3章「あなたに願うこと」
それから、季節は秋になりその間にも様々な楽器を愛する人々と出会った。まだひとり立ちは出来ていなくて、碧についてもらっていたのだけど碧は、やっぱりかっこいいなぁと改めて思った。俺の指導をしながら、自分の仕事もきちんとこなして趣味の時間も大切にしている。工房で働き始めてから、もっと音楽のことを知った方が良いと碧は言ってくれて、コンサートやライブに連れて行ってくれた。初めて行ったのは理人さんの市民吹奏楽団だったのだけど、高校生ぶりに音楽を間近で聞いて心が震えた。かっこよくて、理人さんを始め演奏している人たちは皆楽しそうで、素敵だなぁと感じた。その日の帰り道、碧と感想を語り合った。碧の趣味は、新庄さんからの言葉がきっかけだと前に教えてもらっていた。新庄さんは、博くんにも同じことを言ったそうだけど博くんはいらないと一蹴りしたそうだ。オレも、博も新庄さんにそう言われて育ったからさ、真日那にはオレから言うよ、と碧は優しく笑った。そして、真日那も自分なりの趣味を見つけると良いと言ってくれたのだ。今までは、特に趣味がなくても何とも思わなかったし、趣味が欲しいとも思わなかった。だけど、良いリペアマンになる為にもと思うと欲しいな、と思えた。それが、秋の終わりの出来事だった。
十一月の終わり頃から、工房はありがたいことに忙しくなっていた。衰退はしていっているけれど、この季節はずっと変わらずに忙しいみたいだ。
「十一月の終わりって、芸術の秋でたくさんイベントが終わった後と、クリスマスのイベントに向けての間の季節だからね、皆この辺りで一度メンテナンスに出そうってなるんだよ」
新庄さんは、予約表を確認しながらそう教えてくれた。
「なるほど……」
「真日那くんは、覚えが早いからこのまま忙しい季節を駆け抜けて、来年にはもうひとり立ちできそうだね」
「え、大丈夫ですか……?」
確かに、自分でも出来ることは増えてきていると感じてはいるし、最初の頃みたいに楽器を落としそうになったりと単純なミスはしなくはなっている。だけど、まだ大学生の自分に愛する楽器を任せるのは、不安にならないだろうか。
「大丈夫だよ。ね、碧くん」
「おう、真日那マジで覚え早いしセンスあるんだよなぁ。先越されそうでびびる」
碧は笑って、そんなことを言い放った。
「さすがにそれは、無理だよ。でも、俺がひとり立ちすれば碧も自分のことに専念できるし、俺も早く皆の役に立ちたいので頑張ります」
「師匠想いのいい子だねぇ」
新庄さんが、そう言って微笑んだ時に来店を告げるチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ、ご予約されているお客様でしょうか?」
そう問いかけたのも、この時間帯の予約の人は先ほど対応したばかりだったからだ。それに、今日の予約の中に女性の予約はなかったのを覚えている。
「……いえ、人に会いに来まして。水無瀬博はいますか?」
女性は、工房内をきょろきょろと見渡して言った。
「水無瀬……あぁ、博くんですね。彼は今外出をしていまして……」
そう俺が答えた時工房のドアが開き、博くんが入って来た。
「あ、博くん!」
「博……!」
俺が博くんの名前を呼ぶのと同時に、女性も博くんの名前を呼んだ。しかも呼び捨てに。工房内の空気が変わった。
「姉、さん……何で……」
姉さん⁉ だけど、姉弟の再会にしては微妙な空気だ。俺は、近くにいてはいけないのではと思い、ひとまず自分の席へと戻った。碧も興味深く二人を見ている。皆も、仕事なんて手につくはずもなく、じっと二人を見守る体制に入っていた。
「良かった、博が今日出勤日か分からなかったから、会えなかったらどうしようって思っていたの。博に話したいことがあって……」
「俺はないし、仕事の邪魔だから帰ってくれ。今忙しい時期なんだ、あんたがいるせいで皆の手も止まってる」
じろりと博くんの鋭い視線が、俺たちの方に向けられて慌てて手元の作業に戻った。
「……っごめんなさい、仕事終わるの待っているから話しを聞いてくれない?」
「仕事終わっても用事あるから無理」
博くんがそう冷たく言い放つと、女性……博くんのお姉さんは悲しそうな顔をしながら今日は諦めるわと言って、外へと出て行った。
工房内には、何とも言えない空気が漂っていた。当の博くんだけは、何事もなかったかのように席に戻り、仕事を再開している。気になることは山ほどあるが、仕事中に私語をすると、怒られてしまうのが分かっているので誰も何も言わない。さっきの人が、博くんのお姉さんだと言うことは分かったけれど、姉弟仲は微妙そうだ。少なくとも博くんの態度は、悪かった。まあ、俺もあまり変わらない態度を母さんに取っているかもしれないけれど……。今、博くんはとても機嫌が悪そうだし下手なことは言わない方が良い。碧は、何か言いたそうな顔をしているけれど、我慢してと俺は小声で伝えた。
それから就業時間までは、平和に時間は過ぎていき俺と碧は定時で一緒に上がった。工房の外に出てから碧は、我慢ならなかったようで博くんに対しての文句を連ねた。
「はーーーあいつのあの態度なに? 実の姉に対してあれはないだろ。何があったかなんて知らないけどさ、お姉さんがかわいそうだよ」
「うん、お姉さんに対してあんたはないよね」
俺も母さんとは最近まであまり仲は良くなかったし、今だって仲が良くなったわけではないけれど、あそこまでの態度はとっていない、と思う。ちゃんと母さんと呼んでいるし。
「オレも妹がいるからさ、もし妹にあんな態度とられたらと思ったら恐ろしくなった……」
