第七節(0107)

 最後に縁側の電気を落とすと、一階はしんと静まった。そうすると今のところ母屋では、階段につけられた豆電球だけが唯一の明かりとして機能している。


 夕食が済んでからこの家が寝に入るまでは驚くほど早かった。伯父が一番風呂を浴び、次いで祖母がお風呂から上がると、彼女はそのまま仏間裏の寝室に引いてった。伯父もその頃には離れに戻り、父も入浴を済ませると同じように離れに戻っていった。


 サヤコさんは夕食の後片付けと祖母の就寝を手伝うと、お風呂へは私を先に入れさせて、自分は残り湯で済ませていた。そのサヤコさんもさっき玄関先で見送った。


「なにかありましたら、いつでも知らせに来てちょうだいね」って彼女は去り際に言った。「しばらくは起きていますから」

「いろいろありがとうございます」って私は遠慮がちに言った。


 サヤコさんは名残惜しそうに最後の挨拶をし、立て付けの悪い玄関の戸をするすると閉めた。私が開けるとがらがら鳴るのが、伯父や父の場合にも静かなもので、どうやらこの引戸の開け閉めには慣れた人にしかわからない工夫があるらしい。たぶんそうやって祖母の家の玄関は、身内と他人を振り分けているんだろう。


 ともかくサヤコさんの姿が冷蔵庫群の通路に消えるのを見届けてから、私もそっと縁側を階段の方へと引いてった。


 仏間の裏に位置する寝室ではすでに祖母が寝息を立てていた。居間の柱時計もさっきゼンマイを伸ばしきって静かにさせた。時間はようやく十時を回ったとこだった。針は九時半を差す前で止まってる。


 私の感覚でいえばまだ十時になったばかりだ。夜はこれからだよ。だけど外は暗闇の方が目立ってた。二階の廊下から窓越しに外を見ると、斜面に構えられた家々の明かりが階段状にぽつぽつと空に伸びていた。光源と呼べるのはそれと月光だけで、山道には街灯もないらしかった。


 一瞬、離れに光が差した。サヤコさんの部屋が、その部屋の主によって開けられたらしい。だけど再びドアが閉められるとまた暗闇に戻った。


 心細くなんてなかったといえば、それはもちろん嘘になる。ただそれよりはこの夜を持て余してた。残念ながら私の眠気はもう一つ後だった。


 電車の始発に間に合うように起きたのに、どうしてだろうね。神社でのうたた寝は思ったより効果が強かった。こうなるといつもどおり十二時を回るまで、たぶん眠気はやってこない。


 一応いつでも眠れるように扇風機のタイマーをセットして、布団に潜り込むと読みさしの『若きウェルテルの悩み』を開いた。

 昼間より夜のほうが読書ははかどった。日中は雑音も雑念も多すぎる。そういう意味でいえば、周囲がほとんど無音に近い祖母の家は、私の性質に適してたともいえる。


 それに夜は、小説という物質そのものとも親和性が高かった。日中に読む文章もそれはそれで味があるけれど、重厚的であり暗鬱的であり、ときに怠惰的でもある文章や、主人公や社会の後ろ暗い面を反映したテーマは、夜の暗闇こそうまく吸い上げてくれる。もちろん世の中にはさっぱりとした小説だって星の数ほどあるけれど、私にとって小説とは、多くそういった鉄の強度を持つものだった。


 一度お手洗いに発ったあと、私は部屋の電気を消した。

 バックパックの中には家から持ち出したランタン型のデスクライトが入れられていた。行き慣れない雑貨店でたままた見かけたやつで、スイッチをオンにすると黄みがかった明かりがぽわっと光るんだ。本物のランタンと違ってコンセントを差し込みさえすれば火の番をする必要もない。枕元に置いて読書の続きに取り掛かった。


 まだ部屋には日中の暑さが漂っていた。扇風機にページをまくられながら、遅いとも早いともわからない速度で『若きウェルテルの悩み』を読み進めてく。眠気はまだやってこなかった。


 外では虫が鳴いている。声の種類からいって鈴虫だ。「こんな季節に鈴虫?」、思ったけれど、この辺りでは特別珍しいことでもなかった。日中山の近くを散策していると、たまにウグイスの鳴き声が聞こえてくることもあった。


 鈴虫はどうも庭先で鳴いてるらしくって、意識が向くと、彼らの声は徐々に耳元に近づいた。集中力が散漫になってきたことを感じて私は小さく首を振った。それでも鈴虫のりんりんと小気味いい音はどんどん室内の深くまで寄ってきた。


 とうとう文字を追えなくなったとき、私は本をその場に寝かせて半身を起こした。そしてランタンの光に照らされた薄暗い室内を見回すと、そのときふっと、ここが遠く離れた場所だってことを自覚した。


 今日の朝まで眠っていたあの部屋が、今は百キロ以上も先の彼方にある。頭ではすぐに光景が描けるのに、手はそこにあるどれにも触れられることがない。


 寂しいのとは違う、ちょっと不思議な感覚だ。例えば泊りがけの旅行のときにも、私はよく宿泊先の旅館やホテルでこういう感覚に陥った。頭の中にあるものと目の前にあるもののどちらが現実なのか、軽い錯綜にあってしまう。でもその混乱は愉快でもあった。なぜなら滞在が長引けばその分だけ、この感覚は薄れていってしまう。初めのうちにしか味わえない特別な感覚だ。そしてそれは、何一つ変わらない日常という停滞から一歩どこかへ抜け出した証拠でもあった。


 大きく息をして、その感覚を吸い込んだ。そして没頭することにした。本はいつでも読める。この感覚は一瞬だ。いつだって私には目の前に偶然やって来たもののほうが大切だった。


 感覚が平坦化されてしまったところで、再び布団に潜り込んだ。

 最終的にこの日はどこまでウェルテルの物語を追っただろう。たしか、彼が初めてロッテに気持ちを告白したところだ。いや、そこまでは辿り着いてなかったかな。布団に潜り直してからはあまりページが進まなかった。


 するうちにとうとう私のもとにも睡魔がやってきた。

 扇風機のタイマーを適当にひねり直して、ランタンのスイッチを切ると、目を閉じることなく辺りは暗闇だった。見知らぬ空間が暗闇をより強調してた。


 目を閉じると、心地よい疲労感に気がついた。

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