8月6日(金)
第一節(0101)
路線バスの窓から川を見た。土手と、連なる山々が奥に広がっている。「やっと故郷に帰ってきた」、橋の上の渋滞は私の気持ちを素直にさせた。
橋の中腹に土手を接続し信号交差になっているこの橋は、通勤時間帯の朝夕だけでなく、昼にもよく車道を混雑させた。なかなか進まないバスの動きに呆れ果てて、私は文庫本に目を落としてた。やがてふと顔をあげてみると、川の奥に故郷の姿があった。綿入という名前の、山に接した小さな平野の町だ。
遠く見えるその景色にしばらく魅せられていた。こうなるまでは今回の帰郷にも懐疑的だったのに、こうなってみると心からほっとした。七歳の私は、ううん、そして十七歳の私は、橋の上からの景色をしっかり覚えてた。
雄大な山々の裾野に古い民家の屋根がびっしり並び、そこから一本、銀色の、ペンケースみたいに扁平な形をした建物が伸びている。周りの民家より頭何本も抜けて、空に突き出したそれはこの町唯一のランドマークだった。製鉄の町工場が建てた金属製のサイロだ。私をこの町に引き戻すことになった生家も、そのランドマークの近くにあった。
十七歳の夏、私は生家の最後を看取るために帰郷した。本当は夏休みが始まってすぐ旅立つはずだったけど、もたもたしているうちに一週間近く出遅れた。
「コヨリ、ねえ、あなた、こんど綿入に遊びに行ってきなさい」って母がある日の夕食時に唐突に言った。「夏休みに入ってからでいいから」
それより一時間前、彼女は家の電話を使って誰かと話し込んでいた。どうにも険悪な雰囲気だったからその時はそっとしておいたのだけど、こう切り出されてみると、嫌でもさっきの様子が脳裏を離れなかった。
「電話、誰からだったの」って私はそっけなく聞いた。
「お父さんよ」って母は言った。
「お父さん?」って私は箸を止めて言った。「なんで、今更お父さんが」
「差し押さえだって」
「差し押さえ?」
母は食事を中断してキッチンに立った。換気扇を回して、たばこに火を点けていた。
「ねえ、差し押さえって、どういうこと?」
「綿入の家、覚えてるでしょ。お父さんが借金の抵当に入れて、こんど差し押さえになることが決まったの」
私は声をつまらせた。するすると言葉を紡ぐには、あまりにも情報が多すぎた。まず父が借金をしていたということ自体初耳だったんだ。
「それで、どうして私が綿入に戻らなきゃいけないの」って私はなんとかそれだけのことを口にした。
「知らないわよ、あの人がそういうんだから、従ってちょうだい」
「そんな。あんまりにも急すぎるよ」って私は言った。
母は苛立ってたばこをシンクに押し付けた。だけど満足いかなかったみたいですぐに二本目に火を入れた。
「お盆までには業者に引き渡すことになってるらしいから」って母は言った。「あなたもそれまでには戻るのよ」、母の迫力は有無を言わせなかった。
母との関係は当時から冷え切っていた。私は彼女のヒステリックな一面に愛想を尽かしてた。だからこう告げられて、しかも半強制的に指示されたことは、なんというか、よくよく考慮してみても最悪な幕開けだった。
それから数日もすると夏休みが始まった。私は彼女の手前、見せかけに出発の準備を進めていたけれど、どうにも乗り気にはなれなかった。心のなかで拒否し続けていると、とうとう体の方も不調になった。最初に月の日がやってきて、終えてみると風邪で倒れた。それが大体、一週間くらい続いたわけだ。
ベッドで寝込んでいる最中に、私はぼんやり父と二人の兄のこと、それから生家の様子を思い返してた。そこには紛れもなく私たちが一つの家族であったときの記憶が詰め込まれてる。熱でくらくらする頭に、その光景は懐かしかった。今では手の届かない過去の映像が脈絡なく脳裏に浮かんで、輪郭もおぼろげになった父たちの顔を追っているうちに、ぷつんと眠りに就いた。
目が覚めると熱は引いていて、心も妙にすっきりしてた。パジャマ姿のまま起き出して、「明日、出ます」って母に伝えに行ったんだ。
