第3話 異世界の妹

 少女は病院脇の木造の小屋の一つに向かうと、そこにつながれたロバの頭をなでてロープを外す。それを荷車へつなぐと馬車ができた。御者台に乗ると、手綱を操ってゆっくり卓人の前まで転がす。


「お兄ちゃんは荷台に乗って。帰ろう」


 病院を出てからの少女の声は明るかった。卓人は言われるままに荷台に乗った。


 干し草の上に布をかぶせただけだったが、自然を思わせる香りは心を落ち着かせた。暖かい気候に似つかわしくないふかふかの毛皮のコートがたたんで置いてある。


 病院を出ると、砂利を粘土質で固めた道路が続いていた。道路は山脈に向かって伸びており、どうやらそっちのほうへ連れて行かれるようだった。


 状況が把握できないまま、言われるままに動かされるというのはどうもいい気分にはなれない。


「疲れてたら寝ちゃってもいいからね」


 少女は優しく声をかけてきた。


 しかしながら、流れる風景はむしろ卓人の好奇心を刺激するものであった。ブドウ畑が続いたあとには、百メートルは優にある幅の河川が現れた。この豊かな水量はあの山脈からもたらされているのだろう。


 二〇分ほどして見えてきたのは街だった。石造りの建築物が並び、その前には露店がひしめいて活況を呈していた。さっきまでの惨状が嘘だったような平和さだった。


 その違和感もさることながら、どの光景も自分が育った日本とは違っていた。


 たいていの人が刺繍入りのベストの下にややゆったりめのシャツを着ていて異国情緒を醸し出していた。


 もちろん自動車は走っていないし、スマホを使っている人もいない。


『やっぱり、違う世界だよなぁ……』


 馬車が進むごとに目新しい絵に描いたような美しい風景が現れる。街の賑わいを抜けて森を通る道に入ると、樹木の香りが強く、鳥たちが恋をさえずっていた。遠くの川で雪解け水が水面をたたく様子が躍動感あふれる重低音となって伝わってくる。


「もう、すっかり春だね」


 その言葉は卓人に向けられていたはずだが、返事を期待してのものではなかった。


 卓人はそれに甘えて何も答えなかった。


 森の同じ風景が続くようになると、ふと我に返り、「なぜ僕はこんなところにいるのか」という疑問が支配的になってきていた。その疑問は解への道のりが絶望的なほどに遠いように思われた。


 美しい森の中では、葉の隙間を縫う日射しがほのかな青みを帯びていくつもの線をなして降り注いでいた。


『チンダル現象か……』


 こんな美しい光景は初めてだった。いつもならつぶさに観察していただろうに、今日は虚しくて仕方ない。ぼーっと座っているだけで、馬車に揺られるまま連れて行かれるだけ。


 元の世界の家族や友人のことが心配になったが、どうしたらいいのか見当もつかない。


「実に無力だ……」


 聞こえるようなつぶやきではなかったはずだが、少女はこちらに振り向いて、「大丈夫?」といった表情でこっちをのぞき込んでにっこりとほほえんだ。


『……まるで赤ん坊だな』


 なんだか少女が、母親のようにさえ思えてくる。子供は知識をつけるにしたがって、行動範囲が広がる。すなわち、能動的な行動というのは一定以上の知識があって初めて可能になるということだ。


 結局、何も知らない自分はこうしてじっと少女のそばにいることがもっとも安心できるのだ。


 とはいえ不安もある。


 帰るのはこの子の家なのだろうが、そこには彼女の父親や母親がいるだろう。そのとき自分は何と応対すればよいのだろうか。何も知らない自分にまともな会話などできるわけがない。不審に思われるに違いない。


 記憶喪失にでもなったことにすれば、とりあえずはしのげるだろうか……?


 そんなことをぐだぐだと考えていると、はっと卓人はある事実に気づいた。


 ――この少女の本当の兄はどこへ行ったのだろうか?


 少女が確信をもって自分を兄と認識しているということは、少なくとも外見は似ているということなのだろう。


 似た人間を取り違えてしまったのだろうか。


 しかし、そうならば案内した病院の人がそもそも間違えていたことになるし、多くのミスが重ならなければならない。そんな可能性より、もしも自分が異世界にきてしまったということであれば、少女の兄と入れ替わってしまったとしたほうが合理的ではなかろうか。


 ならば、兄は入れ替わりでどこへ行ったのか。自分が元いた世界にいるという可能性も考えられるが……


 卓人は馬車を操る少女を見た。その後ろ姿はあまりに無防備で疑う様子は微塵もない。もし、この少女の兄が死んでしまっていたとしたならば、あまりにも残酷ではないか。




 寒さで目覚めたときには、空は夕日で茜色に染まっていた。


 一瞬、戦場の記憶がよみがえって息をのんだが、毛皮のコートがかけてあることに気づいてほっとした。


 少女も同じものを羽織っていた。高級品というよりも野趣にあふれるものだ。いつの間にか眠ってしまったところに少女がかけてくれたのだろう。


 日の傾きから四時間程度が過ぎたものと考えられる。緑の森はすでに抜け、代わりに目近に雪化粧の山脈が迫っていた。石だらけの草地に立てられた柵の向こうでは放牧されているヤギやブタが見えた。ちらほらと低木と草原が広がるツンドラを思わせる風景だ。


「この峠を越えたら、着くからね」


 着くというのは、自分たちの目的地以外にない。


 砂利道を進むと、古めかしい木造の建築物が見えてきた。同時にそこから子供と思しき人影が何人も現れてきて手を振ってきた。少女は笑顔で大きく手を振り返す。


 夕日に映えるその光景はいかにも牧歌的で心癒されるものだったが、同時に卓人は一つの覚悟を迫られていた。


 自分がこの家でどう振る舞うべきか結論はまだ出ていない。


 別人だとすぐにばれたら追い出されてしまうのだろうか。


 考えがまとまるより先に馬車は目的地に到着した。


 馬車が止まるや、小さな子供たちはこぞって駆け寄ってきて、断りもなく次々と荷台に乗り込んできた。


「おかえり!」


「タクトくん、死ななかったんだね!」


 子供たちは容赦なく卓人に飛び乗っててきた。

「知ってる? アレクってばタクトくんが死にかけたって聞いて、大泣きしてたんだよ」


「してないよ! イリアだって泣いてたくせに」


「包帯血まみれだ! すげー!」


「うはー、ガビガビのうんこみたいになってる!」


 とにかく顔が近い。子供特有の甘いミルクのようなにおいが鼻をくすぐる。


「ちょっと……重い」


「みんな、お兄ちゃん怪我してるのよ。どいてあげなさい」


 子供たちは少女の声など聞く耳などもたず、むしろ余計に抱きついてくる。傷口にも力がかかるのだが不思議と昼間のような激痛はない。


「こら。お前ら、タクトは怪我人なんだよ。どんな仕打ちをしてるんだい」


 貫禄のある大人の女性の声がした。多分、この人と自分の事情について話すことになるのだろう。


 全くまとまっていないが、とにかく出たとこ勝負だ。話がこじれるならば自分は放逐されることになるかもしれないが、そのときは自分に優しくしてくれた少女ができるだけ傷つかないようにしようと思った。


「うわ、エロババアがきた!」


「あぁ? 誰が、エロババアだ!」


「あはははははは、逃げろ!」


 現れた白衣を着た女性を見るや子供たちはクモの子を散らすように逃げた。


「お前ら、待ちやがれ!」


 怒って捕まえようとすると、ぶわっと白衣が動いて見えてはいけないものが飛び出しそうになる。


 この人は白衣だけしか着てないのだろうか。


 言葉遣いといい、顔つきといい、梳かれてないボサボサの赤い髪にしても、家族というには少女たちとこの女性は生活背景がかけ離れているように思えた。


「まったく、どこであんな品のない言葉を覚えたんだか。まあ、あんたが生きて帰ってきて、よほど嬉しかったんだろうねぇ」


 そう言いながらこちらに目を向けた女性は、はっと何かに気づいた面もちで首をかしげると、視力の悪い人が閲するような目で近づいてきた。


「……あんた、誰だい?」


 まさかの問いに、卓人はぞっとした。


「どうしたんですか、ナタリア先生?」


「エミリ、もしかして……」


 言いかけたところで踵を返し、卓人を荷台から引きずり下ろすと、締め上げるほどの勢いで首に腕を回してきた。


「そっくりさんを取り違えたわけでもなさそうだし……」


「え?」


 そしてそっと耳打ちしてきた。


「いいかい、あんたは記憶喪失ってことにしておくから。あの子のお兄ちゃんでいるんだよ」


 それ以上詳しいことは言わず、すぐさま少女のほうに向き直った。


「お兄ちゃん、どうかしたんですか?」


「いやさ、タクトが私のボインを見てさ、いやらしい目つきをしなかったんだよ」


「え?」


 少女は正直に驚いた。その反応は不本意であったが、現在の問題点はそこではなかった。


「私が誰だかわかる?」


 この質問は『お前は偽物だ』に等しいが、簡単に降参してやるわけにもいかない。


「な……ナタリ、ア? 先生……」


 卓人はさっきの会話から聞き出した名前を答えた。しかし、先生は返答など無視した。


「……記憶喪失?」


「どういうこと……?」


「爆発で吹っ飛ばされたって聞いたけど、そのせいかどうかわからないが、タクトはいろいろと忘れてしまったんじゃないかね」


「ちょっと、それは……」


 それは卓人が馬車に揺られながら用意した辻褄の合いそうな、そしてできれば使いたくない言い訳だった。予想通り、少女は明らかにうろたえていた。


「うそ……お兄ちゃん、私だよ。エミリだよ……覚えてないの?」


 さっきまでの笑顔がみるみる曇ってゆく。ここで嘘などつけないが、覚えてないとも言えない。しかし、沈黙は暗に肯定を示した。少女の目には涙が浮かび始め、卓人はその残酷さから目を背けたかった。


「ナタリア先生のことは?」


 にじり寄る少女の必死な眼差しから逃げることはできなかった。


「ショータやイリア、アレクやゲオやタマラは? 覚えてるでしょ!」


「……ごめん」


 もはや観念するしかなかった。なんとも不甲斐ないと思った。だが自分を蔑んでも事態が変わるわけではない。ついには少女の堰が切れてしまい、力なく卓人に寄りかかってきた。


「お兄ちゃん……」


 卓人は立ち尽くすしかなかった。こうやって少女が自分の胸に顔をうずめて泣くのは二回目だったが、初めとは明らかに違った。子供たちも恐るおそる近寄ってきたが、誰も声を発しなかった。


 少女の肩越しに広がる茜色の空はどこまでも広く、冷たかった。


 随分と沈黙が続いた後、先生が少女に声をかけた。


「安心しな。忘れちまったとしても、兄ちゃんはここにいるんだろ?」


 卓人は女性が嘘を言ったと思った。


「うん……」


 それでも少女は涙を拭いながら気丈にも顔を上げた。


 そのとき、卓人は初めて少女の顔をまともに見たと思った。


 沈みかけた夕日が鮮やかに照らし、黒い髪が朱に染まった空に溶け込んで、白い肌は透き通っていた。その中にくっきりと浮かぶうるんだ二つの眼には健気さが満ちていた。


 卓人はその姿を美しいと思った。


「お兄ちゃん……」


 少女は卓人をじっと見つめるとうつむいた。その声はかすかに震えていた。


「……次に忘れたら、二度と教えないからね」


 そしていたずらっぽく覗き込む。


「私はエミリ。お兄ちゃんの妹だからね」


 そう言うと、弾けるような笑顔になって最後の涙を拭った。




 自分はこの子のお兄ちゃんではない。


 打算に満ちた嘘は良心を深く抉ってくる。


 でも、本当のお兄ちゃんのふりをすることでこの純粋な少女が悲しむことなく暮らしていけるならそのほうが正しいのではないだろうか。


 この異世界は、これまでたいして人生について深く考えることもなかった卓人に対し、初めての使命を与えようとしていた。




 薄暮となり、屋内に入って夕食を囲もうとしていた。ひとまず卓人は今日の安息を得られたことに感謝することにした。


「なに? タクト君みんな忘れちゃってるの?」


「記憶喪失? かっこいい!」


 最善かどうかはわからないが、ナタリアの機転で驚くほどあっさり『戦争で記憶をなくしたお兄ちゃん』として周囲が受け入れた。


 食卓に座るとまたしても子供たちにまとわりつかれることになった。暖炉でも薪をくべているから暑苦しい。


 ここが孤児の養護施設だということはすぐにわかった。


 そして自分も同じく孤児ということだ。この世界での親がいたりしないのは身軽な感じがした。あっけらかんとした子供たちの様子も、卓人の気持ちを楽にさせた。


 白衣一枚しか着てないように見える女性がナタリア先生で、子供たちの管理をするこの孤児院の監督といったところだ。子供たちはエミリが十五歳、そのほかの子は年長が十歳で一番幼い子が四歳だ。


 卓人も含めて十二人が暮らす建物は手狭な印象を受ける。部屋の中央の大きな食卓と脇の機織り機がほとんどを占めているからだ。


「ちょっと、みんなも手伝ってよ」


 エミリが厨房から声をかけても子供たちには完全に無視されていた。ずいぶんとなめられているようだ。というよりむしろ甘やかしてしまっているのだろう。教育上適切な状況とは思えなかったが、ナタリア先生は暇そうに眺めているのみだった。


「じゃあ、僕も手伝おう」


「いいよ、お兄ちゃんは座ってて」


 子供たちにまとわりつかれるのが面倒だから申し出たのだが、優しさに満ち溢れた笑顔であっさりと断られた。


 結果として、卓人は子供にまとわりつかれ続け、エミリは一人で夕食をつくることになった。


 それでも、さすがに料理ができあがると、早く食欲を満たすために子供たちも配膳を手伝い始めた。


 食卓にはとけたチーズのかかったパン、肉の煮込み料理と水餃子のようなものが入ったスープが並んだ。馴染みのある和食とは程遠いがとてもおいしそうだ。


「さぁ、食べようか。お祈りをしない子は許さないからね」


 ナタリア先生が上座に座り、みんなが食卓を囲む。軽く握った右手を胸の前に捧げて言葉をつぶやいていた。日本でいう「いただきます」なのだろう。祈りの沈黙は神聖な空気を醸した。


 静けさもつかの間、次の瞬間には子供たちは食事に貪りついて騒がしくなる。


「灯りをつけようね」


 エミリは食事より先に、テーブルの上にぶら下げられたランプを手に取った。ガラスの風防を開けると灯心に火を点けた。


 それは何気ない動作だった。


 しかし、卓人にはそれが衝撃として映った。


「……今、どうやった?」


「何が?」


 立ち上がってランプをつかむ。


「あつっ!」


 思わず高温になっている部分を触ってしまった。


 明らかに異様な行動に子供たちは驚いた。


「どうしたの、タクト君?」


 子供たちの心配など関係なく、卓人はランプを念入りに観察した。


「発火石がついてるわけでもなし……これ、どうやって火を点けたんだ?」


「え? どうやってって……普通に……」


 ランプは植物の繊維を撚ってつくった灯心で油を吸い上げ、着火すれば油がなくなるまで灯し続ける一般的な構造であった。しかし、ランプには肝心の着火装置がなく、エミリが点火する際にマッチなどを使った形跡はない。


「ちょっと、お兄ちゃん?」


「教えてほしいんだ!」


 エミリはこれまでにない兄の強引さに困惑した。


「だから、こう」


 人差し指を立てると、その先にポッと火が灯る。


「は?」


 理解不能の現象が目の前で起こる。しかも、彼らからすると「普通に」。


「なんだよ、魔法だよ」


「魔法?」


「そうだよ。ほら、えい、えい、えい」


 子供たちが火の玉を投げつけてきた。


「うわあっつっ!」


「あははは、タクトくん何やってんのさ」


「何やってんのは、お前らだろが! 火事になるだろ!」


「魔法って……そんなことあるの?」


「それそれそれ! ぎゃはははは!」


 子供たちは悪乗りして、先生の注意など聞かずに火の玉を卓人に向かってじゃんじゃん投げつけ始めた。火はすぐに消えるが、やはり熱い。


 怒り心頭に達し飛びかかろうとしたナタリアを避けようとした卓人だが、よろけて食器棚にぶつかった。その上に置かれた大きな木の樽が脳天に直撃した。


 遠のく意識の中で、子供たちのはしゃぐ声だけが響いていた。しかし、衝撃という点ではこちらのほうが彼にとっては大きかったであろう。


 魔法――――。

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