第18話 不平等な命

 ソフィアの使命は山頂付近の比較的大きな集落の住民をすべて排除し、いずれ山脈を渡ってくる大軍隊の駐留拠点を確保することにあった。


 万一にもこの大量殺戮が周辺に知れ渡れば、計画は水泡に帰してしまうだろう。


 川沿いに点在する集落はそこだけで生活が完結してしまうように発達した性質上、原則的に他の集落との交流が少ないことは確認している。とくに行事があるときは、よそ者は極力顔を出さないことが礼儀となっている。


 だから祭りがある日を狙ったのだ。


 不安要素を一つひとつ消してゆくことで、冷静を保つよう心掛ける。殺し損ねた白衣の女はこの上にある孤児院からきていたはずだ。そしてその孤児院に住む者もやはり片づけなければならない。


 人の気配に細心の注意を払いながら、さらに山を登っていく。


 ひとつ森を抜けると、その先は森林限界だった。広大なツンドラに春の暖かさで美しい花々を咲かせていた。木の柵の向こうにはブタやヤギなどがおり、人の手による飼育をうかがわせた。


 さらに進むと木造の建築が見える。幼い子供たちの姿が遠目にも確認できた。


 可哀想だが、この子たちにも死んでもらわなければならない。


「こんにちは、この辺りはきれいな花が咲くのね」


 確実に遂行するには、初動は穏やかに信頼関係を築き、対象の場所の全容を把握することが重要である。


「いい季節にいらっしゃいましたね。今は花の咲きごろです。これはオニゲシで、こっちはリンドウです。えっと、それからこれは……」


 十歳くらいの金髪の三つ編みの女の子は、年齢に見合わず随分と大人びた口ぶりで話す。自分も大人になりたくて背伸びしていた時期を思い出した。


「ピロスムね」


「ああ、そうです。そうです」


 ソフィアが植物学者だというのは嘘ではない。


 ただし、バルツの出身である。


 ドマニス、バルツ両軍に多大な被害を出した第四回目の侵攻の際、激戦の混乱に乗じて何とかドマニスの地にもぐりこんだ。その後は、警戒されないようフラミア出身であると偽りながら諜報活動を続けていた。


「ここには白衣を着た女性はいらっしゃるかしら」


 それとなく取り逃がした獲物の居場所を探る。


「あら、ナタリア先生なら朝早くに森に出かけたのです。お祭りの供え物を採りに行って、今日はもう戻らないのです。私たちもお昼を過ぎたらお祭りに行くのです」


 ――なるほど。だとするとあの女と入れ違いになったようだ。この子たちが何も知らないようだということは、あの女も気づいてないはずだ。


 ソフィアは選択を迫られた。


 白衣の女を探すか、それともまずはここの子供たちを始末するか。


 もし、女が今あの集落に着いたなら、すぐに下の集落に連絡してしまうだろう。しかし探すのに手間取れば、この子供たちも昼には集落へ下りる。連絡能力のある子供も何人かいるようだし、今確実にこちらを片づけてしまえば不確定要素はあの女ただ一人になる。


 ならばこちらを先に始末すべきだ。


 しかもできるだけ速やかに。


「うおー! でかい」


「ボインボインだ!」


 もう少し幼い男の子二人組が「こんにちは!」と声をかけてきたと思うと、いきなり胸とお尻に抱きついてきた。


「こら、ゲオルギ、ショータ!」


 三つ編みの女の子が叱り飛ばすが、いたずら小僧たちは笑いながら軽やかに逃げ去ってしまった。


 子供はうるさいから嫌いだ。


 だから、子供を殺すのも大人を殺すのも、良心の呵責として大差はない。


「大変失礼なことをしましたです。不躾で申し訳ないです」


「うふふふ。じゃあ、私も不躾だけど、お水をもらっていいかしら」


「あら、でしたらこちらへくるといいのです」


 建物に案内される途中、十五歳くらいの女の子がきれいな舞を踊り、それを五歳くらいの子供たちが六人ほど楽しそうに見物していた。


「エミリちゃんは今日のお祭りの主役なのです」


「あら、タマラ。お客さん?」


 長い黒髪の少女は踊りをやめて話しかけた。


「あの、この地域の……お花を見にきたの」


 ソフィアは頼まれたわけでもないのに自ら答えた。しかも、なぜか弁解するかのように慌ててしまっていた。


「この辺りは珍しい花が咲くでしょう。とってもきれいなんですよ」


 黒髪の少女は透き通るような笑顔だった。


「ここで暮らしているのは、さっきの子たちで全員なのかな?」


「はい。ナタリア先生がいませんが、今はこれで全員なのです」


 ということは全部で十人。そのうち六人は五歳ほどで生活能力すらない。


 この少女と先ほどの黒髪の少女、あとは腕白盛りといった二人の男の子に連絡の能力があるだろう。まずはこの四人を確実に始末すれば、その後はどうとでもなる。それから白衣の女を探し出せばすべては終わる。


 ソフィアは一呼吸おいて自分のすべきことを確認した。


 金髪の三つ編みの少女は屋内に招き入れると、甕の中の水を汲むべく背を向けた。


 その後ろ姿は妙に切なく思えた。


 ここの子供たちはあまりに純真無垢だ。


 それを手にかけようとしている自分に、今更ながら罪悪感がこみ上げてくる。


 ――なぜ?


