第三節(0103)

 私の二人の兄は、上がトモノといって、下がナオノという。幼い頃から私は二人のことをトモ兄ナオ兄と呼んでいた。二人は私が知る限り、いつも行動を共にしていて、考えることも似通っていたし、好き不好きも大体おんなじだった。きっと元々は双子として生まれたんじゃないかと思う。


 けれども、その頃から十年も経ってしまうと、いつしかそれぞれが独立した思考を持つようになり、歩む道も別々になって、今では職種も外見も全く重なりあうことがない。このとき生家の中にいたのは、そんな二人のうちの長男の方、つまりトモ兄の方だった。


 出会い頭に彼は目を丸くしていたけれど、一先ず私を生家の中へ案内してくれた。玄関脇にかつて私たちが『遊び部屋』と呼んでいた小さな部屋があって、そこに通された。


「しっかし、見違えたな」って彼は部屋の中心にあぐらをかいて言った。「もう高校生になったのか」

「トモ兄も、なんか、こう」って私は言葉尻を濁して言った。私の覚えている限り、彼は平凡な、ちょっと父寄りの顔立ちをした普通の高校生で、だけど十年経ってみると、頭は短く刈り込まれ、肌も真っ黒に焼け、おまけに似合わないあごひげまで生やしてた。返ってあぐら姿は堂に入っていた。

「ええ、言いてえことはわかるよ」ってトモ兄は言った。彼はこの十年ですっかり地元訛りをなじませていた。私はそれにも驚きだった。


「いまな、鉄筋の一人親方をやってんだ」ってトモ兄は続けた。

「鉄筋?」って私は言った。「工事現場で働いてるんだ?」

「建設現場な」って彼は訂正した。「ちょうど現場が近かったもんでよ、監督にお願いして、ちょっと家の様子を見に来てたんだ」

「一人親方なのに監督がいるの?」

「ええ、請負だ」


 私は意味がわからず首を傾げた。トモ兄はそれには取り合わず、


「それより、どうしたんだよコヨリ」って言った。「いや、今日こっちに来るってことは聞かされてたけどさ、それにしても、一人で来たんか?」

「うん。まあ。色々あって」って私は言った。いや、別に深い事情はないんだけれど、この状況を説明するには、ここに至るまでの心情の変化が複雑すぎた。

「そうか」ってトモ兄は笑って済ませた。「だけどよ、本当に大きくなったよな。一瞬誰だかわかんなかったで」

「それこそ、こっちのセリフだよ」

「ああ、そうだな、お互い様だな」ってトモ兄はまた笑った。「今まで元気してたんか?」

「おっきな事故とかは、別になかったよ」って私はそれっぽく答えた。

「ならいいや」ってトモ兄は、笑ってはいるけれどなんとなく興味薄そうにうなずいた。それで私の方でも感情が平坦になるのを感じたの。


 私の予想では、家族との再会はもっと厳かに行われるものだった。感動で抱きしめ合う、というのは、まあ、行き過ぎにしても、なにかもっと心を震わせる場面を想定してた。だから十年ぶりの再会にしてはこれはどうにもあっけなかったんだけど、思うに兄弟っていうのはそういうものなのかもしれない。あるいはトモ兄が特殊だということもある。


「ところで、家の中、勝手に入っちゃって大丈夫だったの?」

「ああ。名義はまだこっち持ちだからな」

「そうなんだ」って私は言った。「表の軽トラック、見たことない車だったから、業者さんが入り込んでるのかなと思ってた」

「俺が仕事に使ってるやつだ」ってトモ兄は得意そうに答えた。「いまのところ回収業者が入ってくるようなことはねえよ」

「そうなんだ?」

「そういう取り決めだからな」ってトモ兄は言った。


「ところでよ、お前一人みたいだけど、ここまではどうやって来たんだ?」って彼は続けた。私としてはその取り決めとやらを詳しく聞きたかったのだけど、トモ兄は息つく暇を与えなかった。


