第16話 戦いを終えて
擁壁と塹壕の効果は圧倒的といえるものだった。
常に数的優位を確保できるため、ドマニス軍は極めて少ない損害でバルツ軍を壊滅させることができた。
敵兵の遺骸は赤黒く染まって無残に転がり、開戦三〇分後にはもはやその姿はほとんど認めることができなくなっていた。
開戦当初こそ奇策などにより混乱させられたが、数の原理とドマニス軍の精強さの前には戦局を大きく変化させる要素とはならなかった。
戦乱の騒動で気づかなかったが、いつの間にか沖に残っていた船も上陸していたようだが、そのいずれもが静まり返っている。
多くの部隊は足を止め、そして末端の部隊が残党を狩っていた。
バルツ兵は最後まであがき続け、誰一人して降伏することはない。
文字通り、皆殺しだった。
「なんとか、生き残ることができた……」
良心の呵責について論じるべき点はある。それでも、まずはもっとも果たすべきこと、死なずにことを終えるということを成すことができて卓人はほっとしていた。
「おい、ニコライ」
そこへやってきたのは、不満を隠さない一人の兵士だった。
「なんでこんな予科生を連れてきた? 期待外れどころじゃねぇ。まともに働きさえしねぇじゃねぇか」
その男は指差しこそしなかったが、誰のことを言っているのかは明確だった。
「おいおい、こいつは初めての戦場なんだろ? 生き残っただけでも大したもんだ」
「予科生に頼らなくなったとありゃ、俺たちは飯の食い上げだろ? いいじゃねえか」
多くは若輩の予科生を擁護した。それでも男の怒りは収まらないようだった。
「こいつは、敵の攻撃をよけてるばっかりで、なんにもしやがらねぇ。実戦に連れてくる予科生は、いくら初めてだからってもう少しましなもんだろうが」
「すまんな。こいつはいろいろ訳ありでな」
「訳あり? まあそっちの都合なんてこっちの知ったことじゃないが、こいつが敵を殺さないせいで、その分が全部後ろにくるんだ。何度危ない目に遭ったかわからねぇ!」
責められているのはニコライである。だが、その言葉は卓人の胸を深くえぐった。
自分が殺さなかったことで、味方が殺されるかもしれない。
あのときの卓人には、何とかこの戦場をくぐり抜けることしか頭になかった。指摘されていることなど頭をかすめもしなかった。
戦闘は終わりつつあり、肩の荷が下りたと思ったところで、とんでもないものを背負わされていることに改めて気づいた。
「確かに貴様のいうことは正しい。だが、戦場で生き残れること以上の正しさはあるのか?」
苦言をきっちりと聞き届けてから、ニコライは部隊の生存者を確認した。
結果としてこの部隊の死亡者はいなかった。
「戦場では何があるかわからん。とりあえず、そういうことにしておいてくれ」
「ぐ……、ああ、まあ、そうだな」
ひとまず場は落ち着いた。ほっとしたところでさっさと帰りたい気分だったが、その後が思いのほか長かった。
各部隊の損害の報告、敵船中に潜伏する兵の確認があった。
そして敵兵の死体の移動。海に捨てるわけにはいかず、一か所に集めて焼却し遺骨をまとめて埋葬する。
憎き敵とはいえ、死後はその肉体を平等なものとして丁重に扱わなければならないようだ。
疲れ果てた精神状態でこの作業をするのは酷だったが、侮辱的に死体を放置したりしないのは、人間の精神としても環境に対する配慮としてもましだと思えた。
二人で死者の肩を担ぎ、一人が両足を抱え、三人掛かりで運ぶ。
卓人は人の死体に触れたことなどない。幸か不幸か葬式に出る機会すらなかった。それ故にこの作業はさっきまでの戦闘とはまた別の精神的負担を強いてきた。知らない誰かの死体を抱えるのはやはり気持ち悪かった。
