第7話 パラダイムシフト

 翌日、卓人はシカの腱やスジ、皮などを鍋の中でぐつぐつと煮込みはじめた。


 先日捕らえたシカの毛皮は衣類にするが、そのとき出た端材の毛を焼き硫酸に数日浸していた。硫酸はブタ小屋の糞尿のしみ込んだ壁の泥を水に溶いて上澄みに灰を加えて煮沸・再結晶させて得た硝酸カリウムと、街で買った硫黄を一緒に燃やしてつくった。


 半日煮込んでとろみが出たところで、しっかり炭化した木炭を選んで粉砕して加えると、目の細かい布に通してろ過した。この操作で動物臭さが気にならなくなったところでさらに煮詰めると粘性が増し、そこへ柑橘の果汁と砂糖を加えた。それを小さな容器に小分けにして川の雪解け水で冷やすと、きれいなオレンジ色の弾性のある固形物になった。


「タクト君、これ何?」


「ゼリーだ」


「ぜりー?」


 卓人はそれを食べてみた。


「お、なかなかうまい」


 子供たちはそれを見て、うぎゃーと声を上げた。卓人としては工程に有害なものが入っていないという確信があったからこそだが、材料が材料なだけにこの反応は当然であろう。


 だが、卓人があまりにおいしそうに食べているのを見ると、子供たちもつい手に取って口に入れずにおれなかった。そして驚いた。


「おいしい!」


「すげえ! こんなの食べたの初めてだ」


「ぷるんぷるんだ!」


 柑橘の香りの中にまだ獣臭さが残っていて卓人自身としては満足のいくものではなかったが、気づけばみんなが喜んで食べていた。


「にかわが食べられるなんて知らなかった。お兄ちゃん、これって軍隊で覚えたの?」


「でもさ、やっぱりエミリちゃんのつくったお菓子のほうがいいよな」


「明日はエミリちゃんがつくってよ!」


 いつもはエミリに対しなめきった態度をとる子供たちも、こういうことがあるとエミリの味方になる。それだけエミリに甘えていることがよくわかる。


 食べ終わったあとは木を粗く削ったバットで野球をして遊んだ。ルールなんてみんな知らないし人数も足りないから、投げて打って捕って、それだけで遊んだ。ボールはぼろきれを巻きつけてつくった。


 卓人は自分でも何がしたいのか自覚的ではなかった。


 ただ、ここにきてからの一週間余りは、エミリの兄であろうとするがあまり自分を抑圧し、結果として何もしないできた。それしか正解が思いつかなかった。


 でも、同時にそれは間違っているとも思っていた。


 このままではいけないんだ。


 ゼリーをつくったのだって、昔本で読んでみたことを試してみたくて仕方なかった。


 何かがもっと自らを解放せよと訴えかけてくる。その衝動に卓人は乗っかってしまっていた。


「あははは、お兄ちゃん空振りー!」


「うわー、お兄ちゃん速い!」


「お兄ちゃん、こっち投げて!」


 今の自分は本来あるべきタクトとは違うはずなのに、それでもエミリは笑顔で「お兄ちゃん」と呼び続けた。


 そこには一つの懸念がある。


 ――本当のお兄ちゃんがいなくなってしまったことを認めたくないのではないか?


 気づいているのかもしれない。


 いや、彼女ほど聡明な子ならむしろ気づかないことがないだろう。


 でも信じたくはない。だから自分が偽物であるとわかっていながら、それでもあえて「お兄ちゃん」と呼び続けているのかもしれない。


 彼女の笑顔が輝くほどに、その悲しみは顕著に浮かび上がってくる。


 卓人は改めて確信した。


『僕は彼女に本当のお兄ちゃんを返してあげなくてはならない――』


 そしてそれは、自分がここにい続けたのでは決してなし得ないであろう。




「お水?」


 卓人は陶器のコップ一杯の水をエミリに差し出した。離れには夕日が差し込んでコップの中も朱に映えていたが、その暖色に反して汲んできた氷点をなんとか越えたばかりの雪解け水である。


「火の魔法って、熱を集めるんだよね」


「うん、そんな感じだと思う」


「逆に、熱を散らばらせることってできるのかな」


「え? やったことないから、わからないな」


 卓人は一つの仮説にたどりついていた。


 空気がもつエネルギーを一点に集めることによってなされるのが火の魔法の正体なのではないかと。


 そのアイデアの一端となる思考実験が科学の世界にはあり、これは『マックスウェルの悪魔』と呼ばれている。


 熱とは分子の運動であり、分子の運動速度が大きくなるほど温度が高くなる。空気の絶対温度は分子の平均速度の二乗に比例する。空気の分子の速度が二倍になれば、その空気の温度は絶対温度にして四倍になる。実際の気体の熱運動は一様ではなく、様々な速さの分子が混在しており、空気の温度は全体の速度の平均で計算できる。


