理系少年の異世界考察

ヴォルフガング・ニポー

第1話 序

 喧騒にはっと見上げると、空気はオレンジに染まっていた。


 灼熱をまとった煙や髪の毛が焼けたにおいが鼻腔を通り抜け、宇田川卓人うだがわたくとは吐き気さえ催した。


 地面についた手にぬめりとした違和感を覚えて見やると、黒ずんだゼリー状の何かがべっとりとついていた。


 ――血?


 それは自分のものではないらしい。


『ここは……どこだ――?』


 状況を把握する必要があった。人々の喚き声と、剣が交わる音。まるで映画のワンシーンの中に放り込まれたような圧倒的な非日常がそこにはあった。


 次の瞬間、野球ボールのように火の塊が自分に向かって飛んできた。反射的によけると、地面に落ちた火はそのまま広がり跡形もなく消えた。


 燃えカスが残らなかった――。


 何かがおかしかった。


 ふと気配がしてそちらを見ると、ゆらりと男が姿を現した。五〇歳くらいだろうか。後背の炎を映したような橙赤色の眼球には殺意がみなぎっていた。


 男は首もと目がけて右手の鉈のような剣を突き刺してきた。


『熱い――』


 命の危険を大脳新皮質は理解できていなかった。


 それでも、旧皮質は生命保存本能をもって肉体を動かす。


 剣を躱したのもつかの間、次に左手で掌底を繰り出してくる。反射的に両腕で防ぐ。


 このとき、戦うことに慣れていないせいで目をつむったのが幸いした。


「うわああ!」


 両腕の隙間からおびただしい熱気が顔面を襲う。たまらず後ろに転がり込む。


 見ると防御した両腕の籠手の布が燃えていた。慌ててはたいて火を消す。


『目を閉じていなかったら眼球が焼かれていたかもしれない』


 ――不意に気づく。


 この籠手は何だ?


 このおじさんは誰だ?


 ここはどこだ?


 なぜ燃えた?


 そのとき卓人は見た。


 男がかざした左手に、紡ぎあがるように炎が収斂していく様を。


 錬成された炎はみるみると大きさを増していく。


 さっきのは瞬間的で火傷も軽度のものですんだが、これを受ければ全身の表皮が焼かれて皮膚呼吸ができずに死んでしまうことだろう。


 男はそれを卓人にたたきつけんと左手を振り下ろす。


『……それは、物理的にあり得ないだろ?』


 理解できるとかできないとか以前の問題だ。


 これはやばい。


 わたわたと無様に逃げるしかなかった。でも、こうして無防備な背中をさらすのはまずいのではないかと思った瞬間だった。


 白い光が横から呑み込まれた。


 わずかに遅れて轟音が生じた。


 敵は閃光の中に溶け、一帯は吹っ飛んだ。卓人の肉体も重力とは逆方向の加速度によってどこかへ投げ出された。


 青い空が近づき、重力から解き放たれたと思った。


 目下には、焼ける大地の上で何百、何千という人々が入り乱れて戦う光景が広がっていた。


 それは戦場だった。


 そして、遠くには見たこともないような大きな灰白色の壁が雪を頂いて続いているのが見えた。


 山脈――――?

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