「碧の妹さんは、碧のこと大好きだから平気でしょ」
「まあな! でも、もしかしたら博も子どもの時はかわいかったのかもだろ。人間いつグレるか分かんないからなぁー」
「そうだねぇ」
だらだらとそんな会話をしながら、歩いているとあの……! と声をかけられた。
「あ、博くんのお姉さん……」
まさか、いるとは思わず何となく気まずい。きっと、さっきまでの会話も全て聞かれていたのだろう。
「もしかして、この寒い中ずっと外で待ってたんすか⁉」
碧がそう問いかけると、こくりとお姉さんは頷いた。
「……博は、一緒じゃないのね」
「あーオレたち、あんまし仲良くなくて」
「そう……」
しんと辺りが静まり返り、微妙な空気が流れた。今日は、こんなのばっかりだ。どうしたものか……と悩んでいると、いきなり碧が大きな声を出した。
「良いこと思いついた‼ おねーさん、これから空いてます?」
「空いているけど……?」
「あいつはいねーけど、オレたちで良ければ話し聞きますよ。ご飯いこーぜ、真日那!」
さすが、コミュニケーション力が高い碧の考えだ。今日会ったばかりのしかも女性と食事に行こう、だなんて。俺には絶対に思い浮かばない。だけど、寂しそうなお姉さんをこのままにしてしまうのも、気が引ける。
「お姉さんさえ良ければ、碧もこう言ってますしどうですか?」
お姉さんは、少し迷ってはいたけれど最終的にはぜひ、と返事をした。それから、俺たちはバスで駅前まで出た。その間に、俺たちは自己紹介をした。
お姉さんの名前は、水無瀬愛菜さんという。二十八歳で、今はもう実家を出ていて東京で彼氏と二人暮らしをしているそうだ。今回は、同窓会の為に戻って来たと言っていた。
身の上話の続きは、居酒屋で行われた。碧のおすすめのお店で、完全個室になっていて込み入った話しをしやすそうだ。
「それじゃあ、ひとまずお疲れ様です! カンパーイ!」
碧の掛け声で、不思議な飲み会はスタートした。愛菜さんは、工房で博くんと話している時も、さっきまで外で話していた時もすごく大人しく控えめな雰囲気だったのだけど、一杯酒を飲んだらあっという間に人が変わった。
「はーーーーマジで、何なの。弟が姉に接する態度じゃないでしょ。態度も目つきも口調もぜーんぶ最悪っ‼ 私は、仲直りがしたかったのにっ!」
ぐびぐび、と愛菜さんの飲みっぷりはすごかった。さすがの碧もびびっている。
「ねぇ、博って職場の人たちに対してもあんな感じなのー?」
「あーまあ大体同じっすね。オレたちなんか嫌われてるみたいなんで、いっつもネチネチ煩いんすよ」
「分かるー! あの子、ほんっとにうるさくてそれが嫌になっちゃって、私は実家を出たの。私、トロンボーンを吹いているんだけどね……」
それから、愛菜さんが話した博くんと仲がこじれた原因の話しは、博くんらしいなぁと思ってしまう内容だった。愛菜さんは、中学生の頃から今までずっとトロンボーンを趣味で続けているそうだ。ただ吹くのが楽しいだけでプロになりたいとか、そういうのは思ったことがない、と。愛菜さんが、トロンボーンを吹いていた影響で博くんも楽器に興味を持った。
「博も、小さい頃は純粋にトランペットを吹いていたのよ。なのに、リペアマンになるって決めてから、変わっちゃったの」
愛菜さんは、吹奏楽部の活動が休みの日は楽器に触れていなかったそうだが、博くんとしては、たとえ吹かない日であってもメンテナンスは毎日しないとダメだ、という意識でやっていて、それを愛菜さんにも強要して喧嘩になったと言った。
「博と、同じ価値観で楽器を吹くなんて私には無理だった。私がやらないと、人の楽器を勝手にメンテナンスし始めたりして……さすがの私もキレちゃったの」
俺と碧は、思わずうわーという顔をしてしまった。それは、さすがに姉弟だろうとやりすぎではないだろうか。楽器だろうと何だろうと、人の物を勝手に触るのは良くないと思う。
「それが、今の博と同じ二十二歳の頃の出来事でね、そっからはもうほとんど、まともに話していないの。今日も、実家に帰るの嫌だったからホテル取っちゃったんだ……」
愛菜さんはそう言ってからあげを口にはこび、ため息をついた。
「でも、仲直りしたいの。なんだかんだ言っても大切な弟だし、それに……」
〝もう、今回がラストチャンスかもしれないの〟愛菜さんは、そう言ってからぱたり、と机に突っ伏してしまった。それからすぐに寝息が聞こえてきた。
「えっ⁉ ちょっと、愛菜さん! どうしよ、碧。愛菜さん寝ちゃったよ」
俺たちの何倍も飲んでいたから、寝てしまうのも無理はない。だけど、酔いつぶれた女性を赤の他人の俺たちが介抱するのは、まずい気がする。
「博、呼ぶしかねーだろなぁ」
「来てくれるかな」
「さすがに来るだろ。真日那が連絡してくれ、オレがしたら喧嘩になるから」
「何でよ。こういう時こそ、コミュ力高い碧の出番でしょ」
「博限定で、コミュ力低いんだよ。頼むよ~」
「仕方ないなぁ……」
俺だって、博くんには好かれていないし電話に出てもらえるかも分からないけど。
だけど、これは仲良くなれるチャンスかもしれない、とプラスに考えて緊張しながら初めて博くんの電話番号を押した。
『はい』
「あ、博くん出てくれた……! あ、あの楠です。お願いがあって……」
『何?』
「い、今ね博くんのお姉さんと一緒にいるんだけど、お姉さんのこと迎えに来てあげてくれないかな? 酔いつぶれちゃって」
『展開が読めないんだけど』
「うん、そうだよね。詳しいことはまた話すから、ひとまずお願い!」
はぁ、と電話越しなのに大きなため息がはっきりと聞こえた。