 マックスウェルは次のように考えた。


 あるところに悪魔がおり、その悪魔は分子の運動を観測することができる。この悪魔がある空間の空気の分子を、速いものと遅いものとで選り分けたとしよう。すると、速い分子が集められた方は温度が高く、遅い分子が集められた方は温度が低くなるのではないか。


 もちろん、こんなことは自然現象として起こりえないが、この仮想は多くの科学者たちを魅了し、なぜ起こりえないのかについて百年以上にわたって議論がなされた。


 火の魔法とは、マックスウェルの悪魔そのものではないだろうか。


 それがどのようにしてなされるのかはわからないが、魔法で炎を生じる現象そのものについては説明ができる。周囲の空気から運動速度の大きなものを「どのようにかして」選り分け、「どのようにかして」ある一点に移動させる。


 空気の温度が〇度であるとしてその絶対温度は二七三ケルビンだから、気体分子の運動エネルギーが二倍になると、単純には温度は四倍の一〇九二ケルビンとなり、それはセ氏温度にして八一九度となる。ランプの油の発火点が四〇〇度であったとして、着火するには十分すぎる。


 さらにその中のごく一部がプラズマ化するまでの温度になって光を放つならば、視覚的にも炎として認識できるだろう。


 火の魔法とはすなわち、分子の運動をコントロールする魔法ではないか。


 その仮説が正しければ、逆に一点から周囲へ熱を拡散させることができるのではないか。その結果として水は氷るだろう。


「やってみようか。でもね、いつもと反対のことをするのは難しいなあ」


 これが成功すれば、凍らせる魔法は水の魔法であるという、この世界の定義を覆すものとなる。卓人の思考の原点はこの世界のパラダイム上にはない。


「うーん、散らばる感じ、散らばる感じ……こうかな?」


 コップに手をかざして何かを念じる。意識を集中させているからだろうか、エミリの顔がへんてこりんになっている。


「うーん、うーん」


「もう少し、そのまま続けてみて」


 卓人は左手をあごにそえて、じっと観察していた。


「散らばれー、散らばれー」


 眉間にしわを寄せ、目が糸のように細まってぶつぶつとなにかつぶやいてしまっている。エミリはさらに集中力を高めてゆく。


 ピキッ!


 そのときコップのから小さな音がした。何事かとエミリはコップを見やる。


「あれ、氷ってる……」


 氷ることで体積が膨張し、コップにひびが入ってしまったようである。動かしたことで破片ははずれ、きれいな氷の塊が姿を現した。


「え? なんで……氷?」


 エミリはしばらく自分が何をしたのかわかっていなかった。冷たい氷をテーブルの上において不思議そうにつついていた。そしてはっと気づいたようである。


「お? おおおお? おおおー???? 魔法で氷った? ねえ、お兄ちゃん。これって凍らせる魔法かな? すごい、すごい」


 あふれる感動が、言葉として完成される前に次々と飛び出してくる。それは卓人の仮説の正しさを証明していた。そしてこの事実に対し、卓人は満足のうなずきを一つだけした。


「もしかして、私、水の魔法が使えるようになったのかな?」


「それはどうだろう。というよりも、凍らせる魔法は水の魔法だけじゃなくて、火の魔法でもできるってことかもしれないね」


「凍らせるのが火? え? なんで?」


 この理論を理解するには、エミリにはたくさんの時間が必要だろう。いや、この世界の人々すべてがそうだろう。このときの卓人には自覚がなかったが、この世界における魔法の体系が書き換えられた瞬間だった。


「実験を手伝ってくれてありがとう」


 これに対するエミリの表情は太陽のような輝きを見せた。


「これ、みんなにも教えていいの?」


「え? ああ、いいんじゃないかな」


「うっはっはー!」


 勢いよく立ち上がったエミリを、卓人は呼び止めた。


「なぁ、エミリ」


 何かを予期したのだろう。振り返るエミリの表情からさっきまでの晴れやかさが消えていた。


「再招集がかかった。また、戦場に行かなくちゃならない。ごめんな」


 そこへ向かおうとしているのは明らかに自分の意志であるが、敢えて外的な要求を強調した言い方をした。それは卑怯ではないかとも思う。


 だが、エミリの兄への想いを考えると、自分の意志を明らかにすることのほうが裏切りなのではないか。それでも泣かせてしまうかもしれない。そのときはどうすればよいか、考えはまとまっていなかった。


