第25話幼い姫君は空色の初恋を知る



 まだ夢の世界にいるような半開きの空色の瞳は、イアの所業を知る者ものならば背筋が寒くなる色である。敵を血みどろにしかねない狂気の色だ。


「先祖返りは、瞳まで変色していると聞いてはいたけれども……。ここまで、美しいだなんて」


 しかし、ロージャスの母親はイアの暴走を知らない。彼女は吸い込まれそうな瞳に息を飲んだ。貴族の夫人として数多くの宝石を見ていたが、これほどに魅力的な青をロージャスの母は知らない。


 それは、父親も同じであったらしい。彼は立ち上がって、身を乗り出してまでイアに近付いた。もっとよく見ようと手を伸ばし、瞳と同色の前髪を無遠慮にかき分ける。


「……素晴らしい。まさに、青天としか言いようがない色だ。王家の至宝のサファイヤでさえ、この瞳の前ではかすむ。この瞳に魅入られ、欲し、えぐろうとした人間は何人いたのだ?魔性としか言いようがない」


 ロージャスの父親の親指が、イアの瞳に伸びようとしていた。寸前に「抉る」という言葉が聞こえてきたので、ルファは不安になった。伯父の身体を引き寄せて守ろうとしたが、その前にロージャスの父親の手首がイアによって掴まれる。


「伯父さん、ダメだ。離せ!!」


 ルファの制止の声も虚しく、イアはいとも簡単に父親の手首を折った。折れた骨の痛みに、ロージャスの父親の悲鳴が響き渡る。イアが手首を離さないせいで、机の上でのたうつ夫の姿にロージャスの母親は悲鳴をあげた。


「伯父さん、手を離してくれ!ここには敵はいないから。お願いだから、離せ。この人たちは、こんなんでもロージャスの大切な家族なんだよ!!」


 ルファは力いっぱい叫んで、ロージャスの父親の手首からイアの手を離そうとした。だが、イアの手の力は強く、ルファでは敵わない。


 母親が亡くなった時の事を思い出しながら、ルファは声が枯れるほどに叫んだ。流行病にかかった母は「歳には勝てないわね。若い頃は病気の方が逃げて行ったのに」と高熱のために汗をかきながら笑っていた。


 同じ症状を訴えた他の町人が、次々と亡くなっていったことをルファは知っていた。自分の母親は先祖返りだから大丈夫だろうという考えはあったが、同時に人は何時か死ぬのだという悲観的な考えも浮かんでいた。


 日に日に病状が悪化していくなかでも、母は「ルファ、あなたの伯父さんはね……」と自分の兄の話を我が子に聞かせた。意識が朦朧とし、最後の時が近づいたときには「兄さんのこと待ってあげて。あの人の家族でいてあげて」と言って息を引き取った。


 その時ほど、顔も知らない伯父を強く意識したことはない。


 母が亡くなり、いつ帰るかもしれない伯父と二人っきりの家族になってしまったのだと。


「あんたにとって俺と母さんが大切だったように、ロージャスにとってはこいつらが大切な家族なんだ。だから……お願いだから、殺すな」


 すがりつく、という言葉が適切だった。


 ルファは、伯父を止めようとして必死だったのだ。


 やがて、イアの手の拘束が緩んだ。ロージャスの父は逃げるようにイアから離れて、荒い呼吸を繰り返す。その目には貴族のプライドなどなく、イアという怪物に怯える人間でしかなかった。


 一方で、くたりと力が抜けてしまったイアの事をルファは咄嗟に抱きとめた。見た目以上の重みに倒れそうになったが、力の限り踏みとどまろうとする。


 小さな声が聞こえた。


 男性にしては少し高い声だが、女性ではありえない声。一度聞いたら忘れることすら出来なくなるような柔らかい声が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「こどもの……無力に付け込むのは……ずるいよ」


 ルファは、イアの寝顔を見つめた。


 一度も聞いたことがないが、これは伯父の声だと思った。けれども、イアは安らかに眠り続けている。


「周りの事を分かってはいると思っていたけど……喋るのは初めてだ」


 今までは殺戮を繰り返すばかりで、喋る気配もなかった。


 明確なイアの変化に、ルファは驚くしかない。


「お父様、お母さま。今の悲鳴はなんですか!」


 ロージャスが客間のドアを開けて、飛び込んでくる。彼女の目に映ったのは骨折の痛みに耐える父親と腰を抜かしてしまった母親だった。


「なにが……。なにがあったのですか」


 見たこともない両親の姿に、ロージャスは衝撃を覚える。物心ついてから自分をずっと抑えつけてきた両親は、逆らえない存在だった。そして、見習うべき高貴な人間のはずだった。


