第八節(0208)
由利一汰。彼を名前の通りに「ゆりひでとし」って呼んでやった期間が、一体私の中に、どれだけあったのか。頭の中にはからっぽだ。太古の昔から彼は「イッタ」だった気がしてならない。遡れる限界は幼稚園の年少さんからで、それからずっと、つまり小学校に上がってからも変わらず、私は彼のことを「イッタ」という愛称で呼び続けてた。そうして私は、彼の学生生活に一年ぽっち干渉しただけなのに、その後の六年、ひいては中学に上がってからの三年も合わせて、つまりつごう九年間の、彼のあだ名に関する命名権を勝ち取った。
イッタという呼び名を本人もよく気に入った。学年でいえば同い年なんだけど、彼は二月の早生まれだったから、幼い頃、私を見る目は年上に注ぐそれと同じだった。ふとした思いつきで「イッタ」って冷やかしてみても、彼は子犬みたいにしっぽを振って駆け寄ってきた。
それ以前に彼のことをどう呼んでいたのか本当に覚えてない。涙もろくはあったけど人懐っこく、決して自己を持たないし、それについては子ども全般そうなのかもしれないけれど、一方で子どもらしいわがままもなく、他人の要求にも従順で素直な男の子だった。
十年ぶりに再会するまで、私はイッタの人となりを、どんな風に成長しているかなんて深く想像してみることはなかった。けれどもしも似たような性格の男児に出会ったとしたら、十年後や二十年後の彼を……いや、私はともかくとして、世間一般の人たちは、無難な人柄に思い描くはずなんだ。
イッタはその点で他人を化かすのもうまかった。多くの人が思い描くであろう人柄を、彼は私と再会した瞬間には確実に持っていた。それは狡猾にそうしているというよりも、日頃からの習慣のようなもので、不慣れな相手を前にしたときに、自然と彼の内側からにじみ出てしまうものだった。だから私としては、その部屋のことはまさに不意打ちを食らったようなものだった。
強烈な白光のあとに目に飛び込んできたのは、とてもシンプルな二つのものだけだった。白と、そして黒。白と黒、そう、本当にそれだけなんだ。あらゆる物が白と黒の二つの色に染め上げられていたんだよ。それは決して『正義』と『悪』とかいった比喩的なことではなくて、ごく物質的に、部屋の中にある全てのものが『白色』と『黒色』の二つに分けられていたの。
いや、私がここで全てといっても、君はまだ疑うかもしれない。どうせテーブルやベッドやキャビネットやデスクや、あるいはパソコンだったりラグマットだったり、そういった物がパンダみたいなかわいいキャラクター性をもって二色に分けられていたんでしょう、と、たぶん君はそう考えている。でも違うんだ。そういった家具や小物はもちろんのこと、壁も床も天井も、目に映る範囲はことごとく白と黒だった。
壁から続く一辺が十センチくらいのチェック模様は、床や天井との境目、あるいは両端の壁との境目にぴったり合うように計算されていて、歪みのない機械的な白と黒の平面世界を作り上げていた。かと思えばドア正面の本棚は黒一色に統一されていて、中身を彩る本も一つ一つに黒いカバーがはめ込まれてた。文庫版にしろ新書版にしろ本の寸法はそれぞれ違うはずなのに、どれもオーダーメイドのような規格のカバーがされてある。ちょっとすれば禁書か魔術書の類のようだ。そんなサバト調の本棚の代わりに、例えばローテーブルは白一色だった。僅かな傷みや汚れも許さない完璧な純白の仕上がりだ。そうやってこの部屋に置かれた物は必ず白の勢力か黒の勢力に振り分けられて、お互いの均衡は、視覚的なバランスという意味で平行なラインを保たされていた。
どこを見ても妥協なんて存在しなかった。いや、本当のことをいうと、例えば壁にかけられたジグソーパズルとか、ベッドサイドに置かれた大振りなクマのぬいぐるみだとか、そういうどちらの勢力に属さないものもあった。だけど彼らは例外というか、こんな例外をちょこんと配置してみたところで、この部屋の狂った均整は到底拭われるはずなんてなかった。
