第九節(0209)
しばらくしてから私たちはイッタの部屋を飛び出した。そこは長居するのに適した空間とは言い難かったし、何より私たちは時間を持て余してた。十年の再会を懐かしんで思い出話に耽るには、私たちはまだまだ年齢が足りていなかった。それはもう少し年齢を重ねた、本当の意味で時間を貴重に扱える人たちの特権だった。
それで私たちは家の外に出て、思い出話の代わりにかつての遊び場を目で楽しんだ。時間は既に二時を回っていて、足を運べたのは児童公園と山際にある人工池の二箇所だけだった。
その二つの場所で私たちは実際的な思い出話に興じたりもしたけれど、それらはしみじみと昔を懐かしむというよりは、五感いっぱいで懐郷を堪能するための一つの手段か、体を動かしておくための燃料の役割でしかなかった。
児童公園の敷地の脇にこんもりと盛られた土山は、そばにトンボが捨てられて、主にはグラウンドを整備するために用意されたものだったけど、私たちは時おり段ボールのシートを持ち寄ってはすべり台の代わりにして楽しんでいた。あるいは頂上までのかけっこにも利用した。それはとても高い盛土の山だったのに、長い年月が経ってみると、私たちの背丈とそれほど変わらなかった。
グラウンドも、こんなに広いならどんな遊びにも利用できそうだと思っていたのが、本当のところはサッカーコートの半分にも満たない大きさでしかなかった。
それらの驚きをイッタに伝えると、
「昔からこの大きさだったんだよ」って至極まっとうに返された。「だけど、世界がミニチュアだったって、一体いつごろ気付いちゃうんだろうな。俺はもう当たり前にこの光景を受け入れてたよ」
その児童公園から山に向かって進んだ先にある人工池は、地元の小学校が保有する、水生生物を観察するために作られた池だった。私も一年生のときに自然学習の一環としてこの場所を訪れたことがあったけど、それ以前から生家の周りに住む子どもたちにはザリガニ釣りのスポットとして知られてた。
池の周りには背の高い葦に似た植物が群生してて、その自然の障壁を分けた先では桟橋を組み合わせて作られた通路が無数に張り巡らされている。泥で濁った池からは、たまに生命のたくましさを思わせる波紋が浮かぶ。
ひときわ大きな波紋が広がって、私は桟橋の上からその中心地をじっと見た。すると大きな魚の口がぬっと現れた。
「わあ。ねえ、見てイッタ。鯉かな!」
「たぶんね。誰かが放流したんじゃない?」ってイッタは桟橋の手すりに両腕をかけながら言った。「でもなければ、鯉なんて飼うはずもないし」
「勝手に放っちゃっていいの?」
「いいわけないさ。でも鯉だとかブラックバスだとかって、気付くと住み着いてるんだよ。一応誰かが放流したってことにしてるけど、そうでもなければ説明がつかないからね」
「卵が風に乗ってきたとか」
「綿毛みたいに? あるかもな」って彼は肩をすくめながら言った。その姿を見て私は笑い返した。
いっそ十年の壁が取り払われてしまったみたいに、私たちは童心の関係に帰ってた。感動を噛み締める代わりに私たちはそういうやり方でこの再会を味わってたんだ。
でもそれはあっという間のことだった。思い出の場所にたった二箇所訪問しただけで、私たちの時間は終わりを告げた。人工池でひとしきり楽しんだあと、携帯端末を見ると、もう三時半になっていた。
イッタは私の肩に手をかけて携帯端末を覗き込んだ。
「四時までには戻ってないとまずいんだっけ?」
「うん。でも、まだもうちょっと余裕あるよ」
「やめとこう。何かあるといけないし」って彼は言った。「今日は前菜みたいなものだからね。それで腹いっぱいにしちゃったら明日の楽しみがなくなる」
「明日も会えるとは限らないよ」
「コオリの見立てではそんなこともないんだろ?」ってイッタは私のもとから半歩離れて言った。「だとしたら、これは意味のある願掛けみたいなものだよ。今日のところは慎重に行動すれば、明日の予定を狂わすリスクも低くなる」
「担保としての安全策ってこと?」って私は言った。するとイッタは、
「やっぱり、腐っても幼馴染みだね」って得意そうに笑った。「そういうこと。コオリとは話していても楽だよ」