『今から向かう』
「ありがとう」
そう返事をしてから、電話を切った。
「さすが、真日那!」
「盛大にため息つかれたけどね」
「来てくれれば良いんだよ。そう言えば、さっき愛菜さん何か言いかけて寝ちゃったよな」
碧のその言葉に、そうだと思い出した。
「……ラストチャンスかもみたいに言ってたね」
「そーそー。ラストって何だろうな」
「うん、気になるね」
ここまで踏み込んでしまったからには、愛菜さんと博くんを仲直りさせてあげたくなってしまった。愛菜さんの連絡先を聞く前に、酔い潰れてしまったしどうしたものか。だけど、家族の問題に勝手に入り込むのも気が引ける。
「まあ、ひとまず様子見しようか」
「だなぁ」
それから、博くんが来るまで俺と碧は残りの物を食べて少し飲んで待っていた。そろそろかな、と思った時にピコンとメッセージの通知を告げる音が鳴り博くんから〝もう少しで着く〟と連絡が入った。
「博くん、もう来るみたい。葛城の名前、伝えれば案内してもらえるよっ……と」
「いつの間にアカウント交換してたんだな」
「うん、何かあった時の為にって前に交換だけしてたんだけど、実際使ったのは今日が初めて。こんな使い方になるとは想定外だよ」
それから少しして博くんは、席に現れた。
「博くん、来てくれて助かったよ」
「別に」
短くそれだけ言うと博くんは、愛菜さんのことを叩き起こした。
「おい、他人に迷惑かけるな」
「ん~~~あれぇー? ひろがいるー」
「面倒ごと起こすんじゃねぇよ」
口ではそう言いながらも、フラフラしている愛菜さんのことを支えて、じゃあとだけ言って去っていった。
「オレたちも帰るか~」
「だね。何だか、嵐みたいな日だったね」
「ほんとだな」
愛菜さんは、たくさん博くんに対して文句を言っていたけどさっき、博くんが来た時すごく嬉しそうな顔をしていた。あれは、酔っぱらっていたからとかではなくて本当に嬉しかったのだろう。帰りに少しでも二人が話せていたら良いのだけど……。
——次の日
碧と一緒に工房までの小径を歩いていると、目の前を新庄さんと博くんが歩いていた。何となく合流はしにくくて、俺たちは二人の後をゆっくりと着いて歩いた。
「昨日、姉が久しぶりに帰って来たんすよ」
「うん。昼間、工房追い出してたけどあの後会ったの?」
「はい。なんか、碧と真日那と飲んでたみたいで。酔いつぶれた姉を回収しに行きました」
「へぇ、それは意外な展開だね」
「意味わかんねぇ。ほっといてくれりゃあ良いのに」
はぁ、と博くんはため息をついた。博くんは、新庄さんとはとても仲が良いようで俺たちや愛菜さんに対するみたいな、トゲトゲした話し方をしていなくて何だか新鮮だった。
「あはは、あの二人は困ってる人を放っておけないからねぇ。それで、一緒に帰りながら何か話しはしたの?」
「……姉は、俺と仲直りがしたいしないといけないってぶつぶつ言ってました。酔っぱらってたんで、ちゃんと話せる雰囲気でもなかったし話せる雰囲気だったとしても、今更何を話せって言うんですか」
「でも、本当にどうでもよかったら迎えに行かないよね。博くんも想うところがあったから迎えに行ったんでしょ?」
新庄さんは、優しい声色でそう言った。
「……それは、まあ、仲直り出来たらとは思いますけど」
博くんがそう言葉を発したと同時に、碧が俺の腕を引っ張り、待ってと小声で言った。ちょうど工房までの坂道に差し掛かる所だった。博くんと新庄さんが、完全に見えなくなってから碧は、ふぅと息を吐いた。
「やっぱ、あの姉弟あのままじゃいけない気がする」
「うん、俺もそう思ってた。博くんも本当は仲直りしたいみたいだしね」
「愛菜さんの、ラストチャンスって言葉もずっと引っかかってる。仲直り出来ないままで、博がそのこと知ったら後悔すると思うし」
昔は出来なかったことでも、お互いに大人になった今ならきっかけさえあれば、仲直りは出来ると思う。何より、二人は姉弟で家族なのだから。まあ、結局父さんとは微妙なまま終わってしまった俺が、そう思うのは変な話しかもしれないけど。だからこそ、失う前にちゃんと言葉を交わして欲しいと思うのだ。
「オレもさ数年、理人と話せなかったけど、ちゃんと話せて仲直り出来たから」
「そうだね。俺たちがきっかけを作ってあげよう。博くんには放っておけって思われるかもしれないけど」
それから、坂道を登りながら俺たちは作戦を考えた。
次の日の昼休み、俺は博くんを食事に誘った。
「ひ、博くん。たまにはさ一緒にお昼食べない?」
「何で?」
「今日、母さんが弁当作り過ぎちゃってさ俺一人じゃ食べれそうにないし……」
「碧と食べれば? いつも一緒だろ」
「そ、そうだけど! 碧、今日は忙しいみたいで……」
良い言い訳がなかなか思いつかない。何故、お昼を誘うだけでこんなにも苦労をするのだ。博くんもいじわるだ。数十分一緒に過ごすくらい良いじゃないか。だんだんと腹が立ってきた。
「俺も忙しいけど」
「今、仕事してなかったでしょ。休憩行こうとしてたの見たから」
「何なんだよ」
博くんも、そろそろこのやり取りが面倒になっているのを感じた。後一押しだ。
「今日の母さんの弁当に、父さんの好物も入ってるよ」
「え」
「博くんにも、是非食べて欲しいな」
「……わかった」
よし! と俺は小さくガッツポーズをした。父さんという言葉を出せば、博くんは興味を示してくれると思ったのだ。その為に、普段はお弁当なんて作ってもらわないのに母さんにお願いをした。弁当を作って欲しいと言うのだって緊張したのに、更に父さんの好物も入れてくれ、なんて母さんも驚いただろう。だけど、快く引き受けてくれて無事に俺の手元には、弁当箱がある。
