第21話 エーテル
谷底から吹き上げる風に軽いエミリの身体は何度も舞い上げられそうになった。
何度も涙を拭って、目の周りは腫れ上がっていた。
険しい道が怖いからではない。
『このままでは、お兄ちゃんが私の前からいなくなってしまう』
何かがそう強く訴えかけてくる。
ついこの前まで、兄は一年間もいなかった。
戦争に参加したという報告を聞いてもきっと大丈夫だと安心できていた。
なのに、今回はとてもいやな予感しかしない。
兄は今、攻め込んできた敵と戦っているのかもしれないし、違うかもしれない。
自分が行ったところで何になるのだろう。
むしろ足手まといになるかもしれない。
兄の同僚らしき美人の兵士には留まるように言われた。
きっとそれが正しい。
なのに、行かずにはおれなかった。
――兄が向かった鉱山へ。
エミリは泣きながらも、その歩は決して挫けることはなかった。
卓人は、この世界にきていつの頃からだろうか、自分自身に問いかけたことがある。
――自分はどうありたいのだろうか。
何のために自分がここにいるのかと思うたびに、元の世界に戻れないことを思い知るたびに、自分の居場所のなさを感じるたびに、卓人は問いかけていた。
『エミリの兄として、ちゃんと振る舞えるようになりたい』
――それは外部的要求によるあるべき姿だろう。内発的な、自分の中から湧いてくるような自身のあるべき姿は何だ。
何度かそう問いかけるうちに、一つの言葉で表せるようになっていた。
『僕は、科学者でありたい』
科学者になりたいのではなく、そうでありたい。必ずしも職業ではなく社会的立場など関係なしに自然界を支配する法則を解き明かしたい。
――では、科学者とはどうあるべきなのだろうか。
『原理原則に従って思考し、事実として起こった現象は原理原則に従っていなくとも認め、自分の都合で恣意的に事実を歪曲しない』
――今まさに起こっている事象は、戦争という事象はどうだ。
『すでに起こってしまっている事象に正しいも間違っているもない』
――導かれる未来は?
『そんなのは自明だ!』
目の前の事実から目を背けてはいけない!
卓人は素焼きの筒を手にしていた。
毛布で何重にもぐるぐる巻きにされたその中には、黒色火薬とともに口径とほぼ同じ大きさの石が詰められている。点火すれば中に詰め込まれた石はその爆圧で押し出され、その先にある物体を破壊する。
ただ、鋳鉄製の大砲のように砲身は頑丈ではないから、それを補うためにあらかじめ布を巻きつけておいた。こんなもの使い道があるのか疑問だったが、使うならば今しかない。
卓人は筒先をアキームに向けた。さらに両腕と全身でがっしりと筒全体を覆った。
「それも例の爆発するものだね。そんなに大事に抱えてしまって大丈夫かね」
アキームは卓人が手にするものならば、すべて火薬にまつわる何かと判断して爆発させようとするだろう。
そしてそれによって自身に何が起こるかもすべて知っていた。
言葉の後にアキームがとった行動は卓人の予定通りだった。
的確な座標に放たれた火の魔法は、卓人がもつ筒の中の黒色火薬を爆発させた。
石は爆圧を直線的な受けて筒の口へ向けて放たれた。
卓人が強く抱え込んだことによって筒の壁面へ向かった爆圧はより抵抗の少ない筒の口のほうへ反射し、さらに石を加速させた。
直径二〇センチ、質量二キロほどの石は人間が認識できる速度をはるかに上回り、次の瞬間にはアキームの胸を抉り、余剰のエネルギーが後ろの壁に身体ごと衝突させた。
「ぐはあああ!」
形状が鋭利であればアキームの肉体を貫いていたかもしれない。しかし、滑らかな球形に近い石は広範囲に衝撃を与え、胸骨や肋骨に短時間では回復しようのないダメージを与えていた。喀血は明らかな肺出血を表していた。
しかしアキームは倒れなかった。
「お、お、お、ぉ……明確な殺意、これは驚いた。だが、戦場とはそういうものだろう……ふ、ふふふ、ようやく人を殺す覚悟ができたかね……」
倒れはしないが、壁に縋ってなんとか立っているといった状態だ。
「……だがその有様は、傷つけ殺すことへのきみなりの贖罪かね?」
ルイザは卓人を見て口を覆わずにいられなかった。
素焼きの筒にしても人間の肉体にしても、一定量以上の黒色火薬の爆発に耐えられるような強度は持ち合わせていない。
爆発のエネルギーのうち、三〇パーセントが石を飛ばしたとして、残りの七〇パーセントは筒とそれを覆う卓人にかかる。
