4章「変わっていく気持ち」
年が明けた。今年から、俺は正式に恋蛍楽器修理工房の跡継ぎとして責任者となる。それは、とても恐ろしいことだった。本当にこんな若い俺で良いのか、新庄さんの方が安心なのではないか、と言ったけど新庄さんは大丈夫だよ、と言ってくれた。責任を全て押し付けるつもりはないし、これからも皆で協力しながら工房を経営していこう、と。その言葉は、俺を安心させてくれた。
博くんと愛菜さんの件があってから、俺たちを纏う空気は良いものになった。博くんと碧も前ほど喧嘩をしていない。仲良し……とまではまだいかないかもしれないけど、それでも工房内の空気は良かった。しかし、空気とは別のところ……目を背けてはならない経営面の方は、あまり良くはなかった。芸術の秋が過ぎた冬は、ほとんど予約が入らない。工房で待っていても客が入らないので、人手不足のチェーン店などに出張に出向いてもらっていた。新庄さんを始めとする、ここに努めているリペアマンたちは皆、とても腕が良くどこに出ても通用するのだ。たぶん、他所からうちに来ないかと声がかかっている人たちもいるはずだ。皆が集まらない工房は寂しいけれど、それぞれ生活がかかっているのだから、そんなことも言ってはいられない。仕事を分けて貰えるのはありがたい話しだった。
「今日は、三人だけになっちゃうけど大丈夫かな?」
「大丈夫ですよ。安心してお手伝い行ってきてください」
「あぁ、ありがとう。何かあったらすぐに連絡してね」
「はい」
行って来ます、と新庄さんは母校の大学のお手伝いへと出向いていった。そうして、工房内には俺と碧、博くんの三人だけが残った。
「真日那、これから何か仕事あるー?」
「うん、こういう時に細かい部品とかの在庫確認と、整理や発注しとこうかなって思ってる」
「うわーオレが一番嫌いなタイプの仕事だ」
「あはは、碧は単純作業が苦手だもんね」
「そーそー。じゃあ、そっちは真日那に任せて、オレは営業に行って来ようかな」
碧はそう言いながら、机の上の片付けをして出かける準備を始めた。
「うん、営業は任せるよ~」
工房に直接仕事が来ない今、自ら営業も行っていた。近くの学校や市民会館など楽器を扱っている施設に、うちと連携を取ってくれないかという営業だ。だけど、大体の所は大手チェーン店と組んでしまっているから、営業はなかなか厳しかった。チェーン店から、仕事も回ってくるのでそれでも良いとは思うけれど、自分たちの力だけで工房を経営していきたいのが本音だった。助けてもらっている側なのだから、そんな考えを持つのはおかしいとは分かっているけれど。
「寂しいねぇ」
「そうか? 静かで良いと思うけど」
博くんは相変わらずだった。愛菜さんから、俺たちと仲良くしてねと言われていたけれど、そうすぐには変わらないか。すぐに変わられてもこちらも、動揺してしまいそうだし、このくらいが丁度良いのかもしれない。そんなことを思いながら、俺は部品の在庫管理を始めた。俺は、碧とは反対にこういった単純作業が好きだったから全く苦には感じない。博くんは、知人からお願いされていたユーフォニウムのリペアを行っていた。トランペット専門ではあるが、他の楽器が出来ない訳ではないのだ。二人しかいない工房内は、とても静かだ。そんな静かな空間で、博くんが立ち上がる音がやけに響いた。
「休憩行って来る」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
どうやら仕事を終えたらしい博くんは、自分のトランペットの入った楽器ケースを担いで、休憩へ向かった。
「博くんの休憩は、休憩じゃないのが困りもんだよなぁ……」
休憩と言いながら、一瞬でご飯を食べ終えた後は、ずっとトランペットを吹いているそうだ。休憩時間だから好きにしてくれて良いのだけど本当は、ちゃんと休んで欲しい。
「ふぅ……俺も、休憩入ろうかな」
ここの棚に入っている物の確認は終わったから、キリが良い。立ち上がり、休憩室に向かう途中普段はあまり目に止まらない所に目が止まった。
