第17話 お祭りのその日
灰黒色の分厚い雲が山脈の頂を覆い隠しているのに、孤児院周辺は鮮やかな晴れの空だ。確かこういう場合は雨にならないはずだ。
的中率の高い天気予報をする魔法は今のところ誰も開発できていない。結局は天気マニアとでも言われるような、ずっと天気の記録をとり続けている老人の予測のほうがよく当たる。その老人によれば、今度の祭りの日までは好天に恵まれるとのことだった。
「はぁ? タクトがいなくなった?」
ナタリアは魔法の電話とでもいおうか、水晶を用いた遠隔通信によって軍と連絡を取っていた。
先日、戦争に参加したタクトが無事であったという連絡を受けてほっとしていたのも束の間、今日はろくでもない連絡が届いた。
「こっちにはきてないよ」
今度の祭りにエミリが舞を奉納するお役目に当たっているから、タクトを一度孤児院へ帰させてほしいと兵学校に掛け合おうと思っていたまさにそのときだった。
祭りの準備で忙しいこの時期にイラつかせられる。孤児院の子供たちもほったらかしだというのに、余計な心配ばかりさせられる。
『……おそらく、戦場の狂気に当てられたんだろうね』
ナタリアだけが卓人が異世界からやってきたことを知っている。
行く当てもなくさまようこともできないだろう。いずれ兵学校かこっちに戻ってくるだろうと、それ以上心惑わされるのをやめた。こっちはこっちで忙しいのだ。
神々を降ろすのにふさわしい霊木ともいえる大きな木を伐採し、八〇人がかりで運んで中央広場に立てた。この木の塔を中心にして、縄を集落全体に張り巡らせて華やかに飾りつける。
すでに準備の段階であちこちに酒と料理が置かれており、休憩といっては飲んだり食ったりして、大方の大人たちはすでにできあがっていた。
子供たちも、無遠慮にうまそうなものを見つけては「頂戴、頂戴」とせがみ、大人たちは喜んで食べさせた。
皆が頑張って準備を進めているようでちっとも進んでいない。
まあ、これも例年のことで、祭りの前日にはなんだかんだと準備を終えてしまうので心配はしていない。
そこへ山登りの恰好をした女性が姿を見せた。
「見かけない顔だね」
「植物学について研究している者です」
「へぇ、学者さんかい? そんな偉い方がなんでこんな辺鄙なところに」
「偉いだなんて、そんな。この辺りは多くの植物の起源となる種があるということで調べにきたんですよ。自然が豊かで風景もきれい。いいところですね」
「おほほほほ。そうかい、そうかい。まぁ、姉ちゃんもちょっと飲んでいかんかね?」
「お祭りですか?」
「ああ、だから遠慮なんていらん、いらん」
「では、少しだけいただいてもよろしいでしょうか」
髪を短く切りそろえた女性はナタリアと歳は近いはずだが、服装といい話し方といい溌剌としていて若い印象を与えた。
その女性が椅子に掛ける仕草がなかなかに上品かつ色っぽい。迎えたおじさんたちは眼福にあずかり、それぞれ上機嫌な顔をしていた。
「お姉ちゃんは随分と流暢だけど、訛りがあるね。どこの出だい?」
「フラミアから……今はティフリスの王立大学に留学させてもらっています」
「ほー、王立に留学? 何やらすごいねぇ」
フラミアはドマニスの友好国である。山を下りれば戦争をしているということもあり、仲間が助けにきてくれたような気持ちになる。
「で、名前はなんて言うんだい」
「ソフィアです」
名前を聞いただけにもかかわらず、すでに昵懇の仲といった空気になって賑わいだした。その妻たちは遠くから不愉快そうな顔をしつつも、とくに咎めることもない。
若い頃はナタリアもソフィアと同じような目に遭わされていたが、最近は新鮮味がなくなったのかすっかりお声もかからなくなっていた。
「ナタリアさん、妬いちゃいけないよ」
声をかけてきたのは、塔の下の舞台を建設中の男たちだった。
「は? なんで私が妬かなきゃならないんだい」
「最近はこの集落でも、ちやほやしてくれる人がいなくて寂しいんだろ?」