出発の準備はあらかた整っていた。あとは私の気持ち次第ってところまでスケジュールが迫っていたんだよ。着替えや生活用品を詰め込んだバックパックはぱんぱんに膨らんでいたけれど、背負ってみると見かけより軽く、非力な私でも充分持ちこたえられそうだった。というのも連続した七日間の思い出も、当初は三泊四日の予定でしかなかったの。結末の半分の量で支度が済んでいた。
当日の朝、駅までは母が送ってくれた。無理をいって始発の便をお願いすると、意外にも彼女はすんなり聞き入れた。
「おばあちゃんちに着いたら、すぐにお土産を渡すのよ」駅へ向かう途中、車が赤信号で止まったときに母は言った。「挨拶も忘れずに」
「わかってるよ」
「ねえ、ちゃんと言うべきこと、覚えてる?」
「だから、生菓子じゃ日持ちしないから、おせんべいにしました。これでいいんでしょ?」
「絶対に忘れないでよ。おばあちゃんだって、もう歯が弱いんだから」
「わかってる」
「ちゃんとおばあちゃんに向かって言うのよ」
「それこそ、あてつけに思われるよ」って私は言った。
「あんたね」って母は呆れ果てた口調で言った。「おばあちゃんちに泊めてもらうんだから、それくらいの気はちゃんと遣いなさい」
「なんとかするよ」って私はこの会話にうんざりして言った。
祖母の家に厄介になることは初めから決まってたんだ。聞くところによると生家はもう人が住める状態にはなっていなかったし、差し押さえが決まる前から父はどういう理由でか本家に転がり込んでいた。だから自然と私も父の目の届く範囲に置かれることになっていた。
父との交渉はすべて母が受け持っていたから、私は又聞きでそれらの事情を知らされていたんだけど、私からしてみるとその辺りの込み入った話はできるだけ耳にしたくなかった。現実を知れば知るほど億劫だった。それに、生家のことが会話にのぼると、母は必ず神経を尖らせていて、私はその状態にもうんざりだった。まったく面倒なのは、父や生家に触れると苛立ちを隠せないくせに、その話を切り出すのは決まって母からだったことだ。
朝に弱い彼女は、駅へ向かう最中にもどんどん苛立ちを過熱させていた。駅のロータリーで車から這い出すまで、私は彼女の愚痴や文句を延々聞かされる羽目になった。
おかげで電車に乗り込んだときには、私の心はすっかり元の重さに戻されていた。母のネガティブな思想の一つ一つがびっしり私の肩や腰にへばりついていた。また風邪で寝込んでしまえるなら寝込んでしまいたい。だけどすでに電車は動き出していた。今さら家まで帰るわけにもいかず、半端な覚悟で車窓を流れる景色に目をやっていた。
目的のターミナル駅に着いたのはお昼過ぎのことだった。本当は正午近くに着くはずだったのが、途中二つの乗り換えを二つとも乗り過ごしてしまってた。正しくいえば乗り過ごしてしまいたかったのかもしれない。ともかく最後に降りた駅で駅員さんを呼び止めて、彼の案内に沿って停留所で綿入行きのバスを探すことにした。
本当は駅まで父が迎えに来る手はずになっていたんだけれど、私が寝込んだことで予定が大幅にずれて、それらの計画は白紙に戻されていた。白紙の上に新しい計画が追記されなかったのは、帰郷が平日にずれ込んだことと、あまりにも突発的な決行のせいだった。実は仕事で手の空かない父に代わってサヤコさんが迎えにくるという話もあがっていたらしいけど、私の方でもそれは遠慮したい事柄だったし、それより前に外面を気にする母が丁重に断っていた。このときはまだ私とサヤコさんの関係も他人といって差し支えなかった。
でも、綿入行きのバスに乗って、橋の上から故郷の景色を見渡したとき、私はこれこそが正解だと感じたの。
乗り合わせの客はみんな橋の手前で下車してた。運転手さんを除けばその箱型の空間にいるのは私だけだった。板張りの床とビニールの座席が古い旅を演出してくれて、綿入の光景に心が安らいでゆくと、私を取り巻く全部が愛おしくなった。たった一つの景色で心はすっかり晴れ上がってた。
文庫本を床のバックパックに納めて、窓に手を当てた。
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