祟られたり呪われたりしないかと迷信じみた思考が支配する。
そういえばクラスメイトに霊障によく合うと訴える友人がいた。古戦場だった場所にできた団地に住んでいるせいらしいが、除霊師のおかげで無事に生活できるようになったと言っていた。
この海岸もそんな怨念を残す場になってしまうのだろうか。
そんなことを考えているとなんだか空間が歪んで見えて、やにわに『ドラコーンの口』が現れたのではないかと錯覚した。
『やばい、こんなこと考えてたら憑りつかれる!』
事故死したネコに同情してはならない。でないと憑りつかれてしまうから。小学生のときに聞いた真実なのか迷信なのかわからない恐怖心に、この場でただ一人自分だけがとらわれていた。
バリケードに使った丸太をばらして集め、その上に敵兵の死体を山積みにして、魔法の炎で燃やす。
炎に包まれる死者の顔を、高く昇り始めた
「よ、生きてたんだな。よかった、よかった」
晴れやかな声をかけてきたのはレヴァンニだった。
彼の胴着は返り血で真っ黒だった。彼も多くの敵兵を殺してきたのだろう。戦場に立つ以上はそれをしなければならない。
「いやー、しかし今回は擁壁とか塹壕のおかげだな。ここにいない奴らがつくってくれたわけだが、成果を聞けば大喜びだろうな」
「あ、ああ、そうだね……」
だが、卓人はここに至ってもまだ現実を受け入れ切れていなかった。
次々と遺体が運ばれてくる。
ある遺体は山積みにされることなく、別のところに安置された。
味方兵の遺体である。
戦場である以上、味方の犠牲がゼロなんてことはあり得ない。
身元が分かるなら可能な限り遺族の許に返さなければならない。
ほとんど思考停止していた卓人は、レヴァンニの口からぽろりともれた声に背中が凍る思いがした。
「ベラ……」
運ばれているときに顔を見たがまさか彼女だとは思えなかった。
だって、ベラを印象付けるふわりとした幸せそうな笑顔が、随分としぼんでしまってそのかけらさえ感じれないのだ。
だけど、続々と戦争に参加した予科生たちが集まってくる。そして彼女の名前を呼びながら、悲しみの嗚咽をもらしていた。
レヴァンニですら苦悶の表情を浮かべ、眉間を抑えて涙を必死にこらえていた。
それでもまだ信じたくなくて、卓人は恐るおそる人垣の向こうから死者の顔をのぞいた。
戦場に相応しくない大きなリボンは、確かにベラのものだった。右の肩に激しい出血の痕が見られた。だが、それでも彼女だとは認めたくなかった。
わらわらと集まる人混みの中で、卓人の肩に手を置いて声をかけてきたのはニコライだった。
「戦場では……何が起こるかわからない……!」
教え子の一人を失った男の声には、冷静を保ちながらもうねるような悔恨が潜んでいた。
負の心象が渦となって何かを呑み込んでいた。悲哀、後悔、慙愧、痛恨、苦衷、煩悶、無常、無情、痛哭、断腸……あらゆる形容をもってしても補いきれないほどの流量で、怒涛が内部を崩壊させてゆくようだった。
ベラは卓人の部隊の後ろにいて、魔法で援護をしていた。
『こいつが敵を殺さないから、その分が全部後ろにくるんだ。何度危ない目に遭ったかわからねぇ!』
卓人はこの戦場で、敢えて敵を殺さなかった。理由があるとすれば、殺すのはいけないことだから、あるいはその勇気がなかったから。
自分が殺さなかった敵が、ベラを殺したのだろうか――――?
これまでに感じたことのない、虫でも這いまわっているかのような感覚が目元から背中へ、そしてふくらはぎへと駆け巡る。
取り返しのつかないことをしてしまったのではないか?
違うと思いたかったが、だからといってベラが生き返るわけではない。
僕は戦場をなめていたのだろうか?