「壁、劣化してるなぁ」
壁だけでなく、床もだいぶ傷んでいる。前に聞いた話だが、数年前の大地震の時にだいぶやられてしまったようだ。その後、地震が起きる度に小さなひび割れが出来ているという。引っ越しをすれば良いのに、と言った記憶があるがそんな簡単にここを手放すことは出来ないと皆、言っていた。俺はまだ、ここに来て浅いから皆ほどの思い入れがある訳ではないけど、皆はもうずっとここで働いているのだから、離れるなんてきっと無理なのだろう。
「せめて、リフォームとかなんかできれば良いんだけどなぁ」
まあ、そこに回せるお金がないのが現実だった。皆の給料をちゃんと支払って、備品類を購入して、更に建物のリフォームをするお金が入ってくれば良いのだけど……。そうなれる未来の為にも、今は目の前の出来ることをするしかない。
休憩中、スマホで他の楽器修理工房を調べて見たりした。探せば、いくつかは似たような工房が出てくる。だけど、どこもここよりかは繁盛しているように見えた。小さくても、立派な建物で劣化をしているようには見えない。
「他の所とうちの違いと言えば、やっぱり立地かなぁ」
調べてみると、他の工房は割と駅の近くにある場所が多かった。電車の駅でなくても近くにバス停があったり。それに比べて、ここは駅からは徒歩三十分だし、バス停からも十分はかかるし、丘の上にあって知らない人からは、その坂の道の先に建物があるなんて分からない。
「まずは、認知されるところからだよねぇ」
たぶん、今までは父さんの腕の良さが噂されて、それを一目味わいたくて来ている人とかもいただろう。そこから常連になってくれた人や、来てくれた人たちからの口コミとかで広がって何とか今もこうして工房を続けられているのだと思う。だけど、今この工房には、父さんのような存在がいなくて、ひっそりと知る人ぞ知る工房になってしまっている。
「そう言えば、うちってSNSとかやってないよね……?」
公式のホームページはあるけれど、積極的に宣伝をしていないように感じた。今のまま、続けていけたら良いと思っているのかもしれないけど現実は厳しい。今までしてきていない行動を、しなければいけない時が来たのだと思う。しかし、SNSなんて個人的にすらやっていないし、見ることもないから勝手が分からない。こういうのは碧の方が得意そうだし今度相談をしてみよう、と思った。
ちょうどその時だった。ポケットに入れていたスマホの着信音が鳴った。あまり、電話なんてかかってこないスマホだったので、不思議に思いながら取り出してみるとそこには『葛城碧』と表示されていた。
「もしもし?」
『あ、真日那! 悪りぃちょっと、オレと博、事故にあっちゃって……』
「え⁉」
予想外の言葉に、俺の心臓はバクバク煩く鳴り響いている。
「事故って、大丈夫なの? え、なんで二人で? 博くんはさっき休憩行って、碧は営業で駅前の方に行ってたんだよね?」
『そんな大げさなもんじゃねーから、あんま心配しなくてへーき。オレが、ちょうどそっちに戻るのと、博が休憩に向かう時だったのかな、偶然バス停付近の交差点で落ち合って、そん時にバイクが突っ込んできて……あ、でも咄嗟に避けたから! 怪我はオレが捻挫したくらいで、博はしてない。ただ、トランペットが壊れちまって、博が抜け殻みたいになっちまって動けねー。悪りぃんだけど、病院まで来てもらって良い? オレ、松葉杖つかねーと歩けねーから、博支えらんねーんだよ』
「わ、分かった。いったん新庄さんに連絡入れて工房閉めてから向かうね。暖かい所で待っててね」
『おーさんきゅー』
じゃあ、またねと言って通話を切った。俺が、工房に来てからこんな騒動は起きたことがなかった。上手く伝えられるか心配だったが、一度深呼吸をして心を落ち着かせてから、新庄さんに電話をした。新庄さんは、すぐに電話に出てくれた。
『もしもし?』
「あ、新庄さんお疲れ様です。すみません、急に電話してしまって……」
『いや、大丈夫だよ。何かあった?』