「でも、なんかもったいない」
「明日にしよう」ってイッタは私の背に触れた。
ヤシの木がトレードマークのパン屋さんまで引き上げてきたとき、携帯端末の液晶は3時40分を示してた。時間が十分縮まっただけで、タイムリミットが急に近くに感じた。
「じゃあ、俺はこっちの道から帰るよ」ってイッタは、『ヤシパン』の十字路の上に立つと、生家へ続く道とは別の進路を指して言った。「コオリの兄ちゃんたちに見つからないうちに」
身内に交友関係を知られることが恥ずかしいってことを、さっきイッタの部屋にいるあいだに彼に告げていた。イッタはそのことに触れていた。
「明日も会えるといいな」って私は彼の気遣いに感謝しながら言った。
「そのためにも、早く家まで戻っておかないと」
「そうだね」
「予定がわかったら、できるだけ早く連絡してよ」
「うん。すぐにね」って私は、そのときちょっとあざとい仕草を加えて言った。
というのはさ、仔猫くん、一応告白しておくけれど、私はこの日再会したイッタに、十年ぶりの幼馴染みというのとは別の、異性としての感情を抱いてたんだ。十年の成長を経たイッタはいくらか整った顔立ちをして、すこし目の眠そうなところはあったけど、身のこなしを含めた全体からも、おどおどとしたところのない賢そうな印象が与えられていた。それでいて笑うときは心から楽しんでるような崩れ方をする。片頬に浮かぶえくぼが特徴的だった。その感情の前では、彼の内面を表したという例のあの部屋のことも棚に上げられてたの。
それで私は無意識に(いや、あくまで無意識にだよ)彼に気に入られようとする仕草をとってたんだ。
生家に着くと、二人の兄はすっかり買い出しから戻っていて、だけど私を待っている様子は見当たらなかった。二階の段取りは片が付いたのか、私が帰ったとき、彼らは一階の居間までおりて議論を交わしてた。
「ただいま」って声をかけると、まともに取り合ってくれたのはナオ兄だけだった。
「もう四時になるのかな」ってナオ兄は言った。「ごめんよ、コヨリ。もう少しかかりそうなんだ」
「つっても、そんなに長引くわけでもねえからよ。家の中でおとなしくしてろ」
私は特に感情を定めずトモ兄の指示に従った。ふと明日の予定を聞こうとかと思ったけれど、真剣に話し込む二人の顔を見てそれもためらわれた。
彼らの話し合いが済むまで私は二階に上がって待つことにした。その後の動線を考えると遊び部屋で待機している方が賢明だったろうけれど、それだとどうにも味気なかった。
二階には父の寝室、トモ兄とナオ兄の部屋、将来的に私の部屋としてあてがうつもりだったかもしれない空き部屋の計四部屋がある。私が訪れたとき、室内に設置された家具には赤と青のマスキングテープが目立つところに貼られてあった。感じからいって赤いテープを貼られたほうが新居に運び出すもので青がこのまま処分されるもののようだった。それらのテープは主にトモ兄とナオ兄の部屋の家具に貼られてあって、父の寝室を覗いてみるとそこにある調度品はまったくの手つかずだった。いずれのテープも貼られてなく、おそらくは部屋ごと処分する意味を指していた。
物置と化した空き部屋も含め二階のすべての部屋を巡ってみても、特別な感情、それらしい感情は浮かんでこなかった。もしも明日、約束通りイッタと会えることになったら、この瞬間が生家との別れのときになる。そのことは重々理解していたけれど、今ひとつ実感に乏しかったんだ。
生家といっても十年も離れていればそんなものかもしれない。その十年というのも今回の事件があったからであって、差し押さえということでもなければ私は五十年でも百年でも放置した。家自体に思い入れを見出すほうが難しい。
そもそも生まれ育った家を失うというのはそれほど大きな出来事なんだろうか。持ち家ならいざしらず、世の中にはマンションやアパートや団地や、賃貸物件というものも数多くある。そこで生まれ育った子どもたちは、やっぱりその部屋を生家と認識するんだろうか。そして取り壊しだとか引っ越しだとかに遭った際、しっかり涙するんだろうか。
考えるほど主観的な目線が失われていった。これは別に大したことじゃない。単なる一つの事象でしかないんだ。でもそう言い切ってしまうには、どこか心がもやもやとしていた。