何よりも驚かされたのは、この部屋を立体的に覆うチェック模様の直線ぶりだった。どうもこれは真っ白な壁紙の上から黒い壁紙を切り貼りしたものらしかったんだけど、これがどこの角を見てもすべて直角なんだ。一ミリだって斜めにずれてる角はないんだよ。黒の壁紙を一枚一枚貼るごとに、毎回緻密な角度計算が行われていたってわけだ。足元の線を目で追えば、スムースな顔の動きで頭上まで行き着く。分度器だとか三角定規じゃ決してここまで上手くはいかない、おそらくだけど専門的な器具が必要なはずで、それを単なる普通学科の高校生が用立てたってことにも頭がくらっとする。
要するになんだけど、この部屋は白と黒というよりも、いわば鋭角のようなもので成り立っていた。完全に二色で統一された鋭さと、直線と直角しか許容しない鋭さだ。その鋭さこそこの部屋の定義であり、ひいては十七歳になったイッタの(早生まれの彼はまだ十六歳だったけど)人格的な定義でもあった。
「ああ」って私はまぶたを押さえながらうめき声を漏らした。目元を手で覆ってる間だけ平穏が訪れる。「ちょっと待って。考える時間をちょうだい」
「みんな似たような反応だよ。最初はみんな、そうやって戸惑ってくれる」
「くれるって」って私は呆れて言った。
「一応、相手は選んでるんだけどさ、それでもすんなり受け入れてくれるやつはいなかったな。そういう意味じゃ俺の方では予想通りだから、いくらでも時間を使ってくれていいよ。すぐに現実を飲み込めるさ」
「もう一度ドアを開け直したら、変わったりしないかな」
「シュレディンガーの思考実験みたいに? いや、そういう反応は今まで誰もしなかったな。やっぱりね、さすがはコオリだ」って彼は愉快そうに言った。「でも言ったろ、現実を飲み込みなって。これは俺の部屋だよ、グリム童話の一ページじゃない」
「そういうのイタイ表現っていうんだよ」って私は苦し紛れに強がった。「私の知ってるイッタは、こんなことしなかった」
それでも彼は笑顔のままだった。「とにかく入りなよ。それとも、どうしてもっていうなら、下まで戻ろうか?」
部屋の中に通されると、いよいよ彼の徹底ぶりを見せつけられた。ステンレスタンブラー、マドラー、爪切り、鉄アレイ、ティッシュカバー、テレビ、ビデオデッキ、ヘアアイロン、ミニコンポ……見ればハンガーラックにかけられてる服も白か黒のツートーンだ。そして強烈な照明が彼らのもとに注がれる。シーリングライトはやや縦長の八畳の部屋に十四畳のタイプが使われていた。
「ねえ、本当にこの部屋で寝起きしてるの?」って私は心から彼のことを心配して言った。「悩みごとがあるなら、相談にのるよ?」
「誰だって少しくらい、普通じゃないところはあると思うよ」
「少しかなあ」
「まあ程度の大小はどうあれ。要はその普通じゃないところを隠すか隠さないかだよ。あとは、どこまで隠しておくかと、誰には明かすか。他人の評価なんて、その微妙な配分によって決まるだけなんだ。適当に腰おろしてくれていいよ」
もちろんクッションだって白黒だ。私が選んだのは白の方だった。イッタはリビングでオフにしたエアコンの代わりに、この部屋の空調をオンにして、それからローテーブルを挟んで私の対面に腰かけた。
私は黙って彼を見つめた。強すぎる照明のせいでどうしても眉間にしわが寄る。
「言いたいことはわかるけど、どうしようもなく現実なんだ」、しばらく見つめ合ったあと、彼は口を開いた。「ここまでするのに三年から四年はかかってるんだよ。コオリが奇妙に思うのはもっともだけど、これが今の俺なんだ、七歳の俺じゃない。でも、それについてはコオリだってずいぶん変わったと思うんだけど?」
「おじさんたちは知ってるの?」って私は正面からやり合わずに訊いた。
「もちろん。親父も母さんも、二人とも知ってる。兄貴だってもちろん。家族に秘密のまま、ここまでいじり回すのは、流石に無理があるからね。でも親父たちは案外冷ややかに対応してくれてるよ」
「開いた口が塞がらないんじゃなくて?」
「そうかもな。でも、どっちでもいいよ。そのうち飽きるだろうって看過してたのかもしれないし、口を挟む時期を失ったのかもしれない、でも結果として俺は自分の思う通りに部屋を完成させた。それで満足さ」
「イッタの家族に同情するよ」って私はうなだれて言った。