「そういう口の利かれ方すると、うちのガキどものほうが可愛く思えてくるから仕方ないね」
「あははは、その返事がすでにおばさんなんだよ」
憎まれ口をたたくのは機織り職人ヨシフの弟だった。ヨシフ以外の男家族と同じく林業を生業とし、卓人と同い年で十七歳になる。
「ところで兄ちゃんのヨシフの仕事具合はどうだい?」
「ああ、ここ最近ずっと部屋にこもってるよ。随分な熱の入れようだ。ちょっとのぞかせてもらったけどさ、清純さの中に色気があるって感じ? 俺の嫁にも着せたかったなぁ」
「期待してもよさそうだね」
弟はもちろんさと、兄を自慢するように答えた。
あとは舞台さえ完成すればこっちの祭りの準備はおおむね終わりだ。主役のエミリの舞も思った通り仕込みは順調だった。
しかし、これまで何度となくしてきた祭りだというのに、今年に限っては妙に胸騒ぎがする。
それは卓人がどこかへ行ってしまって気がかりだからだろうか。虫の居所の悪さを覚え、ナタリアは少し苛立っていた。
その頃、卓人は世界を呪っていた。
望んだわけでもないのに、なぜ自分はこの世界にきたのか。
誰の意思でこんな目に遭わされなければならないのだろうか。
卓人は誰も知る人のない場所へ行こうと、兵学校から何ももたずに逃げ出した。まずは戦場とは逆の方向、東へ歩くと見てきた中でもっとも大きな街に出た。
おそらくこの地域の中心となる都市で、商業工業も盛んだが、何より官公庁を思わせる無機質な建物も多くみられた。
ここで暮らしていけばよいだろうかとも思ったが、こんな兵学校の近くではすぐに誰かに見つかってしまうだろう。
何より、この街が自分を迎えてくれている気がしなかった。早々に街を出ると、今度は南へ歩くことにした。
地図で南側には何もないことを知っていたからだ。
誰もこない何もないところへ行きたかった。ところが、歩けど歩けど本当に何もなかった。
雄大な自然が広がるばかりで民家どころか畑の一つも見つからない。喉が渇いても川すら流れてない。そのうち空腹で歩く気力も失せ、大の字になって空を眺めた。
「このまま野垂れ死んだら、元の世界に戻れたりするのかなぁ……」
いや、むしろそのまま死んでしまってもいいと思った。そのあとはなんだか思考が回らず、ふと気づいたときにはいつの間にか眠ってしまっていた。
無防備に眠っていたにもかかわらず、野盗や野犬に襲われもしなかったとは、本当にこの辺りは何もないらしい。
喉の渇きを覚えたが、動けなくなるほど干からびていたわけでもないようで、まずは水を飲むために元の道を戻ることにした。
ところがもともと地理勘もない上に、目印となるものもはるか遠くの山脈以外に見つからず、太陽の位置も随分と変わってしまっていて、自分がどこに向かっているかわからなくなってしまった。
さっきまでは意図してあてどもなく歩いていたはずなのに、今はむしろ不安ですらある。自分の心の弱さが嘆かわしくなる。
「随分と……無駄に生かされているなぁ」
ふと口を突いた言葉はなんとも的を射ているように思えた。
ひたすら山脈を目指して歩いていると夕方になってようやく川が見つかった。本流の流れは激しいが、穏やかな淵が見つかったのでそこで水を飲んだ。衛生面なども気にはなったが、澄んだ水はとてもおいしかった。近くに野イチゴのような実が生えていたので食べた。
この辺りは川沿いに人間の生活空間を築いている。この川を上っていけば孤児院にたどりつくのだろうか。
砂利を粘土質で固めた道路をしばらく歩くと既視感がある風景であることに気づく。正解を確信した。それは喜ばしいことであったが、同時にどうしようもなく惨めな思いに駆られることになった。
『戦争が終わったらすぐに戻るよ』
別れ際にエミリとタマラに放った言葉は、安心させたかったのか、格好をつけたかったのか、なんとも楽観的であった。
何とかなるとでも思っていたのだろうか?
