雨上がりの夢 - 夕霧島の奇跡

心桜 鶉

第1話

雨音が静かな室内に響きわたる。屋根から落ちる水滴も一定のリズムを刻んでいた。

 ――今日はせっかくの休みなのに。

 雨の日は気分がどんよりする。九時ごろに起床してからまだ、椅子の上でぼんやりとすることしかしていなかった。

 机の上に投げ出された財布から覗く、学生証には「小長谷 隆こながや たかし」と書かれている。二年前に撮った顔写真はガキっぽく、自分ってこんな顔だっけ――と思わせる。

 学生証なんて普段じっくり見る事なんてない。

 飲食店とかカラオケボックスで学割を使う時くらいか。

 高校は授業がほとんど終わり、隆は2回目の夏休みを迎えていた。

 ――せっかくの夏休みだから。

 そう思い、気づくと旅行を計画し、東海地方の南東寄りに位置する、夕霧島ゆうぎりじまという小島に来ていたのだ。自分でもびっくりするくらいの行動だった。

 夢中になると、ここまで行動できるのか、と驚くもその気持ちの波はこの雨とともに流れてしまっている。

 到着して二日目を迎えたが、依然として梅雨が抜けず、雨の日が続く日々を過ごしていた。

 このままぼんやりして夏休みが終わるのも嫌だな、と思うと雨の中無理にでも外に出ることに決めた。このまま何もしせずに終わるわけにはいかないのだ。

 思い立ったが吉日、すぐさまスマホを取り出した。

 スマホで周辺の店舗情報を調べると、五分ほど歩いたところに喫茶店があるらしい。評価もそこそこに高く、ケーキの種類も多い。

「悪くないな」

 隆はその喫茶店でコーヒーを楽しむことにすると、長時間座っていたためこり固まった体を起こした。

 ベッドの近くに置いていたボストンバックからジャケットを引っ張り出すと、薄手の服の上に羽織る。

 このジャケットは防水防滴で水に強いのだ。

 価格は数万円と少し高かったが、素材もよく隆のお気に入りの一着だった。

 階下へ降り、宿屋の女将さんに一言外出することを伝えると、ドアの取っ手を掴み、スライドさせる。

 湿った生ぬるい風と小雨の粒が顔に降りかかり、思わず目をつぶった。

 意外にも横殴りの雨で、これでは室内が濡れてしまうと思った隆は急いでドアを閉めた。

 フードで顔をしっかりと包むと、かすんで見える道先にある、「喫茶 なごみ」の看板を目指す。

 一歩足を出すたびに跳ね返りの雨で濡れていく。

 多少ズボンが濡れるくらいなら気にしない。帰ってから着替えればいい。

 そう思いながら止めることなく歩みを進めた。

 看板の前の軒先の下に立つと、ジャケットに着いた雨をできる限り落とす。

 喫茶店のドアを開けると、カラン、カランと来客を知らせる乾いたベルの音が鳴った。

 店内は外と違い湿っておらず、少し冷風が効いていて快適だった。きっと除湿もついているのだろう。

 また、コーヒーの芳醇な香りとケーキを焼いたときの美味しそうな香りがあたりいっぱい満たしていた。

 「いらっしゃいませ」

 何とも落ち着いた声が届いた。お店の雰囲気も良い。

 マスターと思われる七〇代の男性が奥から姿を現し、隆を見ると軽く頭を下げる。

「こんにちは」

 と挨拶を返し、マスターに手でカウンターを示されると、隆は木製の椅子に腰を下ろした。

 隣にはすでにマスターと同じくらいの年齢の男性がコーヒーを楽しんでいた。

「メニューは上の黒板からお選びください」

 言われたとおりに見上げると、そこには『コーヒー、カフェオレ、チョコレートケーキ、チーズケーキ、日替わりケーキ』と書かれていた。

 コーヒーが一種類しかないのは、マスターこだわりの逸品なのだろう。これは頼むしかない。

「コーヒーのホットと、チョコレートケーキをください」

 チョコレートケーキは母――幹江みきえがよく家で作ってくれるので隆の好物だった。

 喫茶店のケーキもまた格別に美味しく、どんな味がするんだろうと気になっていた。

 「佳穂かほ、チョコレートケーキを1つ」

 はい――。奥では他の店員さんだろうか、佳穂と呼ばれた短めの茶髪を小さくポニーテールにしてまとめた二〇代くらいの女性店員が冷蔵庫からホールケーキを取り出し、包丁を手に持っていた。

 ――ゴリゴリゴリ。

 目前からはコーヒの豆を挽く心地の良い音が聞こえてくる。幹江の作るケーキに合わせて父――とおるもよく挽いた豆でコーヒーを入れてくれた。

 今では挽かずに粉のコーヒーを使うが、コーヒー豆を挽いている音を聞くと、懐かしい記憶がよみがえるのであった。

 マスターの手元を見るのも隆は好きだった。コーヒー一杯を作る、この待ち時間がたまらなくいいのだ。

 沸騰したお湯に水を少し差し、冷ます。沸騰したお湯を使うのは緑茶や紅茶と昔、幹江から聞いたことがある。

 コーヒーを入れるときは沸騰したばかりのお湯より、九〇度くらいの方が良いらしい。

 こういうハンドドリップは好きだ。

 同じ豆でも、焙煎度合いやお湯の温度、淹れ方によってその香りや味わいが変わるからだ。

 ポットの先から細く出されたお湯がドリッパーに注がれる。中央から円を描くように徐々に範囲を広げて、粉全体にお湯を行き渡らせていた。

 しばらくするとドリッパーからコーヒーがポタポタと垂れてくる。するとマスターはお湯を注ぐ手を一旦止めた。

 ”蒸らす”作業なのだろう。何秒蒸らすかは日によって変わるが徹は二〇秒くらいやっていた気がする。

 三〇秒ほどすると、マスターは再び円を描くように細く注ぎ始めた。

 お湯を入れる速さとコーヒーが落ちる量が同じになるように丁寧に注いでいた。

 最後のコーヒーが落ちきる前にドリッパーとケトルを外す。

 急須で入れるお茶と違い、コーヒーは最後の一滴まで入れると雑味が入ってしまう。そのため、途中で外すのだ。

 コーヒーカップにケトルから注がれる。

「……良い匂い」

 コーヒーを入れるときのこの瞬間も好きだった。

 飲む前のこの香りも楽しい時間だ。

 一杯分が注がれ、隆の目の前に置かれる。

「お待たせいたしました。どうぞごゆっくりお寛ぎください」

 同時に佳穂がカットされたチョコレートケーキを乗せた皿を持ってきた。

 喫茶店によっては待っている間、お通しのような豆菓子を出すところもあるが、コーヒーが淹れ終わってからケーキも揃う、というのも悪くない。

 待っている間、満たされていくこの気持ちが一気に解放されるからだ。これはこれで癖になるのだ。

 コーヒーカップを手に取り、口に近づける。

 一口含むと、豊かな香りが広がる、雑味のないクリアな味わいを感じた。

「……うまい」

 苦みもあるが、それもまた良い。

 普段はミルクを入れたりするが、ブラックでも飲みやすいコーヒーだった。

 隆の満足そうに飲んでいる様子を、佳穂はカウンター越しから眺めていた。

 すると、カラン、カランと来客を知らせる鈴の音が鳴り、「濡れちゃったな――」と言いながら一名来店してきた。

 佳穂はすぐさま、お客を席へ案内していく。

 だが、隆はそんなことを気にせず、このコーヒータイムを楽しんでいた。

 

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