷惑だから穏やかな口論を望もうという人たちの声を運ぶにはいくらか距離がありすぎた。仏間や縁側やその他もろもろの壁によって視界も完全に遮断されていた。サヤコさんたちとこの場で過ごしているあいだ、私に許されたのはただ成り行きを祈るということだけだった。


「お父さん大丈夫かな」って私は父たちが口論を広げているであろう位置に何度も目をやりながら言った。


「なあに、やらせておけばいいんだ」って祖母は穏やかに笑う。

「大丈夫ですよ、何があっても親子なんですから」

「でも」

「返っていい薬だ」って祖母は相好を崩したまま言った。「今回のことはシゲオが悪いんだ。どうあってもあの子が負けるよ。そうでもないと誰からも責められないんだからね」

「お父さんが負けた方がいいの?」って私は祖母に訊いた。

「いくつになったって反省は必要だよ。自分の過ちはしっかり認めないとね」

「そうしないと今後に活かせないから」って私は祖母の意を汲むように言った。ところが祖母は優しく首を振った。

「人はね、一度の反省なんかじゃ正しくならないよ」って彼女は言った。「大事なのは心の持ちようだ。悪いことには心から悪いと思う。人にはそういう心が必要なんだ。何度おんなじ失敗を繰り返しても、言い訳をして自分を正当化しても、一向に構わないけれど、どこかではちゃんと反省しておかなければね。もしもそんな分別まで忘れてしまったら、人としては生きてゆかれないよ」


 祖母はそれだけ言うと喋り疲れたのか肩で大きく息をした。


「お父さんが戻ってきたら、いつもどおりに接してあげるのよ」ってサヤコさんは言った。

「いつもどおり」って私は言葉をなぞる。十年振りに再会した私たちにいつもどおりなんて状態があったのかは別にして、私はサヤコさんの言うことに疑問を生じさせていた。


「なにも言わないほうが、いいんですか?」

「親というのはね、子どもに気を遣われると、辛くて仕方がないものなのよ」って彼女はくすりと笑った。「それに、女の子は笑っている方が可愛いわ」


 私は無理に笑ってみせた。ぎこちなく、引きつった笑顔だ。自分でもそれがよくわかった。世界が終わってしまうというほどの不安ではないけれど、父とトモ兄たちとで行われる小さな事件に、私を取り巻く小さな世界の亀裂を、少なからず感じてた。


「心配かい」って祖母は言った。

「すこし」って私は控えめに答えた。


 するとサヤコさんが肩に手を載せてその部分を優しく撫でてくれた。

「物事を大げさに捉えるのは若い子の特権よ」って彼女は私の不安を認めてくれるように言った。


 彼女たちは終始堂々としたものだった。一度だけ駐車場の方からトモ兄の怒鳴り声が響いてきたけれど、声の大きさに驚くだけで、直後には祖母もサヤコさんも申し合わせたようにくすりと笑った。


 どうすればそんなに大きく構えていられるのか二人に訊くと、

「悪い気持ちっていうのはどんなに隠してるつもりでも、みんなに伝わるもんだ」って、これは祖母が言った。「そういうことが続くと、次第にみんな嫌気が差してしまう。そうしてみんなが気持ちをつなぎ合わせてしまうと、本当だったら軽い話で済むことも、どんどん膨れ上がって、いずれ大事になってしまうんだ」


 だから、目の前で行われている物事を冷静に見つめて、適した感情の取り方をするべきだというのが彼女の意見だった。


「若いうちは考えつく手立ても少ないですから、不安も仕方のないことですよ」って、今度はサヤコさんが言った。「私も若い頃はそうだったのよ、極端にしか物を考えられずにね。でも人は不思議と、歳を取るにつれて先々の予想が柔軟になっていくものなの。若い子には返ってそれが頑固と見えるようですけれど。でも若い子のそういった態度も、悪いものではないのよ。少しずつ丁寧に学んでゆくしかないんですから」


 つまりサヤコさんの方では、人は年齢や経験によって段階的に物事の捉え方が変化してゆくものなのだから、いま私が感じている動揺も今の私には自然なものなんだって諭してくれていた。そうやってあるがままを認めてもらったことでほんの少しではあるけれど気持ちが楽になった。


 そのとき砂利敷の駐車場からひときわ大きな怒号が響いた。発したのは父らしかった。固唾を呑んで成り行きを見守っていると、しばらくして車の出てゆく音がした。そのもう少しあとには頼りない足取りで離れに向かう父の姿が見えた。


 見えたのは一瞬で、父の影はすぐに死角に行った。私の視線は父が消えた庭園の松の木に注がれてしばらく離れなかった。


「すぐに戻ってくるよ」って祖母は言った。

 ところが離れに引いたっきり父の戻ってくる気配はまるでなかった。数分経ってなにか物音がしたと思ったら、山からの風が庭園の木を揺らしただけだった。


 すると急に祖母が笑いだして、

「やだよ、大の大人がつって」って幼い子どもをからかうみたいに言った。「あんまりに情けないんで顔も出せないんだ」


 ああ、だけど、私は父のことも心配だったけど、もう一つ、トモ兄たちの行方も気がかりだった。状況を察するに、彼らは父と喧嘩別れをしたようだけど、じゃあ、本当にこのまま家路に就いてしまったんだろうか。いや、どうもそうらしかった。


「トモくんたちも帰っちゃいましたね」って、落ち着いた様子でサヤコさんが言うと、状況は既成事実の穴にすっぽりはまってしまった。


 つまりこれが十七歳の夏の日々における二人の兄と私との一部始終で、これ以降にもトモ兄かナオ兄のいずれかと個別に会う場面ならあったけど、次に私たち三兄弟が一堂に会するのは祖母の葬儀の場でだった。彼女が亡くなるのはこれより十年以上もあとのことになる。私が二十九歳になったときのことだ。


 最後にさよならくらい、ちゃんとしておきたかった。私の方で明日の予定を打ち捨てておいてなんだけど、車中で交わした挨拶じゃ物足りず、薄情な兄を思うと私も父とおんなじようにふてくされていた。


 戻ってこないかな、と私は考える。途中で心変わりを起こして、ひょっこり祖母の家まで引き返してきたりしないかな。そんな展開を妄想してた。でもその頃にはトモ兄たちは綿入を離れてた。

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