「どうしてそうなるんだよ」って、だけどイッタはやけに嬉しそうに言った。「部屋の中にあるものは自前で揃えたものばかりだし、壁紙だって、剥がそうと思えばすぐに剥がせるんだ。他人の部屋を勝手に改装したわけじゃないし、位置的に誰かの目に触れるわけでもない。つまり誰にも迷惑をかけてない」
「いや、つまり、イッタのそういう精神性が」って私は言いかけた。でも途中でやめにした。
けれどもイッタの方では更に熱を増していった。元々あまり多くの人を部屋に案内しないためか、それとも十年ぶりの幼馴染みとの再会に気を昂ぶらせてたのか、とにかく彼は冷ややかに低くさせていった私の体温まで吸収するように、この部屋がいかに素晴らしい作品かということをこんこんと語り始めた。
「それにさ、ずいぶん苦労だってしてるんだ」って皮切りに彼は言った。
初めは単なる思いつきらしかった。思いついたのは中学生の頃のことで、そのときはまだ資金難も手伝って、白い小物や黒い小物を集めるのに終始した。それが段々とエスカレートするのは、イッタに言わせると自転車の初動が遅いのと同じで、気がつけばスピードに乗っていたとのことだった。
高校生になってアルバイトを始めると、白や黒の蒐集は更に加速した。けれどもそれはあくまで白と黒っていう精神的な意味合いに投資していたんであって、物に執着していたわけじゃないって彼は言った。
イッタは……つまりこの当時のイッタは、現実的な面より精神的な面に重きを置いて、物とか物質とかいったたぐいにはあまり頓着せず、おかげで月々のお小遣いだとかお年玉だとかは彼の懐を暖める道具にしかならず、そこに高校生になってから始めたアルバイト(いまはもう辞めてるらしい)で得た給金を足すと、この部屋を自分の精神面の一部として塗り替えるのに必要な元手が充分に確保されていた。
そうしてアルバイトで得た資金が予定の額に達すると、彼はいよいよ大掛かりな改装に着手した。手始めには壁紙だ。壁や床の壁紙は、本棚やベッドに隠された死角にまできれいに貼り付けられてあるらしい。それでも元から室内にあった家具の裏まで壁紙で埋めるのには苦労もあった。それらはどうしたのかと訊くと、廊下を通せるものは外に搬出し、そうでないものは天井に吊り下げるなり一部の友人に手伝わせて持ち上げさせるなりしたと彼は答えた。何度かは失敗もした。そのたびにやり直した。相当な労力と創意工夫の上にこの機械的な立体のチェス盤は生み出されてた。私が気になっていた寸分の狂いのない角度の調整は、大型のホームセンターで購入したデジタルの測定器を用いたとのことだった。
壁や床天井が片付くと、作業の大詰めに新品の家具類が設置されていった。それまで使われていた敷布団はベッドに代えられ、一部が錆びついていた古いスチールラックの本棚も木製のものに取り替えられた。それらは初めから黒や白に統一されていたわけではなく、購入後、部屋へ搬入する前に手作業でどちらかの色に塗り替えられた。いきなり塗装から始めるとムラが出るから、表面を濡れタオルで拭ったあとに耐水ペーパーで表面をなめらかにし、それからカラースプレーで塗布してゆくんだと、この部分は特に熱を込めて力説された。部屋の前の通路を通せない彼らは、ベランダに続く掃き出し窓から引き上げたらしいんだけど、その作業のときがすべての工程の中で最も緊張した瞬間らしかった。その掃き出し窓はいま、暗闇のような遮光カーテンに覆われて、外界をつなぐ唯一の手段という重役から降ろされている。
一体これほどの熱意を、イッタはどんな動機づけをもとに維持し続けたんだろう。
「すごいね。情熱だけは認めるよ」って私が肩をすくめて言うと、
「褒めてもらいたいわけじゃないから、いいんだよ」って彼は答えた。「これは個人的な問題だからね。初めはそうでもなかったけど、続けてゆくうちに、徐々に意味合いが生じてきたんだ。今ではこの部屋が俺の意思表示みたいなものなの」
「意思表示」って私はつぶやいた。「つまり、なんだろう、白と黒の二面性、みたいな?」
「どうだろう」って彼は愉快そうに言った。「というよりは、物事をはっきりさせておきたいんだ。文字通り白黒つけておきたい。いや、世の中で行われてる曖昧な物事は、それはそれでいいんだけれど、つまり、俺の内在的な問題だよ。俺の中にあるもののうち、例えば、そうであるものと、そうでないものを、左右に分けて認識しておいて、言葉や、あるいは感覚で、理解しておきたい」
