第4話 異世界についての考察①
濃紺の下地に白をばらまいたような鮮やかな星空。赤熱ののちに急冷した針をそっと水面に浮かべると、針はまっすぐに一つの星を指す。その星の周りにはW型の星座とひしゃく型の星座があり、針が指す星を中心として一時間に十五度の割合で時計回りに回転している。
空にはいずれも知った星座ばかりがあるが、そのすぐ下には山脈の黒い輪郭が迫っており、日本との地形の違いを改めて確認する。
宇田川卓人が異世界にきて一週間、戦傷兵としての日々を過ごしていたが、傷はすっかり癒えていた。
あれだけの怪我がかさぶたすらなくなってしまったのは、ナタリアの回復魔法のおかげであった。
この世界は、元の世界と明らかに違うのにどこか知っているような既視感がある。
物体の動きを観察するに重力加速度は九・八メートル毎秒毎秒だろう。
空気の組成は窒素七八パーセント、酸素二一パーセント、アルゴン〇・九パーセント、残りはその他だ。大気圧も海抜〇メートルならば平均的に一〇一三ヘクトパスカルだと推測され、山脈中腹のここは若干空気が薄く感じられる。
おそらくすべての物質は原子からなり、原子は陽子と中性子と電子とからなるはずだ。光の速さはおよそ三十万キロメートル毎秒で、少なくとも物理的背景は元の世界と同じと考えられる。
にもかかわらず魔法が使えるこの世界はとても興味深い。
魔法はここでは生活に当たり前のように馴染んでいる。魔法は個人的な能力に差はあれ、訓練次第では誰でも使えるようになるらしい。
自分もいずれ使えるようになるのだろうか? 現段階ではきっかけすらつかめる気がしないのだが。
窓の外では、エミリと子供たちが大きな鍋で今日仕留めたシカの骨を煮込んでスープをつくっている。
ただ火の番をしているだけなのだがみんな楽しそうに小躍りしている。なんだか正月用の餅つきを親戚と集まって楽しくしていた年末の光景を思い出す。
だけどちょっと複雑な気分だ。生きていたシカが骨になって煮込まれるまでの過程は卓人にとってはかなりの衝撃だった。
今朝、ナタリア先生は魔法の電話のようなもので山を下った集落のおじさんを呼び出した。
卓人が初めてこの世界にきたときに馬車に乗って通った大きな街からこの孤児院までの山道にはいくつかの小さな集落がある。一番近くの集落は孤児院の経営に協力的で、畑作業を手伝ってくれたり、技術的に難しい小麦の製粉をしてくれたりする。おかげで子供だけでも安定した生活をすることができている。
おじさんがきたのは新しい作物を植えつけるにあたり、土の魔法で畑の土壌を調整することだった。
その後、おじさんの発案で弓をもって森に狩りに出かけることになった。メンバーは八歳のショータとゲオルギ、エミリ、そして卓人の五人だ。
何も知らずに草を食むシカを見つけると、エミリは風の魔法で自分の足音と匂いを消しながら近づき、ためらうことなく矢で射抜いた。倒れてもがいているところをおじさんが魔法で眠らせ、鮮やかな手つきで肉へとさばいた。
食べていくためには仕方のないことと理解できたが、やはり罪の意識は禁じ得ない。それでも最後に犠牲になったシカに対しみんなで祈りを捧げている光景は、せめてもの慰めだった。
「終わったよ」
ほどなく階段を上がってきたエミリの声は、一仕事終えてしっとりとしていた。真っ暗なままにしていたので、「なんで灯りつけないの?」と魔法でランプに火を灯す。もはやこれも見慣れてしまった。
ひとつ気づいたことがある。