最近は、寒くなってきてしまったから休憩室で食事をとっている。椅子に座り、弁当を広げた。
「父さんの好物は、肉団子と卵焼きだったみたいだよ。どんどん食べてね」
「……いただきます」
「いただきます」
俺たちは手を合わせて、ひとまず食事を進めた。
「どう?」
「うまい、な。これを匠さんは毎日食べていたんだな」
「うん。母さん、毎朝楽しそうに弁当作ってたよ」
「へぇ」
そんな会話をしながら、しばらくして俺は本題を切り出した。
「あ、あのさ。金曜日の夜って空いてるかな?」
「空いてるけど?」
「良かったー。そしたらさ、俺の家遊びに来ない?」
いきなり距離を詰めすぎなような気もするけれど、時間は限られているのだ。愛菜さんは今週末には家に帰ると言っていた。同窓会は土曜日で、それまでに空いているのは金曜日の夜だと、碧が聞き出してくれた。俺と碧の作戦は、楠家に二人を招いて仲直りをさせようというものだった。お酒は禁止だ。愛菜さんも、知り合ったばかりの他人の家でお酒は飲みたくても飲めないだろうし。博くんも父さんの過ごした家ならば、誘えば来てくれるのではないかと思った。
「匠さんの家、か」
「そうだよ。どうかな?」
「行く」
「やった! ありがとう。そしたら、金曜日就業時間後にそのまま一緒に向かおう」
「分かった」
そうして、トントン拍子に事は進んでいった。
帰り道、碧の方の状況を聞いた。碧は、居酒屋で愛菜さんが寝落ちる前にしっかりと連絡先を手に入れていたのだ。さすがだな、と感心した。
「愛菜さんもオーケーだってよ~」
「良かった! 博くんも問題なし」
「マジか。オレが誘っても絶対うんとは言わなかっただろうな」
「別に俺だからって訳でもないと思うよ。ただ、父さんが過ごした家に興味があるだけ」
「まあ、そうだったとしてもあいつが匠さんオタクで良かったよ」
「父さんオタクって何それ」
「そうだろ? 匠さんの名前出したらホイホイ着いて来るじゃん」
「まあ、確かに。ここまでとは思わなかった」
お弁当の時といい、そんなに父さんのことが好きだったのかと不思議な気持ちになった。
「まあ、何はともあれ後は当日を迎えるだけだな」
「碧も来てくれるんだよね?」
「もちろん!」
「良かったー。姉弟喧嘩になったら、俺だけじゃ止められる自信ないから」
この作戦は、博くんと愛菜さんは当然知らない。荒療治かもしれないけど、なかなか素直になれそうにない博くんには、こんな環境でも作らないとダメだと思ったのだ。
「でも、羨ましいな」
ゆっくりと歩きながら、俺はぽつりとそう言った。
「何が?」
「姉弟喧嘩とか、この前の碧と理人さんみたいな友達同士の喧嘩とか。俺には、そういう相手いないからさ」
「オレと真日那は喧嘩なんてしないしなー」
「俺の唯一の友達なのに、碧とは喧嘩出来ないんだよねぇ」
喧嘩をしないに越したことはないけれど、本音をぶつけ合える存在がいるのは良いな、と最近思う。そして、喧嘩をした後にする仲直りも素敵だなと思えるのだ。一度失った繋がりも、ぶつけて許し合えばまた繋がれる。
「オレと真日那だけじゃあ、喧嘩になんてなんねーけどさ、そこにもし博が入ってきたらどうなるかわかんないんじゃねーかな?」
「そうだね。俺たち三人で友達になって、それで喧嘩して仲直りする未来がきたらいいなぁ」
「変な願いだな」
「ほんとだね」
友達になる前から、喧嘩をしてみたいなんて変だ。だけど、きっと今回の出来事で俺たち三人の距離も縮まってくれるんじゃないかな、と思っている。
——そして、金曜日。
その日は、いつも以上に集中した。集中していないと、そわそわしてしまいそうだったから。目の前の仕事に黙々と取り込んだ。今日の俺の仕事は、文化祭が終わったばかりの学校の楽器数十個の清掃だった。さすがに一人では厳しかったので、椿さんも一緒に行ってくれた。
「真日那さんは、すごく優しくて素敵な人ですよね」
「どうしたんですか、急に。俺、そんな大層な人じゃないですよ」
「いやいや、水無瀬さんと葛城さんは僕ちょっと苦手でしたので……。こんな風に二人きりで仕事をすることになった日には、心臓バクバクしてました」
椿さんは、真面目な好青年と言った印象だ。確かにあの二人と仲良くしている姿は、想像できない。
「博くんは俺もまだわかんないですけど碧は、ああ見えて優しい人ですよ」
「優しい人なのは分かるんですけどねぇ。テンションが合いそうになくて……」
「あはは、碧はいつも元気ですからねぇ」
椿さんは、俺と近い雰囲気は感じている。思えばこの工房に残っている人は、いつでも元気という人がほとんどだ。経理を務めている五十嵐さんも、事務を務めている羽月さんも。新庄さんもどちらかと言えば、明るい。
「テンション的には、博くんは俺たち側だと思うんですけどね」
「そうなんですよね。でも、とても仲良くなれそうにないです。もちろん嫌いなわけじゃないですよ」
人間関係って難しい、そんな話しをしながら残りの仕事を片付けた。
就業時間のチャイムが鳴ってから俺と碧は、また後でと小声で言葉を交わして碧は先に工房を出て行った。
「博くん、もう出られる?」
「あぁ」
そう言いながら博くんは、リュックを背負った。
「あれ? 真日那くん、今日は博くんと帰り一緒なんだ?」
「そうなんです。これからうちに寄ってもらうことになってて」
「へぇ、仲良くなってきているようで何より」
嬉しそうに新庄さんは笑って、言った。
「別に、そーいうわけじゃない」