「えっと」って私は一瞬戸惑った。「自己探求とか、そういうこと?」
「ざっくり言っちゃえばね」
「ああ」って私は言った。彼はその年齢にして、あくまで個人的・内面的なことに関してではあるけれど、いわゆる形而上学の分野に興味を持っていた。
あの泣き虫のイッタがな、って私はその点についてだけは素直に感心した。過去の私の目には彼は自己のない子どもにしか映っていなかった。
「十年のあいだにお互い性格も変わったらしいからね」って彼は私の心を読んだように言った。「だから、言葉以上に理解してもらうために、案内しておきたかった」
「本当にそれだけ?」ってそこで私は、室内へ通される直前に行われたやり取りを思い出して、言った。
「正直、どんな反応があるかも楽しみだった」
「ほらね」って私は言った。
「でも、これで自己紹介は済んだろ? これからは建設的な話をしよう」
「建設的」
「例えば、コオリの明日の予定とか」
「なるほど」って私は言った。「明日は特に決まってないよ。今日はトモ兄たちと一緒に家の様子を見る予定だったけど、明日は本当に自由なんだ」
「自由っていうのは、つまり、十年ぶりの故郷を見て回るとか?」
「多分そうなるんだろうね」って私は自由も過ぎて予定が白紙であることを強調するように言った。
「そうか」って彼はうなずいた。「そこに俺が加わるのは、どう?」
「うん。イッタさえ良ければ」って私は言った。「この部屋とは分離した場所でなら」
「そんなに居心地悪い?」って、だけどイッタはちらちらと室内を見回すだけで、深くは取り合おうとしなかった。「じゃあさ、今のうちに連絡先の交換をしておいてもいいかな」
「うん?」って私は言った。「うん。いいけれど」
「別に今すぐじゃなくてもいいんだけれど、悪いね、俺はこういうとき、人より用心深い方なんだ。急にやってきたコオリが、また急にいなくなるって不安が、ちょっとよぎったんだよ」
「気にしなくていいよ」って私はポケットから取り出した携帯端末を操作しながら言った。
「また、ふらっと居なくなったりするなよ?」ってそのとき彼が言った。
携帯端末に落としていた視線を上げると、イッタは表情を真面目に直してた。そうなってやっと気がついたのだけど、彼にそんな不安を与えたのは十年前の私だった。両親の離婚の際、私は彼になんの報告もせずこの町から消えた。
「恨んでた?」って私はか細い声で訊いた。
「悔しくはあった」ってイッタは婉曲に言った。でもすぐに表情を柔らかに戻して、「そういうことがないように、保険がほしいんだよ」
そして呆気ないほど簡単に、赤外線通信は私たちの十年を切り除いた。私のディスプレイにはイッタの名前が浮かんで、イッタのディスプレイには私の名前が浮かび上がる。
「そっか。堀田じゃないんだ」ってイッタは、私の登録情報を見て言った。「下に間で……」
「しもつまだよ。しもつまこより」
「慣れない響きだ」
「そのうち慣れるんだよ、私もそうだった」って私は首を傾いで言った。「ねえ、それよりさ、明日のことならちょっと待ってて、今からトモ兄たちに訊いてくる」
「え?」
「実をいうと確実には決まってないんだ。トモ兄たちからしたら、私は必要ないみたいだけど、それでも本当に手が要るか要らないかは、宙に浮いたままになってる」
「いや、それは後で教えてくれればいいよ」ってイッタは手を伸ばして言った。ところが私の方では既に腰を浮かせかけていた。
「まだ家にいるから、聞いてきた方が手っ取り早いよ」
イッタの家から私の生家まで、それは本当にどうしようもないほどの距離でしかないんだ。昔お互いの家に糸電話を引こうという計画が持ち上がって、結局は没になってしまったのだけど、でもそんな提案が容易に出されるほど、目と鼻の先にってやつだった。
「少しだけ待っててね」そういって私はイッタの部屋を飛び出した。飛び出した瞬間には改めて外の世界の生き心地のようなものを感じたけれど、それはまあいいや。