彼らが魔法を使うのはほんの一瞬である。魔法を着火に使ったりはするが、魔法の炎で直接明るくしたり、煮たり焼いたりということはしないらしい。多分、ずっとやっていると熱いとか、集中力が続かないなどの問題があるのだろう。
エミリは棚から布を取り出すと、今度は刺繍を始めた。一ヶ月前からこつこつと針を入れてきたという女性用の腰帯には草花が流れるように美しく配置されている。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「何?」
「今日のうちにこれ仕上がると思うから、明日売りに行こうと思うんだ。街に行ったら買いたいものもいっぱいあるし、お兄ちゃんもついてきてよ」
それは思いがけない提案だった。
「そうだね。僕も街がどんなだか見てみたい……っていうか」
「っていうか……?」
「ああ、いや、思い出したいっていうか」
記憶喪失という設定を崩してしまわないよう、興味本位の発言を強引に濁した。
「あ、でも……怪我の具合はどうなのかな。街に出ても大丈夫?」
「大丈夫だと思うんだけどな」
腕をぐるぐるとまわしてみても痛みは全くない。
「ナタリア先生に聞いてみようね、明日」
「そ、そうだね……」
卓人は、お色気が凶暴さをまとったあの女性がちょっと苦手だった。
ひとしきり会話が続くと、そのあとは静寂が訪れた。
孤児院の母屋が手狭になったため、兄妹は離れの二階で二人きりで寝起きすることになっている。ふたつのベッドにそれぞれが腰かけて向かい合い、卓人は作業を眺めている。
ぷつっと針が布に刺さると、しゅーっと糸が布を通り抜けていく。ぷつっとしゅーが単調に繰り返されるだけなのに、絶妙なリズムとなって心地よい。
その一針ひと針から、孤児院の子供たちの生活が生み出されてゆく。
エミリはここでは母親のような存在である。
彼女は料理をつくり、生活資金を生み出すために機織りと刺繍をする。子供たちも農業や家畜の世話などさまざまな役割を果たしよく働くが、その収入の多くはエミリが支えている。
『睫毛長いんだな……』
なんとなく見たままのことを改めて認識した。
夜の室内を一点の灯が照らすと陰影が強くなり、映し出されるものは土気色でさえあるのに印象は柔らかい。まるで名画の聖母像のようだ。しかし昼間、残酷にもシカを射殺したのも彼女である。
「できた!」
見て見て、と完成したばかりの刺繍入りの腰帯を巻いてくるりと回ってみせた。思いの外それは女性の佇まいを美しく引き立てるものだった。
そのできのよさを形容する言葉を探しきれず卓人は沈黙してしまったが、顔には表れていた。
エミリは解き放たれたように自分のベッドに飛び込むと、うずめた顔をちょっとだけこちらに向けてじっと見つめてきた。その表情は先ほどまでとはうって変わって少女のものであった。
これはナタリアから聞かされたことだ。
昨年、本当の兄であるタクトが軍に入ってここからいなくなったとき、たまに年下の子供たちに隠れて泣いていたのだという。十年前、親を亡くしてここにきたとき、エミリはしばらく兄にしか心を開かなかったらしい。
たった一人残された肉親という絆は彼女にとってそれほどに大切だったのだ。その兄が戦場で重傷を負ったからとはいえ帰ってきた。それがどれほど嬉しいことであるか、わからないでもなかった。
『お兄ちゃんか……』
ランプの灯りは消え、エミリは隣のベッドでかわいらしい寝息を立てていた。いまだメラトニンの作用が訪れない卓人は星明りでわずかになぞれる天井の輪郭を眺めていた。
『なぜ僕はここにいるんだろう?』
自分は彼女の大切な兄を奪ってしまったのではないだろうか?