博くんは、不満そうな顔をしていたが構わず俺はじゃあ行こうか、と先を促した。
夜の小径を博くんと並んで歩いているのは、不思議な感じがする。特に会話はないけど、居心地の悪さは感じなかった。
「俺の家、階段が長くて大変かも」
「知ってる。よく、匠さんがボヤいてた」
「そうだったんだ。何て言ってたの?」
「毎日階段上り下りするのが疲れるから、もう工房に住みたいって」
「父さんらしいなぁ」
家族が待っている家よりも、仕事場に住みたいと思う人がいるのか。だけど、毎日帰って来てはいた。そうは言いつつも帰って来てくれていたのは心の底では、ちゃんと俺と母さんのことを思ってくれていたからなのだろう。
「今日は、母さん帰って来ないから。気負わず過ごしていってね」
そう言いながら、家の鍵を開けた。思えば、碧以外の人を家にあげるのは初めてだ。
「おじゃまします……」
博くんは、少し緊張しているようだった。そうなるのも無理はないだろう。
「洗面所そこだから、先に手洗ってね。そしたら父さんの書斎見せてあげるから」
「ん」
洗面所のすぐ前に父さんの書斎がある。父さんが死んでからは、基本的には部屋のドアを閉めている。特に意味はないけど、何となく閉めている方が落ち着くのだ。
「ここが、父さんの書斎だった部屋。まあ、ほとんど家にいなかったから書斎って言って良いのかも微妙なところだけど……」
そう言いながら、部屋のドアを開けた。
「匠さんが過ごした場所……」
博くんは、しばらくぼんやりと部屋の中を眺めていた。そんな静かな空間に、階段を降りてくる足音が聞こえ、そしてピンポンとチャイムが鳴った。
「あ、来たみたい」
「……何が?」
「ちょっと待ってて」
この後の展開は、大体予想はつく。だけど、何とか上手くいって欲しい。そう願いながら新たなる客人を招き入れた。
「おじゃまします」
「おじゃましまーす。おー真日那ん家久々~~」
碧は、いつもと同じテンションで家に上がった。その後ろについていた愛菜さんは、玄関に置いてあった靴を見て、そして俺の顔を見た。
「どうぞ、愛菜さんも上がってください」
「う、うん……でも、この靴……」
愛菜さんが何とも言えない表情で玄関から動けなくなっている間に、向こうはもう賑やかになっていた。
「あれー⁉ 博じゃん! 何で真日那ん家にいるんだよ?」
「は? それは俺のセリフなんだけど?」
「オレは真日那に今日おばさんがいないから、一緒にピザでも食べようって誘われてきたんですー」
「……俺は、匠さんの書斎見せてくれるって言うから来ただけだ。もう見たから帰る」
いつにもまして低い声で、博くんはそう吐き捨てて玄関へ向かってきて、そしてもう一人の予期せぬ人がいることに気が付き更に不機嫌そうな表情になった。
「ねえ、さん?」
「博……」
「おい、これは何だ? 騙したのか?」
博くんは、鋭い視線で俺のことを睨みつけている。思わずぶるりと肩が震えたが、ここで負けるわけにはいかない。
「えーっと、説明するからひとまずリビングで落ち着こうか」
「別に良い。俺の用は済んだから帰る」
そう言って、愛菜さんを横切り靴を履こうとする博くんの腕を掴んだ。
「何だよ」
「帰らないで。まだ、博くんに見せたいものがあるんだ。だから、少しだけで良いから時間くれないかな? 騙したのは本当だしごめんと思ってるけど、こうでもしないと愛菜さんと話せないでしょ」
碧と愛菜さんは、黙って俺たちのことを見守ってくれていた。博くんの鋭い視線に負けないように、俺もじっと博くんの瞳を見つめた。
「お願い、博くん。愛菜さんの話しを聞いてあげて」
「何で、他人の姉弟にそこまで肩入りするんだよ」
「それは、仲直りが出来ないままの寂しさを俺も碧も知っているからだよ」
俺のその言葉を聞いて博くんの空気が少しだけ変わった。
「……分かったよ。帰らないけど、話し聞くのはピザ頼んでからで良いよな。後、その前にもう少し匠さんの部屋が見たい」
「もちろんだよ! ありがとう、博くん」
博くんは、やっぱり優しい。すごく分かりにくいけど。愛菜さんも、ほっとした顔をしている。
「じゃあ、オレも一緒に見ようかな」
「お前と一緒には嫌だ」
「良いよな真日那~」
「うん、その方が早く終わるしね」
「家主がこう言ってるし、お前の意見は却下な」
そう言いながら、碧は既に書斎の物色を始めている。博くんは、深いため息をつきながらも父さんの書斎を早くみたい、という気持ちには逆らえなかったようで、諦めて一緒に見ている。そんな二人を俺と愛菜さんは、見守っていた。
「お、これってお客様記録みたいなやつ?」
「そうみたい。父さんがそんなの記録してたとは思わなくて驚いたよ」
「へぇ、あ、じゃあさ博のことも記録してるんじゃね⁉」
碧はそう言うと、ノートをペラペラと捲っていった。博くんは、自分のことが書かれているかもしれないノートには興味がないのか、本棚を眺めている。
「お、碧のページ見つけた! 博~あったぜ! お前が初めて工房来た時の記録!」
「別に、興味ない」
「嘘は良くないぞ~自分がどんな風に匠さんに思われていたのか気になるくせに。なになに……水無瀬博、トランペット、十五歳」
碧は、ノートに書かれていることを読み始めた。俺と愛菜さんも気になりノートを覗き込んだ。博くんは、そっぽを向いている。
「吹奏楽部所属、ファーストトランペットでパートリーダー、コンクール期間真只中。不調の原因は、指差管に傷がついた為……この世の終わりみたいな顔で来店、だってさ」
博のくせにかわいいな、と碧は笑った。確かに今の博くんからは想像が出来なさそうだ。いくら周りがざわついていても、無表情だから。
「博が、楽器に関してすごく敏感でうるさくなっていったのその頃からよね」
「大切な時期に、大切な楽器が壊れたら動揺すんのは普通だろ?」
そっぽを向いたまま、博くんはそう言った。
「あ、そろそろピザ頼んじゃおうか。俺と愛菜さんで、頼むから二人はそこにいて良いよ~博くんはダメなものとかある?」
「特にない」
「分かった。じゃあ、愛菜さんこっち来てください」
「う、うん」
早速喧嘩になりそうだったから、俺は慌てて話題を変えてリビングへと移動した。
「ごめんね」
「平気ですよ。ひとまずピザ頼んでから落ち着きましょう」
「ありがとう。真日那くんって優しいのね」
そう言って愛菜さんは、笑った。それから、俺と愛菜さんでピザやチキンなどを頼んだ。後四十分もすれば来るそうだ。
「真日那~博がさーすっげぇ欲しそーに見つめてるもんがあるんだけどー」
父さんの書斎から、碧がそんな言葉を叫んでいる。
「えぇーどれー?」
俺は、そう言いながら書斎へ向かった。愛菜さんも後をついてきた。書斎は、色々な物が広げられていて、二人には遠慮というものがないのか、と少し呆れた。まあ、別に良いのだけど。
「博くんが欲しがってるものって?」
「今、博が手に持ってるやつ。これ何?」
「それは俺も初めて見たな。そんな真剣に見て何が書いてあるの?」
博くんが手に持っていたのは、お客様記録が記載されていたノートよりも小さい手のひらサイズも手帳で、何やら色々な単語が書かれていた。人の名前ではなさそうだな、というのは何となく分かった。
「博くんには、何が書いてあるのか分かるの?」
「当たりまえだろ。これは、お客様記録の楽器版みたいなもんだな」
「楽器版……?」
俺と碧は頭に、はてなを浮かべながら顔を見合わせた。
「本当に、楽器を愛している人ってのは楽器に名前を付けたりするんだよ。そんなことも知らねぇの?」
「常識みたいに言われても困るよ……」
「あぁ、確かにそーいう奴もいたかも。え、じゃあ何? もしかして、博もそっちタイプなのか?」
碧のその言葉に、はっと我に返ったかのように博くんは手帳を閉じた。
「べ、別に俺は違う。これに興味持ったのは、後ろに匠さんのサインがあったから……」
いつも動揺なんてしない博くんが、珍しく動揺しているのはそういうことなのだろう。だけど、ここで問い詰めてもまた喧嘩になるだけだろうし……と思い、これ以上楽器の名前については触れないようにしてあげた。
「父さん、サインなんて書いてたんだ。有名人な訳でもないのに」
「何かあった時の為に練習してたんだろ。これ、もらっても良い?」
「うん、大丈夫。大丈夫なんだけど、二人とも部屋散らかしすぎ!」
俺が少しそう怒ってみたら二人はようやく、やってしまったという顔をした。愛菜さんも後ろで呆れているのが空気で伝わってくる。
「ほんとに、博は匠さんと楽器が大好きなんだから……。ちゃんと片付けなさいよ」
「分かってる。片付けるからもう少しみたい」
「そろそろ、ピザ届くから一旦片付けに集中しといて。愛菜さんとちゃんと話したらまた見て良いし、別に今日だけじゃなくても遊びに来てくれて良いから」
俺がそう言うと、今まで見たこともないくらい嬉しそうな顔で博くんはほんとか⁉
と声をあげた。どれだけ父さんが好きなんだよ……と呆れつつも、うんと頷いた。
それから、部屋を片付けてもらっている間にピザが届き、俺と愛菜さんは食事の準備を始めた。
「ビールが合いそうなのに……」
愛菜さんは、食卓を見ながら残念そうにそう呟いた。申し訳ないと思いつつも、お酒を飲んだらこの人は機能しなくなるので、我慢してもらうしかない。代わりに、ノンアルコールものをたくさん用意しておいた。俺と博くんが隣同士で、向かいに碧と愛菜さんという座席順になった。何だか、不思議な光景で少しドキドキする。
「じゃあ、ひとまずいただきます」
いただきます、と挨拶をした後はしばらく沈黙が続いた。まあ、こうなるだろうなとは思っていた。
「あーそう言えば、さっき言ってた楽器に名前つける話、オレの専門の時のダチにもいたなーって思い出して、楽器の名前なんだったかなーって片付けながら記憶を漁ってたんだけど……」
碧がそう話題を切り出してくれた。さすが、碧だ。碧がいなかったら、ずっと沈黙が続いていただろう。
「思い出した?」
「思い出したよ。そいつ、G線状のアリアが好きだからって理由でアリアって名前をヴァイオリンにつけてたなぁ」
「なるほど、そういう感じで名前つけるのか。博くんのトランペットは何て名前なの?」
俺は、ごく自然な流れでそう問いかけた。博くんは、持っていたピザを落として、分かりやすく動揺している。
「な、なんでそうなる? 俺は別に楽器に名前なんてつけてない……」
「ファンファーレ。略してファンくんだよね」
サラッと愛菜さんがそう言った。元々静かな空間だったが、更にしんと静まり返った。
「……っ、勝手にバラすなよ!」
「いいじゃない、いずれバレるんだろうから早く言った方が楽でしょ?」
「そーいう問題じゃねぇ!」
博くんは、落ち着かないのかノンアルコールビールをガブガブ飲んでいる。
「ファンファーレかぁ、かっこよくて素敵だと思うけどな」
「トランペットと言えばファンファーレだもんな!」
「どういう意味?」
俺は、まだまだ個々の楽器の知識については疎いので、碧が言うトランペットと言えば、の意味が分からなかった。それから、碧は嬉々とその意味を語ってくれた。ファンファーレという言葉は、アラビア語のanfarを語源としたトランペットを意味する言葉だそうだ。
「音楽的には行進曲とかで最初とか、ここぞって時にどーんって華やかに音を鳴らす時に使うんだけど、その時一番目立つのがトランペットなんだよ」
パッパパパッパパーみたいな感じ、と碧が口ずさんでくれて何となく理解した。
「この間のコンサートの時もあった?」
「あった、あった! 真日那もだんだんと音楽のこと分かってきてるな~」
俺たちはそんな感じで盛り上がっていたが、当の本人である博くんは、居心地悪そうにしていた。愛菜さんは苦笑している。
「私、未だに覚えてるなぁ。博が楽器に名前つけた日のこと」
「どんな感じだったんすか⁉」
碧は興味津々といった感じで、そう聞いた。博くんはもう諦めている。
「すぐにつけたわけじゃなくてね、ある程度知識を身に着けてからだったかな。確か、小学校四年生くらいの時……音楽教室から帰って来た博が、僕のファンくんがご機嫌斜めだった~て泣いててね。ファンくんって何だ? ってなったの」
今の博くんからは、全く想像がつかない話だ。
「ファンくんって何? って聞いたら、こいつのこと! ってトランペットを掲げて言ってきてね。楽器に名前つける人って本当にいるんだーって驚いたな」
ふふっと愛菜さんは、優しく微笑んだ。
「あの頃の、かわいいままの博なら良かったのに……」
ぽつり、とそう呟いて愛菜さんはジンジャエールをお酒のようにグビグビと飲んだ。
「昔のことをネチネチとうるせーな。要件あるならさっさと話せよ」
「どうして、そうきつくしか言えないの?」
「別にきつく言ってるつもりはない」
「うーん、オレにもきつく聞こえるかなぁ。常にそんなトゲトゲしてて疲れねぇの?」
「外野は口挟むな」
「外野じゃないですーオレたちは、もう愛菜さんと友達なんでー」
碧はそう言って、からあげを口にはこんだ。
「からあげうまいな」
「あ、俺もまだ食べてなかったから食べよ」
「外野はからあげ食ってるから、ちゃんと話せよな」
俺たちは、からあげを食べながら二人のことを見守っていた。博くんだって、本当はちゃんと話しをしたいはずなのだ。
「……博がさ、リペアマンって仕事に興味持ってからどんどん変わっていっちゃったの寂しかったんだ。昔はよく笑う子だったのに、気難しい顔しかしなくなって、何より楽器最優先で、そんなんでちゃんとやっていけるのかなって不安にも思ってた。だけど、工房にもお友達がいるみたいで安心したよ」
愛菜さんはそう言いながら、からあげを頬張る俺と碧のことを見て優しく笑った。
「は? 友達?」
「友達でしょ、真日那くんと碧くん。さっきも、匠さんの部屋で碧くんと楽しそうにしてたじゃない」
「……。友達ってわけじゃない」
「まあ、何でも良いけど。とにかく、私は博と仲直りをしてから向こうに行きたいの。こんなに協力してもらったのに、結果出せなかったら申し訳なさすぎるよ」
「向こうに行くって、何……?」
その言葉で、ようやく博くんは愛菜さんに自ら向き合った。
「それをずっと話したかったの。今回もその為に帰って来たようなもので、同窓会なんておまけよ」
ふぅと一呼吸おいてから、愛菜さんは続けた。
「私が結婚するっていうのは、さすがに知ってるよね?」
博くんは、小さく頷いた。愛菜さんは、ほっとした顔をした。
「私、ずっと海外に住みたいって言う夢があったの。恋人の玲くんはねフリーのインテリアコーディネーターだから行動範囲の自由が効くのが分かってたの。だからね、思い切って海外に住んでみたいって言ったら玲くんも同じ気持ちだったんだ。結婚したら海外に住もうって話しになってね……。海外に住んでしまったら気軽に帰って来られなくなるでしょう? そしたら今より、もっと話せる機会がなくなっちゃう」
だから、今回ちゃんと話して仲直りするなり決別するなりしときたかったのよ、と愛菜さんは言った。
「そんな、夢知らなかった」
「そりゃあそうよ。あんた、私になんて全然興味なかったじゃない。もちろんママとパパは知ってるよ。家族団欒の時に話していたの。あんたは、その場にいることはなかったけど……」
愛菜さんのその言葉は、俺自身にもすごく刺さる言葉だった。ちょっと違うけど、俺の家には家族団欒なんてものはなくて、誰も作ろうとしなくて、そのまま父さんは死んでしまって……死んでしまってから、父さんのことを知っていっている。もし、ちゃんと話しが出来ていたら父さんが、お客様記録をつけていたのも、楽器に名前をつける人がいるっていうことも知っていたのだろう。碧も、身に覚えがあるだろうからか口を挟まずに黙り込んでいる。
「私ね一人暮らしをしてからも、玲くんと同棲をしてからも、ずっとトロンボーン吹いていたんだよ。週一日音楽教室に通ってたの。だけど、それもそろそろ辞めないといけないし、最近トロンボーンの調子が悪いから、これを機におしまいにしようかなって思ってて……」
「え……」
「別に、私は趣味でやっているだけだし、海外へ行ったらまた別の趣味が出来るかもしれないじゃない。いつまでもやっていてもなぁ、って思っちゃって……」
博くんは、何か言いたそうにしているけれど、うまく言葉が出て来ないのだろう。
このままではいけないって、本人も感じてはいるはず。
「博くん、ちゃんと自分の想い伝えないと」
ずっと、口を挟まないようにしていたけど、俺はこれだけは言いたくて伝えた。博くんは、俺の顔を見てあぁ、と言うと今度は愛菜さんのことをじっと見つめた。