「どうって、バスに乗ってだよ」って私はとりあえず目の前の質問に答えることにした。「ほら、神社の前に、バス停、あったでしょ」

「おお」って彼は曖昧に頷いた。「駅までは誰も迎えにこなかったんか」

「こっちから断っちゃった」って私は端的に答えた。


 へえ。ってトモ兄は、やっぱりどこか興味薄そうに返事した。それから次の言葉に移るまで一瞬の間があって、私はその合間にさっきの疑問を投げかけようとした。ところが実際にそうしようと口をつきかけたところに、


「ほいで、お前はこのあとどうすんの?」

「どうって」って私は出かかった言葉の代わりにまた同じ言葉を繰り返した。「ちょっと家の中を見て回ったら、おばあちゃんちまで向かうつもりだよ」

「向かうって、歩いてか?」

「そうなるだろうね」

「おいおい」ってトモ兄は呆れ果てたように言った。現に「呆れた」って言葉をそのすぐあとに付け足した。

「道はわかってるから大丈夫だよ」

「いや、割に距離あるだろ」

「なんとかなるよ。たぶん」


 外はカンカン照りの夏空だ。おまけに私の背中には重い荷物がある。トモ兄の心配ももっともだった。私のほうがそれを重大事に捉えていなかった。

 トモ兄は少し考える仕草をして、言った。


「しゃあねえ、ばあちゃんちまで送ってやるよ」

「え。いいの?」

「ただしそんなに時間はないぞ」

「ああ。うん」って私は曖昧に頷いた。できることならこのまま生家の様子を確認しておきたかった。「どのくらいなら余裕ある?」

「もう出ようと思ってたところだからな。せいぜいあと五分くらいか」

「全然ないね」って私は肩をすくめた。

「まあ、軽く見ておけや。そのためにわざわざ立ち寄ったんだろ?」

「うん」って私は言った。「でも、ずいぶん変わっちゃったみたい」


 案内された遊び部屋は、名前の通りかつて私たち三兄弟の共有スペースとして使われていた部屋だ。自室に運べないものや運んでも意味のないものはすべてこの部屋に持ち込まれていて、私のおもちゃや道具より、多くは兄たちの私物にまみれてた。


 たとえばテレビやビデオゲームは私も使っていたけれど、エレキギター、エレキベース、ドラムセット、電子キーボード、アンプリファイア、これらの楽器類は彼らか彼らの友人たちしか使っていなかったし、部屋の中央に置かれたこたつテーブルは天板にフェルト生地でできた緑色のものが載せられて、彼らの友人が(というより悪友だ)やってきたとき、いつでも麻雀ができる準備がされていた。部屋の隅に置かれた本棚の下部に観音開きの引き出しがついていて、その中に麻雀牌が保管されていた。ついでに灰皿やたばこもその引き出しに隠されていた。一言でいうと彼らは不良少年だった。でもそれは娯楽に乏しい田舎の少年が陥りやすい状態だったというだけで、少なくとも幼い私の目にはトモ兄たちは普通に見えてたし、私に対しても彼らは優しかった。


 だからこの共有スペースは、トモ兄やナオ兄にとっては非行の温床、私にとってはある種の情操教育の場でもあったのだけど、十年ぶりに部屋に通されてみると、中は当時の面影をまるで残していない、楽器類も、こたつも、テレビも、すべて取り払われて、ただ元の位置に元のまま本棚が置かれてあるだけだった。


 遊び部屋へ案内された瞬間には、とりあえず私はその驚きを自分の内側に封じ込めていた。


「部屋の中のものは、どうしちゃったの?」って私は、他の部屋の様子も見てみようと腰を浮かせかけながら訊いた。

「そりゃ、処分するなり運び出すなりしたよ」

「運び出す?」って私は言った。「それって、新しい家に、ってこと?」

「他にどこに運び出すんだ?」ってトモ兄は皮肉っぽく言った。

「じゃあ、もう新しい家、決まってるんだ」って私は浮かせかけた腰をもとに戻しながら言った。トモ兄は特に私の行動に気を払わず続きを引き取った。

「決まってなきゃおかしいだろ。来週には引き渡すんだぜ、この家」

「たしかに、そっか」


 そこで一瞬変な間があった。私の方では綿入へ戻るまで生家の件に必要以上の関心を示していなかったから、この問答は自然のなりゆきだった。一方トモ兄からすると、お互いの理解度に齟齬が生じているなんて思ってないらしかったんだ。