気晴らしにベランダへ出る。鉄製の手すりとアルミ製の床によって確保されたその空間は、日中の日差しを浴びてぐつぐつと熱せられた天然のサウナだった。一分ともたずに通路へ返した。
それからはトモ兄が呼びにくるまで、ベランダと廊下の縁に腰かけて待っていた。持て余し気味の感情は燻ぶらせたままで、適切な処理を試みようともしなかった。まずどうすれば解消されるんだろう。
ようやく階段を上がってくる音が聞こえたのは、それから十分くらい経ってのことだった。
「おう、待たせたな」ってトモ兄は私を見かけるなり手招きして言った。
「もういいの?」
「とりあえず今日の分はな」
トモ兄は私が窓に鍵をかけたのを確認して踵を返した。彼に従って私も二階を後にする。
階段へ足をかけたとき、後ろへ振り返るとすこし動揺が走った。取り返しがつかなくなってから実感が湧くのは、本当に、悪い癖だ。
「どうかしたか?」
「ううん、なんでもない」って私は答えた。
ところで前をゆくトモ兄は、階下までおりると何食わぬ様子で遊び部屋に引っ込んだ。玄関では既にナオ兄が靴を履いて待っていて、私たちは視線を合わせるとお互いに首を傾げた。
「兄貴?」ってナオ兄が呼びかけた。
トモ兄はニッカポッカのポケットからタバコのソフトパッケージを取り出して私たちに示した。
「車の中で吸ってくれていいよ」
「ええ、いいからエンジンかけて待っててくれ」
実際にタバコに火が点けられると、ナオ兄は仕方なさそうにため息をついた。だけどステーションワゴンの助手席に乗り込むとトモ兄の企みはすぐにわかった。車内はベランダとは比べほどにならないくらい熱気で蒸されていて、すぐに入れられた空調からははじめ熱風しか送られてこなかった。
「迷惑かけるね」ってナオ兄は、そのほうが座りがいいのかステアリングに手をかけながら言った。
「すぐに涼しくなるし、いいよ」
「それもそうだけれど、もっと広い意味でさ。コヨリにはもう少し気を遣うと思っていたんだけれど」
「トモ兄も忙しいんでしょ」って私は淡白に答えた。
私の中ではそれは事宜汲み取った表現のつもりだった。けどナオ兄の方ではそうとは感じず、どうも努めて苛立ちを抑えてるように受け取られてしまったみたい。おかげで彼の顔に浮かぶ困惑の様相が更に一つ深まった。
「あまり兄貴のことを悪く思わないでやってほしいんだ」って彼は私の奥――生家の壁にちらちら目をやったあと言った。「ああ見えて兄貴は不器用なんだよ」、トモ兄がいつやってくるかもしれないためにやや早口だった。「兄貴も本心では相手のことを気遣ったり、考えを推し量ったり、そういうことを望んでる。俺の勝手な勘ってわけじゃなく、実際にそうなんだ。だけどさ、どう言えばいいのか、こういうのは生まれ持っての才能みたいなものだから、いくら本人が望んでいることとはいっても能力がなければ充分にはなし得ない。それで兄貴は一つの結論を出したんだ。どれだけ心を砕いても相手を理解してやれないなら、いっそ相手からの理解を求めてしまおうって、そういうやり方に変えたんだ。はなから『俺はこういう人間なんだ』ってものを相手に突きつけることで、自分の能力が欠如している分を相手に肩代わりさせようとしてる」
私は黙って聞いていた。腰を折ったらすぐにでもトモ兄の姿が見えそうだった。ナオ兄は続けた。
「もちろんそんなやり方が正しいとは俺も思わない。けれど、それまでは他人と衝突しっぱなしだったのが、やり方を変えてからは徐々に人間関係も落ち着いていったんだ。以前の兄貴は人と会うと気疲れでぐったりしていることも多かった。それくらい無理をしていたんだよ。けれどそういうこともなくなった。なぜかといえば今は相手の方から兄貴を避けるようになったからだよ。つまり元から反りの合わない相手はね。そして兄貴のあの見かけ上の性格を許容できる相手だけが付き合いを続けてる。傲慢さがフィルターとして機能しているってところなのかな」
「でも、それって」って私は言った。
