第五節(0205)

 風と時間の流れで起こる、雲の形や太陽の位置といった微妙な変化。そんなことには何も気づかないで、私は空を眺め続けてた。


 永遠に感じる時間でも過ぎてしまえば一瞬だ。結局はその永遠に感じられる時間を耐えられるか耐えられないかの違いでしかない。私は耐えた。心を無にして時間だけを流すやり方を、私は子どもの頃から心得ていた。


 しばらくするとトモ兄たちが下に降りてきて、玄関の扉が開けられたかと思うと、すぐに駐車場から車が出ていった。私は音だけでそれら一連の動きを追っていた。

 そのすぐあとにトモ兄が仏間にやってきた。


「なにをサボってんだお前は」って彼は私の姿を見るなり、呆れるというよりは茶化すような口ぶりで言った。


「ああ」って私はぼんやり言った。

「そろそろ昼にするからよ、休憩だ休憩」


 携帯端末を見ると時間は正午に差し掛かろうとしてた。一時間近く仏間の縁側で光合成を続けていたらしい。そう思えば肌がちょっと熱かった。


「暇してたんなら、こっちの手伝いに来りゃ良かったのに」ってトモ兄は段ボール箱をちらっと見て言った。

「あったの?」って私はまたぼんやり訊いた。一旦心を空っぽにすると意識が戻ってくるまでに時間がかかる。


「特にはねえけどよ」って彼はそっけなく言った。「とりあえず、飯はナオに買いに行かせたから、なにか食いたいものがありゃ連絡してやるぞ」

「コンビニ?」

「近くのな」

「別に、なんでもいいかな」って私は言った。

「んじゃ、戸締まりだけしておけよ」って彼はこのそぞろな会話にうんざりするように言った。「どうせ午後からはやることもねえんだろ?」


「うん」って私は言った。それでトモ兄は遊び部屋まで引いてった。


 仏間を元の状態に戻してから私も遊び部屋まで向かった。父も母も不在のとき、私たち三人が食事をとる場所は、玄関脇のその部屋だと昔から決まってた。別に誰が取り決めたというわけでもないけど自然とそうなっていた。


 私が着くとトモ兄は部屋の真ん中に腰を落ち着けて、悠々とタバコをふかしてた。霧のような薄い煙が部屋のなかをたゆたっている。


「気になるなら開けてくれ」って彼は遊び部屋の掃き出し窓を指して言った。

「それより暑くないの?」

「ああ、じゃあ開けてくれ」って彼は二度言った。


 どっちにしろトモ兄は私に窓を開けさせたいらしかった。彼は昔から征服欲を満たそうとする、こうしたちっぽけないたずらをよくする人だった。望み通りにしてやると嫌味っぽい含み笑いで満足を示すの。


「お前、あれからずっと暇こいてたの?」

「ちゃんとやることはやってたよ」って私は座りしな言った。

「午後からは俺たちの手伝いでもすっか?」

「手伝えるようなこと、ないんでしょ?」って私はすっかり意識を戻した脳で言った。

「そうなんだよな。だけどさすがに可哀想かと思ってよ」

「同情で買われても足手まといになるだけだよ」

「ずいぶん辛辣だな」ってトモ兄は笑った。

「自分のことだからね」って私は肩をすくめた。「もしかしたら近所をぶらぶらしてくるかも」


 言ってから、どうしてさっきその考えに思いつかなかったのかって気がついた。口を先に立たせるか、もしくは他人から与えられないと、思考が起き上がらないことがある。


「そのあたりは好きにしろ」ってトモ兄はあまり興味なさそうに言った。トモ兄たちにはトモ兄たちの予定があって、この日の彼は初めからその予定にしか興味を向けていなかった。今日中に下準備を済ませて、明日のうちに引っ越しをまるっと完了させる――他のことにはかかずらっていられないらしかった。


 携帯灰皿に灰を落としながら、トモ兄は紫煙をくゆらせ続けた。吸い込むときには世の中の苦労をすべて背負い込んだような、とてもまずい顔をして、吐き出すときになるとあらゆる辛苦から解放された顔をする。誰も踏み込めない、複雑な事情があるような印象を与えられて、私たちの会話は一旦そこで途切れた。


