第36話暗い森のなかのオーガ
持ち出せるだけの荷物を抱えた人々と共に、スーリヤは街を出た。
急ぎ足で暗闇を歩くが、それでも馬に比べればだいぶ遅い。子供も連れた一団であるから、大人の歩調で急ぐことも出来ない。はやる気持ちを抑えつつも、スーリヤは背後を振り返った。
街を守るために背が高い壁が見えて、スーリヤは今更ながら恐怖心に震える。人間を守るための壁から離れてしまったのだと実感するからだ。
それを押し隠して、スーリヤは歩き続けた。
もはや、後戻りはできない。
スーリヤは自分のために、街の人々を騙している。リーリシアの話を聞いた時に、彼らに協力することが自分の利益に繋がると思ったのだ。そして、同時に町を救うための一手になるとも思った。
だからこそ、話に乗った。
これは、自分の判断だ。
スーリヤは、オーガに対して対抗する手段を持たない。街にオーガが踏み込んできたら、襲われないことを祈るしかなくなる。そして、街の様子からして防御は万全ではないだろう。
だが、リーリシアたちに協力すれば身を守ってもらえる可能性があるのだ。これにかけない手はない。
「私は、私を信じる。それが、私の人生よ」
神など信じない。
伝承など捨てる。
これこそがスーリヤの人生だ。
「いやぁ!」
前方から、女性の悲鳴が聞こえた。街から出てきたおびえた獲物を狩るために、暗闇に紛れてオーガが姿を現したのだろう。悲鳴が響いた瞬間に、人々の身体は一瞬だけ硬直した。そして、我先にと街に向かって引き返す。
進行方向にオーガがいるのならば、武器も持たずに突破は出来ないと判断したのだ。その判断は正しい。なにせ、次の集落までは距離がある。出たばかりの街に戻った方が、まだ生き残る可能性があった。
暗がりのせいで悲鳴を上げた女性の姿もオーガも確認は出来なかったが、スーリヤは落ち着いていた。全てが予想通りの出来事だったからだ。
スーリヤが人々に声をかけて、小さな集団になって街を出る。獲物となったスーリヤたちをオーガは見逃すはずはないだろうと聞いていた。
「たっ、助けてくれ!殺される!!」
男の悲鳴と共に、スーリヤはオーガの姿を初めて見た。
大柄な男性を思わせる背丈だが、身体中が固い筋肉に被われている。手足こそは人間よりは短いが、オーガの腕力を持ってすればリーチなど必要ないのだろう。
「いやぁ、こっちにもでたぁ!!」
響く悲鳴を聞きながら、スーリヤは味方を待ち続ける。彼らに自分の命と騙した人々の命を賭けたのだ。来てもらわなければ困る。早く来い、とスーリヤは心の中で念じた。
その時であった。
風が吹いたのだ。
スーリヤの隣を通り過ぎた風は、男性の悲鳴がした方向に向かっていく。スーリヤが見たときには、オーガは首から大量の血を噴き出していた。その出血量に苦しみ、オーガの醜い断末魔を上げる。
「やった……。作戦が成功したんだわ」
スーリヤは、その場に座り込んでしまった。オーガを暗闇のなかで殺し回っているのは、女性の剣士のシリエである。彼女は身軽さを生かして、夜の闇を誰よりも素早く走り抜けた。そして、オーガたちがシリエの動きに戸惑っている内に切り捨てる。
オーガは人間と同じく、日中に活動するモンスターだ。そのため、夜目は人間同様に効かない。それでもまったく見えないというわけでもないので、人間を侮ったオーガたちはいそいそと狩りにやってきたのだ。それが、罠とも知らないで。
スーリヤは、オーガを誘き寄せる囮になれと言われていた。誘われたオーガはシリエが刈り取るとは言われていたが、初対面の人間を信じることはスーリヤであっても勇気がいった。騙されたら死ぬことは理解していた。
それでも、彼らを信じた。
「賭けには勝ったわよ。私は、私の未来を掴み取った」
