第七節(0207)

 家の中はむせ返るほど静かだった。分厚いドアが開く音も、閉じる音も、それだけではなくて三和土の上で靴を脱ぐ音も、框を踏みしめる音も、どんなに些細な秘密も漏れることなく響き渡った。


「いま、みんな留守にしてるんだ」ってイッタは私をリビングに案内しながら言った。室内は玄関ホールより熱気に満ちていて、ドアを開けた瞬間に廊下までもわっと熱波が流れ込んできた。


 エアコンのスイッチを入れると、イッタはそのままリビングと地続きのダイニングキッチンまで移動した。意味もなくあとをついて歩いていると、振り返りざま愛想笑いのように微笑んで、「好きにかけてくれていいよ」って言った。


 言われるがままキッチンカウンターのスツールに腰かけた。イッタはそのあいだにカウンターをぐるっと回って、シンクの蛇口からケトルに水を注ぎ始めた。


「帰りは遅いの?」って私は彼の背中に訊いた。


 ケトルがコンロにかけられ、食器棚からコップが取り出されているあいだ、彼からの返事はなかった。私は特に気に留めず室内を見回した。


「昔のまんまだね、イッタんち」

「そう?」ってイッタは取り出したコップのうち一つを私の前に差し出して言った。それから一息遅れて、「親父たちは明後日まで帰ってこないよ」

「遠くまで出てるんだ?」

「そう。例の夏山登山」


 彼は再び私に背を向けて、冷蔵庫から麦茶の容器を取り出した。


「例の?」ってコップに麦茶が注がれている合間に私は訊いた。

「ああ。覚えてないか。親父の夏季休暇が始まると、毎年夫婦揃って登山に出かけるんだ。大学時代は二人ともワンダーフォーゲル部だったからね」

「それって、私が忘れてるとまずいことだったかな」って私は探り探り言った。

「いや、そんなことはないよ」って彼は笑った。「ただ、ちょうどその時期に俺がコオリの家に泊めてもらったことがあったから」

「あったんだ?」

「あれはコオリの発案だったんだけどね」って彼は言った。「親父たちの出発に合わせてぐずれば、こっちの意見を通してくれるに違いない、って」

「いやな子ども」って私は思わず笑った。

「コオリだよ」ってイッタの目は懐かしさに和らいだ。


 ただ、それにしてもイッタの家はしんと静まり返ってた。両親が家を留守にしてるといっても、私の記憶によれば、彼にはほかに、四歳か五歳ほど離れた兄と、それから祖父の二人の家族がいるはずだった。


「他の人はどうしたの?」ってそれで私は、しばらく間を置いてから訊ねてみた。イッタはケトルの栓が鳴くのをサンドイッチを頬張りながら待っていた。


「兄貴はいま県外の大学」って彼は口をもごもごさせながら言った。「もう四年だから、そのまま向こうで就職する予定らしい」

「それと、おじいさんは?」

「じいちゃんは、えっと」って彼は少し口ごもった。内容物を嚥下すると、彼はすっきりした顔で、「だいぶ前にね。たしか、来年か再来年が七回忌だよ」


「知らなかった」って私は悪びれるように言った。幼い頃のイッタがおじいちゃん子だったのを覚えていて、余計に私は申し訳ない気持ちになった。イッタは対照的に明るく首を振った。


「もう何年も前のことだよ。未だに気にしてたら、その方が問題だ」


 そこでケトルが沸騰を告げた。イッタは今さらになってカップ麺の封を解いたりかやくを入れたりと支度を始める。


「じゃあ、今って、イッタが一人で留守を預かってるの?」

「そうだよ。気楽なものさ。金はいくらか置いていってくれたし」って彼はお湯を注ぎながら言った。「それで? コオリはいつこっちに帰ってきたの?」


「ああ、私は、昨日」

「昨日?」、キッチンタイマーまでセットし終えると、イッタはカウンターに両肘を置いてもたせかけ、前のめりの姿勢で私の顔を覗き込んだ。「うちの親も昨日出ていったんだよ」

「ちょうど入れ違いだ」って私は言った。「それなら、まるっきりスケジュールが一緒かも。私も明後日の朝には帰る予定だから」

「なんだ、思ってたより急な話なんだ。てっきり一週間くらい滞在する予定なんだと思ってた」

「そんなに長居は出来ないよ」そう言って私は、祖母の家に厄介になってる境遇を簡単に説明した。


「コオリんちも大変なんだな」って彼は簡単な同情を示して言った。お湯を注いでからすっかり三分が過ぎ、彼は麺をすすりながら聞いていた。


「いまからお昼なの?」

「起きたら十一時だった」ってなぜか得意げに返される。「夏休みなんだから好きにやるさ」


 その姿を私は正面からぼんやり眺めてた。日光の届かない室内の奥まったところでは、彼の顔がもう一つ涼やかに見えていた。十年前の面影をたしかに残しつつ、はっきりとした意思のある、男の子の顔になっている。いくらか会話を交わしてみて口調の変化も見て取れた。昔のイッタは、こんなにもはきはきと物を言える子どもじゃなかった。


「なんだか変わったよね」って私はなんとなくしんみりして言った。「泣いてる顔しか思い浮かばないのに」

「いつの話だよ」ってイッタは笑う。「それにね、俺の眉間が絶えず深刻だったのは、常にコオリっていうおてんばが横にいたからだ。いつだってコオリは想像の斜め上を行って、俺を驚かせるんだよ」って彼は言った。「現に、さっきだって俺を驚かせる」


「やっぱり驚かせちゃったかな」って私は言った。「でも、会わないままで終わるのはもったいない気がして。突然のことだから迷惑になるかなとは、私の方でもちょっと考えたんだけど」