 なのに、今の彼らは痛みに負けて、恐怖に負けている。


 他者を抑圧し、人の上に立つ高貴な者たちの威厳と面影はない。


「お父様もお母さまも……。どうして、ルファ様達に怯えるのですか?彼らは、こんなにも親切な方々なのに」


 小さな町で育ったルファたちに怯える両親の姿に、ロージャスは気がついてしまった。今まで逆らうことなど出来ない大きな存在だと思っていた両親は、市民と全く同じ存在であるのだ。


 恐怖におののく、ただ人でしかないのだ。


「繁殖期さえ迎えていない自分の娘を他の雄に差し出す人間の癖に、随分と我らと勇者を馬鹿にしてくれたな」


 炎の色をした髪を振り乱したと思うとリーリアスの姿は変わっていた。その姿は、いつもの赤いトカゲではない。


 彼の姿は、もはや爬虫類とは呼べなかった。


 成人男性ほどの大きさになり、赤いトカゲの姿よりも足は太くなった。その代わりに手は華奢になって、首が少しばかり伸びる。翼の内側が黒い特徴は残しており、それがなければ誰もリーリアスだとは気づかない姿だったであろう。


 今の彼の姿は、巨大な邪竜のミニチュアだ。


「今は屋敷が壊れるから、気を使って大きさを変えている。我の本性は、山よりも巨大だからな。ああ、勘違いはするな。人間たちの決まりでは家を壊したら弁償すると聞いているから、勇者と甥っ子に気を使っているのだ」


 リーリアスの変化にシリアも驚いていたが、変なところで気を使う邪竜に毒気を抜かれしまった。過去に家を壊そうとして、ルファにしこたま怒られた経験でもあるのだろうか。


「幼い姫君、お前は今から我の巫女だ。成人するまでは、我がお前を守ってやろう。無論、これは勇者がお前に心を砕いたからだ。お前は成人するまで勇者に感謝をし、その後は……自分で決めればいい」


 ロージャスは大きな瞳をさらに見開き、竜と眠ったままの勇者を見ていた。


「そこの獣以下の両親よ。我の巫女が成長しきる前に卵を産ませようとしたら、お前たちに抗議しよう。安心しろ。我は、常識的な邪竜だからな。お前たちが巫女を邪険に扱わない限りは、何もしないでおいてやる」


 ロージャスの両親は、リーリアスの姿に何も言えなくなっている。目の前の男が、竜の姿に変化したら呆然とするしかないだろう。シリエだって竜の正体がリーリアスでなければ、慌てふためいていたはずだ。


 ロージャスの両親の姿に、リーリアスはわざとらしいほどの落胆を見せた。


「威張り腐っているからよっぽど豪胆なのかと思ったが、ネズミより小さな肝だな。いいや、ネズミだって追い詰められたら猫を噛むぞ。ああ、つまらぬ」


 ロージャスは、眠り続ける勇者イアに近付く。


 足取りはゆっくりしたものであったが、恐れ故の歩みの遅さではなかった。


「この方が、私を憐れんでくれたのですか?」


 子供らしくないロージャスの問いかけに、ルファは首を振る。


「この人は、一番大切なことを知っているだけだ。…この人は俺の伯父で、最強の勇者イアその人だ。誰にも負けないし、全てを愛する心を持っている。伯父とリーリアスが、お前を成人まで守ると言った。お前は、婚約なんてしなくていい」


 その言葉に、ロージャスは崩れ落ちた。


 涙をぼろぼろと流して、しゃくりあげる。


「私は……行かなくていいのね。あんな人のところに、行かなくても」


 その泣き顔は、ロージャスが見せた唯一の子供らしい表情である。それが、とても可哀そうだった。


「私は、あんなおじちゃんはイヤです。婚約をするならば、イアみたいな綺麗な人が良い!!」


 ロージャスは、悲劇の嘆きと幼い憧れを叫んだ。幼い初恋の発露と共に、ロージャスはイアに抱き着いた。目覚めない勇者の胸に顔をうずめて、大声を上げてロージャスは泣き出す。 少女の初恋に対しては、さすがのリーリシアも何も言わなかった。


 この初恋は、ロージャスが自分で掴み取ったものである。いつかは思い出になる初恋であろうが、この恋はロージャスの生涯の宝になるはずだ。


「イア様が、目覚めないご病気にかかっていることは知っています。私とは年が離れていることも……。けれども、いつか目が冷めたのならば私の気持ちを聞いてください」


 ロージャスは、眠ったままのイアに顔を寄せる。そして、勇者の頬にキスをした。


 大人になる前にだけ体験できる汚れのない、幼すぎる口づけ。


 その口付けを受けた勇者イアは、物語の姫君のようには目覚めない。それでも、頬を染めるロージャスは満足そうだった。


「目覚めたら聞いてください。私の恋心のことを」

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