「それが……」
それから、ゆっくりと状況を伝えた。碧と博くんが事故にあってしまったこと。碧は捻挫をしてしまったが、博くんには怪我はない。だけど、トランペットが壊れてしまい放心状態で動けなくなってしまっていること。
「工房閉めて、病院に向かいます。今日は予約も入っていないですし、大丈夫だと思うんですが、こういう時って鍵は俺が持っていて平気ですか?」
『うん、大丈夫だよ。念のため臨時休業いたしますって書いて張り紙を貼っておいてくれるかな。今日は、真日那くんたち以外は直帰になってるから。一応皆にも知らせておくね』
「ありがとうございます、分かりました」
『いや、僕がすぐに駆け付けに行けなくてすまないね』
「いえ……二人のことは俺に任せてください。それでは」
電話を切ってから、ほっと息を吐いた。上手く伝えられて良かった。任せてください、なんて言ったけれど本当は、不安で仕方がない。当然だろう。碧はいつも通りな感じで話していたけれど、実際に姿を見てみないと心から安心はできない。
「怖いけど、向かわないと」
玄関前に張り紙を貼って、俺は病院へと向かった。
碧と博くんは、病院の入り口付近にある椅子に座っていた。
「碧……っ、博くん!」
二人の姿を確認して、俺の心臓のドキドキはようやく少し落ち着いた。
「おー悪りぃな」
碧はいつも通りの笑顔で、なんてことない感じでそう言った。
「ううん。大丈夫なの?」
「オレの方は見た目ほどひどくはねぇから。問題は博、かな」
そう言われて、博くんの方を見れば博くんは、心ここに非ずと言った感じで、トランペットの入ったケースを抱き締めている。
「バイク側の人や、先生がいる間はまだマシだったんだけど、二人になった途端こんなになっちゃって」
「そう、だったんだね。ひとまず、工房に戻ろうか。話しはそれから聞かせて」
すぐにでも詳しいことを聞きたかったけれど、二人とも疲れているだろうし工房の方が、ゆっくりと出来て良いだろうと思った。
「そーだな」
「博くん、そこまで歩けるかな? タクシー乗って帰ろう」
そう言葉を投げかけるが、博くんは目を合わせてくれない。その目は、ずっとケースを見つめている。博くんにとって、トランペットがとても大切な存在なのは分かっている。それでも、まさか壊れてしまっただけで、こんな風に人が変わってしまうなんて驚いた。
「力にはあまり自信ないけど、タクシー乗り場まで頑張るしかないか……」
ぼんやりしている博くんから、ひとまずトランペットのケースを奪いそれを左手に持ち、博くんを半分背負う形で歩き出した。
「何も手伝えなくて悪りーな……」
「気にしないで。碧も気を付けて歩いてね」
「おー」
碧は、そう返事をして松葉杖を器用に使いながら俺の後をついて来た。本当に見た目ほど痛みはないようで、思っていたよりも歩けていてほっとした。出入口の前に、タクシー乗り場はあるのに、ひどく遠く感じる。幸い、すぐにタクシーを拾うことが出来、ゆっくりと乗り込み行き先を告げた。タクシーの中は、無言だった。色々と問いたいことはあるが、博くんは心ここに非ずだし碧も、大丈夫とは言っていたけど少し疲れた顔をしている。その証拠に、こんな短い間に碧は眠ってしまっていた。
「碧、そろそろ着くよ」
「あーーオレ、寝てた?」
「うん。そのまま家に帰したいけど、新庄さん戻って来るみたいだから顔見せてあげて欲しくて……」
「だいじょーぶだって。新庄さんにも、心配かけたしな。あったこと話すくらいへーきだから」
「ありがとう」
それからすぐにタクシーは工房前に着いた。工房の玄関はすぐ目の前だが、ここからソファのある休憩室に向かうまで、また少し歩かないといけない。
「後少しだから、がんばろー」
気合を入れておかないと、すぐにへたり込んでしまいそうだった。自分と同じくらいの背丈の男を背負って歩くのって、こんなにも大変なのか。
「博くんには、今度何か奢ってもらおうかな」
「そうしようぜ~」
きっと、この会話も今の博くんには届いていないのだろう。いつもなら、絶対に文句が飛び込んでくるだろうに……何も言葉は放たれなかった。