 ところで私がそう言うと、イッタはぽかんと口を開けた。


「俺より、変わったのはコオリの方なんじゃない?」

「そうかな?」

「そんなにしおらしかったっけ?」

「しおらしくしてるつもりは、ないよ」

「ふうん」って彼は言った。それからキッチンカウンター越しに、私の全体を審査するように覗き込む。肩より少し短い私の髪や、薄い半袖のパーカー、飾り気のないサブリナパンツ、ベルトに噛ませたフェイスタオルとお尻に挟んだ財布……。「見かけは、昔のままって感じなんだけどな」


「動きやすいほうが好きなの」

「ああ、その点はやっぱりコオリだ」って彼はひどく安心したように笑った。「なんにせよ、おかえり」

「え?」

「綿入に」って彼は食事を再開しながら言った。

「ああ、うん」って私は視線を落として微笑した。


 なんとなく目を合わせるのが悪い気がして、それからはイッタの食事が終わるまでそっぽを向いていた。

 ダイニングの奥の、キッチンスペースとは反対側に当たる位置には、間仕切りの壁に遮られたサービスルームがあって、そこは昔からイッタのお父さんの書斎としてあてがわれた空間だった。デスクには今も昔も書類が山のように積み上げられ、絶妙な配置の白い連峰のようになっている。デスク下のスペースはワークチェアで蓋をすると表からは上手な死角になって、この家で遊ぶ際の隠れんぼの定番スポットとしてよく用いられていた。


「懐かしい?」って隣から柔らかい声がした。私はそぞろに「うん」って返事した。

 直後に突然肩を叩かれた。いや、私の主観では本当にそう感じたのだけど、実際のところそれからいくらか時間が経っているようだった。イッタは既に食事の後片付けまで終えていて、充分に余裕を持って呼びかけたらしかった。


「ごめん、なに?」って私はとっさに彼に振り向いて言った。

「いや、飯食い終わったから」彼は思いがけず鋭い反応が返ってきたことに驚いていた。「部屋まで案内しようと思って」


「部屋? ああ、部屋か」って私は言った。「イッタ、部屋なんて、持ってったっけ」

「コオリが知ってる頃には、物置として使われてた部屋だよ。二階の、一番奥の部屋」

「ああ」って私はよくわからずに返事した。


 二階へ向かうには一旦玄関ホールを経由する必要があった。ホールの端に階段があって上は吹き抜けの廊下になっている。二階にある部屋はすべてこの廊下に通じていて、イッタの部屋はコの字型の廊下を最後まで進んだところにあった。他の部屋が廊下と平行した位置に扉をつけているのに対して、彼の部屋だけはどんつきに扉があり、廊下自体も部屋の手前数メートルからは壁に挟まれた小さなトンネルのようになった。


 途中にある部屋はどれも家族のプライベートルームで、そこには私たちの遊びが度を越したときにしか立ち入らなかった。返って吹き抜けの廊下は物珍しくって、意味もないのによく遊び場に使われていた。手すりの隙間からおもちゃを落として誰かの靴に入れれば勝ちという遊びがその最中に発明され、単なる破壊活動にしかならずにイッタを泣かせたこともあった。


 あれから時が流れると、マホガニー製の手すりはいくらか変色して昔より味わい深い色合いになっていた。部屋へ向かう途中、懐かしい気持ちに駆られて、手すりから身を乗り出すように階下を覗き見た。


「はしゃいで下に落ちるなよ」

「ね。昔は檻みたいだったのに」

「檻?」

「いつの間にか手すりの背を超えちゃった」

「ああ」ってイッタは笑った。


 子どもの頃はもっと長いと思われた廊下は、十七歳にもなるとぐんと距離が縮まっていた。あっという間に角を二回曲がって、吹き抜け部分の終わりが近づく。もう目の前が炭鉱みたいに窮屈なトンネルだ。その最深部に、イッタの部屋へ出入りする唯一の扉がはめ込まれてる。


「アクセスの悪さが難点だけどね」って彼はトンネルの入口あたりで言った。

「言うほど離れてもないよ」

「いやあ、急にもよおしたりするとさ」

「下品だな」

「でも、やっぱり自分の部屋だからね。なんだかんだで落ち着くんだ」


 彼はそのときそう言った。私は特別な感慨を持たずに、自分の部屋があるっていいねとか、そういう一般的な感想を述べていた。でもよくよく考えてみると、このイッタの発言にはもうちょっと注意をしておくべきだった。そう思ってみれば、このときの声の調子や表情にはどこかわざとらしいところがあったんだ。「落ち着く部屋だ」ってことを、あらかじめイッタは私に伝えておきたかったみたいなの。


 吹き抜け部分の北側と南側にはそれぞれ採光窓が取り付けられていて、そこから差す光は空中廊下の一部を強烈に照らし出すとともに、全体へは間接照明の効果でうっすらとした明るさを与えてる。その薄明かりが手すりや床や壁に使われた、少しくすみのあるマホガニーに当てられると、普段はどっしりとして頑強な彼らが不思議と柔らかな印象に変えられる。ところがイッタの部屋は採光窓の光が届かないすぼまった隘路の奥にあるから、ドアの近くは物々しい雰囲気に包まれて、そこだけ柔らかな印象から、どんよりした闇へと変わる。


 天井の電灯は部屋の前のスイッチで操作するようだった。壁付けのスイッチにはボタンが二つついていて、扉の前までくるとイッタはそのうちの一つをオンにした。それは室内照明のボタンだったらしく、依然としてトンネルの通路は暗いままだった。


「じゃ、開けるよ。いいね?」

「うん」


 ドアが開いた途端、強烈な光が目を襲う。

 薄目で確認した室内を見て、私はめまいを起こした。

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