 しかし、自分がやらなければ大切なものは守れない。すでに汚れてしまった自分に罪悪感など意味をなさない。いつものように気取られることなく少女の背後に立ち、そっとナイフを抜いた。


 ソフィアは植物学者として各地を歩き回っていた経験を買われてこの任務をたまわった。研究を愛する彼女にとって歓迎されるものではなかった。


 それでも家族の命を人質に取られれば従わざるを得ない。可哀想だという気持ち握りつぶすことにはもう慣れた。


 そして、不意に思い出した。


 今朝殺した男がつくっていた純白の衣装を。


 美しいと思った。


 比喩とかでなく、心が洗われるような思いだった。


 なぜ、今になってそんなことを思い出しているのだろうか?


 ――なぜ?


 そのとき、すさまじい勢いの矢が目の前の空気を貫き、壁に突き刺さった。


「あなた、何をしているの!」


 扉の前には弓を構えた黒髪の少女が立っていた。


 エミリは珍しいお客さんが妙に気になっていた。


 二人の後を追いかけるために、舞の練習を中断することを躊躇わないほどに。


 それでも扉を開けるとき、どうして珍しいお客さんとそんなに話したいのか、よくわからなくなった。


 だが、自分の身体は扉を開けた。


 部屋を見ると、その客がタマラにナイフを突き立てようとしていた。


 エミリはすぐそばにあった弓と矢をとっていた。


 女がこちらを向いた。


 表情がなかった。


 女の標的はこちらに移り、ゆらりとナイフをもってこちらに近づいてくる。


「やめなさい。この距離なら絶対に外さないわよ!」


 嘘ではない。エミリは弓矢がうまい。


「エミリちゃん?」


 ようやく振り向いたタマラは、今まさに命を奪われようとしていたことに気づいていなかった。水を渡そうと思った相手がこっちを見ず、妙に冷たい佇まいを見せていることが不思議だった。


