第22話 あなたは汚れなくていい
「何故だ!」
アキームはその動揺を隠さなかった。
少女が飛び込んだのを見た瞬間、思いがけない人を巻き込んでしまったことを悔やんだほどだった。
ところがどうだ、少女は無傷で、ナナリのタクトはむしろ傷が癒えているようにさえ見える。
胸に受けた傷がまたしても血を吐かせる。
自らの血の赤が忌々しさを増幅した。この傷の痛みを、ナナリのタクトはなかったことにしてしまったのではないか。それは不公平というものではないか!
壁に縋り、何とか立ち続けながら歯ぎしりをした。
そして小さな爆発をすぐそばで起こした。
お気に入りの美少女が自分の命を狙っていたからだ。彼女は小さな悲鳴を上げて吹き飛んだ。
次にはさっき吹き飛ばした大柄の少年が斬りかかってきたが、ここは敢えて拳で返して男としての格の違いを見せつけてやった。
「レヴァンニ!」
「くそったれ!」
それはこっちのセリフだと思った。だが、矜持にかけて品位にもとるセリフなど吐きはしない。
そして今注目すべきは彼らではない。突如現れた黒髪の少女だ。
「そこの女の子は……すぐにこの場を離れなさい。女性を傷つけることは私の性に合わん」
「いや!」
突然現れた黒髪の少女はナナリのタクトをかばう姿勢を見せた。
「そうか……残念だ」
アキームは敢えて誰にもわかるように魔法を使う態勢をとる。
「エミリ……逃げ……」
言いかけて卓人はやめた。
言ったところで果たしてエミリは逃げてくれるだろうか。言って聞く子ならこんな危険なところへきたりはしない。
この子は大切なお兄ちゃんを守るためなら命だってかけてしまうだろう。
他人だからこそ彼女の反応が容易に予測できた。
説得に無駄な時間をかけるのは敵に攻撃の機会を与えるだけだ。ここで善人ぶることに何の活路もない。だったら賭けに出たほうがましだ。
「エミリ……冷却の魔法だ……」
爆発の魔法の難を逃れたものの、卓人の肉体は深く傷ついて動かないに等しい。卓人は絞り出すように声を出し、小麦粉の入った紙球をその前に放った。
「あそこに……」
「うん」
アキームはその行動が罠ではないかと考えた。しかし、どちらにしても爆発の魔法で吹き飛ばしてしまえば関係ない。
「少女よ、今一度言う。きみを殺すつもりはない。すぐにその場を離れなさい」
エミリは答えなかった。
ただ一心に、兄を信じて冷却の魔法を使った。
「見事な決意だ」
アキームは爆発の魔法を放った。
レヴァンニもルイザも、もはやいかなる行動も及ばない。間に合うとすれば、起こるべき惨事に一瞬でもいいので目をそらすことだけだった。
「…………?」
しかし、何かがおかしかった。
――熱が蓄積しない?
二人の人間を粉微塵にするだけの熱量と圧縮率がどの程度のものかはわかっている。しかしこれでは、一人どころか石ころを弾き飛ばして終わりである。
『なぜだ?』
アキームはさらに熱を流入させる。だが注入した分、熱はどこかへ拡散されてしまう。
百戦錬磨のこの男にして、このような経験は初めてであった。
しかし、初めての経験をしたことは初めてではない。
戦場では想定外が必ず起こるが、それらをすべて乗り切ってきたからこそ現在があり、現在の地位があるのだ。そしてそれを乗り切らせてきたのが、彼の恃みとする爆発の魔法であった。
思うがままにならぬこの状況において、アキームはただただエネルギーを注ぎ込むことにのみ意識を奪われることとなった。
卓人は爆発の魔法の理論について、ある仮説を導いていた。
火の魔法は熱を集めて発火させるが、即座に拡散してしまう。これに風の魔法で必要なエーテルを組み合わせれば、集めた熱を閉じ込めて拡散を防ぐことができるのではないか。
巨大な炎の魔法はこの技術によってなされている。
このエーテルをさらに圧縮すると、エネルギー密度は極めて大きくなり、エーテルを解放した瞬間に凄まじい運動エネルギーと熱エネルギーを伴って周囲の空気を押しのけ、吹き飛ばす。
おそらく、これが爆発の魔法の正体である。この仮説に基づき、エミリに冷却の魔法でエーテル内に閉じ込めた熱を拡散させていけば爆発を封じることができるはずだ。
しかし、問題点はあった。
アキームがどこに座標を定めて爆発の魔法を放つのかがわからないということだ。