「もしかして、お前、なんにも聞いてないの?」って彼は言った。

「聞いてないって、何が?」

「だから、新しい家のこととか」

「なんにも」って私は首を振って答えた。「だって、お父さん、おばあちゃんちに転がり込んでるって」

「ああ、親父はな。それで、俺やナオは相変わらずこの家に住み続けてると思ってたのか?」

「ううん、もう住める状態じゃないって聞いてたから、そういうわけでもないとは思ってた」

「はあ?」ってトモ兄は心底呆れたように苦笑交じりで言った。「じゃあ、一体どういう状態を想像してたんだよ?」

「そう訊かれると困るな」って私は言った。「特に着想は持ってなかったかも」


 トモ兄は返す言葉も尽きたというように頭を掻いて困惑した。


「ええ、ナオと相談してよ、新しい家は俺たちで建てたんだ。長期的に見れば賃貸に住むより安上がりだからな」

「新築」って私は驚いて言った。「よくそんなお金あったね」

「ばか、ローンに決まってるだろ」

「ああ」って私は借金とローンの違いを飲み込めずにつぶやいた。新居の建築費用を借金の補填に回せばそれで万事かたがついたんじゃないかって、そんなことまで考えていた。


「まったく、親父が当てにならねえからよ、俺もナオもこの歳で負債持ちだ」

「でも、マンションに住むより安上がりなんでしょ?」って私は最後の方だけ受けて一先ずそう返した。だけどなにか引っかかりを覚えて、「あれ。じゃあ、お父さんとは一緒に住まないんだ?」

「親父はばあちゃんちで暮らしてるじゃねえか」ってトモ兄は急に敵意をあらわにして言った。自分でもそれを過ちと気づいたのか、すぐに話題を変えるように、「なあ、いいから家のなか見て回ってこいよ。時間はどんどん過ぎてくぞ」

「いいよ、明日もあるから」って私は言った。「それより、お父さんのことが気になる。もしかして、仲違いでもしてるの?」


 トモ兄はすぐには答えなかった。しばらくしてようやく出てきた返事も、喉の奥で濁した、曖昧なものだった。鈍感な私の目からも、トモ兄が父との関係に触れられたくなさそうにしているのが明らかだった。


「新しい家ってどこにあるの?」って私はバツの悪さを感じて、一旦その方向に会話の舵を切った。

「ここからだと、車で三十分はかかるな。綿入とはなんにも関係ない場所だよ。距離でいえば二十キロくらい離れてんのかな。まあ、近場っちゃ近場だけどよ」

「綿入に住んでるじゃないんだね」って私はちょっと残念っぽく言った。

「近所に建てようって話も上がったんだけどな。でも世間体ってものがあるじゃねえか」

「そっか」

「いや、一応さ、コヨリがこっちに帰ってくるって聞いて、俺たちの家に泊めることも考えはしたんだ。ただ、その辺りのことは親父が勝手に決めちまってたからよ」って彼は言った。親父という言葉を使ったときに、また彼の口調は棘を含んでた。


「お父さんとのあいだに、何かあったの?」って私は、避けようとしていたのに聞かざるを得ない雰囲気を感じて、思わず言った。

「別になにかあったってわけでもねえよ」って彼は見るからに苛立って言った。「親父には何も期待してねえからな。なにかあったとしてもぜんぶ予定調和だ」


「それって、なにかあったってことじゃん」って私は思わず失笑して言った。

「そりゃあるに決まってるだろ。差し押さえだぜ、差し押さえ?」

「でも、私、詳しいいきさつ、全く知らないし」

「いきさつがなんだっていうんだよ。親父が借金をこしらえて、返済ができずに、家が差し押さえになった。これ以上のいきさつが必要か?」

「それでトモ兄たちが家を建てることになって、ローンを抱えた」

「そのとおりだよ。借金が別のところから別のやつに移っただけじゃねえか」ってトモ兄は、このときになると声を弾ませて語りだしていた。「俺たちだってこの歳で一軒家を建てるなんて、思ってもなかったんだからな」


