第二節(0102)

 橋の中間の信号交差を抜けると、車の列はいくらか順調に進んでいった。橋の終わりにも交差点があって、バスはそこを左折して土手の道に進路を取った。まるでバスなんか通れそうのない細くて左右にうねった道なんだけど、この大きな箱型の物体は、器用なハンドルさばきで上手に対向車の横をすり抜けてった。


 小川に渡された短い橋を越えると道は下り坂のカーブになって、その曲線の終えた先が綿入――綿入という町の中でも特に私が故郷と感じられる場所だった。道の脇に養鯉場があり、反対側に小さなスナック、その先に神社、更にその先が五叉路の交差点になっている。下りるべきバス停はちょうど神社と交差点の中間に位置してた。


「ああ、すみません、下ります!」って私は言った。


 途中まで文庫本に夢中で、それより後では遠くの綿入を目に焼き付けていて、すっかり停車ボタンを押しそびれてた。運良くバスは五叉路の信号に捕まっていて運転手さんはその場で降り口のドアを開けてくれた。


「ごめんなさい、気付かなかった」って私は運転席横の投入口に運賃を突っ込みながら言った。四十がらみの運転手さんは困った様子もみせず「いえいえ」と朗らかに言った。


「ご旅行ですか」って彼は男の人らしい太く通った声で言った。

「はい。久しぶりの地元なんです」

「お気をつけて」


 ステップから飛び降りると、バスはぷしゅっと息を吐いて、五叉路の交差点を右手に曲がっていった。信号はいつからか青に変わってた。私は一つ後ろの車に頭を下げた。そうして振り返ってみるとバスはとっくに姿を消していた。


 のっけから変なけちがついちゃったなと、ぼりぼり頭を掻いた。だけどふと足元に目をやると、そんな気分もすぐに立ち消えた。


 なんにもない土くれの大地が広がっていた。でもそれが第一歩だった。ほんとうの意味での帰郷の第一歩。月面着陸を試みたニール・アームストロングも、ちょうどこんな気持ちだったんじゃないかと思う。真実これで私は生まれ故郷である綿入の町にたどり着いたんだ。


 停留所の真上は桜の葉に覆われていた。差し込む木漏れ日はとても夏らしく、アブラゼミは右も左もなく立体音響のように鳴いていた。


 生家まではほとんど距離がなかった。五叉路の交差点を斜の路地に入ると、やがてリンゴ畑の奥に青い屋根が見えてくる。それが生家の目印だ。


 本当はすぐに祖母の家へ向かう手はずになっていた。ところがターミナル駅で確認してみると綿入ゆきのバスは二路線あって、そのうちの一本が五叉路の停留所に通じていることを知ったんだ。停留所には神社の名前がつけられていて、なぜか私はその名前を覚えてた。


 同じ綿入でも生家から祖母の家まではかなり距離があったし、その間を省略してくれる交通機関は私の知る限り存在しなかった。だけど駅前の停留所でバスを待っているあいだ、私は特にその苦労を考慮してみなかった。まだ億劫さのほうが勝っていて、肉体的な苦労より、なにか儀礼的な行動をこそ欲してたんだ。記憶の中で一番強く残っている綿入の景色を見れば、気持ちも変わるんじゃないかと期待した。そういう意味でいえばこの試みはどうしようもなく大成功だった。


 五叉路の交差点から斜の路地に入ると、小さな塗装屋さん、その隣に地方銀行の支店と続いて、それより先には、道の反対側に大きなモルタルの壁がある。真っ白な壁が数十メートル先まで伸びていて、これは私立美術館の背面だった。美術館なんて、このちっぽけな田舎にはそぐわない施設のような気もするけれど、物心ついたときからこの景色を見てきた私にしてみると、それは当たり前の光景だった。


 美術館は十字路の一角に建っていて、ちょうどその十字路を美術館と反対方向に折れれば、生家はもう目と鼻の先だった。


 十字路の入り口からしばらくは左右にリンゴ畑が続いてる。この時期は青々とした葉っぱが空を覆って、いかにも涼しそうだった。


 リンゴ畑の切れ目には剪定した枝を保管するための掘っ立て小屋が建てられている。入口は取り払われていて、枝は壁という壁にぎっしりと、束になって積み上げられていた。


 幼い頃、私はよくこの枝を一本、二本と抜き取っていた。そして近所に住んでいた幼馴染みと一緒にちゃんばらごっこをして遊んでた。りんごの枝はそれほど丈夫ではなくて、子どもの力でも加減をしないとすぐ折れた。使い物にならなくなった枝は地面に捨てて、また新しい枝を保管所から抜き取った。そういうことを飽きるまで続けてた。建物の持ち主はたぶん、薪かなにかに使うために保管していたと思うんだけど、小さい子どもにはそこまで考えを巡らす頭がなかった。枝は私たちのために用意されてあるもので、幼馴染みを打ち負かすことに使っても、なんにも不思議とは思わなかった。