筒が破壊されることによってそのエネルギーはかなり消費されるが、なおあり余った分は容赦なく卓人の肉体を破壊しにかかる。卓人の服は破れて皮膚を焼き、砕けた筒の破片が何十ヶ所と肉を抉っている。
「あぐ……あううう……」
脳で処理しきれない激痛が卓人の全身を襲う。
だが、それでも全身で受け止めたからこそなのだろうか、エネルギーは分散され肉体を四散させるにまでは至らなかった。それでも、無残としか表現のしようのない有様だ。
「きみは私の知るナナリのタクトではないが、面白かったぞ……これを餞として、きみは消し炭となるがいい……」
「くっそおおお! タクト!」
レヴァンニも何とか動こうとするがダメージが大きい。
ほとんど自爆のような攻撃の愚かさを今更ながら悔いつつも、卓人は思った。
『贖罪……そうかもしれないな……』
その目には何か叫んでいるルイザが見えた。
『僕は、エミリから大切なお兄さんを奪ってしまった……』
次の瞬間、赤い光が迫ってきたかと思うと、すぐに白い光がすべてを包んだ。
「ごめんな、エミリ……」
バルツ軍による第四次ドマニス侵攻に際し、エルゲニア軍も交えた大攻勢をかけるべきだと提言したのはアキーム・バーベリオであった。
勝つことが目的でない戦いではあるが、一度はドマニスの心胆を寒からしめる一手を打つ必要があると考えたからだ。
だが、それ以上に自分が戦場で暴れまわれる機会を欲していた。
三〇代で将官になったのはよいが、結果として最前線から遠ざかることになった。戦場で見つけた気の強そうな美女を連れて帰るという何よりの楽しみが奪われて久しかった。
これまでに八人の女を連れ帰った。
自宅では決して女に無理強いはしない。逃げるなら逃げればいい。しかし、敵地での生活の不安からだろうか、親切に面倒を見続けることでいずれ女は心を開いていくのだった。
四〇を過ぎても正式な妻を娶ることなく、すべての女を平等に扱っている。そろそろ九人目の攻略もしてみたいと思っていたところだった。
他人の言う『愛情』という概念が理解できない。
欲望と衝動に振り回されるほど愚かでもない。
ただ、生まれたからには満足のいく人生を送りたい。人生が哀しいのなら死んだほうがましだと思っている。
第四次侵攻に参加したのにはもう一つの目的があった。
ナナリのタクトと呼ばれる少年兵を殺すことだった。初めは耳を疑ったが、兵学校の予科生であるにもかかわらず、こちらの理解を超えるほどの魔法の使い手だという。
これは実に興味深かった。
しかし、戦場に赴いてみれば、青い顔をして逃げまどっているではないか。興が覚めて爆発で吹き飛ばして、その死にざまさえ確認しなかった。
勝ってはいけない戦争ほど面白くないものはなく、その後は数多の命散る戦場を尻目にさっさと帰った。
つまらない人生などたまったものではないが、生きていれば憂さも募る。爆発の魔法はそれらが吹き飛ぶようで、これを使うときは爽快だった。
帰ってからは下士官が止めようとも気にせず、憂さ晴らしに爆発の魔法でトンネル掘りを続けた。
遅れに遅れていた掘削工事を自分ひとりで貫通させた。
後は、いい女がいればさらっていき、面白い敵がいれば粉々に吹き飛ばしてやれれば満足だ。
そして、坑道とつながってみれば面白いものに出くわした。
ナナリのタクトとよく似たこの少年は、魔法しか知らない我々にない知識で戦っている。戦うことそのものに逡巡し、人を傷つけ殺すことに躊躇している。隠された残酷さを解き放ってやれば、素晴らしい戦士になるに違いない。
――だが殺してやらねばなるまい。
彼はあまりに、哀しすぎる。
無を表す色は黒かもしれない。しかし、無へと導く色は白かもしれない。
圧倒的に迫りくる白に飲み込まれながら、卓人はこの世界にきた直後のことを思い出していた。
卓人の身体は緩やかに回転しつつ空高く舞い上がり、壮大な山脈がひとつの視界に納まった。次には炎に包まれた戦場が、そしてこのまま星に手が届くのではないかと思えるほどの空が。
青く美しい空だった。
身体はそのうち重力に逆らえなくなり地面へ向かっていった。そして、徐々に速度を落としながら、そしてほぼ衝撃もなく着地した。
それでも卓人は意識を失いかけていた。
そのとき誰かが自分のそばに立っていた。
「悪いな、エミリをしばらく任せる」
あれは……誰だ…………?