 彼らは、つまりトモ兄とナオ兄は、この夏の日々には二十七歳と二十六歳になっていた。当時の私からすればずいぶん大人だったけど、それでも二十代後半といえばまだまだ若さの許される青春の晩期だ。そして青春という言葉とマイホームという言葉は、おそらく協和しない。


「まあ、厳密にいえば親父が借金をこしらえたわけじゃないんだけどな」ってトモ兄は、自分でもちょっと言い過ぎたことを反省するように続けた。「親父は単なる連帯保証人だからよ」

「連帯保証人?」

「それも聞いてないんだな?」ってトモ兄は私が理解している範囲をその質問から探り入れるように言った。私は特に面白みもなくうなずいた。


「まあ、親父が直接借金を負ったかどうかなんて、今になったらなんの関係もないけどな」って彼は言った。「でも大体のところはわかったよ。コヨリさ、お前は本当になんにも知らずに帰ってきたんだな」

「だって、知る必要があるとは思わなかった」

「なら俺にも深く聞くなよ」って彼は本心というより、冗談っぽく言った。

「でもなんとなく事情は飲み込めたよ。じゃあ、今はお父さんともあんまり連絡を取り合ってないんだ?」


 するとちょっと間があった。トモ兄は直接その質問には答えずに、


「ついでだから言っておくか」って渋い様子で口にした。「そもそもさ、俺たちは親父に借金があるってことも、こうなってみるまで知らされてなかったんだ」

「借金じゃなくて連帯保証人でしょ?」

「だから、それはどっちでも構わねえって。何が重要かっていうのは、差し押さえ通知を手にしたのも、実際に相手方と交渉したのも、親父じゃなくて俺やナオの方だったってことだ」

「そうなの?」って私は言った。「でも、この家だって、お父さんの名義なんだよね?」


「だとしても実際の処理は俺たちが負ったんだ。差し押さえの通知書が届いたのは今年の春先のことで、本当はその前に督促状なんかも送られてきてたはずなんだけど、そっちはどうも俺たちが目にする前に、親父の手に渡ってたんだな。だから俺やナオからすれば、急に現実を突きつけられたって格好でよ、しかも通知書の文面には月度内に立ち退けって勧告まで記されてた。だけどどうすりゃ今知った状況からすぐに家を出ていけるんだ? 慌てて相手側に連絡を入れたよ。初めは向こうの代理人があいだに入ってたんだけど、それじゃらちがあかねえから、無理いって直に債権者と交渉させてもらってさ。それで、こうこう、こういう事情だって一から聞いてもらって、どうにか今の今まで差し押さえの期限を引き延ばしてもらってるんだ」


「ああ」って私は急に増したトモ兄の熱量に押されて、苦笑いした。


「本来ならこんなこと、親父がぜんぶ処理することなんだぜ。それを俺たちに丸投げしてよ。面倒うんぬんより、情けないったらありゃしないぜ。家庭の恥まで全部さらけ出さなきゃならなかったんだからな。第一よ、向こうが話のわかる相手じゃなかったら、今ごろ俺たちだってどうなってたか。そりゃ、簡単に借家に引っ越すって手もあったけど、それでも一歩間違えれば住む場所を失ってたんだ。ローンを負う代わりに兄弟揃ってホームレスだぜ。都会ならいざしらず、こんな田舎でホームレス」


「いや、もう、わかったから」って私はいよいよ耐えきれなくなって言った。「トモ兄の苦労はじゅうぶん理解したよ」


 それでも彼は物足りなさそうに、ぴんと伸ばした人差し指を私に突きつけて言葉を継ごうとしてた。だけどどうにか鬱憤を舌打ちに変換して引っ込めた。


「親父とは連絡取り合ってないのかって話だったよな」って彼は最初の私の質問を引き取って言った。「いや、事務的な連絡は取り合ってるぞ。例えば昨日の夜にも親父から連絡があった。お前が今日のうちに綿入に着くって連絡とかな」

