yonige『さよならアイデンティティー』――2

 四月。

 学生、という肩書を失って、私は誰でもないただの秋田文緒になる。

 相変わらずバイトだけの日々だった。夜勤はもうしないつもりだったのに、人が足りないとかで、いつの間にか夜勤にずっと入りっぱなしだ。学生時代よりひどい昼夜逆転。バイトをしていればとりあえず生活の心配はなかったが、もしまた体調を崩したら、一気に何も立ちいかなくなる。私は必死で、これまでになく真面目だった。

 カウンセリングもさぼらず行った。カウンセラーさんは決して私の気持ちを否定することなく、淡々と相槌を打ってくれた。誰にでもできることじゃない。余計なアドバイスをすることもなく、相手の傷つけない言葉を選び、話しやすい雰囲気を作る。これってすごく、技術のいることだ。のんちゃんはきっと、いいカウンセラーになれるな。何も変わらない近況を報告しながら、なんとなくそう思った。

 学生生活という、私をかろうじて象っていたものがなくなってしまうと、私は本当に空っぽだった。好きだった音楽も聴けなくなった。煙草だけは相変わらず減らなかった。一人で寂しい夜もたくさんあった。誰かと話をしようにも、バリバリ働いている有紗や、大学院生になってさらに忙しそうなのんちゃんや千葉くん、花岡に、もたれかかるのは遠慮したかった。

 私はやっぱり見栄っ張りで。だけど、この虚勢があったから、私はどうにか立っていた。

 いつの間にか私はバイトリーダーになった。後輩に仕事を教えながら、「ふみさん」「ふみさん」と慕われるのは、サークル時代を思い出した。嬉しくもあり、懐かしくもあった。中学も高校も部活はしていなかったから、ああやって後輩と仲良くなったのは初めてのことだった。あの時間は本当に、私にとってものすごく特別だったんだな、と思う。

 色んな事があった。嬉しいことも、楽しいことも、悲しいことも、つらいことも。全部が私に色々なことを教えてくれた。何も変わらないようでいて、私の中身は、少しずつ、少しずつ、大人になっているのかもしれなかった。

 子どもの頃は、二十歳になれば、人は急に大人になるものだと思っていた。実際は、ちょっと違う。たぶん、青虫がさなぎになり、蝶になるような、劇的な変化はない。

 それでも、歩みを止めなければ、人は少しずつ成長していく。わざわざ探すまでもなく、苦労や理不尽は勝手に身の上に振って来る。それを乗り越えたり、乗り越えられずに迂回したり、時には止まったりしながら、一見変わらない毎日を重ねながら、私たちはちょっとずつ大人になっていく。

 やりたいことは、まだ見つからない。だけどいつか、見つかるといいな。卒業後しばらくは焦ってばかりだったけれど、焦っても仕方ないと諦めがついてからは、そう思えるようになった。

 少し変わったこと。学生時代より、本を読むようになった。実は小学生まで、私はかなりの読書家だったのだ。それが、中学高校とを経てだんだんと本を読まなくなり、大学時代は授業や卒論で必要なものしか読まない始末だった。ただ、喉元を過ぎれば熱さもなんとやら、というのか。あれだけ読むのが億劫だった課題の本を、ふと読み返したくなって読んでみたら、思っていた以上に発見があって面白かった。

 本を読みだしてから、週末に書店や図書館に行くのが楽しみになった。鞄に本が入っているだけで、どこか心強く、凛とした自分でいられた。最後のページを読み終わった後の幸せと達成感は、なんとも形容しがたかった。生きていてよかった、と思った。好きな本を買うために、バイトにもいっそう張り合いが出た。結果として、文学部だった大学時代より本を読んでいた。なんともねじれた人生だ。自嘲したくなるけど、不思議と自己嫌悪はない。

 毎日は変わらないスピードで移ろっていく。桜はいつの間にか散り、新緑は日に日に濃くなり、秋色に色づいて、いつの間にか葉が散っている。それでも、それに、以前のような虚しさを感じなくなってきたことに、私は気がつく。

 そして、一月。年越しは実家に帰った。おもちを食べながらお笑い番組を見ていたら、久しく動いていなかったサークルLINEに、通知が来た。志乃からだった。

『お久しぶりです&あけましておめでとうございます! 前々会長の徳永志乃です! お待たせしました、二〇二三年の追いコンのエントリーを開始します! 一日目は四年生、二日目は前四年生でタイテを決める予定です! 先輩方! 社会人になった方、院生になった方、それぞれお忙しいとは思いますが、私たちにあのアツいライブをもう一度見せてください!』

 見事に全部の文末に「!」がついているのが志乃らしい。ちゃんと有言実行してくれたんだ。さすが有紗の後継。スマホを見ながら笑った私に、「こらふみ、また食事中にスマホいじって」と母が小言を飛ばしてくる。

「ニヤニヤしちゃって。なんかいいことあったの?」

「まあね」

「そういえば、あんた、まだいい人いないの? せめて孫の顔は拝んで死にたいんだけど」

「今度連れてくるよ」

 母がおもちを取り落とし、ぼちゃん、とつゆにおもちが飛び込む音が聞こえた。

「あんた、いつの間に」

 何も、そんなに驚かなくてもいいのに。ていうか、自分で言いだしたんじゃん。

「大学二年の時から」

「早く言ってよお、何年も経ってるじゃないの」

 母が肩を小突いてくる。その勢いでおつゆがこぼれた。「あー、もう、お母さん」と母を責めると、母がぺろっと舌を出した。五十を過ぎたおばさんに似合わない、ひどく子どもじみた表情だった。

「ほらあ、父さんも向こうで泣いてるよ」

 いつも母が持ち出す伝家の宝刀を、ここぞとばかりに持ち出してやる。

「お父さんは今頃別の意味で泣いてるわよ」

「娘はやらんぞって?」

「そう」

 母が悪戯っぽく言って、それから二人でくすくす笑ってしまった。

 いい笑顔の父の遺影の前には、まだ湯気の立ったお雑煮が添えてあった。


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