第20話 遭遇
卓人は狭い坑道の中で黙々と作業を続け、三〇分ばかりが過ぎていた。
木炭と硫黄と硝酸カリウムでつくった黒色火薬と小麦粉をそれぞれいくつかの薄い紙に包んで、ピンポン玉くらいの紙球にして準備した。
もう一つ、飯場で見つけた一メートル弱の素焼きの筒。これは、飯場にあった毛布でぐるぐる巻きにした。
そうしていると、坑道の奥から慌てたような声が聞こえてきた。
「おい、なにをにたにた笑ってるんだ?」
「いや、そんなつもりはないが、なんか……顔がしびれてきて……」
「しびれる?」
「異様に眠い……なんだろう……」
「高山病か? しかしなんで今頃になって」
「もういい、体調に異変のある奴らは置いていくぞ。貴様らは体調が回復するまでここで休んでろ」
半年間閉ざされていたはずの鉱山の奥から人がやってきている。別の場所からトンネルを掘ってこの坑道に通じなければそんなことはあり得ない。
そんなことをするのはもちろん、今まさにドマニスを侵略しようとしている敵兵である。
だが、彼らは思いがけない事態に遭遇したようだ。突然眠気を感じた仲間たちに慌てている。
卓人が塩と混ぜて熱したのは、ブタの糞尿のしみ込んだ泥から硝酸カリウムをつくったときに残った溶液を乾燥させたものだった。
その中に含まれる硝酸アンモニウムは塩化物イオンの存在下で熱分解により亜酸化窒素を生じる。これは笑気ガスとも呼ばれるほぼ無色無臭の気体で、麻酔作用がありその効き目も速い。
トンネルが完全に通じたことで生じたゆっくりと坑道の奥に向かう気流に乗り、奥からやってきた敵兵はここにくるまでに延々と吸入し続けたことになる。
亜酸化窒素は効くのも速いが切れるのも速い。それでも敵が眠って半日ほど時間が稼げれば、その間に軍は何らかの手を打ち状況は変化すると期待した。
卓人はこっそりと分岐点をのぞいた。残念ながら、すべての敵が眠ってくれたようではないようだ。何人かはこちらへ向かっている。
「やれやれ、気流に乗って燃やしたようなにおいがしていたにもかかわらず、何も警戒せずにいたとは。敵が迎え討ちにきているかもしれん」
もうすぐそこまできている。
卓人は呼吸を整えるのに五秒ほどかけ、敵がいるほうへ歩いた。
「待っていました」
そう言って、敢えて堂々と敵兵の前に姿を現した。
目の前に現れた敵兵は全部で六名。彼らはドマニスのものではない孔雀青の軍服を着ていた。
先遣隊なのであろう。軽装備でその他の荷物もほとんどもっていなかった。
「なるほど、私の部下たちを眠らせたのはきみの仕業か?」
「いったい、どんな魔法を?」
「さあ、どうなんでしょうね」
卓人はとぼけてみせた。
「ソフィアはしくじったのか?」
卓人が助けたあの女のことだろう。敵兵は明らかに動揺していた。
「いいじゃないか、拠点はできているのは確かなのだ。ドマニスの準備ができてしまう前にこちらが準備をしてしまえばいい。予定を少しだけ早めればいい」
四〇代くらいのスキンヘッドの男の言葉であっさりと平静を取り戻してしまった。豪奢な袈裟のようなマントや落ち着いた態度からして、この部隊のリーダーのようだ。わずかな灯りしかない暗がりでもわかるぎょろりとした目つきが皓々と光っている。