「いや、それはお父さんが悪いわけじゃないよ」って私はことが性急すぎることを責められてるんだと思って言った。「私が突然そう決めたの」

「わかってる」ってトモ兄はいたずらっぽく笑って言った。「だけどコヨリのことは別にして、いつも親父はそうなんだ。自分で勝手に答えを決めちまって、無理やり周りを従わせるんだよ」

「もうお父さんの悪口はいいって」

「お前も気をつけろって話だよ」

「心に留めておく」って私は特に心象を持たずに言った。「でも、昔からそんな人だったっけ」

「コヨリが気付かなかっただけだ」

「そっか」って私は言った。「ねえ、私、お父さんと会うべきだと思う?」


 そのときトモ兄は左手に巻いた腕時計に目を落としてて、私の言葉を聞くと驚いたようにさっと顔を上げた。


「会うべきか?」って彼は意図が汲み取れないとでもいうように顔をしかめた。

「そんな話聞いちゃったら、どんな顔して会えばいいのかなって」

「普通に会ってやればいい。お互い十年ぶりなんだから、そりゃ親父だって会いたいに違いねえよ。今回のことだって、とどのつまりそういうことなんだから」

「うん?」って私は言った。「とどのつまり、どういうことなの?」


「コヨリは今回どういう理由で綿入に帰ってきたんだ?」ってトモ兄は私の質問には答えず訊き返した。


「だから、この家が差し押さえにあったから、戻ってこいって」

「それじゃ途中が抜けてるだろ」って彼は言った。私はトモ兄のいわんとしてることがよくわからなくて首をかしげた。


「この家が差し押さえになったことで、どうしてコヨリが綿入に戻ってくる必要があるんだ?」ってトモ兄は何かを教え諭すみたいに丁寧に言葉をかえて言い直した。


「つまり、必要性ってこと?」、トモ兄が満足そうにうなずくのを見て、私は自分の必要性について考えをめぐらした。だけど結局思い当たらずに、母から聞かされたことをそのまま引用することにした。「なんか、この家に大事なものが眠ってるかもしれないからって」


「そんなもの本当にあると思ってるのか? 十年も前に置いてきたものの中に?」

「それは、見てみないとわからないよ」って、だけど自分の中でも答えは定まっていた。「十年も前に置いてきたもの」というトモ兄の言葉は強かった。改めて考えると生家を出てからの十年、私も母も、この家に捨ててきた品々に一度も振り返ったことがない。

 トモ兄は私の考えを読み取ったらしくって、得意そうに笑ってみせた。


「今回の件にかこつけて、お前に会おうって腹だったんだ」

「それって、お父さんが差し押さえをだしに使ったってこと?」

「悪くとればそうだし、好意的にとれば……」ってトモ兄はそこで言葉をちょっと区切った。「まあ、会いたかったんだろ、コヨリに」


 私は返事をしなかった。というのは自分の置かれている状況の理解に努めていたからで、父に対して何かしらの感情を抱いたわけでもなかったし、気づけばトモ兄が父に寄り添った立場になっていたことに疑問を感じていたわけでもなかった。ただ一つ、この帰郷が私を単なるかかし役にするためだったと気付かされた瞬間には、どっと力が抜けた。


 私は大きくため息をついた。それから額の汗を拭った。この部屋は長居するにはちょっと暑すぎた。思いがけずトモ兄と話し込んでいるあいだに、粒の汗が浮かんでた。


「悪いな。冷房も取っ払っちまったからよ」

「ううん。水は出る?」

「インフラはまだ生きてる」って彼は言った。私は席をたって洗面台まで向かった。洗面台は遊び部屋を出てすぐ目の前にあった。


 顔を洗って遊び部屋に戻ろうとすると、開け放しのふすまのところにトモ兄が立っていた。半端に上げた腕で柱にもたれかかっていた彼は、支えにしていた方の手首に巻かれた腕時計をこんこんと小突いて、