「ナオ兄、遅いね」って私はトモ兄の一服が終わったのを見て言った。

「もっと早くに行かせるべきだったな」って彼は、実際のところナオ兄が出ていってから十分も経ってないのにうけがった。「昼どきで店が混んでるんだろ」

「そっか」って私は言った。「それにしてもさ、ナオ兄、変わったよね?」

「ああ?」ってトモ兄は言った。「そりゃ変わりもするだろ、十年も経つんだから。お前だってずいぶん変わったぜ」

「ナオ兄ほどとは思えないよ」

「ああ、まあな」

「てっきり二人とも同じ道を進むんだと思ってた」

「俺たちがか?」って彼は信じられないことでも聞いたように目を丸くした。「まさか俺が毎日スーツを着て会社勤めでもする姿を浮かべてたのか?」

「逆だよ、逆。ナオ兄もニッカポッカを履いてると思ってた」

「あいつには似合わねえよ」

「今のナオ兄を見ればね」

「昔もだ」ってトモ兄は言った。


「そうかな。二人とも結構やんちゃに見えてたけど」

「ナオは無理して俺の真似をしてただけだよ」

「そうなの?」って私は言った。「じゃあ、今のナオ兄が本当のナオ兄?」

「どうだろうな。ナオには昔から変身願望みたいなところがあったからな」

「変身願望」って私は反芻した。「それじゃまるでナオ兄が色々溜め込んでたみたいに聞こえる」

「そこまでは言ってねえよ。ただ、あいつには昔からコンプレックスがあって――俺はそのコンプレックスがなんなのか知らねえけど、とにかく自分ってものを持ちたいって願望が強くあったんだ」

「それは変身願望とは違うと思う」

「ええ、細けえことにうるせえな」ってトモ兄は言葉をうまく紡げないことを自嘲するみたいに笑って言った。「なんとなくで理解してくれよ」

「それに、だとしたら矛盾してるよ。自分を持ちたい人が、どうしてずっとトモ兄の真似事をしてたわけ?」


「お前は理屈っぽくなったな」って彼は言った。「ナオも正解の道筋がわからない中で模索してたんだろ」

「今はやっと正解の道が見つかったんだ?」

「どうだろうな。まあ、努力はしてるみたいだけどよ」

「ふうん」って私は一応うなずいた。「でもさ、真似事って言葉を借りるなら、ナオ兄のあの感じ、ぜんぜん真似事って感じがしなかったけどな」

「だから努力してるんだろ」

「そんなに簡単に変われるものなの?」

「本人が変わりたいと思や、そういう方向に変わってくんじゃねえか? 俺にはわかんねえけど、性格を変えるなんて、そう難しいことでもねえだろ」ってトモ兄は言った。「無理して変えようとしてるもんは無理にも変わんねえけど、望みに従ってる分にはな」

「そうなのかな」って私は過去のナオ兄と今のナオ兄をどうしても一つに結び付けられずに言った。それについてはトモ兄も同じだったけど、彼の場合は真っ当な進化って気もした。


「だからさ、お前だってずいぶん変わったんだぜ?」

「七歳と十七歳じゃ違ってて当たり前だよ」

「へえ。それで、十七歳と二十七歳じゃ変わるはずがないって考えなのか?」


 そう言われると答えに窮した。だって、それは私にとって未知の話で、将来的にどうなるかなんてこのときの私は知りもしない。


「まあ、コヨリの考えもわかるよ。俺だってそういうのは表面的なものだと思ってるからな」

「うん?」

「根の深え部分は変わんねえって話さ」


 そこで話のけりをつけようとトモ兄が二本目のタバコを取り出したとき、駐車場にナオ兄の車が乗り上げた。薄壁一枚隔てた向こうでドアの開閉音がする。トモ兄はちょっと恨めしげにタバコをソフトパッケージに戻した。


 ナオ兄が戻ると私たちはテーブルもなにもかも取り払われた味気ない部屋で昼食を開始した。あぐらをお弁当のお膳に代えるのはまるで野武士か江戸時代の町人のようでひどく不格好だったけど、私たち三人が膝を交えるのは懐かしくも愉快でもあった。そのいっとき私たちは兄弟特有のくだらない会話に興じてた。