「なんだね、坊や。きみ独りかね」
「……そうですね」
何かブラフを仕掛けようと思ったが、その貫録を前に通じる気がしなかった。
「われわれの作戦を見破ったことは誉めてやるぞ。バルツ兵の無益な時間稼ぎがこういうふうにつながっていたとは、そうそうは思わないだろうからな」
「あなた方の仲間がやったことが教えてくれました」
「孤立した集落だと聞いていたが」
「ええ、僕が偶然通りかからなかったら、わからなかったでしょう」
「だが、きみはたった独りだ。仲間は誰も信じてくれなかったのかね?」
「いいえ、軍はすでに動いていますよ。僕は偶然ここにきただけです」
「そうかね。では、何をしにきた?」
「時間稼ぎに」
卓人はよどみなく答えた。ビビッている場合ではないのだ。
「さすがに我々を殲滅しにきたとは言わんか。しかし、武器ももたずにどうやって」
「武器ならあります」
「なるほど、魔法には自信があるようだ。しかし、この数を相手に大丈夫かね?」
「……いいえ、魔法は使えません」
「ははははは! いい度胸だ。だが、それではバルツ軍ほどにも役に立たんぞ」
確かにその通りだ。
「それはどうですかね?」
それでも敢えて卓人は、挑発気味の返事をした。
「こいつ!」
敵兵の一人が火の魔法を構えた。
卓人はこの展開を待っていた。
その兵に向かって紙球を投げつけた。指先に灯った炎が紙球に引火すると小さな爆発を生じ、敵兵は勢いですっころんだ。量的に命を奪うほどの威力はない。だが、心理的にはかなりの効果があったようだ。
「何だったんだ、今のは?」
明らかに動揺している。ほとんど無手にもかかわらず自信ありげに振る舞ったことも、敵の想像力を掻き立て混乱させた。
卓人が次々に火薬や小麦粉の入った紙球を投げつけると敵兵は慌ててよけたりはじいたりした。いずれも爆発などしなかったが、敵兵は精神を削られる攻撃を嫌った。
「調子乗ってるんじゃねえぞ!」
別の敵兵がまた火の魔法を放とうとした。卓人は確認するやきた道へ逃げ込んだ。
次の瞬間、今度は空気に引火し爆発を引き起こした。
原因は空気中に舞った小麦粉の粉塵爆発である。さらに残っていた亜酸化窒素も助燃性の化合物である。空気中に分散した小麦粉のことごとくは完全燃焼し、一瞬にしてその空間を炎の海にした。
さらに散らばった黒色火薬に引火爆発すると、熱を伴って体積は急速に膨張した。
筒状構造の坑道は圧力がそのまま通路のある方向にだけかかるため、逃げた卓人もその威力を受けて吹き飛ばされて転がった。
直後、陰圧になった坑道は多量の空気を吸い込んで、坑道内は嵐のようになった。
それが穏やかになって分岐点に戻ると、敵兵がもっていた松明は全て消え、卓人がもって入った風防付きのランプだけが転がりながらもなんとか燃えていた。
何とか人影が認識できる程度の明るさしかなかったが、目に見える敵兵はすべて倒れていた。
爆圧あるいは爆発による瞬間的な酸素不足によって意識を失ったのだろう。
――殺してしまったのだろうか……?
