8月7日(土)

第一節(0201)

 携帯端末のアラームは八時にセットしておいたのに、それより一時間も早くに目が覚めた。理由は明快だ。中身を片しそびれたバックパックが邪魔だった。彼は恨み言をつぶやく代わりに私の寝返りを圧迫してた。


 あまり快適な寝覚めとはいえなかったけど悪くもなかった。起き抜けのぼんやりする頭で、とりあえず衣服を茶箪笥にしまってしまうことにすると、あれこれ悩まないぶん事は早急に片付いた。


 してから部屋をとみこうみ眺め回した。寝ぼけ眼に、この見慣れない部屋は新鮮だった。昨日の夜に感じたことが高揚感による錯覚じゃなく、紛れもない現実だと再認識させられる。名目的にも実際的にも、もう祖母の家に住んでいた。

 布団を畳んでから部屋の引き戸を開けると、南側に位置する廊下の窓から、ばっと光が差し込み、私は大きく伸びをした。


 外の風景もまるっきり祖母の家だ。庭園の緑が目に優しく、連なる家々の姿も、地元のものよりどこか柔らかだった。アラームをオフにするついでに時間を確認するとまだ七時半にもなっていなかった。目はすっかり覚めた。


 でも、パジャマ姿のままトイレに発つと、驚いたことにこの家はもう活動を始めてた。一階におりたときにお味噌汁の香りが鼻をつき、縁側を通りしなに見た居間では、テレビが無人の空間を相手にニュースを垂れ流してた。


 ひとまず自分の用事だけ済ませてから台所へ向かうと、サヤコさんが一人、朝の支度に精を出していた。


「おはようございます」って私は彼女の背中にぼんやり言った。

「あら、コヨリちゃん」って彼女は振り向きざまちょっと驚いて言った。「おはようね。起こしちゃったかしら」


 いえ全然って私はかぶりを振った。それからシンクの回りをしげしげ眺めて、「ずいぶん早いんですね」

「そうなのよ」ってサヤコさんは可愛く言った。「二人ともお出になられますから」

「今日も仕事なんですか?」

「週末ですのにね」


 伯父も父もこの日は朝から仕事があった。父はこの時期運送会社の出荷業務に従事していて、土曜日にもシフトが組まれてた。伯父も私設秘書っていう仕事柄、休日はほとんど返上だ。


「なにか、手伝いましょうか?」ってまだぼんやりした口調で私は言った。目はすっかり覚めていたけれど、頭のほうは今ひとつだった。

「あらかた済みましたから大丈夫ですよ」ってサヤコさんが遠慮がちに返してくれる。


 だけど私が物足りなそうな顔をすると、彼女は考えを切り替えて、私に供米の仕事を与えてくれた。昨日の夕食前に、彼女が仏前でやっていた儀式だ。


「毎食やるんですか」って私は供米用のお茶碗を受け取りながら言った。

、朝と夕だけよ」

「はあ」

「すぐにみんな揃いますから、お着替えも済ませちゃってね」って彼女は言った。それでやっと自分の寝間着姿に気がついて、苦笑いした。


 居間の柱時計は昨夜からゼンマイを巻き直されてないみたいで、九時をいくらか回ったところで時を止めていた。このまま放っておけばあと一時間くらいで辻褄があってしまう。テレビに映るアナウンサーも、依然として無人の空間に向かって語り続けてる。


 その先の仏間は、開け放した障子戸から南側の明かりを取り込んでいるはずなのに、朝になってもひっそりと薄暗いままだった。仏間っていう雰囲気がそうさせるのか、それとも太陽の光を遮断する何かしらの装置が働いてるのか、それはわかんない。とにかく祖母の家の仏間は朝も昼もなく薄暗がりのなかにある。


 膳引きに仏飯を載せ、一度りんを鳴らしてから手を合わせる。サヤコさんから教えてもらった手順を頭に繰り返しながら、仏前の座布団をすっとひいてその上に正座した。


 目を閉じてるあいだ、心は無であるほうがいいってことは十七歳の私もかねて知っていた。空間に響いたりんの音が、大気と完全に中和してしまうまで、私はその姿勢を続けることにした。やがて目を開けてから、私は膳引きのお茶碗にすっと腕を伸ばした。


