第四節(0104)

 荷台からバックパックが取り出されてるうちも、エンジンキーを差し込んだままにされた軽トラックは、車体全体をがたがた揺らしてた。サイドゲートを降ろさずに身を乗り出してバックパックを掴んだトモ兄は、それを軽々と持ち上げて、釣り上げた魚を自慢するみたいに私の前に掲げてみせた。


「ほら、後ろ向け」って彼は言った。

「おばあちゃんち、すぐそこだよ?」って私は言われるまま肩にバックパックを通しながら、背中越しにトモ兄に訊いた。

「お前のおかげで三十分も遅刻してんだよ」ってトモ兄は言った。「ばあちゃんちに顔だしてる暇なんかねえって」

「それなら駐車場に置いていってくれればいいのに」

「音でわかるだろ。そうしたら嫌でも挨拶していかなきゃなんねえよ」

「そうかなあ」って私はバックパックのすわりを確かめながら言った。トモ兄がぽんぽんと背中をはたく。「別に、おばあちゃんたちには私から上手く言っておくのでもよかったよ」

「そういうわけにもいかねえ。田舎にゃ田舎の世間体ってものがあるんだ」

「そうなの?」って私は言った。実際のところ祖母や、あるいはこの町に住む人たちの価値観がどうかは別にして、トモ兄はそう考えてるらしかった。


「じゃあ、トモ兄のことは黙っておいたほうがいいね」

「よくわかってるじゃねえか。頼んだぞ」

「近くまでバスで来たってことにしとく」って私は肩をすくめて言った。片棒をかつぐ気はなかったけれど、ここで議論するほうが余計面倒だと感じた。


「それと明日は」ってトモ兄は、運転席まで戻ったあと、助手席の窓からこちらを覗き込むようにして言った。「午前中にはばあちゃんちに電話入れっから」

「そこで私は、十年ぶりの再会を演出すればいいんだね?」って私はちょっと仰々しく言った。トモ兄は大きく顔を喜ばせて「うるせえよ」って言った。


 軽トラックが頭の向きを切り替えて再びアンダーパスに消えるのを、私はその場から見送った。トモ兄と違って私には取り立てて急ぐ用事もなかった。手に提げた紙袋も、中身は日持ちのするおせんべいだ。


 すっかり軽トラックが見えなくなると、なにか一つの事件が去ったのを感じて、私は大きく息をついた。振り返ると目の前には立派な石垣に支えられた高台の家がある。


 父方の本家では私が生まれるすこし前に祖父が亡くなっていて、だから周りの大人はみんなその家のことを私の前では『おばあちゃんち』と呼んでいた。もともと平屋建ての家屋だったところに何度かの改築を重ねたため、場所によってコンクリート壁だったり二階部分が突き出していたりと、数万年後の歴史研究家が見たら困り果てそうな姿をとっている。玄関の前には庭園風の庭が広がっていて、それはさほど大きくはないんだけれど、鯉を飼う池や、非均整な岩や、植樹された松の木や、様式として必要なものは一通り揃えられていた。


 庭園のぐるりは、正門側の坂を登りきると正面奥に屋根付きの物置があり、搦手側のおなじ辺りは納屋を改造した離れになってる。砂利敷の駐車場と離れのあいだには、これも土蔵を改造した巨大な冷蔵庫群が並んでて、これはかつて伯父が事業をやっていた名残だった。威圧感のあるモノリス型のステンレスドアの奥には牛乳やバターやアイスクリームといった乳製品が保管されていた。


 全体を見ても広々とした家とは言い難いけど、こうして目に触れられる範囲の様子は、祖母の家が何かしらの旧家であったことをよく物語ってた。


 石畳の坂を上ってゆくと、そうした様子は十年前と変わっていなかった。なにか見違えて変化したものがあるとすれば、それは庭の大きさが十年前より一回りも小さく見えたことだ。あの頃から身長はどれくらい伸びたんだろう。


「ごめんください」って私は立て付けの悪いガラス張りの引き戸を開けて言った。がたがたと鳴るのがチャイムの代わりらしく、玄関脇の呼び鈴は電源が切られてて音がしなかった。