意図して傷つけた時点でそれを受け入れる覚悟もしてきたが、大きなダメージを受けてはいるものの誰一人として死んではいなかった。卓人は率直にほっとした。
レヴァンニとルイザと熟練の兵士たち四名は、スズ鉱山の坑道に差し掛かっていた。普段から鍛えていても、防寒コートの動きにくさと空気の薄さで悪路を進むのに尋常でない疲労に見舞われた。
「お、飯場が見えたぜ。坑道入る前にちょっとたき火でもして行こうぜ」
「あんたバカじゃないの? 閉じてるはずの坑道の入り口が開いてるってことはどういうことか考えなさいよ!」
「誰が開けたんだ?」
タクトが鉱山に向かったと聞いても、レヴァンニは意外にも悠長な発言を繰り返すばかりで、とても友達を心配しているようには見えなかった。ルイザはなんて思いやりのない男だと本気で軽蔑するようになっていた。
しかし、坑道の中の様子を窺おうと覗き込んだとき、突然突風が吹き出してきた。
そしてその後に吹き戻しの逆風が入り込んだ。
「この風は、爆風?」
「爆発で穴広げてるのかな」
ルイザは本当にこの男を見損なうところだったが、次の瞬間表情が変わった。
「……まさか、ビンゴかよ!」
レヴァンニはタクトを知るからこそ、独りで無謀な勝負に出るようなことは絶対にないと決め込んでいた。魔法が使えないのならなおさらだ。
だが、今タクトが戦っていると考えたとき、躊躇うことなく坑道に駆け込んだ。
「ちょっと! 待ちなさいよ」
ルイザと連絡役の兵士一人も後を追った。もう一人は何かあったときのためにその場に残る。
ルイザは走りながら、戦いに備えてポニーテールにくくっていた長い髪をぐるぐると巻きつけ、ヘアピンで一つにまとめていた。
レヴァンニ達がほのかな明かりを目指して走った先にいたのは間違いなくタクトだった。
その向こうには敵兵と思われる者たちが十人近く倒れている。
「タクト!」
「あ、レヴァンニ……それにルイザか……」
仲間を迎えるタクトは擦り傷こそ追っているものの元気に立っているようだ。だが精神的な疲弊はありありと現れていた。
「傷だらけじゃない。大丈夫?」
「さっきの爆風で吹っ飛ばされてね」
「お前がやったのか? 爆発の魔法でも使ったのか」
「まさか……」
息を切らせながらもなんとか答える。レヴァンニもルイザもこんなタクトは見たことがなかった。彼らの知るタクトはいつも遊び半分に物事をこなし、それでも他人を圧倒する結果を残すほどの能力を持ち合わせた男だった。
「タクトだと……? ナナリのタクトか!」
坑道の影に身を隠していたリーダー格のスキンヘッドが姿を表した。
「あれは……爆発の魔法使い、アキーム・バーベリオ……」
同行した熟練兵は男を知っていた。そしてその名を口にすることに恐怖を感じていた。
「私を知っているのかね、光栄なことだ。だが私もナナリのタクトは知っているぞ。ずっと前の侵攻できみを殺したとばかり思っていたが……生きていたか。あれだけ派手に吹き飛んで死ななんだとは、どういうことかはわからんが」
男はにんまりと笑った。
卓人は思い出した。
この世界にやってきたばかりの戦場で、いきなり謎の爆発が起こって空高く舞い上がったことを。あの爆発はこの男が引き起こしたものだったようだ。
しかし、戦場が一望できるほどの高さから落ちて、どうやって自分は生きていられたのだろうか?
「ナナリのタクトはエルゲニアにとって危険と判断されている。仕損じていたことがわかってよかった。今度こそきちんと死んだことを確認しておこう」
アキームのゆっくりと厚みのある口調は、外したことのない預言者のようだった。
そのほかのエルゲニア兵は動けないでいる。実質的に四対一だ。
にもかかわらず、アキームの余裕は戦慄に値するものだった。レヴァンニたちは剣を抜き、間合いをとって広がった。卓人も黒色火薬の入った紙球を手にした。
「それが爆発するんだろう」
紙球が突然爆発した。
「うが?」
衝撃は手の骨をきしませ、やけどのうずくような痛みは治まることなく続いた。卓人は右手を抑えてうめいた。
「これは魔法ではないな。火で爆発するものがあるのか、面白い」
卓人は思い違いをしていたことを悟った。
火の魔法を使うとき、ほとんどの者が指先に熱を集める仕草をするのでそういうものだと思いこんでいたが、任意の場所に着火できるようだ。
いや、今思い返してみれば、戦場ではそのような使い方をしている兵士はいくらでもいたではないか。
