一夜での誘拐

シィノ

第1話 煙と公園


「ねえ、私を誘拐してよ」

 少女はそう言った。

 確かにそう言ったのだ。















 月に照らし出された公園に一人、男がいた。


 星のない夜に溶け込む様な黒い服の男は、ベンチに腰掛け白い煙を吐いていた。ベンチには男の他に、重力に負けてくしゃりとつぶれているボストンバッグだけが横たわっている。


 吐かれた煙はゆらめきながら空へと向かうが、背の高い時計の前で空気に溶けてしまった。

 すでに長針は、短針と真上で交わろうとしている。


 小さな足音が聞こえた。


 男はにやりと唇で弧を描き、無精髭をさすった。咥えていた煙草を携帯灰皿に押しつけ、ベンチにさらに深く腰掛けた。


 そして何食わぬ顔で公園の入口を見るとそこには少女が立っていた。肩にかからない程度の長さの髪が不揃いに切られており、季節に合わない長袖に、小学生であろう年に合わない無地のよれた服を着ている。靴は黒ずみが酷く、しばらく買い替えていない様子だ。


 ボストンバッグを挟んで少女と男はしばし見つめあった。

 が、男がバッグを足元に置く音で沈黙は壊された。


 男は未だに笑みを浮かべている。


 少女は少し逡巡したが、後ろに退いていた左足を前に出して道路と公園の境目を超えた。するとそのままずんずんとベンチへと近づき、バッグのあった場所に座った。


 顔はその間、ずっとうつむいていた。


 白い肌も相まって陶器人形のようなその顔を覗きこみ、男は言う。


「やあ、お嬢ちゃん。こんばんは。こんな夜中に一人なんて危ないなあ。誰かと待ち合わせかい?」

「……ちがう」

「そうかい。ならよかった」


 視線から逃れるように、少女は顔をそむけた。だが男はそんなことを気にせず話し続ける。


「実は俺たち、会うのが初めてじゃない。って言ったら信じるかい?」

 えっ?  と少女は思わず振り向いた。


「まあ会うって言っても、俺が一方的に見ただけで、話してはないけど」

「…………」


 少女は眉間にシワを寄せると、男に今度は背を向けた。

 そのまま、苛立ちが滲む声で話しだす。


「おじさん無職でしょ」

「え?」

「だって一人っきりで公園のベンチに座ってる大人なんて、会社をクビになって途方に暮れてるとしか思えないでしょ」

「偏見だなあ」


 唐突な誹りとも言えるそれに、男は苦笑しながらも、弾む声で答えた。


「俺は一応職に就いてるよ。こんなんだけど」

「どんな仕事?」

「……それは……えー……」


 男が言葉に詰まると少女はふふ、と顔をほころばせ、勝ち誇った様に言った。

「言えないじゃない」

 それを見るなり、男は頬を一際緩ませる。


「笑った顔もかわいいね、お嬢ちゃん」


 そう月並みな台詞を投げかけた男は、そらされていた顔がいつの間にか向かい合っていたことに気づいた。


「子供扱いしないで」


 しかし、すぐにまたそっぽを向かれてしまった。


「そんなつもりはなかったんだが……ごめんよ」

「……本当に悪いとおもってる?」

「思ってるよ」

「うそ、声が笑ってる」


 図星をつかれた男は、わははと気まずそうに笑う。

「どうやったら許してくれるかい?」


 しばしの沈黙。


 それは考え込むようにも、言い淀んでいるようにも思えた。


「私の言う事、聞いてくれる? おじさん」


 相変わらず男の方を振り向かないが、目線だけ顔色を伺うように向け、そう尋ねた。


「いいぜ。なんでも聞こう」


 男はなんてこと無いように答えたが、ああでも、と言葉をつなぐ。


「ここから立ち去ってほしい。とかはちょっと聞けないかもな〜」


 瞬間、少女の体が強張った。