 コンクリート土間の三和土から、アンティークな埃の匂いがふわっと漂った。奥から声がして、すぐにサヤコさんが迎えてくれた。

 書斎兼客間の小さな空間(それは居間と台所と玄関の延長線が交差する場所にあるんだ)から現れた彼女は、私を認めるなり一瞬にして華やいだ。


「まあ、コヨリちゃんかしら」

「ご無沙汰してます」って私は身を固くして言った。「予定より遅れちゃって、すみません」

「待ってたのよ、さあ、さ、遠慮せずに上がってちょうだい」


 居間に通されると、祖母は縁側の見渡せる位置に備えつけられたソファに腰かけていた。彼女は私を見るなり穏やかに微笑んで、「遠いところ、よく来なすった」ってゆったりした口調で言った。


「お昼には着くって聞いていたから、心配していたのよ」ってサヤコさんは言った。居間の柱時計は三時寄りの二時台をさしていた。


「乗り継ぎに失敗ちゃって、ちょっと」って私は話の流れのままサヤコさんに向かって答えた。それからトモ兄の言いつけを忘れないうちに、「バスも降りるところを間違えちゃったみたいで」


 あらあら、ってサヤコさんはくすりと笑った。

 それからもう一つ忘れないうちに、お土産の紙袋を差し出した。「これ、母からです。日持ちする物のほうがいいと思って、おせんべいになっちゃったんですけれど」

 だけど、形式的な受け答えに慣れていない私は、声をちょっと上ずらせてたかもしれない。必要な口上を自分なりに出し切ってから、ちらりと祖母に目をやると、その点は助かった、彼女はより優しくなった微笑みをこちらに向けてくれていて、少なくとも悪意にとられていることはなさそうだった。


 サヤコさんは差し出された紙袋を、ごく自然に発せられた恭しさで受け取って、それから「それでしたら、すぐにお茶をお出ししますね。おもたせになってしまいますけれど」って言った。

 おもたせの意味がわからなくって私は曖昧にうなずいた。


 サヤコさんがお勝手まで引いていったあと、この不慣れな空間と状況に戸惑って、しばらく立ち呆けてた。はっきりいって私は緊張してた。

 祖母と目が合うと、彼女は「まあ、」って言った。


「え?」


 聞き返すと、祖母はにこやかにこちらへ視線を送り続けた。ちょっと空白があって、私は祖母のぴくりとも動じない顔から、おそらく腰を下ろすことを許可されたんだろうと読み取った。「失礼します」って私は座布団の上に腰かけた。


「まあず、コヨリったら、固くなってしまって」って彼女は言った。祖母の口調は終始ゆったりとしていて、それは柱時計が静かに時間を伝える、その音よりものんびりだった。


「久しぶりで、つい」って私は言った。「おばあちゃんも、ご無沙汰しています」

「あれから十年も経つんだね。コヨリもずいぶんおっきくなった」

「もう高校生です。十七歳になりました」

「いい時期に戻ってきたもんだ」って彼女は嬉しそうに言った。

「いい時期?」って私はなぜだかそれを今回の騒動に関したものだと勘違いして訊き返した。

「子どもから大人に変わる時期だもの。いい年頃に違いない」

「ああ、なるほど」って私は照れ笑いした。「おばあちゃんは、元気してました?」

「ええ、元気だよ。腰を悪くしちまってね、今じゃこれがないと」って彼女は腰下のソファを擦るように示して言った。

「歩けないの?」

「まだまだ丈夫さ。足が伸ばせないと辛いんだ」

「そっか。大変なんだね」

「ええ、ええ」って彼女は首を振った。「お母さんがなんでもやってくれるから、大変なんてことは一つもないよ」

「お母さんって、サヤコさん?」


 祖母は特に言葉を用いず、ゆっくりとうなずいた。まだ出会ったばかりの他人の目でしかなかった私にも、そこに感謝の意を添えられてることがじゅうぶん読み取れた。


 体の良し悪しは別にして、内面的な意味では祖母は十年前と、おそらくそのままだった。終始微笑を崩さない祖母を目の当たりにするにつけ、私の緊張もいくらかほぐれ出していた。


 するうちにサヤコさんが戻ってきた。木製の受け皿に載ったお茶と、それからお茶請けの入った小盆をテーブルに載せながら、


「おもたせで失礼ですが」ってさっきのことを繰り返した。


 お茶請けの小盆には買い置きらしい市販品のお菓子とサヤコさんに渡したばかりのおせんべいがきれいに盛り付けられていた。おせんべいは中身がいろいろ入った個包装のバラエティセットで、透明の包装袋に店舗の名前が印字されてあった。それを見てようやく私はおもたせの意味を解釈できた。だけどあえて口に出して確認しようとはしなかった。