そして今は戦場から逃げようとしている。
――だって、人なんか殺せるわけないじゃないか!
あの戦争はおかしい。
勝つ見込みもない戦争を向こうから仕掛けてきて、当然のように皆殺しに遭う。
いや、そもそも戦争という手段は頭がおかしいのだ。
人を殺すのは犯罪だ。
それよりも圧倒的に多くの人を殺す戦争は大犯罪だ。
――では、なぜそれでも戦争は行われるのか?
犯罪とは法によって定められ、法を定めるのは国家だから、その国家が承認して戦争を犯罪として認めないならば、戦争はしてもよいということになる。
国家のすべての判断は、それを構成する国民の代表者である国家元首によるのだから、国家元首がやろうと言えば法的に正当化される。
――本当にそうだろうか?
最終的な責任の所在という点では確かにそうだろう。
死ぬ覚悟をもって戦争に行く者はいるだろうが、死ぬために行く者などいない。
また、国家元首の一存だけですべてが決まるわけでもない。皆がそれを求めているから、戦争は起こるのだ。
要は、戦争を求める潜在的な素地があるから戦争が起こる。
この世界はどうだ。
王様がいるらしい。民主主義ではないのだ。
政治の不正を告発するマスメディアも大して発達していないようだ。
腹が減れば、その辺の生き物を殺して食べる。
己の幸福を追求し、奪いたければ奪い、殺したければ殺せる未開で野蛮な世界だ。
――本当にそうだろうか?
レヴァンニもルイザもベラも、人を殺す技術を鍛錬していたが、それは何かを守るためだ。
エミリは動物を狩り、それで子供たちを養っていた。
それは野蛮な行為なのだろうか?
元の世界でも戦争はあるし、犯罪もある。
一般人だって生きるために他の動物を食っている。ただ、直接殺していないだけだ。罪の意識を感じないならば、どっちが野蛮なのだろうか?
結局、卓人が求めていた結論は「戦争は間違っている」ということだった。
論理的にそれが証明されれば現在の自分は正当化される。
しかし思考は迷走を続けた挙句、自分が望む結論に落ち着くことはなかった。
「AがBを殺そうとしているとき、BはAを殺すことで殺されないようにする」
AとBが「殺す」という行動しかしない理想化されたマシンであるという条件であれば、これは必然的である。
戦争とは端的にはそういうことなのだ。
人間は単純なマシンではないからそうではない可能性も期待できるけれど、その期待が常に正しいという根拠など存在しない。
どこかで自分の都合のよいように思考停止しない限り戦争の全否定はできない。
恣意的に論理を構築しようとしても破綻するだけだった。
こんなに自分が惨めに思えたのは人生で初めてのことかもしれない。思考も歩行もぐるぐるとさまよい、ついには暗くなった空が再び白もうとしていた。
疲れ果てて道沿いの林でひと眠りした後、結局は孤児院へ向かおうとしていた。
「どんな顔して、帰ればいいんだろう……」
子供たちに無様な自分を見られたくないのに、足は勝手に山を登ってゆく。自分の中には別の自分がいる。それでも、自分が何人いようと揺らぐことのない確信がひとつだけあった。
――自分は、人を殺すことなんてできない。
昼過ぎ、いくつかの集落を横に見て、孤児院までに最後に通る集落の目印ともいえる大きな岩が見えてきた。見上げると、集落の前にはナタリアが立っていた。迎えにくるなんてこの人の性格からしてあり得ないだろう。
その様子はうろたえているようで、何かがおかしかった。
時間は少し戻る。
卓人が夜中歩き回って疲れ果てて野原で眠っていたころ、ヨシフは作業場で目覚めた。