爆発のエネルギーが貯め込まれていく座標に冷却魔法をかけなければ意味がない。だから卓人は無意味な紙球を敢えて目につくように投げ出した。
エミリがわかりやすくするためだけではない。
爆発の魔法をここに照準として定めさせるためである。
この数分のやり取りで何度も紙球に意識を向けさせしめられたアキームは、この段階において無関係と思いつつもその潜在意識は確かにそこに誘導された。
そして、卓人の意図したとおり、小麦粉の入った紙球に照準を定めてしまっていたのだ。
アキームが爆発の魔法使いとして名を上げることができたのは、魔法の発動から殺傷可能な爆発までにわずかな時間しか要しない、すなわちエネルギー注入の速さにある。それと同等の速さでエネルギーを拡散させるエミリの冷却魔法もまた尋常でないことになる。
もし何かが間違っていたなら、確実に二人とも粉微塵に吹き飛ばされていた。
「ぐぬうううううう!」
ここで弱みは見せられなかった。アキームは意識を爆発の魔法に集中した。
しかし、熱を込めると同時に拡散される。
奇妙な循環はいつしか振動を生み出し、松明の炎は奇妙な揺らめきをし始めた。しかしその現象にさえ……いやさ、レヴァンニとルイザが示し合わせていたことにさえも気づかないほどにアキームは意識を奪われてしまっていた。
それが命取りとなった。
「ぐわあああああああ!」
アキームの隙をつき、レヴァンニが灼熱の炎を、ルイザが雷撃を繰り出した。
まともに食らったアキームはほとんど消し炭のようになって倒れた。
「ふぅ、今度はまともに魔法ができたぜ」
レヴァンニは安堵のため息をついた。
先ほど彼の炎の魔法が大きくならなかったのは、貯まった熱をアキームが奪って爆発の魔法にしたからである。
暗いからと松明を点けたのも爆発の魔法のエネルギーを得るためである。
爆発の魔法は周囲に大きな熱源がなければならない。
強敵を倒した後、ルイザは卓人に回復魔法をかけた。
相手はとても不愉快な奴だが、この中ではルイザが最も回復魔法がうまかったし、個人的な好き嫌いで大けがを負った味方を捨て置くような人物ではない。
レヴァンニと熟練兵で動けないエルゲニア兵を後ろ手にして捕縛していった。魔法の発動にはある一定の動作が必要とされ、こうすると魔法が使えなくなるからだ。
しかし、修練次第では使える者もいるらしい。この兵士たちがそのような訓練を受けていたとしたら、回復と同時に反撃してくる可能性もある。それでも現時点でできる最善の手段であるといえた。
その間に外で待機していたもう一人の連絡兵がニコライに現時点での暫定的な勝利を報告し、捕縛した敵兵の処遇について判断を仰いだ。
作業の間、誰も言葉を交わさなかった。彼らにとってあまりに衝撃が大きく、何を口にすればよいかわからなかったのだ。
自分たちの知るタクトはあんな哀れな戦い方などしない。魔法が使えないからというのはあるにしても、あの爆発物を用いた戦い方など誰も知らない。
以前ベラが「人が変わったみたい」と評したが、それ以外の合理的な結論が見いだせないほどに別人だった。
妹のエミリにしても常軌を逸していた。
タクトの指示を受けていたようだが、爆発の魔法を打ち消してしまっていた。一体どうやって? いや、それよりも爆発からタクトを救い出したのはなんだったのか。
明らかに遅れて爆発の中に飛び込んだのに、タクトは無事だったし、何よりエミリは無傷であった。
理解不能の連続で思考が混乱し、自分でもわからない感情が湧いてくる。
当の卓人はくたびれて眠っているようだった。エミリはその兄を心配そうに見つめながら必死にルイザのまねごとをしていた。
彼女にはまだ回復魔法を使うだけの技量はないが、今できることといえばほんのわずかでもいいので、こうすることでボロボロの兄が遠くへ行ってしまわないことを祈ることだった。
エルゲニア兵すべてを捕らえ、残るは炭となった爆発の魔法使いの始末だった。
ぴくりとも動かないのでおそらくは死んでいるのだろうが、もしもということもある。ひとまずは縄で縛り、その後完全な死を確認してから埋葬してやらなければならない。
連絡兵が警戒を怠らず剣を構えてアキームに近づく。
しかし、その警戒は無意味に終わった。