「時間」って言った。

「わかってる」って私は特に抑揚を決めずに返事した。バックパックからフェイスタオルを取り出しているあいだにも、トモ兄は三和土に下りかけていた。


「すぐに行く?」

「現状で遅刻確定だからな」

「そっか」って私は言った。「居間だけでも、だめかな?」


「俺の話、聞いてたか?」って彼は呆れざま言った。「ぱっと見るだけだぞ」


 居間は玄関から真っすぐ伸びる廊下のどんつきにあった。廊下はそれほど長くなく、遊び部屋から私の足で五歩も進めば奥のドアに突き当たる。あいだには浴室があるだけの、ごくこじんまりした廊下だ。


 レースのカーテンがついたドアを開けると、居間はまた、遊び部屋とおんなじくらいに清々しかった。いや、そう感じたのは居間の中央にあったはずの長方形のこたつテーブルが取り払われていたせいで、部屋の隅を囲うテレビ台やキャビネットやスチールラックは、依然その場に残されていた。


 入り口の対角線に置かれたスチールラックには一般向けの分厚い国語辞典や洋の内外を問わずに集められた偉人の伝記や各都道府県ごとの道路地図がそれぞれの棚に分けてきれいに収められていた。中でも国語辞典は複数の出版社のものを取り揃え、改訂版があるものは刷順どおりに入れ替えて並べられてあった。いってみればそれは父のコレクションで、私が幼い頃から目にしていた光景でもあった。


 そして光景ということでいえば、生家の居間を最も特徴づける、深い色をした飾り棚が、見た目に高価だってわかる意匠をきらめかせながら、壁の一面を占有してた。上半分がガラスケースになっていて、そこには銀製のポットや白磁器のティーカップ、螺鈿細工のお皿が飾られ、下側の引き出し部分には蝶や鳳凰の絵が彫り込まれてる。全体の造りは海外製のアンティークキャビネットといった印象なんだけど、細かいところでは和のフレーバーが効かされていて、渋みのある茶色をした材質は、たぶん上から漆を塗った、堅いオーク材のようだった。


 その飾り棚もまた、スチールラックとおんなじに、中身をそのままに保管されてたの。あまり手入れをされていなかったのか、ガラスケースは当時よりすこしくすんで見えた。


 私が物心ついたときから彼はそこにいた。十年間、あるいは二十年以上もの長いあいだ、彼はその場を一歩も動かずに存在を誇示してた。こんな小さな家にはずいぶん背伸びした代物だ。そもそも彼はどんな方法でこの部屋に入ってきたんだろう。庭に通じる掃き出し窓を全部開放しても、ようやく通れるか通れないかって寸法だ。間違いなくいえるのは、廊下を通してきたわけじゃない。


 遊び部屋と違って、居間の景色は懐かしかった。確かに私はそこに喜びを感じてた。だけど感動が与えられたかっていうと難しい。感情は思ってたより平坦だった。

 トモ兄の呼ぶ声がした。あっ、と振り返って、私は居間をあとにした。

 廊下に出ると、遊び部屋に置いたままにしてあったバックパックとお土産の紙袋が、上がり框のふちまで戻されていた。


「ああ、わざわざありがとう」って私は言った。

「時間がねえからな」


 トモ兄はこれ以上は焦れて待てないとでも言いたげに、誘い込むような手の動きを繰り返した。私も気持ち素早く次の行動に移った。


「ねえ、ところで、あのおっきな棚、どうするの?」、私は三和土からバックパックを持ち上げながら言った。

「あれな。どうするか考えたけど、どうしようもねえよ」ってトモ兄は言った。「俺とナオの二人がかりでびくともしねえんだ。中身も使うことないだろうし、そのままにしておくよ」

「ああ」って私は言った。「そのままにしておく?」

「期日過ぎて家に残しておいたものは、あちらさんで処分してくれることになってんだ」

「じゃあ、捨てちゃうんだ」って私は言った。「スチールラックの本も? 全部?」

「使いみちねえからな」ってトモ兄は、今度は誘い込む動きを手から首に代えて言った。声の調子は落ち着いてたけど、どうもほんとに焦ってるみたいだった。「ほら、急げって」って彼は更に言った。