 女はエミリに向かって走った。


 この瞬間に矢を放っていれば致命傷を与えられただろう。でもエミリは躊躇った。


 あっという間に組み敷かれて、女はナイフを振りかざした。


 その手を止めようとしたとき、刃が当たってエミリの掌が切れた。


 どんどん血にまみれていく手で、女のナイフを食い止める。


 その先に見える女の表情は冷酷そのものだった。


「ごめんなさいね」




 卓人視点の時間に戻す。


 卓人は走っていた。ナタリアと会って集落の惨状を知るや、孤児院までの山道を駆け上がった。


 事態の全容がつかめてきたように思えた。


 そしてそれは、集落が襲われたということは孤児院も確実に狙われているということを教えていた。


 間に合わなかったらどうしようと考える自分がいる。


 高地は空気が薄く、全身に十分な酸素が行きわたらなかった。


 だけど、それでも全力で走った。


 息も切れぎれに孤児院にたどりつくと、人影はなく静まり返っていた。それは不都合な現実を示しているようにも感じられた。


 だが、そうでないと信じたい。


 荒れる息を抑え込みながら孤児院建物に近づく。もし殺人鬼がきていたなら、いきなり襲い掛かってくるかもしれない。


 こんなに静かな孤児院は初めてだった。


 虚無感が支配したが、それでも別の自分は真実を探らせようと肉体を動かした。


「……! タクト君……」


 壁際を曲がったところで出会ったのはショータだった。


 それは明るい期待だった。敵が殺しているならば全員を殺しているはずだろう。


 つまり、一人が生きているということは、全員が生きている可能性でもあった。


 しかし、ショータは卓人を見るなり涙を流した。


「エミリちゃんが……、エミリちゃんが……」


 言外に助けを乞うその声色は、卓人の脊髄を一本の針が貫くようだった。


「エミリ!」


 卓人は、小屋の前に子供たちが集まっているのを認識した。


 その扉の奥にエミリがいた。


 自分が獣になったように思えるほどの勢いでそこへ到達すると、平常を心掛けつつ子供たちをかき分け、扉の中へ進んでいった。


 明かりの灯らぬ部屋の中を見ると、見知らぬ女が倒れ、そしてエミリと思しき後ろ姿を幼いタマラが支えていた。


 それは動いているように見えなかった。


「タクト君!」


 タマラの声は張り裂けそうだった。


 駆け寄るとエミリの身体が震えていた。


 それはちゃんと生きていることを示していた。掌の傷を布で押さえて止血を試みているが、その顔は絶望に彩られ、魂が抜けてしまったように呆然としている。


「……お兄ちゃん」


 つぶれてしまいそうなその声だった。そして大粒の涙を流してむせび泣き始めた。


 その原因はここに倒れている女以外にありえないだろう。


 卓人は女を見た。


 すでに息をしていなかった。


 その右手のそばにナイフが落ちていたのはこの女の殺意を表している。


 ではなぜ、この女は倒れているのか。


 女の首筋に妙な水滴がいくつも見られる。


 卓人はそっと触れると、異様に冷たいことに気づいた。


 ――冷却魔法!


 卓人が教えた冷却の魔法でエミリは自分を、いや子供たちを危機から守るために使い、この女の頸動脈を凍結させたのだ。


 頸動脈が凍れば血液のほとんどは脳に届かなくなり脳虚血を引き起こす。これによって迷走神経が過剰にはたらき心停止に至った。


 知ってか知らずかエミリはそれをしてしまったことにより、この女の肉体の機能を奪い、危機から脱出することができたのだ。


 引き換えにエミリは人を殺した。


「タマラ、この人が倒れて何分になる?」


「え? わかりません」


「だいたいでいい、何分だ?」


「三分……いや、五分くらいです」


「可能性は、ゼロではない」


 卓人は女の唇の上に、自分の口を覆いかぶせた。女の鼻をつまむと強く息を吹き込んで、その胸郭のふくらみを観察した。


 その行為を五回繰り返した後、胸骨の終端を探ると、指二本分左に手を当て強く何度も押し込んだ。そして口元や胸に耳を当てると、一連の操作を何度も繰り返した。


 卓人は人工呼吸と心臓マッサージを施していた。倒れて五分以内に心肺蘇生を施せば、二五パーセントの確率で助かるはずだが、頸動脈が凍らされて現在はすでに融けてしまっている。間に合わないかもしれない。


 子供たちは卓人が何をしているかわからなかったが、その必死な形相を見ていつしか「タクト君、頑張って!」と声をかけていた。


 元の世界の学校で習ったことはあっても実践はこれが初めてである。


 変化が見られないことに不安が増大し、筋肉もすでに限界を迎えた頃、激しいせき込みとともに女は自律呼吸を取り戻した。


「げぇほ! げほ、げほ、げほ!」


 女はにわかにのたうち回った。反撃の危険もありえるので、卓人は女の右手に転がるナイフを取り上げた。


 その後、女は呆然と座りこけていたが、おもむろに立ち上がるとどこか外へ歩き始めた。


 ひとまず意識は取り戻したものの、どこまで回復しているかはわからない。


 本当は引き留めて状態を確認すべきかもしれないが、卓人は見ているだけだった。


 ここまで走って、なおかつ心肺蘇生を施したおかげで心身ともに疲れ果ててしまった。


 自分は何を頼まれたわけでもなく、自分の判断で行動したことは求められた正解かどうかわからない。ただ、自分の行動には満足して少し笑って見せた。


「……お兄ちゃん……」


 エミリはそんな自分に抱きついてきた。そして大きな声で泣き喚いた。


「タクト君、ありがとう!」


「ありがとう!」


 エミリが泣いているのに、周りの子供たちは大喜びだった。


 どうやら自分は間違ってはいなかったらしい。


 同時に卓人は思った。あの女の人は息こそ吹き返したものの、殺戮を継続することなくどこかへ行ってしまった。それは意識がまだ混濁しているということだろうし、もしかすると脳に障害を残す結果となってしまったかもしれない。


 血管内にまだ凍った血液が残っていたならば、それが血流で脳組織を傷つけてしまっているかもしれない。


 どちらにせよ、あの女の人には喜ぶべき未来は待っていないように思えた。


 だが、エミリが無事でよかった。


 この子たちが無事でよかった。


 そう思うということは、命には優先順位があるということだ。命は決して平等ではないということだ。


 だけど――。


 卓人がエミリの肩越しに子供たちを見やると、それが合図になったのか、全員が卓人にしがみついて泣き始めた。


 卓人は手こそ回らなかったものの精一杯抱きしめた。


 そしてそれはほとんど確信となった。


 ――誰だって、本当は人を殺したくなんてないんだ。

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