 湯呑に注がれたお茶は淹れたてでまだ熱かった。つどつど指で触れながら、私は冷めるのを待っていた。


「それにしても、ずいぶん長旅だったでしょう。あちらからはどれくらいかかりました?」

「乗り換えに失敗したのがまずかったです」って私は言った。「五時間か六時間くらいかかっちゃいました」

「まあ。大変でしたね」ってサヤコさんは本当に大変そうに言う。「午前のうちにコヨリちゃんのお母さんから連絡をいただいて、お昼時には着くって伺っていたのよ」

「母が?」って私は言った。そんな律儀なことを母がするなんて夢にも想像してみなかった。「すみません、予定ではお昼ごろに着くはずだったんです」

「あら、やだ。謝ることなんてないのよ」ってサヤコさんは言った。彼女の口調は、特に言葉尻に温かさが込められている。

「それですと、お昼はまだなのかしら」

「いえ、途中で済ませてきました。バスを待ってるあいだに、近くのファストフードで。もしかして、用意してもらってました?」って私は最後恐る恐る訊いた。

「ええ、大丈夫よ」ってサヤコさんは端的に言った。だけど後々思い返してみるに、きっとサヤコさんは私の分のお昼も用意してくれていたんだと思う。

「ですけれど、重そうな荷物で、さぞ疲れたでしょう」

「ほとんど座ってるだけだったから、大丈夫です」って私は言った。言った後にトモ兄との約束を思い出してはっとしたけれど、いやそれは問題ない、近くまでバスでやってきたというていに、さっき調節しておいたはずだ。多分。


 サヤコさんも特には気に留めず、「本当はね、私の方でお迎えに上がろうと思ったんですけれど」ってどこか申し訳無さそうに言った。

「母から聞かされてました。でも私の方で断っちゃった。自分の都合で予定を狂わせちゃったのに、みんなを巻き込むのも悪いと思って」


 私の言い分をすっかり聞くと、サヤコさんは何かを言い出す代わりに、うっすら微笑んだ。その笑顔にも、なにもかも許容する温かみがあった。


 彼女は昔からこういう人だった。昔というのは私がまだこの町に住んでいた頃のことだ。その頃からサヤコさんは、どこか時間を忘れさせるような雰囲気を持っていて、旧家の跡継ぎのもとに嫁いできたお嫁さんという、ごく一般的な印象を感じさせない人だった。あるいは例の葬儀のときも、彼女のこうした人となりを演技と受け取る人もいたけれど、私は決してそんな評価を持ったことはない。


 祖母との関係も良好で、というよりも、実の親子と思うほど二人は性格の面でよく似ていたし、彼女に近しい人は、程度の差こそあれみんなどこかで彼女に甘えてた。もちろん、私もサヤコさんのことが大好きだった。


 じっくり観察してみると、十年前に比べてサヤコさんの顔はいくらかくたびれていた。それは十年の歳月という長さにも依るけれど、それよりも根本に、彼女は私の父より年齢が上だった。その父は母よりも十歳近く年上で、私が生まれたときには三十代半ばになっていた。


 つまり十七歳の夏の日々であるこの時期に、サヤコさんはそろそろ還暦を迎えようとしていたの。だから彼女の顔に積み重ねられた疲れは年相応とも思えるけれど、そこに実際の年齢を照らし合わせてみると、いや、それは驚くほど若かったんだ。場合によって母より鮮やかじゃないかと思えるときさえあった。大げさじゃなくね。


 基本的に平日の日中にこの家にいるのは、サヤコさんと祖母の二人だけだった。居間のテレビはニュースと高校球児の躍動を見るために常にNHKにチャンネルが合わされていて、あらゆる意味で用事が片付いてしまうと、彼女たちの視線はこのテレビにだけ注がれた。そしてそうしているあいだの彼女たちはとても物静かだった。試合の勝敗が決まっても、誰かが特大のホームランを打っても、それによって下馬評を覆す逆転劇が起こっても、彼女たちは小さな表情の変化で感情を示すだけだった。


 居間には眠そうに首を動かす扇風機と正確に時を刻み続ける柱時計、縁側には時おり風に揺られて鳴り出す風鈴、外の世界には声を止まない蝉たちや山上から伝ってくるトンビの音があった。彼らはみんな生きていた。けど、生きているように思えて、山の陰に包まれたこの家の中では、彼らもみんな静的だった。誰もが祖母やサヤコさんに敬意を払っていたか、それとも彼女たちを含めたすべてのものがこの家の美徳に倣わされていたかのどちらかだ。そうした静的な物々のなかで、いわばテレビの映像や音だけが動的だった。