それは違うと思いたいが、こうしてありありと兄を慕う少女の姿を見ると、罪の意識は否応なくわいてきた。
『早く、この子にお兄ちゃんを返してあげないとな……』
翌朝、エミリと子供たちは昨晩からのシカの骨の煮込みを再開するとともに、街に売りに行く荷物を馬車に積み込んでいた。
昨晩仕上げた腰帯だけでなく、亜麻の糸で織った無地の布やたくさんの農作物、ヤギの乳のチーズや塩漬けの肉などさまざまである。
その間卓人は、ナタリアに回復魔法をかけてもらいつつ街に出ても大丈夫か怪我の具合を診断してもらっていた。
「ああ、全然問題ないよ。ただの買い物だろ?」
今日もやはり扇情的な恰好をしているが、会話をしてみるといつも素っ気ない。別に何か期待をしいるわけではないが、年頃の少年には接し方に多大な苦労がある。
「あの……ナタリア先生」
「ほう、珍しいね。何か質問かい?」
「先生は、なんで僕が別の人格に入れ替わってしまっていることがわかったんですか? 先生以外、誰も気づいてないのに」
「……エーテルが変わっていたからね」
エーテルといえば有機化合物だったり光の媒質として信じられていたものだったりが用語として存在するが、どうやらそれらとは違うようである。
「人にはそれぞれその肉体を覆うエーテルがあるのさ。それは、その人の『あるべき姿』となるように肉体にはたらきかけているものだと考えればいい」
「霊とか、魂とか……そういったものですか」
「イメージとしては近いだろうね。ただ、エーテルは無生物にも作用している。ちなみに、修行を積むとそのエーテルが見えるようになる。見えるのはここでは私だけだ。エーテルがある程度わからないと回復魔法は使えない。だから私だけが回復魔法を使える」
新しい概念を即座に理解することはなかなか難しい。
「なんとなくだけど、あんたのエーテルは別の世界からきたような形をしているね」
あまりに的確すぎて、むしろ詐欺師にでも会ったような気分だ。
「……元の僕は、どんな人物だったんでしょうか」
ナタリアはしばらく間をおいてから答えた。
「そうだね。やっぱりタクトとあんたは性格が全然違うと思うよ。あんたはかなり慎重な性格だけど、タクトは大雑把な性格だったね」
これまで他人の評価など気にもかけなかったのに、意気地や勇気がないと評されているようで気が滅入る。
「それと、絵がうまかった」
絵は卓人も得意な方だと思っている。
「とくに女の裸の絵が」
それはちょっといけない。
「あいつ研究熱心でね、風呂にのぞきにきたこともあったな。でさ、その絵は結構な高値で売れてたらしいんだよね。しかも器用だから、次には白目細工で女の裸の人形をつくりはじめてね。あんた、街に行ったら一部ではかなりの有名人だからね」
健全な高校生として卓人も女性に興味がないわけではないが、それを堂々とあけっぴろげにする勇気などない。
「ある日、エミリに見つかってね。『変態!』ってボコボコに殴られてからは表立ってあんまりやらなくなったけど。それからだね、エミリが刺繍やら覚えて稼ぐようになったのは。タクトも子供相手に動物の白目細工をつくるようになってさ。結構売れてるらしいよ」
白目とは低融点のスズ合金のことである。動物の型を取って溶かした金属を流し込めばいいだろうが、絵とは勝手が違う。自分にそれだけのことができるだろうか。
「ほぉら、タクト」
ナタリアはあえて胸の谷間を強調するかのように迫ってきた。
「ち、ちょっと……やめてください!」
「あははは、やっぱり違うね。ここは喜んで観察してくれなきゃ」
鏡で見た自分は元の世界の自分と何一つ変わらないのに、この世界の皆は「タクト」と認識している。だけど中身が違うという――。
「あ、あの、それはそれとして……僕も魔法を使えるようになるでしょうか?」
「へえ、魔法使えるようになりたい?」
「え、いや、まあ……それなりに……」
素直に「はい」と言えばいいものを、卓人は濁した。
「使えるようになったら、また戦場に行かないといけなくなるかもよ」
「あ……」
それはいやだった。
「まあ魔法はだいたい十三歳までなら身につけようとすればたいてい身につく。それを過ぎているわけだからちょっと大変かもね」
「そ、そうですか……」
「あと、あんたは右側の脳があんまり上手に使えてない」
「右脳ですか?」
ナタリアはエーテルが見えるというが、脳がどのように使われているかも見ることができるのだろうか。しかし、元の世界では右脳型の人間と言われていたものだが。
