第6話最強勇者を身内に持つという事は
ルファは、無言でコップを拭いていた。
客人用の部屋にシリエを案内し、酒場としての営業も終わった。後片付けをすませれば、今日は寝るだけである。
いつもならば明日のメニューを考える時間でもあると言うのに、今日に限っては気が乗らない。料理は好きな方だと思っていたのだが、今の自分は随分と駄目になっているらしい。
「あの赤毛の女の話に、思う事でもあったか?」
いつの間にかリーリシアが、ルファの隣にいた。その姿は、日中の赤いトカゲでのものではない。リーリシアは、長身の男の姿を取っていた。
野性味のある顔が乗っているのは、鍛えられた肉体である。癖がついたオレンジに近い炎色の髪を伸ばしっぱなしにしている姿は、遠い国にいるという獅子に思い起こさせる。自分と同じ三十代の男だというに随分と見た目に差があるなとルファはいつも思う。
「甥っ子は、さぞかしコンプレックスを抱えた少年時代を過ごしただろうな。勇者の身内に生まれながら、凡庸な自分を認めるのは辛かっただろう。いいや、自分が失敗作だとも感じたはずだ。だからこそ、赤毛の女の話に同情を……」
リーリシアは、最後まで言い切ることが出来なかった。ルファが彼の頭をフライパンで思いっきり殴ったからである。油断していたリーリシアは、その衝撃で尻もちをついた。
「うるさいぞ、爬虫類。あんまり言うと明日の飯はないからな」
凶器となったフライパンを洗い終えたルファは、濡れた手を拭いた。
「俺は、自分の器以上のことを望まないようにしている。勇者の甥とか、そういう問題は解決しているんだよ。色々と考えたのは若い頃の話だ」
最強の勇者イアという名前は、常にルファの人生にちらついていた。母親は伝説になった兄の思い出ばかり語っていて常に夢見心地だったような気がするし、そんな母が父は嫌になったに違いないと幼少期のルファが考えていた。
ルファの父親は、各地を転々とする商人であったという。母と結婚しても商売の形態は変えず、色々な土地をめぐっていたらしい。だが、ルファが幼い頃に父は家に帰ってこなくなった。
周囲の人々は、父は盗賊かモンスターあるいは野生動物に襲われたのだろうと言った。けれども、母との生活が嫌になって父は出て行ったのだとルファは考えている。母の思い出話に父の登場する機会は少なく、兄のことばかりを語っていた。
母の心は自分の兄の元にあって、夫の元にはなかった。
父は、そんな母を愛せなくなったに違いない。ルファは子供の頃から、そう思っている。
「……たしかに、勇者イアの存在は大きかったけどな」
父がいなくなった原因を会ったこともない伯父に押し付けながらも、伝説となったイアに憧れに似た気持ちがあったのは確かだ。大人になればイアのような活躍が出来るのではないかと無邪気に信じていた時期もあった。
しかし、少し成長すれば理解した。
自分は、母や伯父とは違って先祖返りではない。魔法を使うことも出来なければ、優れた身体能力もない。ルファは、無才のただ人だ。
華やかで冒険活劇のような人生は歩めないし、勇者の甥として期待されたとしても応えることができない。常人は故郷で静かに暮らし、静かに死ぬべきだ。
幸いにして、町の人々はルファに高望みをしなかった。
伯父と母という先祖返りを二人も見守ってきた町人たちは、彼らの人間離れした能力を熟知していた。そして、普通の人間では近づく事ができない存在だと理解していたのだ。
それほどまでに、先祖返りの能力は常識を逸脱している。
女性であるルファの母親でさえ、その力は人間を逸脱していた。
幼少期の母は、異常な怪力を持った悪童だったらしい。彼女の幼馴染たちによると「あいつは子供の頃は牛を持ち上げて、豚を投げつけてきて、鶏を引き裂いた」という悪鬼のような所業を繰り返していたという。
男と喧嘩をすれば必ず復讐し、町に熊などの猛獣や悪人が入り込めば相手が血反吐を吐くまで馬乗りになって殴った。
そして、そんな妹の尻ぬぐいをしていたのが伯父だったという。伯父は、妹が何か事件を起こす度に謝罪に周っていた。そのせいもあって、伯父は母とは違って人格者と言われていたらしい。伯父が自分の力を振るうのは、町に危険が訪れた時だけだったからだ。
常識を超えた力を持っている上に、己の力を律することが出来る人格者。そして、神に選ばれたとしか思えないような美貌。そんな人間に憧れたところで、何一つ得るものはない。
シリエだって、そう考えればいいのだ。
自分は無才で何もできなくて、ごくごく平凡に生きて、死んでいくだけの人間であるのだと。そうすれば、生きやすくなる。
「念のために聞くが、人を殺せない人間が殺せるようになることってあるのか?」
不死になっていた時期があったせいで長生きしているリーリシアは、実に様々な事を知っている。三十年そこそこしか生きていないルファよりも、少なくとも物知りだ。
「追い詰められたら分からないが、基本的には殺せないだろうな。赤毛の小娘は修道院で育ったと言っていたし、そこで厳しく人はこうあるべきという倫理観を教わったのだろう。それは、赤毛の小娘の下地になっている。人間は幼少期に学んだ下地を塗り替えることが難しいからな」
リーリシアの返答は、想像できていたことだった。
人が簡単に人を殺せるようになるというのならば、この世は人殺しで溢れているだろう。普通の人間は、他人を殺すことに強い忌避感を覚える。シリエは、普通の人間だった。それだけの話なのだろう。
「赤毛の小娘に、あまり引っ張られるなよ。我は我なりに勇者の甥を心配しているのだからな」
リーリシアは欠伸をして、自分の部屋へと向かっていった。
その背中にコップを投げつけてやりたかったが、割れたら面倒くさいと考えてルファは止めた。もしも投げることが出来たのならば、それは無鉄砲な若さの証明になったかもしれない。
ルファは、そんな下らないことを考えてしまった。
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