 祖母とサヤコさんは私が訪問する前から高校野球の観戦を続けていたらしく、私たちの会話が一段落すると、自然と元々の静的な状態に戻っていった。

 ところがある瞬間にふとサヤコさんが気がついて、


「早いうちにお部屋に案内しておきましょうか」って急に静を動に返して言った。

「部屋?」って私は驚いた。「わざわざ、用意してくれたんですか?」


 それについては本当にまるっきり考えてもみなかったんだ。いや、じゃあどこで寝泊まりをするつもりだったのか? それを訊かれてもわからない。とにかくあらゆる事柄を具体的に咀嚼もしてみずに、ここまでたどり着いてしまったの。


「お二階の部屋なのだけれど、コヨリちゃんが来るって聞いて、片しておいたのよ」ってサヤコさんは続けた。「物置代わりの部屋だから、狭くて申し訳ないけれど」

「いえ、そんな」って私は言った。「わざわざ、すみません」

「ええ、ええ」って彼女は首を振って言った。「それとも、もう少し休んでからにしましょうか」

「大丈夫です。サヤコさんさえ良ければ」って私は言った。


 居間と仏間の前を横切る縁側の突端に、上に続く階段がある。改築の際に屋敷にはなるべく手を加えないようにしたため、母屋の端をくり抜く形で増設されていた。人一人通れる狭い幅の階段を、私が先に立ち、サヤコさんは背中からバックパックを支えてくれた。


 二階部分は短い廊下と二つの部屋からなっていた。一つが物置部屋で、もう一つが古い帳簿なんかを保管する書庫らしかった。物置部屋の真下はかつて事務所として使われていたコンクリート土間の空間になっていて、これも庭の冷蔵庫群とおんなじで伯父が事業を興していた頃の名残だ。元々この増設部分は伯父の業務上の意向に沿って施工されたものだった。


 物置部屋は六畳一間の簡素な空間だった。そこに古い和箪笥が置かれると、可動域は更に狭まった。バックパックを端に追いやって、余ったところに布団を敷けば、それでもう手一杯なんだ。


「こんな広さしかないけれど、大丈夫かしら」ってサヤコさんは言った。「お隣の部屋をとも思ったのだけれど、書類を片せそうになかったものですから」


 彼女の発言は明らかに空間の三分の一は占めているだろう和箪笥に触れていた。


「いえ、部屋を貸してもらえるだけでも」って私は大きくかぶりを振った。

「せっかくですから箪笥も自由にお使いになって」

「いいんですか?」

「すこしでも広く使えるなら、そのほうがコヨリちゃんのためですもの」

「ああ」って私はつぶやいただけで、あとが続かなかった。そこまで気を遣われることに慣れていなかった。

「着替えだけでもしまっておければ、おっきな荷物も小さくなるわ」ってサヤコさんはなんだかちょっと可愛く言った。


 たしかに、服の嵩を減らすだけでこの空間を大きく変えられそうだった。三日分の着替えは、主にジャケットとパンツのせいで、バックパックの半分を占めてたの。

 サヤコさんはややもしないうちに「気兼ねがないように」って言い残して階段を下りてった。彼女の背を送って私は室内に振り返った。


 改めて見渡してみても、本当に寂しい空間だった。金具の取っ手がついた和箪笥と、端っこに畳まれた布団と、それから旧型の扇風機があるだけで、部屋には押し入れも備え付けられていなかった。そのとき窓は障子戸に塞がれて、日中なのに明かりは廊下の窓だけが頼りだった。


 サヤコさんが引いてゆくと私はすこし心細くなった。

 ひとまずバックパックの整理を、と思ったけれど、置き場所を定めたところで早くも嫌気が差した。代わりに携帯端末から母にメールを送っておいた。祖母の家に着いたら連絡するようにと強く言いつけられてたの。


 メールを送信したあと再度バックパックに目をやったけど、まったく気乗りがしなかった。そもそも本当に箪笥を使ってしまっていいのか疑問があったんだ。サヤコさんがこちらを試すような真似をするとは思えなかったけど、かといって下宿先の箪笥を拝借することが通常のことだとも思えなかった。