空中の回廊をぐるっと一周して、框の上で靴に履き替えて、レリーフの扉を内側からこじ開けて、ついでにガレージ経由で通りにまで飛び出して、するとその時点で工程の大半が完了してる。残り生家までの工程は、短い直線を行って、一つ丁字路を曲がるだけ。
その丁字路を曲がったとき、ちょうどナオ兄のステーションワゴンが生家から出てゆこうとするのが見えた。
車は駐車場からバックで出てきて、私の方向からは点滅を繰り返す赤いテールランプが見えていた。丁字路を曲がったばかりのときには切り返しの最中だったのが、呆然と立ち尽くしていると、とうとうアスファルトの舗装路にすっかり乗っかった。
慌てて駆け寄ってハッチバックを叩いたとき、車はわずかに前進を始めてた。助手席側に回り込むと、トモ兄はパワーウィンドウをおろして表情の読めない顔を覗かせた。
「どした、もう遊び疲れたんか?」ってトモ兄は言った。
「いや、なんで車出してるの?」
「明日のために買い出しだよ。コヨリも来るか?」
「ああ」って私はうなだれた。
「なんだよ。まさか置いてけぼり食らうとでも思ったのか」
「そんなんじゃないけど」
「まあいいや。乗るのか乗らねえのか、さっさと決めろ」
「乗らないよ」って私はちょっと苛立ちを感じて言った。
「家には入れねえぞ。鍵かけちまったからな」そう言うとトモ兄は、ナオ兄に合図を出して車を発進させた。鍵を預けるという発想すらないような口ぶりだ。
それからわずか三十秒でステーションワゴンは視界から消えた。
だけど見込んだ成果をあげられずにイッタの家まで戻る途中、ふと私は、この方が都合がよかったと思い直した。
特定の思春期の子にはありがちなことだけど、私も家族にはあまり交友関係を晒したくないたちだった。だけどこのタイミングで明日の予定を訊くとなると、トモ兄あたりから余計な詮索をされる恐れがあって、だからイッタのことを隠しておけるならこのほうがよかったと、自分へ言い聞かせることにした。
イッタの部屋まで戻ると、彼は不特定な視線を壁に注いで待っていた。
「おかえり。どうだった?」
「だめだった」
「あれ。やっぱり明日は忙しいんだ?」
「そうじゃなくて、聞けなかった。聞く前に出ていっちゃった」
「出ていっちゃった」って反芻するイッタに成り行きを説明すると、彼は、「ああ、なるほどね」ってことさら愉快そうに笑った。
「でも、それなら最初から電話で聞けばよかったのに」
「え?」
「電話。兄ちゃんたちのどっちかに」
「そういえば、トモ兄たちの連絡先、知らないや」
「交換してないの?」
「してない」って私は端的に言った。「だって、必要あるかな?」
聞くと、イッタはまるでわかりきった質問をされたときの、すこしきょとんとした顔をした。
「例えば今みたいな状況のときに」って彼は答えた。
でも私はこの状況になっても、なぜだろう、特別な必要に迫られているとは感じられなかった。それで私は「うん」ってぼんやり答えた。
イッタは私を不思議そうに見つめてた。
「いや、コオリがそういうつもりなら、俺は構わないけれど」って彼は一つ置いてから言った。「まあ、とにかく座りなよ」
またしても白いクッションの方を選びイッタの対面に腰かけた。
「変かな?」
「家族の連絡先を知らないことが?」
「知りたいと思わないことが」って私はイッタの言葉を修正して言った。
「それは俺が決めることじゃないよ」って、そのときイッタはそう言った。「なんだってコオリの自由さ。コオリが変化を求めるならその方向に正せばいいだけだし、もし、そうは感じないなら……」
「そうだね」って私はうなずいた。
イッタの形而上的な追求は、ご覧の通り、あくまで室内という内面を比喩した空間や、彼の内面そのものにだけ向いていた。この人は決して他人を値踏みしたり詮索したりという行為を好まなかった。むしろ自分を理解することで他人をも理解できるんだって信じてた。それはちょうど、文学という他者から与えられた物の中に自分を発見しようとする私とは反対の試み方だった。けど、目指すところはおんなじだった。
彼に対して、十年ぶりに再会した幼馴染みというだけじゃない、もう一歩近づいた感情が、私の中に芽生えだしてた。
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