 話の内容が次第に今後の段取りに移ってゆくと、私は自然と身を引いた。二人の兄は構わず、軽トラックは一台じゃ足りないとか、もう一台を誰々に出してもらうとか、新居での陣頭指揮はどちらに任せるとか、そういう話をしてた。私にはわからない二人だけの会話をしてるのは、十年前にもよくあった光景だ。ただ眺めてるだけなのが、それもまた懐かしかった。


「そういえば、コヨリは午後からどうするの?」って、その話し合いがまだ煮詰まらないうちから、私を気遣うにようにナオ兄が訊いてきた。傍観している私を輪の中に引き込んでくれるのも、昔からナオ兄の役だった。


「近所をぶらついてくるとよ」ってそれにはトモ兄が答えた。私はうんうんって小刻みにうなずく。

「そうか」ってナオ兄は言った。「なにか持ち帰れそうなものはあった?」

 ううん、って今度は首を横に振った。

「だから初めから言ったじゃねえか。十年も前のガラクタの、何を宝石に見立てろっつうんだよ」

「でも、せめて懐かしく思ってくれればよかったんだけれど」

「ああ、うん。それはね」って私は曖昧に濁して言った。

「んじゃ、お前の物はあのまま仏間に置きっぱなしにして、処分してもらっちまうぞ」

「それでいいよ」って私は簡単に言った。何かを持ち帰ったとしても母だって迷惑にしか感じないし、もう私も段ボール箱の中身について考えを巡らしたくなかった。そうとわかるとトモ兄は、

「ったく、とんだ二度手間だったな」って急に声を張り上げて言った。「こっちだって忙しいっつうのによ」


「コヨリの前で、やめなよ」

「お前もお前だよ、親父の言い分を素直に聞き入れて」

「兄貴」ってナオ兄は声を尖らせて言った。「コヨリにだって目的は必要だったろ」

「目的っつったってな」ってトモ兄は、そんな些末なものなら無いほうがましだとでも言いたげに肩をすくめた。

「いずれにしろ」ってナオ兄はそんなトモ兄を牽制するように言った。「コヨリの前では、やめよう。せっかく十年ぶりにこっちまで帰ってきてくれたんだ」

「その割にはなかなか踏ん切りつかなかったじゃねえか。なあ?」

「寝込んでたからね」って私はそっけなく答えた。


 ああ、またいつもの病気が始まったなって思ったんだ。まったく、トモ兄というやつは、どんな些細なことにでも相手を屈服させようという野心的な癖がある。一旦その野心が起こると彼はむやみやたらに屁理屈を捏ねて、自分のほうが道理として正しいんだってことを相手に証明してみせようとする。その点では彼は十年前からなんにも変わっていなかった。


「寝込んでたっていうけどよ、一週間もまるまる寝込むやつなんて、聞いたことねえぜ」って彼は言葉の端々に独特の抑揚をつけて言った。この抑揚こそ例の病気の兆候というわけだ。


「色々あるの。トモ兄にはわかんないよ」って私は言った。

「本当に寝込んでたのか? 仮病じゃなくてか?」

「トモ兄は男だからね」って私は暗に、そして投げやりに言った。


 彼の野心の対象になったとき、十年前の私はただ真っ向からぶつかって、いつも泣きを見せられていた。そう、彼は年端のいかない相手にも平気で野心をぶつけてくる人だった。でも十年経つと、こうなってみるまで彼の野心を忘れていたにも関わらず、自然と受け流す術が身に着いていた。


 私が生理現象について触れると、二人の兄は言葉を詰まらせたように、一瞬ぽかんとした。


「十年ぶりに生まれ故郷に戻ってこようっていうんだ。色々あるよ」ってナオ兄が取り繕うように、やや慎重な口振りで言った。

「まあ、それはいいけどよ」ってトモ兄も口ごもるように言った。


 それで万事片付くと思った。実際にこの瞬間には一段落ついたことを知らせる、大きな息を吐く余裕が与えられていた。息を吐ききったとき、話はまた今後の段取りに戻ってゆくんだって思われた。