 しばらく考えて、私は答えを保留することにした。過ちかどうか判断できないものは、犯してしまってからでは言い訳が効かないけれど、行動に起こす前ならどんな逃げ口上でも用意ができる。結果バックパックの中からは文庫本とフェイスタオルを取り出すだけにした。読みさしの文庫本をジャケットのカンガルーポケットに納めて、それで私も階段を下りてった。


「あら。もうよろしかったの?」って居間に戻るとサヤコさんは言った。

「とりあえず荷物を置くだけで済ませちゃいました」

「あら、そう」ってサヤコさんはどこか気落ちした素振りを見せた。

「後でやろうと思って」って私はできるだけ前向きな姿勢を示そうと、語気と笑顔に注意して言った。

「それなら、ゆっくりおかけんなって」って彼女は言った。「コヨリちゃんには、退屈かもしれませんけれど」


 だけど私はその場を動かなかった。というのは私はまだ縁側のふちに立っていて、いま自分が引き返してきた通路の奥に目をやっていた。縁側のどんつきには二階へ続く階段と、例の事務所へ通じる木製の開き戸があった。


「伯父さん、外に出てるんですか?」って私はその扉に視線を留めて言った。


 部屋までサヤコさんに案内されている最中も、そこで細々必要な処理をしている最中も、そしてここまで引き返している最中も、事務所からは物音一つしなかった。だけど、このときの私はまだ、伯父が事業から撤退したことを知らされてなかったの。だから伯父の姿が母屋にないときは、事務所で業務に徹しているか、そうでなければ今わたしが口にしたように、得意先にでも出払っているかのどちらしかないはずだった。


「もし居るなら、挨拶しておこうと思ったんですけれど」って私は続けた。

 するとサヤコさんは、

「ええ」って例の否定語としての方言を用いて言った。そしてすっかり私が言わんとしていることを理解したように、「あちらの事務所はね、ずいぶん前に畳んでしまったの」

「え?」って私は言った。


 伯父の事業というのは乳製品の卸売業だった。その企業の商品しか取り扱わないことを条件に大手の乳製品メーカーとライセンス契約を結んだ、いわゆる特約店としての委託業務だ。近隣の製菓店や個人商店を配送先の中心に、企業オフィスや、学校給食としても商品を卸していて、多いときで五人ほどの社員を抱えてた。繁忙期にはサヤコさんも事務仕事を手伝っていたけれど、当時から彼女が居間を留守にするのは稀だった。


 そしてこれが最も私の勘違いを進めた原因として、配送用のトラックは積み荷の運搬時以外は常に搦手側の坂の中腹にある、砂利敷の駐車場に停められていた。そこは母屋の玄関先からは死角に当たる位置だった。要するにトモ兄の企みによって、私は伯父の事業が十年後の現在も継続されているという思い違いを改められなかったわけだ。


 ところでその伯父は、サヤコさんの説明によるとこの時期は地方議員の私設秘書という役職に就いていた。元々父の本家は祖父の代よりこの議員の後援会に入会していて、更にいうと綿入は彼の出生地でもあった。伯父の事業撤退は経営難からくるものだったけど、同郷のよしみから彼に雇われてみると、むしろ以前よりも肩書に箔がついていた。


「捨てる神あれば拾う神ありですね」ってサヤコさんは控えめに言った。

「でも、秘書なんてすごい」

「私設秘書なんてせったって、名前ばかりだよ」って横で聞いていた祖母が愉快そうに笑った。「あれやこれや失敗して、落ち着くところに落ち着いただけなんだ」


 私とサヤコさんは愛想笑いでその場を取り繕った。そんなことが言えるのは実の親である祖母だけだった。もしくは親であるからこそへりくだる必要があったわけだ。

 でも居間に戻ってからは取り立てて挙げられる事件といえばこれくらいのものだった。祖母とサヤコさんはそれが夏の一時期の義務であるとでもいうように、相変わらず高校野球の映像に視線を注ぎ続けてた。


 釘付けでも注目でもなく、彼女たちの様子は本当にただ視線を注いでるって感じだった。端からだと感情の抑揚を欠いた風にも見えた。そして彼女たちが試合観戦をしている間は、特別私にも注意が払われなかった。私からしても変に気を遣われないのは助かった。


 初めのうち私は祖母やサヤコさんと一緒に試合の展開を追っていた。だけどしばらくすると、さっきカンガルーポケットにしまったばかりの文庫本を取り出して読書に集中しはじめた。野球は大まかなルールしか知らなかった。