 その掘っ立て小屋を通り過ぎると、とうとう生家の全体が見えるんだ。青い屋根瓦の、いや、ほかはこれといって特徴のない一軒家だ。でもそれは生まれ育った家として、私にだけは特別な印象を与えてくれた。


 幸いなことに家の様子に変わったところは見られなかった。例えばすでに取り壊しになっているとか、まったく新しい家が建っているとか、そういうことはなかった。もちろん立入禁止のバリケードとかキープアウトの黄色いテープとか、そういうものもない。外から見た感じでは、生家は十年前と何一つ変わっていなかった。


 すっかり気持ちの晴れていた私は、思わず口元を綻ばせたの。だけどそれは一瞬だった。というのは生家の駐車スペースに、見慣れない一台の軽トラックが停まっていたからだ。それで私は少しうろたえた。


「業者さんのかな」って私はつぶやいた。差し押さえという事実とその古びた軽トラックが、何かしらの想像を掻き立てるくらいに妙に噛み合っていた。


 生家まであと十歩、なのに私の体は突然その場に固定された。足を止めてみると背中のバックパックにずしりとした重みを感じた。だって、こんな状況は想像してみなかった。


 いや、だけど、具体的にどんな想像をしていたかといえば、そんなものは何もなかった。なんとなく綿入ゆきのバスに乗って、神社の停留所で降りて、そして十年ぶりの生家をこの目に収めてみる。なりゆきだけが計画だった。そしてその先の計画はこの場で決めることだった。


 結局、私はほんのちょっと迷った末に、生家の敷地に踏み入った。


 仮に業者さんが(いま思い返してみると、どんな種類の業者さんかも想像してみなかったけど)生家の中に入り込んでいたとして、私だって以前ここに住んでいた人間として、様子を伺うくらいの権利は有していたはずだ。法的にという意味ではなく、心情的に。それに初めから相手がいるとわかっていれば、家の中でばったり出くわしても、どうにかやり抜けるだけの自信はあった。


 ところで生家に侵入するにはもう一つ問題があったんだ。古ぼけた軽トラックは駐車スペースを大胆に使って、玄関ポーチすれすれに横付けされていた。隙間は体一つ分ほど空いていたけれど、その隙間は玄関横の花壇から突き出す、刺々しいユッカの葉に覆われていた。


 一先ず軽トラックの荷台を拝借して、一旦花壇の前を通り抜けたあとでバックパックと紙袋を荷台から救い出してやることにした。


 試み自体はうまくいった。少なくとも荷物を玄関ポーチに置くまでのあいだに、車の持ち主と鉢合わせになるような事態は避けられた。うまくいかなかったのはむき出しの腕がユッカの葉の犠牲になった点だけだ。


 こいつらは思ったより攻撃的だった。一体こんな凶暴な生物がどうして観葉植物として認められているんだろう。玄関ドアに手をかける前に、私は自分の腕をさすってやった。


 腕を慰めてやるついでに、耳では生家の様子を探ってた。けど、中からは物音一つ聞こえてこなかった。薄い玄関ドアがその薄さに似ない吸音性を持っているのか、それともドアの先が異空間にでもつながってるのか、とにかくドアの奥にいるであろうはずの業者さんの気配はつゆとも感じられなかったんだ。


 そうすると不思議なことに、私は急に萎縮した。もしかすると中には誰もいないかもしれないって予感が、返って私を冷静にさせてしまってた。

 引き返しちゃおうかな。ふとそう考えた。


 本来の予定でいえば、生家には明日、正式に立ち入ることになってたの。その予定でいえば今日はひとまず本家への挨拶、二日目の明日に生家を検分して、三日目は自由時間、そして四日目の朝には故郷を発つことになっていた。だから無理を押して玄関ポーチの前までゆく必要は、この日のうちにはなかったわけだ。


 だとするなら外から生家を眺められただけで、今日のところは満足だ。血気にはやってフライングを切る道理はない、って、だけどそれが言い訳以外のなにものでもないって気がつくと、私は踵を返すのも躊躇した。


 後先考えずに行動して悪手を打つのも、悪い癖の一つかもしれない。玄関ドアの前で、私は身動きのできない馬鹿な状況を味わっていた。


 結論からいうと私は玄関扉をこの手で開けた。生家の中から物音がして、音の正体がどんどんこちらへ近づいてくると、私の手はとっさにノブを掴み、そしてとうとうドアの向こうの相手が三和土に降りたとき、気配に押されて、ぐっとドアノブを引っ張った。

 玄関が開くと、目の前には兄の姿があった。

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