「だけどよ、そんなにコヨリが大事なら、なんでさっきはコヨリを迎えにいかなかったんだ?」って、だけどこの空気の読めない兄は標的を私からもう一人の兄に変えるだけだった。

 やめておけばいいのにナオ兄もそれに乗じてしまう。彼は根が真面目だ。


「それは兄貴が言い出したことだろ? 時間が惜しいから現地合流にしようって、それは兄貴が言い出したことじゃないか」

「そんなのは言い訳に過ぎねえよ。コヨリを大切に思ってんなら、俺の意見になんて左右されないはずだ。時間だって工夫次第でどうにでもなる」

「本家には極力顔を出さないようにとも言っていたよ」

「それだっておんなじだ。お前が一人で面倒を背負い込めばよかったんだ。要はその面倒とコヨリを秤にかけて、コヨリを捨てる選択を取ったんだよ、俺もお前も」

「それなら兄貴にだって問題があるじゃないか」

「俺はお前のことについて論じてるんだぜ」


 ナオ兄はとても実直な人で、そしてトモ兄は、この瞬間にも真剣じゃないのは私の目からも明らかだった。彼はこの安っぽい議論を単なる遊びとして捉えているだけだったし、遊びには勝者が存在して、それは常に自分の側だと考えているだけだった。彼にとっては遊びの内容よりも、この勝つか負けるかの方が重要で、最終的に勝つためであればどんな暴論じみた理屈でも振りかざす人だった。彼はそうした遊びに、真剣さを欠きながら熱中してた。


「要するにお前は俺の意見に従っている振りをして、お前自身の選択でコヨリを見捨てたんだよ」って彼は言った。そして今度は私の方を見て、「お前を迎えに行ったか行かなかったかで、何を大げさにって思ってるだろ? でもよ、人間性っつうのは、そういう些細なところにこそ表れるんだ」


「どうだろうね」って私は曖昧に答えた。「景色も楽しんでこれたし、今になったら別に不満はないよ」


「そういう問題じゃねえ。問題はばあちゃんたちにとやかく言われたくねえためにナオもお前を見捨てたっていう事実だ」

「うん?」って私は言った。「それってどういうこと?」

「何がよ?」

「だから、面倒を背負い込むとか、おばあちゃんにとやかく言われたくないとか」


 するとトモ兄は嬉々として、

「なあコヨリ、考えてもみろよ」って切り出した。「こんな狭い田舎で持ち家を失って、噂にならねえなんてことがあるか? しかも当事者の親父は我関せずで実家に転がり込んでる。ばあちゃんじゃなくても親戚として一言物申したくなるってもんだろ」


「でもそれはどっちかっていうとお父さんの問題じゃなくて?」

「俺らにだってとばっちりがあるに決まってるだろ。本家に泥を塗った形なんだからよ」

「いよいよお父さんの問題だと思うけど」

「そういうわけにもいかないよ」ってナオ兄も、このときはトモ兄の意見を認めるように言った。「傍から見ればこの家のことも親父のことも一つの家族の問題だ。俺たちだけ被害者って顔をするわけにはいかないし、他人もそうは見てくれない」