 しかし、思いがけなくエミリはあっさりと答えた。


「…………うん」


 その瞬間のなんともいえないやわらかな笑顔が何を示しているのか、卓人にはわからなかった。




 翌朝、エミリは子供たちに氷の魔法を教えていた。


 要領のいいタマラなどはあっという間に覚えて氷をつくって遊んでいた。


「あんたは魔法が使えないのに、すごいことやらかすね」


「そうなんでしょうか」


 今日も涼しげな恰好のナタリアに対し、卓人は感動のない答えをした。


 単にしくみを解明し、その証明をしたかっただけだ。それがたまたまこの世界の常識とは違った位置にあっただけのことだ。


 ただ、これによってこの世界の物理法則は元の世界のそれが適用できるであろうということ、魔法は人間の意志を「どのようにかして」自然現象に対して介入させるという推測が強められた。


「まあ、使い方さえ気をつけてくれれば、どんな魔法でも覚えてくれて困りはしないけどね」


 こういうときのナタリアはまさに保護者という立場である。


「そういえば、魔法も使えないのになんで戦場に戻ろうなんて思ったんだい? ずっとここにいるって選択肢もあったのに」


「やっぱり……エミリには本当のお兄ちゃんを返してあげないといけないと思うんです」


 そう答える卓人は、なんとなく恥ずかしそうだった。


「返してあげる……そうかい。どうやって?」


「……わかりません」


「じゃあ、行く意味はないように思うけどね」


「そうかもしれません」


「長い間いたらばれると思ったのかい?」


 否定はできない。だけど、ちょっと違う気もする。


「だけど、あの子はあんたのことをお兄ちゃんだと信じているよ」


 卓人はそれについては何も答えなかった。


「ありがとね、タクト」


 ナタリア先生が自分をタクトと呼んだのは初めてではないだろうか。


「エミリはどう思っているんでしょうか」


「さあ? ただ、あの子も子供のままじゃないさ」


 一通りの支度を終えたら、エミリが馬車で送ってくれることになった。集合場所の兵学校は、歩けば一日かかるほどの距離にあるというから、卓人は甘えることにした。


 タマラが一緒についていくと言い出すと、そのほかの子も行きたがったが、馬車の負担を考えると三人が限度だった。


 しばらく下ると、すぐに暖かくなった。


 森の鳥たちのさえずりはいかにも幸せそうに聞こえた。


 先日きたばかりの街を通ると、その活気が別世界のことのように思えた。


 街を抜け、ブドウ畑が続く道を通る。その間とくに会話はなかった。


 昼過ぎに馬車は兵学校に着いた。


「ありがとう」


 何か次の言葉を探したが、卓人は何も思いつかなかった。


 タマラは御者台から降りると、卓人のズボンの裾をつまんだ。そのまま何も言わずにうつむいたままでいるので、卓人はそっとその頭をなでた。


「すぐに……帰ってくるのです」


「ああ、戦争が終わったらすぐに戻るよ」


 戻るのは本当のタクトであってほしいと、卓人は思った。


「死んだらだめだよ」


 エミリはあっさりとした笑みで言葉をかけた。卓人は笑顔で返した。タマラは結局顔を上げないままだった。


 卓人は手を振りながら兵学校の校門の奥へと消えていった。姿が見えなくなると、タマラはついに泣き始めた。声を殺すように泣いていた。エミリは頭をなでてその気持ちを察した。そしてタマラに自らを投影して顧みた。


『一年前、お兄ちゃんにはお兄ちゃんの人生があることも理解できなかった私は、すごく悲しくて寂しくて毎日のように泣いていた。でも、いつまでも一緒にいられるわけがない、そんな当たり前のことに気づくのにどれだけかかったのだろう。でも、私は成長したんだ。泣いたりしたら、お兄ちゃんが困る』


 エミリは口を一度固く結んだ。


『記憶をなくしたお兄ちゃんは、どこか遠慮しているようで他人行儀だった。いつも自信満々だったのがちょっと小さく見えた。私を呼ぶときだって不安気味で寂しかった。でも昨日の「なぁ、エミリ」という呼び方は、昔のまんまだった気がした。いつものお兄ちゃんが帰ってきたような気がしてうれしかった。だけど、不思議なことばっかりやっていた』


 なんだか……不思議……


 エミリはそのときになってようやく、自分が涙を流していたことに気づいた。それは悲しみなのか、喜びなのか、何を洗い流すための涙なのかわからなかった。タマラに悟られないように必死で拭っても止まらなかった。


「……お兄ちゃん……」

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