アキームの放った爆発の魔法の威力は、まず卓人の肉体を後ろの壁に張りつけた。
その衝撃は骨を砕かんばかりだったが、反作用とそれを上回る爆発の衝撃が揺さぶってきてさらなる苦痛を与えた。
熱線は皮膚を焼きながら削いでいき、その水分を蒸発させていった。蒸発によって奪える熱など微々たるもので、熱はタンパク質を変成させ、細胞膜の疎水相互作用を解離させ、DNAの二重らせんを分解した。
さらなる熱は肉体を構成するあらゆる化学結合を破壊し、原子にまで還元させた。物質的な自分が失われてゆくとともに、自分を構成していた何かが霧散してゆくようだった。
『これが、エーテルなのだろうか……?』
ベラが感じさせてくれようとしたエーテル。
だけどよくわからなかったエーテル。
それがそれであるように作用するエーテルが失われれば、自分は自分であることを永遠に失う。複雑に物質が絡まりあった生体は、可逆的に同じ状態を取り戻すことはできない。
白い光が黒い闇へと導こうとしていた。
卓人はもはや、現象の変化するままをその肉体と魂に受け入れるしかなかった。
「お兄ちゃん!」
不可逆な系を可逆な系に入れ替えることは可能的だろうか?
時間軸を逆転させても同じ系を保つことができるという系である。
観測的にそう見做せる現象はいくつもある。
だが、木炭を二酸化炭素と水と灰からもとの木に戻すことはできるだろうか。
床にこぼした水をもとの器にきれいに戻すことはできるだろうか。
時間が不可逆的である以上、決して可能になることはあり得ない。
翻って人類は、自然の摂理にいつも面従腹背であった。
敬いつつ、感謝しながら、環境を、生態系を、自然を破壊し続けていた。生の摂理を、死の摂理を覆すことに躍起になっていた。そして鏡に映った自らの醜い有様に気づいたときに悔み、己を恥じた。
しかし、それでもまた人類は自然に対し、ある部分では逆らい続けるのだろう。
悲痛なまでの叫びは、摂理の破壊を祈るものだった。
ルイザは確かに見た。
凄まじい爆発がタクトを呑み込んでいったのを。そして、わずかに遅れてその中へ女の子が飛び込んでいったのを。
あの子は……タクトの妹の――。
確実に二人は死んだと思った。もう仲間を誰も死なせないと誓ったはずなのに、結果としてまた見殺しにしたと思った。
だが、そうではなかった。
爆発の光に目がくらんだ次の瞬間、タクトはその妹とともに爆炎から飛び出し、何度も地面を撥ねながら転がった。そしてすぐに身体を起こした。
何が起こったのか理解できなかった。
「いてててて……」
卓人は死んだと思った自らの発した声を認識できた。
そして、自分の上にかかる重みを感じることができた。
自らの目で、それが何であるかもはっきりと認識できた。
「エミリ……?」
「…………おにぃちゃん……」
ぼろぼろと両の眼から涙を流しながら微笑む妹が目の前にいた。
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