yonige『さよならアイデンティティー』――3

 みんなと久しぶりに会ったのは、二月の終わり。桜のつぼみはまだまだ固く、寒い日だった。

 久々のベースケースが肩にめりこんで痛かった。この日のために弦を張り替えて、練習を始めたのが二週間ほど前。しばらくベースを弾いていなかったせいで、指はろくに動かないし、皮は剥けてぼろぼろになった。

「よお」

 まだスタジオ練が始まるまでニ十分はある。のに、スタジオの建物の入り口で、千葉くんが煙草を吸っていた。いつの間にか紙煙草じゃなくて加熱式煙草になっている。私は軽く手を挙げて、その隣に並ぶ。

 みんなが来るまで、一人で練習をしていようと思ったけれど。別にいいや。私はポケットから煙草を取り出す。千葉くんがライターを差し出してくる。人に火を点けられるのも、前よりは少し慣れただろうか。

「アイコスなのになんでライター持ってんの?」

「俺だってたまには紙が吸いたくなんの」

 千葉くんはいじけてみせる。変わっているようで、やっぱり変わらないところもある。

「のんちゃんとはどう?」

 千葉くんは盛大にむせた。

「お前、何の躊躇もなく地雷を踏みぬいてきやがったな」

「だってまだ好きなんでしょ? 花岡と二人で傷を舐め合ってるってよく聞くけど」

 題して、片想いの男の会。千葉くんと花岡は確か研究室が同じで、よく慰め合っていると、有紗から聞いた。仲のいいことだ。

「マジかよ」

 千葉くんは長い息をついて、「最近、俺は悟ったわけよ」としみじみ言った。

「悟った? 何を」

「違う違う。仏教の方の悟り。俺はな、煩悩を克服したんだ。二人でゲームしててもムラムラしなくなった」

「へえ、それはすごい」

 てかのんちゃん、ゲームとかやるんだ。意外。

 そう言うと、「研究室がヤバすぎてストレス発散したいっていうから、俺が誘った」と千葉くんが教えてくれた。千葉くんいわく、のどか下手すぎてマジ面白いぜ、とのこと。「ごめえん」と半泣きでプレイするのんちゃんの姿は、面白いくらい頭に浮かんだ。

「なんだ、いい感じじゃんよ。よかった」

「うん。今度、もう一度告ってみる」

 千葉くんの声が、どことなく固い。

「がんばれ」

 私はできるだけフラットに、言った。「おう」と千葉くんが返す。

 煙草をもつ指先がかじかんでいる。気づくと雪がぱらぱらとちらつき始めている。どうりで寒いわけだ。これベース弾けんのかな、なんて思っていた時。

「お前こそ、花とはどうなの」と、千葉くんが地雷を踏み返してきた。

「たまにLINEしてるよ。誕生日にはプレゼントもあげた」

 私は平然を装う。

「一緒に祝ったりはしないわけ?」

「こっちはずっと夜勤だから、生活リズムが合わない」

「冷てえの」

「そう? プレゼントあげてるじゃん」

「そんなの友達同士でだってやるだろ」

「でも、恋人と友達って、たいして変わらなくない?」

 千葉くんはこれには苦々しい顔で「まあな」と言った。そう思っていたいんだろうな、と思った。

 微妙な空気になったところで、有紗の車が駐車場に入ってきた。有紗は一発でバックの駐車をキメて、車を降りてくる。

「お、早いねえ、お二人さん」

 ひらひらと手を振って来るから、千葉くんと二人で振り返す。

「有紗、副流煙吸うよ」

「いいのいいの。彼氏も煙草吸うし」

「彼氏、できたの?」

「ついこの間ね。インターンの後輩」

 さすが百戦錬磨の有紗さんである。かわいいんだよお、と言って、有紗が写真を見せてきた。でれでれの有紗の姿を初めて見た気がした。確かに子犬っぽいかわいい顔の男の子だった。

「年下、いいよお。何しても許せる。際限なく甘やかしちゃう」

「甘やかしすぎてダメンズにしないようにね」

「う。気をつけます」

 有紗が神妙な顔で言うから、なんだかおかしかった。


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