「コヨリの言いたいこともわかる。はっきりいって抜本的な解決にはなっていない。だからいずれ大きな問題が起こるだろうことは俺も予感してる。けれどもさ、兄貴の立場からして、一体なにをどう抜本的に解決すればいいんだろう。苦しみ抜いて、結局解決できない問題には、別の対処を見出すしかないんだよ。たとえ誰かに負担を強いたり、小手先のやり方に過ぎなかったとしても、そうでなければ生きてゆけないというなら、その方法を取るしかない」
実の妹である私にはその事実を知らせておかなければならないと、ナオ兄は考えているようだった。彼の言い分は一部で納得できるところもあったけど、逆にいえば、一部には納得できないところも多かった。第一に、私もトモ兄の性格を危うく根っからのものと信じそうになっていた。そうならなかったのは彼にとっての良き理解者であり代弁者であるナオ兄が存在したからだ。でもナオ兄はどこにでもいるわけじゃない。それってつまり、世の中にはトモ兄の性格を誤解したままでいる人のほうが多いってことだ。
私はなんて答えていいのかわからなかった。そうやって私が返事を迷わせているあいだにも、ちょうど火の入れられたタバコが芯を短くしてゆくように、刻一刻事態は進み、とうとうトモ兄が玄関先までやってきた。
「ナオ兄はどうなの?」って私は、彼が鍵をかけるのにもたついてるあいだに訊いた。「私の知ってるナオ兄とはずいぶん見違えちゃったから。やっぱり、ナオ兄も悩んでたの?」
けれども答えをきくほどの時間はなかった。すぐにトモ兄が後部座席に乗り込んできた。
「おう、悪い悪い、おまたせおまたせ」って彼は必要以上に声のトーンを上げて言った。「コヨリが前なのか? まあいいけどよ」
「必要なら席変わるよ」
「いいって言ってんだろ」ってトモ兄は乱暴に笑った。
ハンドルを握るナオ兄は、一度大通りに出てから途中の路地に入り込む、昨日トモ兄の軽トラックが通ったのと同じ道を選んでた。例の五叉路の交差点では信号にも捕まらず、生家からその交差点までの距離、私たちのあいだでは特別に重要な会話もなされなかった。予定を訊くなら今しかないと思って、私は機を伺って切り出す。
「明日ってさ、やっぱり、私も手伝った方がいいのかな」
「コヨリも来るかい?」ってナオ兄は、運転席からこちらをちらっと見て言った。
「その話ならきんなもしたはずだぞ」って後ろからトモ兄が言う。「どうしても手伝いてえのか?」
「そういうわけじゃないよ。はっきりしておきたいだけ。だって昨日はどっちにするか答えが出てなかったから。私だって手伝わないでいいなら、その方が都合がいいよ」
「なにか予定でも?」
「ううん。ただ、綿入には明日いっぱいしか居られないから、できるだけ色々見ておこうと思って」
「ああ、そんならその方がいいな。綿入に戻ってきた理由はともかく、お前まで俺たちの下らない問題に関わる必要はねえよ」
「じゃあ、私抜きでも、構わない?」
「好きにしろ」ってトモ兄は言葉の乱暴さとは裏腹に好意的にうなずいた。「久しぶりの故郷を堪能してこい」
「でも、そうなると寂しいね。次にコヨリに会えるのはいつかな」
「すぐに会えるよ」って私はナオ兄の問いかけに簡単に請け合った。「私だって、もうちょっとしたら大人だもん」
「想像したくねえな」ってトモ兄は笑った。「でも、考えてみりゃ、これで最後か。次に会うまで元気にしておけよ」
「二人もね」って私は言った。
結局私はトモ兄たちに連絡先を聞かなかったし、これが帰郷の最中に見る最後の兄たちの姿なんだということにも、特別な感情を持とうとしなかった。それは決して生家に対して深い思い入れを見いだせなかったことと根本が一緒なわけではなくて、この別れに特別な感情を持とうとしないのはトモ兄ナオ兄の側からもおんなじらしかった。あまりにも長い時間離れ離れだったせいで自然とそういう距離感になってしまってたんだ。
でもそれは決して不幸なことなんかじゃない。田園地帯を突っ切って祖母の家まで向かうわずかなあいだ、私たちは十年前のどの瞬間を切り取ってももそうしていたように、とりとめのない無邪気な会話を楽しんでいた。間違いなく私たちは血を分け合った兄弟だった。
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