「着いたー」
博くんを座らせて、トランペットケースは物置台の方に置いた。碧は、隣のソファにふぅと息を吐いて腰を下ろした。
「ちょっと、お茶淹れてくるから待ってて」
話しはそれから、ゆっくり聞こう。そう思いながら一度部屋を出た。お茶を淹れて戻ってくるまでの数分の間に、事態は急変していた。
「トランペットがない……っ俺のトランペットっ」
さっきまでぼんやりしていた博くんが、子どものように泣き叫んでいるのだ。碧が、そんな博くんのことを必死に宥めている。
「壊れちゃったから捨てられた……っ⁉」
「博、落ち着けって」
「ごめん、俺が博くんにケース持たせなかったから……」
すぐに、物置台に置いていたケースを博くんの目の前に置いた。
「良かった……っ」
ケースを勢いよく開けて、博くんはトランペットをぎゅうと抱き締めた。そのトランペットは、確かに昨日見た時よりもひどく凹んでしまっていた。
「どうしよう……」
「ねぇ、博くん。ちょっとだけトランペットに触れても良いかな?」
「おい、真日那、良いのか……?」
「うん。博くんだって、俺の大切な友達だから。きっとこの力を知っても、大丈夫だって思ってる。それに、何より早く安心させてあげたいんだ」
博くんは今、冷静な判断が出来なくなっている。トランペットは確かに凹んでしまってはいるが、リペアをすれば直ることは普段の博くんなら分かるはずだ。
「真日那が良いなら、オレは何も言わないよ。まあ、もしこいつがお前を貶すようなこと言えば殴るかもだけど」
「大丈夫だよ、きっと」
博くんは、俺たちが話している間もトランペットを抱き締めたまま俯いてしまっていた。俺は、博くんの腕の中にあるトランペットに、そっと手を触れた。
ゆっくりとトランペットの想いが伝わってくる——
『ボクは、大丈夫だよ。びっくりしたし、今は少し痛いけどでもマヒナたちの手があれば、直る傷だから。大丈夫だよって伝えてあげてね。それから、ボクを大事にしてくれるのは嬉しいけど、もう少し自分のことも大事にして欲しい。ヒロね、事故に遭った時、ボクを守ることしか考えていなくてね、自分なんてどうなっても良いって感じだったんだよ。そんなヒロをアオが庇ってくれたから、ヒロは今無傷なんだよ』
「……そう、だったんだね」
博くんらしいと言えばらしいけど、褒められたことではない。
『ボクはリペアすれば直るけど、ヒトは場合によっては死んでしまうでしょ。悲しむ人だってたくさんいる。それを、ヒロはまだ分かってないんだよ。だから、ちゃんと教えてあげてね。ヒロが、自分を蔑ろにしたのには怒っているけど、でもボクを大事に想ってくれているのもずっと知ってる。それは、すごく嬉しいよ。だから、ヒロに傷ついて欲しくないんだ』
トランペットは、優しくそう言葉を紡いだ。
『マヒナとアオがヒロの友達になってくれて本当に良かった! ヒロはちょーっと面倒くさいところあるかもしれないけど、これからも仲良くしてくれたら嬉しいな』
「博くんに嫌だって言われてもそうするつもりだよ」
俺がそう答えれば、トランペットは安心したように笑った気がした。顔なんてないのだから、そんなことは分からないはずだけど確かに嬉しそうだ、という気持ちが伝わってくるのだ。
それからはもう、トランペットの声は聞こえなくなってしまった。俺は、ゆっくりと手を放してそして、博くんの手に触れた。
「博くん」
「……」
「今ね、博くんのトランペット……ファンファーレとお話をさせてもらったんだ」
「……は?」
今の今までずっと無言だった博くんも、さすがにこの俺の言葉には反応せざるを得なくなったようで俺の目を見て言葉を発してくれた。
「意味、わかんないんだけど?」
その声は、戸惑っているような怒っているような微妙な雰囲気だった。博くんと友達になる前の俺なら、ここでびびってしまったいただろうけど今は大丈夫だ。博くんは無愛想で分かりにくいところがあるけど、本当は優しい人だって言うのを知っているから、だからトランペットの言葉を、想いをちゃんと伝えてあげないといけない。