外の賑わいなど気にすることもなく、ヨシフは舞子の衣装の仕立てに情熱を注いでいた。
布の繊維の目をしっかりと見て針を通す。少しでも布を傷つければ、そのほころびからほつれてしまうかもしれない。そんなものを神に捧げるわけにはいかない。
窓から差し込むあかりにほのかに照らされた渾身の作は、自画自賛と言われるかもしれないが、神が下りてくるんじゃないかと錯覚するほどに美しく仕上がった。
ここ数日、ほとんど眠らずにやりきった甲斐があるというものだ。
実際のところ、ここまでこだわる必要はなかったかもしれない。だが、エミリがこれを着て舞うことを考えると、可能な限り美しさを引き出せるものにしたくて、眠っている場合ではなかった。
まだ頭は寝ぼけた感があるが、自分の仕事に満足できるまでやれたことにヨシフは嬉しく思った。この経験は今後の仕事でもきっと生かされるだろう。
今日は祭りの本番だ。
「今夜、この衣装を着てエミリが踊るんだ……そしたら、その後……」
ヨシフは一生のうちのすべての勇気を振り絞って伝えることがあった。その顔は浮かれるというよりは、責任ある男として覚悟を決めていた。
「さすがに祭りの朝までは酒盛りはしないか」
今朝は随分と静かだ。
昼からは神輿を担いだり、腕相撲大会やら子供向けの出し物があったりと何かと忙しい。今日一日のことを考え、ヨシフはすがすがしい気持ちで外へ出た。
だらしなく多くの者が酔っぱらったまま外で寝ている。
「やれやれ、祭りとなると相変わらずだな。夜はまだ冷え込むし、凍え死んだらどうするんだ、ってね」
それは毎年の光景だと言えたかもしれない。
……ただ、何かが違った。
汚らしいいびきが聞こえなかった。
みっともなく腹をかいて寝る者もいなかった。
だらしない彼らを、起こす女や子供たちもいなかった。
異常なほど、静かだった。
そして、ヨシフは目を疑った。
皆が皆、吐瀉物をこぼし苦しみもがいたような顔で動かなくなっていた。
彼らは絶命していたのだ。
「ごめんなさいね。この毒はかなり時間が経ってから効くから、どうしても苦しみながら死ぬことになってしまうの。そうしないとすぐにばれちゃうから、一度で全員を殺すことができないでしょ」
見知らぬ髪の短い女が無表情に立っていた。その向こうでは、ヨシフの両親も兄弟も皆同じように死んでいた。何人かは首を掻き切られているようにも見える。
「今、夕べの料理を食べなかった人をすべて殺して回っているところ」
お人好しで平和主義者のヨシフがこの状況を理解できないのは無理からぬことだった。ナイフを持った女がゆっくりと歩み寄ってきても、逃げることも戦うことも考えられなかった。ただうろたえるだけだった。
「ごめんなさいね」
目の前に迫った女に何をするでもなく、そのまま喉を斬られた。
ヨシフは消えゆく意識の中で、家の扉の鍵をかけていた。
『これだけは……守らなければならない……!』
この集落の住民は、すべて死んだ。
鮮血の滴るナイフを拭うその女は、ソフィアだった。
この男が鍵をかけたのはとても奇妙な行動に思えた。
あと一人、白衣だけを着た変な女だけは殺せていない。彼女を匿ったということだろうか。
死体をどかして鍵を破壊する。
開けた中には、誰もいなかった。
ただ、一着のドレスのような衣装が掛けてあるだけだった。
この男が祭りのために一生懸命つくったものなのだろうか。
祭りに相応しい、神聖さを覚える純白の衣装だった。
ソフィアは窓からの朝日に映える衣装を、なぜかずっと眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます