第2話 宇田川卓人

 宇田川卓人は自宅から自転車で一五分の田舎の公立高校に通っていた。


 かつては進学校として認識されていたものの、近年は人材の流亡が顕著ですでにその面影はない。


 そんな中で彼の成績は優秀だった。彼ほどの成績であれば電車で三〇分かけて名門進学校に行くのがこの地域の当たり前だった。だけど宇田川卓人は、わざわざそんな面倒なことをするくらいなら、近所の高校に通った方がましだと考えるタイプだった。


 学校では人づきあいは無難にこなす。あるときはアニメオタクと一緒に人気キャラの模写をしていたかと思えば、またあるときはガラの悪い連中に勉強を教えている。


 昔から頼まれごとがあれば断らない。


 イラストを描いてくれ、文章の推敲をしてくれ、お菓子をつくってくれ、ゲーム開発を手伝ってくれ、怪我人の代わりに臨時部員として試合に出てくれ、文化祭の有志バンドに参加してくれ。


 卓人は喜んで参加した。


 そんな彼に対する教員の評価は二分する。


 彼がいることで学校から無能感が払拭され、多くの生徒が様々なチャレンジをするようになった。それが遠因的に活発かつ落ち着いた学校生活をもたらしている。


 好意的な評価をする教員がいる反面、成績がいいのに進学にも就職にも大して興味がなく、まして部活動に励むようなこともなく、無責任に暇つぶしで学校にきているようにも映った。


 卓人はそんな教員の評価など気にしなかった。入学当初、荒れ気味だという高校の評判も気にしなかった。


「宇田川は典型的な右脳型の人間なんだよ。右脳は今だけを見ていて、左脳は過去や未来を意識している。あいつは未来への計画性もないし、過去を悔やむこともない」


 ある教員はそう評価したが、言い得て妙だった。右脳は芸術センスが高いといわれるが、彼はその部類に加えてもいいかもしれない。


「でも、あいつは理数系も得意ですよ。理系は左脳じゃありませんでしたか?」


「え? ああ、まあそうかな……」


 そして高校二年生になる頃、彼は異様なまでに理科や数学に興味を示し始めた。


 ――もっと多くのことが知りたい。


 そんな欲求が彼を支配するようになった。


 それ以降、二週間ほどで学校の教科書はすべて読破し、理解が不十分なところはその他の本や問題集、先生に質問することで補った。学校の図書室の本はあらかた読み尽くしたので、今は隣の市の図書館を攻めている。


 クラスの仲間たちが進路に悩むのを横目に、彼は自分の知的好奇心を満たすことに腐心するようになった。


 なぜ彼がそうなったのか理由は定かではない。あるとすれば理科の教員が生徒に興味をもたせるために授業に実験を多く取り入れたことくらいだろうか。


 目の前で起こる変化もさることながら、肉体を動かすことで座学では感じることのできない、世界を支配する法則に対する過去の実験者たちの真摯な姿勢が垣間見えた。その先に広がる科学者たちの知性の海は卓人の冒険心を大いに搔き立てた。


 図書館での卓人の読書スタイルは独特である。


 椅子に深く腰を掛け、もたれかかるように背筋を伸ばし、机の上に置いた本を抑える右手で器用にめくりながら、左手はあごにそえて眺めるように読み進める。


 そんな彼を一人の女子高生がうっとりと見つめるようになった。


 卓人は身長こそ一七七センチと平均を上回っているが、顔は取り立ててイケメンというほどでもない。


 しかし、なぜだろうか。


 こうして本を読みながら思索を巡らせる彼の姿には独特のオーラのようなものがあった。「吸い込まれるよう」という表現が適切だろうか。


 そんな吸い込まれてしまった女子たちがぽつぽつと集まるようになり、いつしか本など読みそうにもない子たちから、小学生から主婦、老婆までも彼を眺めるため、図書館には夕方になると人でごった返すようになった。


 もちろん卓人本人はそんなこと、気にしたこともない。


 そして、毎日を自らの欲求を満たすために使っていたある日、何かに飲み込まれたかと思うと、目の前は真っ暗になり、次には残酷なオレンジの光景が広がっていた。


 


「お兄ちゃん!」


 強くゆすられ、瞬時に覚醒状態に移行した。はっと息をのみ込むと、白い天井が見えた。いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。


 人の気配がする方へ目線を下ろせば、目の前に黒髪の少女の顔があった。しかし、その顔のつくりを分析する前に、少女の顔は視界から消えてしまった。


「よかった、お兄ちゃん。生きてた……! お兄ちゃん、生きてた」


 横たわる卓人の胸に顔をうずめて泣き始めたのだ。


 その声から随分と心配されていたことが推測されたが、卓人はこの少女に共感できなかった。なぜならば、『お兄ちゃん』と呼んでくるような存在が家族とか親戚、ましてや幼馴染とかいたことがなかったからだ。


 よくわからないが、まずは少女を落ち着かせようと腕を動かすと激痛が走った。


「うっ」


 思わず声がこぼれる。


「お兄ちゃん、無理したらだめだよ!」


 慌てて少女は身体を離して気遣った。見ると、卓人の身体は包帯で覆われていた。伸縮性のない綿布の包帯は、固まった血と膿で真皮とガチガチに膠着していて、傷口に力が加わると激しく痛む。


 どこでこんな怪我を……爆風に吹っ飛ばされたあれは夢じゃなかったのだろうか?


 ここで初めて周りを見る余裕のできた卓人は、床に敷き詰められた寝床のすべてを同様の傷病者が占拠していることに気づいた。押し殺したようなうめき声が常にどこからか聞こえてくる。まさに野戦病院だ。


「目が覚めたんだね」


 濃紺のワンピースの上にエプロンをつけた女性が近づいてきた。エプロンについた血のシミとその忙しなさから医療従事者と思われる。


 おもむろに女性は卓人の左手を握ると、検分するようにもう一方の手で怪我をしている左腕の上に指を這わせた。


 ちょっとドキドキしてしまう卓人をよそに、女性は涼しい顔で自分の作業に集中していた。後ろで束ねた髪は金色で瞳は青い。


「順調に回復しているみたいだけど、気分が悪いとかはない?」


「気分……は、悪くないと、思い……ます……」


 素直に答えつつも、頭では別のことを考えていた。


『外国人だ――』


 そして不自然な事実に気づく。この人は日本語をしゃべってはいなかった。英語でもないし、テレビでちょっと聞いたことのあるスペイン語やアラビア語でもない聞いたこともない言語だった。


 それ以上に、その言葉を理解できて返事している自分がもっとも不自然であった。なぜ自分はこの人と会話できているのかと、まじまじと女性の顔を見つめてしまう。


「何?」


「い、いえ。何でもありません」


 その口調が叱られているようで、咄嗟に目をそらす。そらした先で目が合ったのは黒髪の少女で、すました中に不機嫌が潜んでいた。何か悪いことでもしただろうか?


「よし。それでは早速で悪いが、退院してもらいます。一般生活をするには問題はないはずですから」


 退院? 状況から考えれば自分が入院していたことはすぐに理解できた。それにしても病院というには粗末すぎる気もするが。


「すまないね。次々と患者が運ばれてきています。病院としてはできるだけベッドを空けたいんだ」


 ベッドとは、やや厚手の布を敷いただけのこれを指しているのだろうか。卓人は促されるままに立ち上がろうとすると、黒髪の少女が助けてくれた。


 そばに立つと、自分の肩くらいの身長で、一つか二つくらい下の年齢だろうか。甲斐甲斐しく寄り添う佇まいはしなやかで女性らしさがある。


「お兄ちゃん、帰ろう」


 か細い声の中にはいろんな感情が混じっているようだった。怪我をしている自分へのいたわり、同室の患者たちへの気遣い、そして、『お兄ちゃん』が帰ってくる喜び。


 卓人は彼女の認識が間違っているという確信があったが、「人違いだよ。僕は君のお兄ちゃんじゃないよ」とは言えなかった。


 少女はそばに置いていた一巻きの真新しい白い布を女性に差し出した。



「これ、使ってください」


「ありがとう。包帯にできる清潔な布が足りなくてね。助かります」


「兄がお世話になりました」


 自分のものだといううぐいす色の軍服の上着には、洗濯で落とし切れていない血のシミが残っていた。


 実感のない自分のものを肩に羽織る。通路は医療関係者が通れるだけの隙間を残し、ミイラのごとき姿になり果てた傷病者で埋められていた。卓人は少女に手を引かれて、足元に気をつけながら進んだ。


『――ここはどこなんだろう』


 患者たちの容貌はことごとくコーカソイドだった。


 彼らは自分のことに精いっぱいで、こちらに関心を寄せる余裕などないはずなのだが、「なんでお前のような奴がこんなところにいるのだ?」と問い詰めてくるような気がして居心地が悪かった。


 それでも、ぎゅっと握る少女の手のぬくもりが自分の存在をはっきりと肯定していた。


 担架に乗せられた怪我人が次々と運び込まれる様子を他人事のように眺めつつ建物を出るや、遠く奥の暗灰色の岩肌を見せる五千メートルはあろうかという山々が連なる山脈が目を奪った。


 地層の縞模様が美しく褶曲して、頂上は真っ白な雪をかぶっていた。大陸の衝突によってできたこのような壮大な光景は、写真でならまだしも、生で見たことはない。


 いや、これは夢の中で空に吹き飛ばされたときに見えた山々だ。


『僕は……、異世界にやってきてしまった……?』


 そのどうしようもないくらいの存在感は、卓人にいよいよ諦観をもたらしていた。

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