「信じられないのも無理はないし、俺だって未だによく分かっていないんだけど……俺には、楽器に触れるとその楽器の〝声〟が聞こえる力があるんだ」
「楽器の、声……?」
「うん。父さんが死んだ日の夜にね、その力が宿ったんだよ」
それから、この力について俺が知っている限りのことを話した。博くんは、黙って聞いてくれていた。碧も俺たちのことを静かに見守ってくれていた。
「それは、本当の話なんだな?」
全てを話し終えた後、ぽつりと博くんはそう問いた。うん、と俺は頷きそれから、博くんのトランペットからの想いを教えてあげた。
「ファンファーレなら、言いそうだな」
「信じてくれた?」
「……まぁ、お前が嘘をつくとも思えねぇしな」
「真日那の力は本物だぞ! 真日那は嘘をついたりしない」
今まで黙っていた碧が、そう力強く言ってくれた。
「うるせーな、分かってるよ」
面倒くさそうに博くんはそう答えた。そう言えば、いつの間にか、いつもの博くんに戻っている。
「博くん、俺たちだって博くんのこと心配したし大切な友達だって思っているんだよ? だから、もう少し自分を大事にして欲しい」
博くんの瞳をじっと見つめて、そう伝えた。
「俺にとって今までは、このトランペットが何よりも大事な物だったから……だから、自分はどうなってもトランペットだけは守りたかった」
「あー⁉ お前、この期に及んでまだそんなこと言うのかよ⁉」
「うるせー、叫ぶな。今まではって言っただろ……」
少し恥ずかしそうに、俯きながら小さな声でそう言った。
「博くん……」
「……今は、そう思ってない。これからは、気を付ける。でも、すぐには変えられないと思う」
「少しずつで、良いと思うよ。そういう意識を持ってくれるだけで違うと思うから。ね、碧?」
「あーそーだな。じゃあ、まずその一歩として俺にお礼の一言くらい言ってみたら?」
「え、博くんお礼言ってないの⁉」
「言われてねぇよ。だって、こいつ、さっきのさっきまで放心状態だったんだぞ。俺が助けたのすら気づいてねぇかもな」
「えぇ……それは、さすがに気づいているでしょ」
俺たちの会話に博くんは、居心地悪そうにしていた。気を紛らわす為に、トランペットのピストンを無意味に動かしている。
「おい、どうなんだよ博」
「博くん?」
「あーもー、お前ら煩い。気づいてるに決まってんだろ。あんなデカイ声で、俺の名前呼ぶのなんて碧くらいしかいねぇんだし」
「デカイ声で悪かったな! 素直に礼の一つも言えないのかよ」
碧は、わざとらしく残念そうな声でそう言った。
それから少しの間の後、ぽつりと小さな小さな声で博くんは
「……ありがと」
と照れ臭そうにお礼を言った。
「小さすぎて聞こえない~」
「……っ! 人がせっかく勇気出して言ったのに!」
「も~博くんも碧もお互い素直じゃないんだから」
仕方ないなぁ、と二人を見て俺は笑った。
「碧、あー見えて今すっごく喜んでるから安心してね」
「おい、真日那はどっちの味方なんだよ⁉」
「俺は、二人の味方だよ。二人とも、俺にとって大事な友達で仲間だから。だからさ、本当に心配したんだよ?」
碧から、事故に遭ったと連絡がきた時心臓が止まるかと思った。父さんが死んでも、特に何とも思わなかったのに。
「二人がいなくなっちゃったらどーしようって、怖くて……っ」
とても、とても怖かった。
「真日那……ごめんな、一人で怖い想いさせて……」
「……悪かった」
「ううん、生きていてくれたから良かった」
「大げさだなーこんなことくらいで、オレは死んだりしないし」
「俺だって別に、お前に庇ってもらわなくても大丈夫だったし」
「あー⁉ お前、オレが庇ってなければ確実にオレより大けがしてたからなっ!」
「運動神経良いから絶対一人でも平気だった」
「運動神経関係ねーだろ!」
大変な目に遭ったというのに碧と博くんはもう、いつも通りどうしようもない口喧嘩を始めている。そんな変わらない二人を見ていたら安心したのか、涙がぽろりと零れ落ちた。
「真日那⁉」
「おい、大丈夫か?」
二人はすぐに俺の異変に気付き優しく声をかけてくれた。
「ごめん……っ安心したらなんか泣けてきて……っ」
ぽろぽろと涙が溢れて止まらない。こんなにも泣いたことはかつてあっただろうか。少なくともここ数年では初めてだ。ずっと、ただ淡々と日々を過ごしていたから。感情が高ぶるようなことは怒らなかった。父さんには、薄情な息子と思われるかもしれないけど。でも、仕方ないだろう。父さんに対して俺は、感情を捨てていたから。
「そんな泣いたら、目真っ赤になっちゃうぞ」
碧はそう言って、俺にタオルを渡そうとするが自分が怪我をしていてすぐに動けないことに気づき、悔しそうに博くんのことを見た。
「おい、これ真日那に渡してやって」
「分かった」
碧からタオルを受け取った博くんは、それを無言で俺に手渡した。
「ん」
「ありがとう」
受け取ったタオルで涙を拭いてから、よしと顔を叩き気持ちを切り替えた。
「ねぇ、博くん。博くんのトランペットのリペアを俺にやらせてくれないかな?」
俺は、じっと博くんの瞳を見つめて、そうはっきりと言葉を紡いだ。
「何で? 俺、自分で直せるし……」
「分かってるよ。それでも、俺にやらせて欲しいんだ。博くんの大事なトランペットをリペアさせて欲しい。そしたら、何かが変わる気がするんだ」
今日まで、色んな楽器に触れてきた。何の思い入れもなかった工房を、少しずつ好きになってきている。工房で働く皆も良い人たちばかり。碧以外友達のいなかった俺に、博くんという新しい友達も出来た。だけど俺の心はまだ、どこかふわふわしていて。まだ夢も、目標もないけれど、それが分かる気がしたんだ。大事な友達の、大事なトランペットを自分の手で直して、良い音に戻すことが出来たなら、自分を褒められるような気がした。
「お願い、博くん!」
「真日那のお願い聞いてやってよ。お前の大好きな匠さんの息子である真日那が、一人立ちしてから初めて直す楽器になるんだぞ。誇らしいじゃん」
碧にも後押しされて、博くんは分かったよ、と頷いてくれた。
「ファンファーレは、俺が初めて匠さんに直してもらった楽器でもあるんだ。俺が、リペアマンになりたいって思ったきっかけだった。今、真日那が俺の楽器をリペアすることで、何かきっかけを得られるって言うなら、お前に大事な楽器を託す」
そう言って、博くんはトランペットを俺に手渡してくれた。俺は、それをそっと受け取った。
「ありがとう、博くん、碧」
博くんのトランペットは、父さんも一度リペアした楽器……魔法の手を持つと言われた父さんがリペアした楽器を、まだ一人立ちしたばかりの俺が触れるというのは、とても緊張した。だけど、自分で決めたことだ。
きっと、前へ進むための第一歩となる。早速、リペアに取り掛かろうかと思った頃、バタバタと外から騒がしい音が聞こえてきた。
「あ、新庄さんが戻って来たのかも」
「新庄さん一人ならこんな騒がしくないだろ……」
これは面倒くさいことになりそうだ、と言うように碧はため息をついた。
碧の予想通り帰って来たのは、新庄さんだけでなく五十嵐さん、羽月さん、椿さんも一緒だった。
「碧くんっ博くん……っ!」
新庄さんは、休憩室に入って来るなり二人のことを抱き締めた。
「ちょっと、新庄さんくるしー」
「……」
「すごくすごく心配したんだからね? 碧くんは怪我、大丈夫なの?」
「あーこれ、見た目ほどひどくないんですよ」
「本当に?」
「本当ですって。ほら、松葉杖なくたって別に立てる……」
碧はそう言って、いつも通り動こうとしたが上手くいかずフラついてしまい、そんな碧を新庄さんが抱き止めた。
「本当は、けっこう痛いんでしょ?」
「……はぁ、新庄さんには嘘つけないかぁ」
「ちょっと、碧、嘘ってどういうこと?」
見た目ほどひどくはない、と大丈夫だ、と俺にも碧はそう言ってくれていた。
「嘘っつーか、言葉の綾っていうか……ほんと、仕事には何ら問題ないからさ! 手はしっかり守ったし!」