 一口にご供米といっても、やり方はそれぞれなんだ。炊きあがった白米の湯気を仏さまに召し上がっていただくっていう名目上、お供えの時間はもっと長いほうが良しとする場合もある。だけど昨夕もサヤコさんがそうしていたように、この家では仏飯は一分ほどお供えするだけにしていたし、初めてご供米という風習を知った私も、それをおかしなことだとは感じていなかった。


 あとは膳引きに載せられた仏飯を居間のテーブルに移すだけだった。ところで、ご飯茶碗に手をかけたとき、


「コヨリかい」って襖を隔てた向こうから呼びかけられた。

「おばあちゃん。おはようございます」

「お母さんの手伝いだね」って祖母は声を弾ませて言った。


「よく、私だってわかりましたね」って私はあたりを見回しながら言った。どこかに覗き口でもあるのかと思ったけど仏壇の真横に位置する襖はぴったり閉じられていた。


「感じでわかるよ」

「感じで?」

「お母さんとは音が違う」って彼女はまるで特別な能力を持ってでもいるかのように言った。祖母はそれからまた声を弾ませて、「コヨリがお供えしてくれるんなら、おじいちゃんも喜ぶよ」

「ああ」って私は曖昧に返事した。


 祖母の声は仏壇から斜めの、畳に近い位置から発せられていた。どうもそのあたりに布団が敷かれてあって、彼女もさっき目を覚ましたばかりらしかった。声のほかに襖の向こうから衣擦れの音が加わって、不自由な体で懸命に着替えをしている姿が、ちょうど彼女がそうであったように、遮蔽物ごしにも私の目に明らかだった。


「手伝いましょうか?」って私は言った。

「いんや、こんくらいのこん、自分でしないとね」って彼女は途中途中声に力を入れながら言った。「そうでもないと、体がだめになってしまうよ」

「ああ」って私はまた曖昧に返事した。


 祖母の着替えを私は襖越しに見守っていた。正座の足が痺れだしたとき、ようやく彼女は、ふう、と一つ息をついた。「お疲れさま」って私はなんとなく心が安らいだのを感じて言った。


「だあれえ」って彼女は照れくさそうに答えた。(こんなことは別になんでもないんだよってニュアンスだ)

 それでようやく私も仏間を後にしようとして、「うんしょ」って祖母に聞こえるようにわざと声を上げながらその場に立ち上がった。そのとき、ふっと視線が欄間の方に行った。


 そこには遺影が飾られてあった。全部で四つ、年老いた女の人と男の人が交互に並べられて、その最後に祖父がいる。古い時代の遺影らしく、どれも白黒写真だった。そしてそのどれもが欄間から私に視線を――つまり八つの目が私を見下ろしていた。


 私は急に寒気を覚えて、そそくさと仏間をあとにした。居間のテーブルに仏飯を載せると、縁側から外伝いに仏間を抜けて、二階まで引いてった。

 そして着替えの最中に、さっきのことを思い返してた。


 写真は昔から苦手だった。いや、写真が苦手というよりは、被写体の視線と目が合うのが苦手だった。見つめられると、いつも彼らに心の底を見透かされているような感覚に陥ってしまう。さっきもそうだ。祖母が一人で頑張っている姿に、私は温かい気持ちを抱いていたけれど、遺影の彼らはそれを偽善だと訴えていた。私の本性がそこまで清廉でないことを、常に彼らは見抜いてる。


 もちろん、それは私自身の問題だ。祖父や、血縁関係もわからないご先祖さまが、じかに私を非難しているわけじゃなく、非難されているように錯覚しているのは誰でもない私自身だ。そのことは充分にわかってる。写真っていう媒体に、私は心のどこかにある自己否定の念を反映させてしまうだけなんだ。だけどそれを理性では抑えることができなくて、抑えることができないからこそ写真というものに苦手を感じ続けてる。特に――セピアやモノクロームの加工がされてある写真は、中でも特に苦手だった。色彩っていう情報が省かれただけで、写真からにじみ出る自己否定はことさら強くなってしまうんだ。


 まだ冴えきっていない頭に、その印象は強烈だった。

 下着姿の自分を見下ろしてなんとなく嫌な気分になる。さっさと着替えを済ませて階下に降りてった。

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