 軽トラックの荷台にはバックパックだけ載せて、お土産の紙袋は手に抱いて助手席へ乗り込んだ。ポリエステル製のシートは思っていたより反発が強く、それに車内には鼻を突く独特の匂いも漂っていた。私はなんとなく居心地が悪くて顔をしかめた。


「我慢しろ。じきに慣れる」

「おばあちゃんちまで、どれくらい?」

「車じゃ路地が使えねえから、五分ってとこかな」ってトモ兄はそれが気の遠くなる長い時間のように言った。

「そういえば、明日ってトモ兄たちも来るんだよね?」、車が動き出す前に私は訊いた。


 トモ兄はエンジンキーを差し込みながら、


「逆だ、逆」って言った。「コヨリが居ようがいまいが、俺たちは俺たちで着々と引っ越しの準備を進めてたんだよ」

「それは立場の違いだよ。単なる言葉のあや」って私は言った。「まだ私にだって手伝えることは残ってるでしょ?」

「いや、特にはな」って彼は澄まして言った。「それに、明日は下準備のつもりだぞ」

「下準備?」

「最終的にどれくらいの量を持ち出すかを明日のうちに割り出しておいて、明後日ぜんぶかっ攫ってっちまうんだ」ってトモ兄はなんだか犯罪者めいた言い方をした。「場合によっちゃ、トラック一台じゃ足りないかもしれないからな」

「なんだ、結構やること残ってるんじゃん」って私は言った。「引き渡しの期限って、いつまでだっけ」

「盆を境に」ってトモ兄はそこで一旦言葉を切った。軽トラックは何度か切り返しをした後に、ようやく生家の前の道に出た。「そっくり終わらちまおうってことで話がついてる。だから、あと十日もねえよ」

「じゃあ、私、本当に滑り込みだったんだ」

「来なくても大勢に影響なかったけどな」

「なんか、ひどい言われよう」

「まあいいじゃねえか、久しぶりに会えたんだから」ってトモ兄はアメとムチというよりはマッチポンプの要領で助手席の私を慰めた。ところでそのあいだ無邪気に笑っていたトモ兄は、生家を出てすぐの交差点、つまりさっき私がバスから下車した停留所のある五叉路の交差点に差し掛かると、急に口角を下げて表情を落とした。信号は赤だった。


 それもどうやら赤信号に変わったばかりらしかった。水平方向の車がのろのろと動き出すのが見えたんだ。そうするとこの交差点は、あと一回、赤信号を待つ必要があった。


「ねえ、明日が下準備だとしたら、明後日はどうしたらいいの?」って私はその長い信号待ちのあいだに訊いた。「一応、明後日は私、自由時間って聞かされてたんだけど」

「ああ、それで構わないぞ」ってトモ兄はいくらか苛立ちのある調子で言った。「もう、本当に大掛かりにやれる最後の週末だからな、明後日は俺やナオの友だちにも手伝わせて、一息に片付けちまう腹なんだ。だから万一コヨリが参加しても、特にこれといって手伝えることもないんだわ。たぶん、気まずいだけだぞ」

「トモ兄たちの友だちって、昔、遊び部屋でつるんでた、あの?」

「覚えてたか。俺の仲間もいたし、ナオの連れも入り浸ってたよな。大体の面子はそのとおりだよ。野暮ってえ連中だ」

「なんだか私がいないほうが都合がいいみたいに聞こえるね」

「そうか? そうだったか? まあ、否定はしねえけどよ」って彼はやっとかすかに笑って言った。「明後日まで時間はあるんだし、その辺りの進退もじっくり吟味しておけや」


「そうする」って私はそっけなく返事した。「だけど、いよいよなんのために綿入に帰ってきたのかわからなくなってきたよ。まだ着いたばっかりなのに」

「その文句は親父に聞かせるべきだ」


 言い終えるとトモ兄はニッカポッカのポケットをまさぐって、タバコの箱を取り出した。仕事の合間も常に入れっぱなしだったのか、赤いソフトパッケージがくしゃくしゃにひしゃげてる。