「……トロンボーン辞めないでくれ。俺は、姉さんが楽しそうに吹く姿に憧れて、楽器を始めたんだ。楽器の調子が悪いっていうなら、俺が完璧に直すから。結婚しても、海外に行ってもトロンボーンを時々でも良いから続けて欲しい」
愛菜さんは、ぽかんとした顔をしている。
「びっくりした……。どうせいつもみたいに、勝手にすればとか俺は関係ないしとか言われると思ってたのに……。そんなに、私にトロンボーン続けていて欲しいの?」
「続けて欲しい。俺と姉さんを繋ぐ、大事なものだから」
「楽器がなくたって、私たちは家族で姉弟なんだから繋がってるじゃない」
「そうだけど……。俺は、楽器を通して音楽を通してじゃないと、上手く人と関われないから。もう、昔みたいに、俺と同じ価値観で楽器に触れて欲しいとは言わないから……だから……っ」
博くんは、少し泣きそうな声でそう想いを伝えた。愛菜さんは、そんな博くんを見て、ふふっと微笑んだ。
「そこまで言うなら、辞めないであげる」
「ほんとか⁉」
「うん、でも私のお願いも聞いてくれる?」
「……分かった」
「私とのやり取りで感じたと思うけど、人には人の価値観があるの。リペアマンって仕事を私は正直よく分からないけど、博はきっと優秀なのだと思う。だけど、人に自分の想いを強要しないで。博だって、完璧ではないはず。だから、仲間と互いに補って支え合って、仕事をしていって欲しい」
愛菜さんは、俺と碧のことを見ながら続けた。
「こんなに、素敵な人たちが博の周りにはいるんだから、大切にしなさいよ。博は、根はすごく優しい子なんだから」
何だか、照れくさいけど友達になりたいと思っている人の、大切な人にそう褒められるのは嬉しかった。
「……そう、だな。これから、改めていく」
「ありがとう。博に友達が出来てくれたら、私も安心して海外へ行けるから」
そう言って、愛菜さんは笑った。
それから、真面目な話しは終わって、食べ物を温め直しながら残りは博くんの昔話をしたり、博くんと碧による父さん談義が始まったりと盛り上がった。どんな結果になるか分からず不安だったけど、最終的には丸く収まってくれて良かった。帰り際、博くんは欲しいと言っていたものを持ち帰り、碧も読んだことがない本があったから読みたい、と言って持ち帰った。
「真日那くん、碧くん、本当に今日はありがとうね」
「いえ、俺たちは何も。場所を提供しただけです」
「二人が仲直りしてくれて良かったですよ! 博のことはオレたちに任せてください!」
「うん、頼りにしてる。あ、二人も結婚式に招待するから是非来てね」
「ありがとうございます、楽しみにしています」
じゃあ、またねと手を振って、愛菜さんと博くんは仲良く並んで帰っていった。
「オレも帰るかな」
「うん、碧も協力してくれてありがとう」
「オレも二人には仲直りして欲しかったし。博とも、付き合いやすくなっていきそうで良かったな!」
「うん」
またな、と言って碧は階段を降りて行った。
次に俺たち三人のシフトが被るのは月曜日だった。朝、出勤すると既に博くんはトロンボーンを手に持ち、作業を始めていた。どうやら、トロンボーンは全体的にメンテナンスが必要な状態だったらしく、全てを解体して洗浄していた。愛菜さんのトロンボーンに触れる博くんの手は、とても優しくて、表情も柔らかかった。新庄さんも、そんな博くんを見て嬉しそうだ。
博くんが少しの間、トロンボーンの傍を離れた時に、俺は楽器に手を触れた。愛菜さんと博くんとずっと、ずっと過ごしてきたこのトロンボーンは今、どんな気持ちなのか。
『二人の仲を取り戻してくれてアリガト。マナから離れるのがボクは嫌だったから、その方向へ進まなくて助かったよ。ボクは、これからもマナのトロンボーンとして、楽しく過ごしていくよ』
そう、トロンボーンは言った。最初は、おせっかいかもしれないとも思ったけど、最終的には行動して良かったなと思えた。俺には、長い間ずっと大切にしているもの、というのはないから二人のことをとても羨ましく思った。俺にもいつか、そういうものが出来るのかな。
数日後、愛菜さんが工房を訪れた。初めて工房を訪れた時とは違って、とても幸せそうな顔をしていた。
「これで、完璧」
「ありがとう、これからもずっとトロンボーン吹いていくから」
「日本帰って来る時は、ここに寄って」
「うん。とても、素敵な工房だね。何だか落ち着く」
「だろ?」
得意げに博くんは笑った。
十二月の終わり、愛菜さんの結婚式に招待された。結婚式に行くのなんて初めてで、俺と碧は二人でスーツを買いに行きしっかりとした恰好で、式場を訪れた。そこは、とても華やかで美しい場所だった。
「博くん、どこにいるんだろう?」
「やることあるから後で合流するって言ってたな」
「うん」
俺たちは、ひとまず用意された席へ腰を下ろした。そうして、式が始まった。愛菜さんと旦那さんが入場してくる。
「あれ? 入場曲生音?」
「え?」
「これ、絶対生音!」
俺と碧は、耳を澄ませた。前の方を振り向いてみれば、そこには博くんが一人、トランペットを吹いていた。
「博くん」
「へぇ、面白いことするじゃん」
「すごいね」
博くんのトランペットの音色を聞いたのは、この時が初めてだった。その音は、とても綺麗で優しくて愛に溢れていた。
「素敵だね」
「あぁ、愛菜さんも嬉しいだろうな」
「うん」
大切な誰かの為に、こんなにも素敵なことが出来る博くんは素敵な人だ。今回、距離が縮まった俺たちは、これからどんな風に友情を育んでいくのだろうか。これからが、とても楽しみだった。
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