「考えてたこと、気づいてたの」

「まあ、初っ端からまあまあ言われちまったし……どっか行って欲しいのかと思って、あと、あー……勘」


 おどけるような声色のそれを聞きき、少女は気まずそうに唇を噛んだ。


「……一人になりたかったの。でも、今はちがうわ」


 少女は体を動かし、男と向かい合った。だが、顔はうつむいている。


「嫌な事を言って、ごめんなさい」

「気にしてないさ。ほら、何してほしいんだい?」


 男は、格別に優しい声で言った。


 顔をあげた少女は男のそばに体を寄せた。男の、膝に置かれた骨ばった手の甲に、自身の小さく白い手を重ねる。

 重ねられた手に力が入っても、男は表情を変えず、ただ言葉を待った。


「ねえおじさん、私を誘拐してよ」


 少女はまっすぐ男の眼をみて言った。


「冗談で言っちゃいけねえよ」

「冗談でこんなこと言わない」


 少女の言葉の後、瞳に今にも溢れそうな水の膜が張られた。少女はこらえるように眉を寄せ、口を引き結んだ。しかし、瞬きすると同時に、目尻から雫が一粒ずつこぼれた。水は一度溢れると止まらず、月の光を反射しながらぽろぽろと頬を伝っていく。

「ど、どうしたんだい急に!」

 初めて笑みが崩れた男の顔も、涙をせき止めるように腕を両目に押し付けている少女は、見ることができなかった。


「家、にかえって、も、いいこと、なんて、ない……」


 少女は詰まった声で言った。しゃくり上げる呼吸をおさえようと深く息を吸うが、上手くいかず苦しげな咳が出ている。


 慌てて男は足元のボストンバッグを漁り、濡れ続ける頬を、取り出したタオルで拭った。

 嗚咽を漏らし続けている少女の手がタオルに伸び、ぎゅっと掴む。

 ふわり、と少女の手に、思っていたよりもずっと柔らかい感触が伝わった。すると起毛タオルは頬から離され、まっ赤な目に見つめられる。

 涙を拭くには大きすぎるそのフェイスタオルは、淡いピンク色をしていた。


「なにこれ」

「ピンク、好きかと思って。……気に入らなったかい?」


 かすれた声の少女は、目の前の真っ黒な男と、手に持ったふわふわの薄桃色を見比べ、「似合わないわね」と笑った。

 嗚咽は聞こえない。


「うん。やっぱりお嬢ちゃんには笑っていてほしい」


 それを見ると、男も先程までのように顔をほころばせた。


 少女が頬に残った雫を拭き取っていると、男は不意に立ち上がり、言った。


「よしわかった、今夜お嬢ちゃんを誘拐しよう」


 すると少女の前で跪き、目をじっと見つめる。屈んだことにより、二人の目線は同じ高さになっている。


「行きたい所はあるかい? どこだって連れて行こう」


 少女は鼻をすすって、今度は目を逸らさずに言った。


「コンビニ」


 どんな難題が来るかと思っていた男は、おねだりと言うにはささやかすぎるその答えに素っ頓狂に目を丸くした。


「私、コンビニ行ったことないの」

「……はは、いいね! 行こう!」


 少女のかすれぎみの声に、男は笑って快諾した。

 一つ、息をつくと、男の表情と声が落ち着きをまとう。


「約束するよ。俺はもう、お嬢ちゃんを傷つけたり、泣かせたりするようなことは絶対にしない」


 そう言うと、男は左手の小指を差し出した。


「大きい声で怒鳴ったりも、しない?」

「しないさ。ずっとね」


 少女は自身の細い小指を、同じように差し出し、引っかけた。男はそれに無骨な指を絡めると軽く上下に揺すった。


 指切りが終わると、跪いたまま、男は開いた右手を差し伸べる。


「じゃあ、行こうか」


 静かに頷き、少女はその手を取った。



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