ほら、見て! 手は無傷! と碧はにこにこ笑っている。俺と新庄さんは、顔を見合わせて肩を竦めた。
「……碧くん。仕事に支障がないから大丈夫とか、手は守ったとかそういう問題じゃなくて、碧くん自信の心配を僕たちはしているんだよ。仕事に熱心なのは素敵なことだけど、もっと自分を大事にして欲しい。今回は軽傷で済んだから良かったかもしれないけど……博くんもね」
さっきから俯いたままでいる博くんに、新庄さんはそう優しく声をかけた。五十嵐さんも、羽月さんも、椿さんもうんうんと頷いていた。
「碧くんだって、博くんに同じような想いを抱いたでしょ? トランペットよりも自分の命を大事にしてって」
「……思いました」
「それと同じ。僕たちって、どうしても楽器や工房を自分のことよりも優先にしてしまいがちだけど、生きているからこそ、楽器に触れられるし工房を大事に出来るんだよ。だから、二人はこれからはもっと自分のことを大事にして。いいね?」
「はい」
碧は、新庄さんの目を見てしっかりとそう返事をした。
「気を付けます……」
博くんは、自信がなさそうだけど、でもその気持ちを少しでも持ってくれたのなら今よりかは良くなるだろうと思った。
「よし、お説教タイムはここまで! 真日那くん、今日は大変だったでしょう。明日は臨時休暇取って良いよ。碧くんも、博くんもね」
「あ、いえ、大丈夫です!」
「え?」
「俺、博くんのトランペットのリペアをすることになったんです。なるべく早く取り掛かりたいから……本当は今すぐにでもって思ってますけど、さすがに今日は帰ります」
「そっか、分かった。じゃあ、今日は皆でもう帰ろうか」
はい、と俺たちは返事をして各々帰り支度を始めた。
「……あ、あの。葛城さん」
ソファに座って待っている碧に、椿さんが緊張しながら話しかけにいっていた。
「椿くんから話しかけてくるの初めてじゃね? どしたー?」
「えっと、その、怪我直るまでもし不便なことあれば、手伝うんでいつでも言ってください……それだけ言いたくて」
その場にいた誰もが椿さんのその言葉に驚いたようで、二人のことを俺たちは凝視してしまった。椿さんが、碧と博くんのことが苦手なのは誰もが知っていた。少なくても、俺が来てから椿さんが二人に話しかけているところは見たことがないし、碧も初めてと言っている。だから、話しているだけでも珍しいのに、碧の手助けを自ら申し出るなんて。
「お、おぉありがとう。けど、お前オレのこと嫌いだったんじゃねーか?」
「……別に、嫌いなわけじゃないです。ただ、自分とあまりに住む世界が違うんで苦手なだけです。水無瀬さんも」
「そっか。じゃあ、まーなんかあれば頼むわ」
「はい、それでは、お先に失礼します」
「おつかれー」
椿さんは、さっと休憩室を出て行った。
「びっくりしたーーーオレ、絶対嫌われてると思ってた」
「私も、椿くんは絶対に葛城さんのこと嫌いだって思ってた! 何考えてるかよくわかんないヤツと思ってたけど、可愛いところあるじゃん」
羽月さんは、ふふっとおかしそうに笑いながらそう言った。
「あ、もちろん私も手助けしますからね。あまり無茶しないでくださいよ? 葛城さん嘘つくの上手ですから分かりにくいんですよ」
「はいはい、気をつけます~」
「本当に分かってるのかなぁ」
二人の会話を聞きながら、俺は小さくため息をついた。
「真日那くん、困ったことがあればいつでも相談乗るからね。あなたもため込みそうな感じするから、心配よ」
「五十嵐さん……ありがとうございます」
この工房にいる人たちは、暖かくて優しい人たちばかりでほっとする。昼間は一人不安で押しつぶされそうだったけれど、今はもう大丈夫だ。
それから、新庄さんの車で俺と碧、博くんは帰宅した。車の中で、どうやら俺たちは爆睡してしまっていたようだ。俺の家が最初で、静かに起こされた。
「真日那くん、着いたよ」
「……あ、すみません。寝ちゃってましたか?」