 トモ兄はその現代アートの彫刻作品みたいになったソフトパッケージをくいっとスナップさせて、吸っていいかどうかの挨拶に代えた。うなずいてあげると、彼は車備え付けのシガーソケットを引っこ抜いて、咥えた一本に火を点けた。途端に狭い車内が煙で満たされる。私は思わずハンドルレバーを回して窓を開けた。そこで信号はようやく青に変わった。


「おい、もうちょっと閉めてくれ、火が消えちまう」

「このくらい?」、ハンドルレバーを逆回しに調節して言った。トモ兄が妥協した仕草をすると、私はもうちょっとだけ隙間を絞ってやった。


 五叉路の交差点を右折すると、そこからちょっと行ったところの路地にハンドルが切られた。路地は入り口だけ住宅地の様子で、すぐに田舎町らしい田畑と山の風景に変えられた。私はしばらくその風景を眺めてた。


「どうよ、久しぶりの綿入は」

「え?」って私は訊き返した。窓から入ってくる風が大きな音を立ててたの。トモ兄は気持ち顔を私に近づけて同じ質問を繰り返した。

「どうだろう。まだ、よくわかんない」って私は言った。生まれ故郷に戻ってきたという実感もいまは落ち着いて、そこから再び気持ちを高揚させるには、今ひとつ情報が足りていなかった。


 それは単に気詰まりを解消させるための質問だったのか、私がそう答えると、トモ兄も次また次とは追求してこなかった。次に私が口を開くまで、私の視線もまた窓の外に伸びていた。


「ねえ、明日って、ナオ兄も来るんだよね?」

「さっきそう言わなかったっけか?」

「そっか。楽しみだな」って私は言った。

「なんだよ、まるで俺じゃ楽しくないみてえだな」

「そういうわけじゃないけど、ただ、今日会えるとは思ってなかったから」って私は言った。「ねえ、ナオ兄も見違えちゃった?」

「それは自分の目で確かめろ」ってトモ兄は含みのある笑みを口元に宿して言った。


 断続的な会話は、トモ兄が煙を吐くときになると顔を外にそらしていたことで、発生したあとも間延びしたというか、とにかくテンポが悪かった。神さまの視点から見下ろすと私たちはたまたまこの車に乗り合わせた二人のようでもあった。


 軽トラックが進んでいた対面二車線のやや幅広の道路は、田畑のあいだに約一キロほどまっすぐに伸び、終わりは丁字路の交差点になっていた。丁字路を折れた道の先には高速道路と立体交差になったアンダーパスがあって、私たちを載せた軽トラックはそのアンダーパスをくぐり抜けてった。


 すると目の前100mか、いや、200mはない距離に祖母の家が見えてくる。山の麓の、ちょうど地面が真っ平らから斜めに変わるところに建てられている。ところどころ苔むした古い石垣と、光沢のない黒々とした屋根瓦に上下から挟まれた、質朴だけどしっかりした作りの家だ。壁面は大部分が板塀に隠されているけれど、漆塗りで黒く加工されたその板塀も、日本家屋らしい慎ましやかな威厳をこの家に添えている。


 もし道路に面した部分を建物の正面と捉えるなら、祖母の家の玄関口は山に面する裏手に位置してた。そこへ登ってゆくための坂道は建物の両脇に一つずつ用意されていて、アンダーパスに近い方の坂は、これがいわゆる正門側にあたった。幅は狭いけれど石畳を敷き詰めた趣ある作りになっている。そして搦手側の坂は、アスファルトを敷設した舗装路と砂利敷の駐車スペースからなる、幅広の空間となってたの。


 車がアンダーパスを抜けたとき、私はてっきり、その搦手側の坂まで案内されるものだと思ってた。ところがトモ兄は、まだいくらか祖母の家まで距離があるところで車を減速させて、都合よく脇の膨れ上がった路肩に停車すると、そのままサイドブレーキを引いて運転席から飛び降りた。


「あれ?」って私は言った。

 助手席側に回り込んだトモ兄は、「おお、早く降りろ」ってさも当たり前のように窓をこつこつ叩いて言った。

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