この戦争に参加したのは無能と思われないよう必死だったからだ。何とか居場所をつくらないといけなかった。激化すればいずれ素人でも参加しなければならない。
できないはずはないし、できないなんて言っていられない。
……僕はここにいてはいけなかったんじゃないだろうか――?
確かにいえることは、起こりうるあらゆる事象に対する想像力が足りていなかった。人を殺す覚悟もないのに人を殺す場へのこのこときてしまった。
開戦前のイライラは、深層にいる自分が表層にいる浅はかな自分対して警告を発していたのだ。
笑顔のよく似合う少女の死は、卓人の心を苛んだ。
翌々日、遺族の到着を待って兵学校でベラを含む戦没者の合同葬儀が行われた。
予科生たちが並ぶ中にルイザの姿もあった。親友を失って泣きすぎたのと眠れなかったことで、人相が変わるほどに目の周りが腫れていた。
「ごめんなさい。私が守ってあげられたなら……ごめんなさい」
昨日は同じことを繰り返し、安置された遺体のそばから離れようとはしなかった。
今回の戦争でドマニス軍では一四名の死者が出た。七四五名が死んだバルツ兵に比べれば比較するまでもない数かもしれない。
そして、そのうち予科生はベラのみだった。
戦争に参加する予科生は原則的に一般兵以上の能力をもつと認められたうえで、さらに周りの兵士が守護するので、死ぬ可能性は非常に低い。しかし、それでも完璧に守り切ることはできない。
同じ部隊の目撃者の報告によれば、瞬間的に彼女は一対二の状況ができてしまい、一方を仕留めた直後にもう一方に右肩を傷つけられた。
右腕が使いにくくなったものの、まだ動けると判断した彼女は戦列を離脱せず戦い続けた。
だが傷を負ったのは腋窩動脈であった。出血はますますひどくなり、ついには倒れそのまま帰ってくることはなかった。
どこかで戦列を抜けて、回復魔法による手当てを受けていたなら助かっていたかもしれない。客観的には判断ミス、あるいは数的優位の中での運の悪さである。
式典は厳粛に行われた。
学校長はベラの勇敢さと愛国心を称えた。その言葉は欺瞞のようにさえ聞こえるほどの美辞麗句を並べたものだった。
だが、たとえそうであっても死者をけなすことに比べれば何億倍も素晴らしい言葉であろう。
その後、同期を集めて遺族から謝辞が述べられた。
ベラの父親はすでに亡くなったそうで、母親と三人の弟妹が並んでいた。
母親は涙をこぼしつつも気丈にも同期たちへの感謝の言葉をかけてくれた。一番大きな弟は泣いていたが、幼い二人の妹は何のことか状況を把握できていなかった。
ルイザは母親のもとに駆け寄ると跪いて謝った。自分が同じ戦場にいたなら必ず彼女を守れたはずなのに、と。
――それは慢心からくる言葉ではないだろうか。
何が起こるかわからない戦場で、必ずしもそれができるとは限らない。
それでも母親はルイザを抱きしめ泣きながら感謝の言葉をかけた。
その状況に妹たちも泣き始めた。
見ている同期たちも声を殺して涙した。
卓人はその光景を客観的に見ていた。
あらゆるものが悲しく、あのときは流れなかった涙が今はこうしてこぼれてくる。
なのになぜだろう。
とめどなくあふれる涙を拭い続ける自分を見ながら、自分が一番の偽善者のように思われた。
――僕は、ルイザのようにベラの母親に謝ることはできない……
ベラを収めた棺は馬車に引かれて旅立っていった。
何もわからない兵学校で親切にしてくれた彼女の笑顔は、卓人に何とかなるという勇気を与えてくれた。
それは、生きる勇気だった。
その彼女を、自分のせいで失ったのかもしれないという疑念は、証明のしようがないからこそ確信的に迫ってくる。
――――自分は、戦場で人を殺せるのだろうか?
翌日、卓人の姿は兵学校から消えた。
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