スーリヤの脳裏に浮かんだのは、伝承を信じて死んでしまった仲間たちだ。あの時の仲間たちは、スーリヤのことを何と思いながら死んだのだろうか。
伝承を信じずに逃げた裏切り者を怨み、怨嗟の声を上げたのだろうか。それとも己の運の悪さを嘆いただけなのか。
「私は正しい。信じられるのは、自分の判断だけ」
スーリヤは、呪文のように自分の信条を唱える。それは自分に言い聞かせるようなふうでもあり、遠い昔に死んでいった仲間の亡霊を振り払うためでもあった。
「あれ……」
スーリヤは、目の前の闇が動くのを見た。それは、闇ではなかった。音もなく潜んでいたオーガが、スーリヤの前に姿を現したのだ。
今まで隠れていたということは、群れのなかでもよりいっそう弱い立場のオーガなのかもしれない。歳を取り過ぎていたり、怪我をしていたり。様々な理由はあるだろうが、普通の戦いでは狩りも出来ない個体のはずである。
囮にした人々は簡単に狩れると判断して、この場には弱い個体しかオーガたちは寄こさないはずだとリーリシアは言っていた。そのなかでも最弱のオーガだとしても、スーリヤにしてみれば脅威だ。
オーガは足を引きずっているが、こん棒を持っている。走れば逃げられるのかもしれないが、今になって恐怖で足がすくんでいる。シリエの登場で、一時でも安堵してしまったせいなのだろうか。
「た……助けて」
スーリヤは小さく呟いたが、周囲には誰もいなかった。
住民たちは街の方に逃げ出して、大多数のオーガはそれを追っていった。シリエはオーガ追って、走って行ってしまったのだ。つまり、スーリヤは群れからはぐれた羊になっていた。
「……そんな嘘でしょう」
判断を間違えてしまったのだ。死んだ仲間のことで感傷に浸っている暇などなかったのである。周囲をもっと見るべきだった。
「私は間違えた……間違えてしまった」
スーリヤは絶望した。
自分で下した判断で死ぬのである。
何も怨めない。
誰のせいにも出来ない。
自分に襲い来る死は、神のせいでも伝承のせいでもないのだ。スーリヤは自分自身が判断を誤ったせいで、オーガに殺されるのである。
「私は……−−!!」
スーリヤは、血を浴びる。それが自分の血でないことに、スーリヤは驚くことしか出来なかった。
彼女の身体を濡らしたのは、オーガの血液だ。そして、首と胴体が離れた死体の向こう側には青年がいる。
あまりにも美しい青年だ。
半開きの目の色は空色。
血を被った髪すらも空色。
「最強の勇者……イア。本当に……本当の……本物だっていうの」
実のところは、スーリヤはイアが本物かどうかは半信半疑だった。竜と名乗る人間を連れていても、最強の勇者まで本物とは限らないと考えていたのだ。
けれども、今この時に確信した。
この空色の青年は、勇者イアである。
血塗れのイアは、スーリヤに手を差し出す。彼が、一瞬だけ微笑んだような気がした。
優しい微笑みに、スーリヤは年甲斐もなく頬が熱くなるのを感じる。初心な乙女なような感情が沸き上がり、この瞬間に自分がイアに恋をしたのだと確信した。
スーリヤは、イアに手を伸ばす。その手が届く前に、イアは踵を返した。呆気にとられるスーリヤであったが、闇夜に響きわたるオーガの断末魔がすぐに聞こえてくる。
イアは、残りの人間たちを助けるためにスーリヤを置き去りにしたのだ。思い切りの良さと紳士的なように見えて冷淡な行動に、スーリヤはぞくぞくする。
自分を甘やかしてくれる男も好きだが、いけずな男を追いかけて食ってしまうのも大好きだ。
「勇者が欲しい。あの子の身体も心も……全てが欲しくてたまらないの」
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