突然空気が爆ぜ、連絡兵は坑道の天井へ叩きつけられ、意識を失った状態で地面へ落ちた。
その間、アキームは一切動かなかったのに。
レヴァンニたちが次の動作をしようと思ったときには、次の爆発が襲ってきた。広範囲で爆発したため威力そのものは苛烈ではなかったが、それでも捕縛作業をしていた三人は簡単に吹き飛ばされた。
アキームの目がぎょろりと見開かれ、卓人の方を睨む。
「これは……とんでもないものを見つけてしまった。本当の脅威は……少なくとも、今の段階での脅威は……ナナリのタクトではない。あの……少女だ!」
それはアキームの矜持だろうか。その必要はないだろうに、敢えて立ち上がった。
動いたことによって全身をかばっていた炭化した皮膚が剥がれ落ち、赤い真皮がむき出しになる。もはや立つことさえもままならぬその佇まいに、見た者はそれぞれ戦慄を覚えずにはいられなかった。
「この作戦は失敗だ。だが、せめて……脅威は、取り除いて……」
アキームは少女を見た。
聞こえていたのかいなかったのか、エミリはその言葉が自分に向けられたものだとは考えなかった。ただ、兄を守ろうとかばう姿勢を見せつけた。
しかし、兄はその肩をそっと押して立ち上がった。
そして、連絡兵が落とした剣を拾い、妹を脅かさんとする男のほうへ肉体を引きずるように歩き始めた。
「エミリに……エミリを傷つけることは絶対に許さない……」
アキームは卓人の姿を見て、待っていたかのように微笑んだ。
「くくくく……その剣で私を刺し殺すかね……きみにそれができるのかね?」
「戦いに身を置いた以上、その覚悟はしなくちゃならないんだ……」
その返答はどこかうつろで、一つ覚えの念仏のようでもあった。
卓人の肩が爆発で弾ける。次に脇腹あたりから火を吹いた。だがいずれも小さな爆発で、卓人をよろめかせる程度に過ぎなかった。次の爆発はねずみ花火の最後にも劣るほどのものだった。
「ぐは……ははは……見る影もないな……」
自嘲しつつアキームはゆっくりと崩れ落ち、ひざまずいた。もはや限界だった。百戦錬磨のこの男は、あらゆる生命が迎えうる流砂についに自らも足を踏み入れてしまったことを悟っていた。もはや這い上がることなど叶うまい。
だからこそ、死ぬ前に見たいと思った。
この謎の少年と、その妹という少女のもつ何かを……
この子達は何かが違う。
もはや立つのが精一杯といった少年が自分の前に立ち、手にもった剣を振りかざす。自分を殺すことで一皮むけるならそれはそれでよいことではないか。そこには奇妙な親心のようなものさえあった。
だが、剣はいつまでも振り下ろされることはなかった。
見上げると、少年は構えたまま涙を流していた。
憎しみなどない―――。
ただ、生かしておけば危険だから殺さなくてはならない。論理的に導かれる危険性を排除しなければ、周りの者を守ることができない。だけど論理は、いつの間にそのような権力をもつに至ったのだろうか?
自分はこの男を殺したいほど憎いと思えなかった。
ただの敵だ。
だけど、命を脅かすような敵は……敵は――――
剣を振り上げた卓人に、押しとどめようもないほどの思考が怒涛のように駆け巡った。それは人を殺すのはいやだという、個人的なわがままではない。いや、おそらくそれも含まれているに違いないが、割り切れぬ何かがあふれ出して止まらない。
そしてそれは、涙となって実体化していた。
「……そうか、残念……だったな……」
目の前の黒焦げにうずくまった男は、最期の力を振り絞って腕を振り上げた。
爆発の魔法?
ニヤリと笑った。
しかし、それが繰り出される前に、剣はアキームの心臓を貫いていた。
「ぐぁ……」
男は倒れ、二度と動くことはなかった。その表情は満足しているようにも、悔恨しているようにも見えた。戦場でいくつも見た死者のそれと同じようでもあった。
貫いたのはルイザだった。
自らの戦いを否定されたような、重圧から解放されたような気分でもあった。卓人は振りかざした剣を何もないどこかへ下ろすしかなかった。
そして、卓人は目の前で人を殺してみせた哀しげな少女の姿を、信じられないほど美しいと思った。
「あなたは……汚れる必要はない……」
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