「でも、私は何も言われてないよ」

「お前はまだ若えし、今回の件にも直接関係あるわけじゃねえからな。むしろコヨリを呼び寄せたことだって、ばあちゃんたちにしてみりゃ――まあ、それはいいか」

「え。なに。迷惑だった?」

「大丈夫。コヨリは心配しなくていいよ」ってナオ兄は端的に言った。


「とにかく。とにかくだ。今は不用意に本家と関わることは避けなきゃなんねんだ。あちらさんだって顔を合わせた以上は口を挟まなきゃお体裁ってもんだしな」


「よくわかんないけれど」って私は前置きとしてそう言った。「でも、じゃあ、トモ兄の方でそうとわかってるなら、素直に頭を下げておけばいじゃん」


「いや、だけどよ、お前が思ってるよりも繊細なんだ。なにか小言をくれられたら、俺たちだってただ黙ってるわけにはいかなくなるかもしれねえ。別に反論しようってわけじゃねえよ、もしも事実と異なることがあれば訂正しなきゃってくらいの気持ちだ。だけどそれを相手が真正面から受けちまったら、いずれ口論になって亀裂が生じちまう。ボタンの掛け違いで訳のわかんねえことになるなんて、珍しい話じゃねえだろ。親父とだってうまくいってねえのに、このうえ本家とまで仲違いしてたまるかよ」そこまで言い切るとトモ兄はナオ兄を見て、彼の口が動かないのを確認するとそのまま続きを引き取った。「俺たちだってよ、今だけ我慢すりゃいいなら、はいそうですかってこんで本家の小言くれえ素直に呑んでやる。だけど本家との関係はこれから先もずっと続いてくんだ。今ここで切った捨てたの問題じゃねえの。いや本家ばっかりじゃねえよ、田舎にゃ田舎の世間体ってもんがあるからな。狭え田舎でこれ以上噂立てられてたまるかって話でもある」


「でも綿入にはもう住まないんでしょ?」

「住む住まねえで片付く話でもねえ」って彼は結論調に言った。「とにかく。多少不義理でもほとぼりが冷めんの待って挨拶に出るくらいがちょうどいいんだ」


「つまり、おばあちゃんちには?」

「ああ。親父もいるしな」

「あ、でも、お父さんなら」って私は言った。いや、そんなこと口走るつもりはなかったのだけど、トモ兄の視線が逸れたことに安堵して気が緩んでた。


「親父がどうかした?」ってナオ兄が追及する。こうなると打ち明けてしまうしかなさそうだった。

「今日は仕事みたいだよ」って私はできるだけ平坦さを保って言った。


 直後にはなにか嫌な予感を感じた。いや、前もって説明しておいたとおり、父にもトモ兄たちにも、誰にとっても都合のいい事実のはずなんだけど、それに対して私だけが取り返しのつかない過ちを犯した気になっていた。実際トモ兄も、


「なんだよ、留守だったのか」って端々に棘を含みつつ、案外冷静に受け取っていた。「まあ、いずれにしろお前は歩いてくる運命だったけどな」


「ただ、それならコヨリを送ってゆくのも気が楽だね」

「帰りは送ってもらえるの?」って私は二人の様子を伺いながら言った。「おばあちゃんたちには会わなきゃいけなくなるけれど」

「帰りまで歩かせたら、それこそ世間体ってもんがな」ってトモ兄は言った。「むしろそっちが決定事項だから行きは歩かせたんだ」

「なるほど。リスクは少ないほうがいいわけだ?」

「わかったような口利くな」ってトモ兄は笑った。「ああ、だからよ、外ぶらついてくるにしても、あんまり遅くなるなよ」

「何時までに戻ってればいい?」

「三時か……いや、四時ってとこだな」、トモ兄いわく、それからあとも新居の方で支度があるらしかった。


「近所回ってくるだけだし、たぶん一時間もかからないよ」

「そりゃそうか。懐かしいって以外に目ぼしいものもねえしな」

「美術館があるじゃない」ってそこでナオ兄が言った。「もしコヨリが、そういうことに興味があればだけれど」

「ああ、そうだね。それもいいかも」


 ナオ兄に言われるまで美術館のことはすっかり頭から抜けていた。その建物はあまりにも自然に生家の近くに存在しすぎていて、特別に価値のあるものだという風には私の目に映らなかった。仮にモン・サン・ミッシェルが生家の前にあったとして、私はその世界遺産にも本来の価値を見いださなかったと思う。


 昼食はすっかり終わっていて、私たちはいささか会話に夢中になりすぎていた。度を越す発端となったトモ兄の病気も今やすっかり治まった。子どもの癇癪とおんなじでうまくいなしてやれば勝手に消える。


「じゃあ、俺たちもそろそろ」って、ナオ兄の合図を皮切りにそれぞれの作業に取り掛かる。


 再び二階へ上がってゆく二人に「暑いから気をつけろよ」って見送られながら、私は玄関を飛び出した。

 外では蝉の声がラジオのノイズみたいに絶え間なく響いていて、夏の柔らかい空気をにぶくのろく波立たせてた。まるでこの青空がいつまでも消えないような、のんびりとした波だった。

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