 没頭すると、いつの間にか姿勢は横座りからあぐらに直されていた。その姿をソファの上から見ていた祖母は、いたずらっぽく、


「コヨリったら、男の子みたいにして」

「あら。コヨリちゃんは本を読まれるのね」ってサヤコさんはこちらに振り向いて言った。私はサヤコさんの背後に位置してて、彼女は私の読書を、祖母の声に誘われて振り向いた瞬間に、今まさに気づいたようだった。


「ごめんなさい」って私はなぜかとっさに二人に謝った。それからすぐ態勢を崩して横座りに戻ろうとした。

「自由にしたらいいよ」って、すると祖母は言った。彼女はただからかっただけで、私が大げさに受け取っていただけだった。


 サヤコさんに目をやると、彼女はさっきよりいくらか体をこちらに向けているらしかった。口では微笑を表すだけだったけど、どうやら私の返事を待ってくれてるようだと気がついた。


「一応、家から何冊か持ち出してきたんです」って私は有り体に答えた。

「最近の若い子にしては、珍しいわよね?」って彼女は世間から遠く離れていた人が久しぶりに周囲を伺うように、探り探り訊いた。

「そうですね、周りの友だちは、あんまり」

「若いうちはたんと目を通しておくもんだ」って祖母は言った。

「だけど、どうしましょう」ってサヤコさんは言った。「あまり退屈にされても困っちゃいますね」

「ああ、ごめんなさい」って私は困るという言葉を額面通りに受け取って言った。

「ええ、そうじゃないのよ。うちは長くこんな生活だから、コヨリちゃんくらいの年頃の子が喜びそうなものなんて用意できなくて」

「ああ」って私は言った。「いえ、とんでもないです。泊めてもらえるだけでもありがたいのに」

「そんなのはシゲオのわがままだ」って祖母は言った。それは父の名だ。口調の柔らかさとは裏腹に、祖母の言葉遣いにはこの地方特有の乱暴なところがあった。「コヨリが卑屈に感じることなんか、なんもない」


 祖母は自分がお腹を痛めて生んだ子として、父のことに関してはずけずけと言っていた。これは伯父の評価よりいくらか厳しい面もあって、こうなるとサヤコさんはいつも微笑みにちょっと困惑を足した表情を作ってた。


「本だけで満足できるかしら」って彼女は自分の口にしたことをやや懐疑的に感じながら言った。

「念のため三冊は持ってきたから、大丈夫です」

「そう」って彼女は言った。だけどまだ表情には納得が見られなかった。


 サヤコさんは日頃から本を読む種類の人ではなかった。そしてそういう人の多くがそうであるように、サヤコさんもまた、読書という行動を暇つぶしの最終手段と捉えているらしかったんだ。まあ、たしかに、この状況でそれを否定することもできなかったけど。


「もしなんだったら、お外を見て回ってくるといい」ってしばらくして祖母が言った。

「外?」

「気晴らしくらいにはなるかと思ってな」って彼女は続けた。つまり祖母もサヤコさんほどではないにしろ、彼女に似た読書観を持っていた。

「コヨリちゃんだって、もう高校生ですよ」ってサヤコさんは祖母をたしなめるように言った。だけど反対に、私自身は祖母の言うことをそのまま受け取って、散歩とか徘徊とか、そっちの方向に想像を膨らませてた。


 両親の離婚以後、私は母の地元で暮らしていたわけだけど、そこは綿入よりいくらか都会的で、少なくとも遠く遠くを見渡せる平坦な風景は存在しなかった。山々に囲まれた田園風景。たしかにそれは目にも空気にも新鮮かもしれなかった。


「この辺りの道って、あんまり詳しくないんですけれど」って私は言った。「迷子になったり、しませんよね?」

 祖母は快活に笑って、それなら高速道路を目印にすればいいと言った。


 思い立ってみると、おあつらえに準備は万端だった。途中で休憩をとるかもしれないから文庫本はそのまま半袖パーカーのカンガルーポケットに収め、なんとなしに持ち出したフェイスタオルはカーゴパンツのベルトに噛ませて腰からぶら下げた。熱中症がどうとかいうことは、きっと大した距離を歩くわけでもないから大丈夫だった。


 祖母は私の立ち姿を見て、「ほんに、まるで男の子だ」ってなぜだか喜んだ。


「いつもこんな格好なんです」って私は照れ隠しに笑って言った。

「暑いですから、お気をつけになってね」

「できるだけ日陰を探します」

 サヤコさんの不安を和らげようと、私は言った。

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