「すぐには無理だろうけど、こっちで何年か修練すればできるかもね」
「ああ、そうなんですね」
「すぐに使えるようになりたかったかい?」
「それはまあ」
「エミリにいいとこ見せたいかい?」
「いいとこというか……失望させたくないというか。他の子たちも残念がってますし」
せっかく異世界にきたからとかいう興味本位は表に出したくはない。
「タクトはそれはそれは魔法がすごかったからね」
「あ……ははははは……」
もはや苦笑いするしかなかった。
「なんだい、嫉妬しているみたいだね」
嫉妬という表現は間違っていると思ったが、えも言えぬ不愉快さは確かにある。
「あんたは一生懸命エミリのお兄ちゃんになろうと努力してくれてるじゃないか。私はとても感謝してるんだよ。あんなに明るいエミリを見るのは久しぶりだからね。これまでも子供たちを気遣って元気なふりだけはしてたけど」
そのことを喜ぶべきなのかどうか、卓人にはわからなかった。
「あんたはあんた。タクトはタクトだからね。あんたのできるようにしかできないんだ。それでもエミリが『お兄ちゃん』って呼んでいるうちは、あんたは『お兄ちゃん』なんだ」
そのときのナタリアの笑顔は、いつになく大人の女性を思わせるものだった。
ふと冷静になると、今更ながら自分は戦争で傷ついて今ここにいることを自覚する。
『戦争は終わったのだろうか。
戦争って、なんでそんなことやってるんだろう。
戦争って何なんだ?』
ぼんやりとそう考えてしまうくらいにここでの生活は平和だった。
ナタリアの健康診断を終えて馬車のほうへ向かうと、すでに荷台はいっぱいになっていた。ロバがちゃんと引っ張れるのか心配になるほどの量だ。
「お兄ちゃん、出発できるよ」
「タクト君、荷物積むの少しくらい手伝ってよ」
「ああ。ごめん、ごめん」
これからエミリと二人で荷物を売るとともに必要な物資を買いに行く。留守番とわかっていて荷物を積まされた子供たちはかなり不機嫌だった。
「タマラ、いい? 大きくなりすぎると火事になるから薪のくべすぎには気をつけるんだよ。火は消えちゃってもまた点ければいいんだから」
「そのくらいわかっているのです」
「あと、煮込み過ぎはおいしくなくなるから、お昼になったらもう終わりだからね」
「わかってるのです!」
十才の金髪の女の子もしっかり者といった感じだけど不満を隠さなかった。
「ねえねえ、エミリちゃん」
そんな中ご機嫌で近寄ってきたのはショータとゲオルギだった。昨日は弓も引けないのにどうしてもと言って狩りについてきた。
「荷物積んでたら面白いもの見つけたよ、この中見て」
そして、つるんではいたずらをする二人組でもあった。
「なぁに?」
ゲオルギは見てと言いながら、あえて差し出した手をもう片方の手でほとんどを隠して少しだけ隙間をつくっていた。エミリは素直に手の中を覗き込んだ。
「それ!」
後ろに回り込んだショータが、踝まであるエミリのスカートを勢いよくまくり上げた。「きゃっ」と頓狂な声にげらげらと笑いながら逃げていった。
「お兄ちゃん、見た?」
エミリは二人を追いかけるよりも、まず卓人に問いただしてきた。だけど兄は聞こえてないのか返事をしない。「見てない?」と改めて確認しても、左手をあごにそえて何の反応もしなかった。エミリはその様子にほっとした。
実際のところ、卓人はしっかり見ていたのだが、それ以上に強烈な事実が衝撃として彼の心を捕らえていた。
『この世界の子供たちも、スカートめくりをするのか!』
自分も幼いころに何度かやったことがある。何故あんな卑劣な行為をしようと思ったのかよくわからない。周りがやっているからというのが実際のところであろう。
八歳の子供にとって、スカートの中身を確認することで得られるものは、思春期以降の男子が求めるような満足とは異なるはずである。なのに汎く幼児期男子に見られる行為と考えられる。
子供だから許されても大人なら完全な犯罪である。
それは元の世界とこの異世界をつなぐ宇宙際的共通点でありえた。
――なぜ、子供はスカートめくりをするのか?
考え込む卓人の姿に幼い女の子たちはなぜか見とれていた。
「あれ、みんなどうしたの?」
「タクト君、かっこいい……」
結局、エミリが気をとり直して声をかけるまで、ずっと左手をあごにそえて考えていた。
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