「うん。無理ないよ。碧くんと博くんも寝てる。今日は、冷静な判断で適切に動いてくれてありがとうね。真日那くんは、すごくしっかりしているから安心出来るよ」
「俺、ちゃんと出来てましたか」
「出来ていたよ。二人の傍に真日那くんがいてくれて良かった。これからも、手はかかると思うけどよろしくね」
「はい、今日はありがとうございました。お疲れ様です」
「また明日ね」
俺は、ゆっくりと車から降りて手を振った。
その日の晩、俺は気持ちが高ぶって寝られなかった。こんなにも、たくさんの感情を抱いた日は初めてだった。驚き、恐怖、切ない、悲しみ、怒り……そして、喜び。誰かに頼りにされるのが嬉しかった。大切な人の傍に、自分がいる価値があるのが嬉しかった。今までは碧しか友達がいなくて、大切な人も場所も物も何もなかった。だけど、今は違う。
「早く、博くんのトランペットを直したいな」
楽器に触れたい、壊れた楽器を直したい、俺が直したことで見られる笑顔を早くみたい。いつの間にか、そんな風に思うようになっている自分がいた——
次の日、俺は出勤すると同時にすぐに博くんのトランペットのリペアに取り掛かった。大変な目に遭ったというのに碧も博くんも、いつも通りの顔で出勤していて、俺のことを見守ってくれていた。
今回、博くんのトランペットは博くんが転んだ際にケースが吹き飛んでしまい、ケースが開き楽器が壁に大きく叩き付けられてしまったと言っていた。マウスピースレシーバーとマウスパイプ部分の損傷が特に大きかった。そこの凹みや曲がりを重点的に直し始めた。
博くんのトランペットの音色をちゃんと聞いたのは、この前の愛菜さんの結婚式の時だけだけれど、その時だけでも、あぁ博くんは本当にトランペットが大好きで、ずっと大事に吹いてきたのだろうな……というのがとてもよく伝わってきた。だから、絶対に元通りの音が出るように直してあげたい。父さんのような魔法の手を持っているわけでもないし、元よりも良い音に……とまでは出来ないけれど、それでも〝想い〟があれば、きっと出来る。そう信じながら、手を動かした。
ピストンの動きもおかしくなってしまっていたので、調整した。昨日、眠れなくてトランペットに関する本を父さんの部屋から借りてきて読んでいた。ピストンの調子が悪いと当然、音にも影響が出てしまう。ピストンは、トランペットの命と言われている部分だと書いてあった。
俺は、今〝命〟を修復しているのか……と思うと、何だか自分がすごい人になれたような気持になった。
それから、一日かけてトランペットのリペアが完了した。
「出来た……!」
俺がこれまで受け持ってきた楽器の中で一番、時間がかかった。一人立ちして初めてのリペアで、誰の手助けも得ずに行ったからという理由はもちろん……何よりも俺の心の中で、リペアに対する想いが変わったのだ。今まで適当に行っていた訳ではない。だけど、右も左も分からず、流れに身を任せるような形で始まっていたのは事実で……それが、今回初めて自発的に、〝楽器を直したい〟と思った。義務感からではなく、自らの想いで楽器に触れた。
「博くん、ファンファーレ綺麗になったよ。どう、かな?」
そう言って、博くんにトランペットを手渡した。博くんは、大事そうにトランペットを受け取った。まるで、我が子を愛でるかのようにトランペットを撫でて顔を綻ばせた。
「あぁ、綺麗になってる」
「吹いてみてよ。思えば、博くんの音色を間近で聞いたことってなかったなぁって思ったんだよね」
「工房内で、私的に楽器は吹かないようにしていたからな。けど、今日は直ったかどうかの試し吹きだから問題ないな」
博くんはそう言って、トランペットを構えた。そして、音を奏でた。伸びやかで美しい、トランペットの音が小さな工房内に広がっていく。
「俺が好きな音のままだ……」
「……よかった」
「ありがと、な」
「ううん、俺の方こそありがとう」
今日俺は、大きな一歩を踏み出せることが出来た。
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