火薬に直接着火されてはこちらが危ない。卓人はもっていた紙球を入れた袋を遠くに投げた。
「爆発の魔法はこうやるのだよ」
ルイザの足元でバンと小さな爆発が起こった。
「きゃ!」
「ほほう、かわいい声を上げるな。ではこれはどうだ」
アキームはルイザを中心に何度も小さな爆発を起こして遊んでみせた。
「ふざけんな、この野郎」
レヴァンニは巨大な炎の球をつくった。だが、ある程度になると炎はそれ以上大きくならなくなった。
「あれ、なんで?」
「遅い!」
レヴァンニの胸元でかなり大きな爆発が起こり、避けるまでもなく吹き飛び、後ろにいた熟練兵を巻き込んで壁に打ち付けられ、二人とも動けなくなった。
「こんな狭いところでなければ、粉々になるような爆発を喰らわせたかったのだがね」
ルイザはこの瞬間に雷撃を放っていた。
しかし、アキームに落雷することはなく、不自然に彼を避けて地面に落ちた。
「なんで……?」
「恐怖しているようだね。暗くてよくわからんから、つまらんな」
そう言ってアキームは転がっている松明に次々と魔法で火を灯した。
「……なんと、驚くほどの美人ではないか。よし、きみは生かしておくことにしよう。もしよければ、私と一緒にエルゲニアへ帰ってくれると嬉しいのだが」
ルイザはもはや返す言葉も思いつかず剣で斬りかかった。しかしアキームはルイザの速い剣戟を躱すどころか、手首をつかんで引き上げ、その身体を抱き止めた。
「ほう、細身でよく鍛えられている。私の好みだ」
「は、放しなさい!」
「おっと、女性に対しては紳士でなければならんな。失礼をした」
意外にもすぐにルイザを放したが、結果としてアキームの前には卓人とレヴァンニたちだけという配置となった。
「これで思い切り爆発させても、きみを傷つけなくてすむ」
アキームは魔法の態勢に入った。
それよりも速く卓人はスコップでアキームに襲いかかっていた。
しかしアキームは即座に爆発の魔法で吹き飛ばす。十分な大爆発のエネルギーを貯め込めていなかったおかげで卓人は吹き飛ばされても、すぐに立ち上がれる程度だった。
「……きみは、本当にナナリのタクトなのかね? かなりの魔法の使い手だと聞いていたのだが、今の攻撃などタイミング以外に誉めるべきものは何もない」
それはルイザも感じていたことだった。だが、それは言葉にして表してしまえば何かを失うような気がしていつも躊躇っていた。
卓人は何も答えなかった。
「その顔も覚えている。だが、先ほどきみは魔法が使えないと言っていたし……どうも辻褄が合わんが、どういうことかね」
ルイザはこの至近にありながら目の前の男を討てないでいる自分に歯がゆさを感じていた。もしかすると自分自身がこいつは自分たちの敵う相手ではないと無意識に屈服してしまっているのではないか。
そんなことは許されない。
しかし、身体は男の背後への攻撃を拒み続ける。
「ただのそっくりさんだとしたら、もっとも面白くないのだが」
「そ、そうよ、タクトはつまらない男よ。殺したって何の意味もないわ」
「いいや、私はきみを連れ去ると決めたのだ。殺さなければ彼が追ってきてしまう」
どこまで本気なのか推し量ることができないがゆえに、恐怖は増幅する。
「何より、どの攻撃にも人を傷つけることに迷いを抱えている。ナナリのタクトは戦場では当然のように敵兵を殺していたのだろう。人格として一致するところがない」
アキームは、卓人が地面に転がる火薬の入った袋を手にしようとした瞬間に、魔法で着火して爆発させた。
「ほら。これはもっとたくさんあればかなりの殺傷能力のある道具だったはずだ。なのにきみはこんなわずかな量しか準備してこなかった。本当に殺すつもりで用意したのかね?」
――だって、材料が足りなかったから……
いや、かき集めればおそらく十人程度吹き飛ばす爆薬なら準備できていた。
大きなかたまりにするとむしろこちらにリスクがあるから?
いや、今このように戦わずとも、爆薬を山盛りにして、不審に思った敵が集まったところで点火すれば皆殺しにして終われていた。
もっとも容赦ない選択をすればもっとも簡潔に問題解決ができたはずだ。
なぜその選択をしなかった?
まさか、自分はここに及んでなお、覚悟ができていないのだろうか?
敵を殺すという覚悟が――。
そうしなければ、エミリたちを守ることができないというのに!
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