最終章

yonige『さよならアイデンティティー』――1

 夏休みが終わると、二人がうちに泊まることはなくなった。寂しかったけれど、やっと自分で歩けるようになったってことだ。未だにフラッシュバックはあるものの、のんちゃんの勧めで心療内科とカウンセリングに通うようになり、生活はだいぶ安定した。

夏休みが潰れてしまった分、私の二学期は大忙しだった。卒論は本当なら、もうある程度形になっていなきゃいけないのに、参考文献すらまともに読めていない。私の進捗の驚きの白さに、主査の先生にもえらく心配されていた。システムは個人の事情なんか慮ってくれない。私は必死で参考文献を読み、文章にまとめた。

 私の進んだ近代日本文学コースは、原稿用紙五十枚の卒論を手書きで仕上げるという悪習がある。決まってしまっていることに噛みついたって仕方がない。原稿用紙五十枚なんて初めて書く分量に、私はつねにひいひい言っていて、やっとのことで形にした。最後の方はやけくそだった。データを提出して先生にチェックをしてもらい、さらに手直しと、追加で参考文献。ちゃんとやろうと思ったら、参考文献の参考文献とか、読む本の数は鼠算式に増えていく。そこそこのところで妥協して、私はやっと清書にとりかかった。

 同時進行で、やっぱりバイトもあった。コンビニから少し離れたところにあるドラッグストアが、私の新しいバイト先だった。最初は仕事を覚えるのに必死だったけれど、ある程度慣れてくると、要領はコンビニと共通する部分も多い。そのうち、有紗あたりから聞いたのか、花岡がたまに顔を見せるようになった。家が近いから偶然かもしれないけれど。

ケンさんに至っては新しい彼女(琴音ちゃんじゃなかった)まで連れてきて、肘でつつき合いながらコンドームを選んでいた。うわ、と思った。笑顔で手を振ってこられたが他人のふりをした。

でも、花岡とぎこちなく会話をする時間も、ケンさんにわざと他人行儀にする時間も、けっこう悪くなかった。ケンさんはあからさまにしゅんとしていたから、「わざわざ元カノのとこ来んな!」と爆弾を投げつけてやった。隣で彼女がぎょっとしていた。ざまあみろ。

 卒論とバイトに追われて、季節はあっという間に過ぎた。後輩たちはもうライブを再開しているようで、志乃からたまに「出ませんか?」と誘われたけれど、みんな卒業研究の盛りでそれどころじゃなかった。加えて有紗は入社前からバイトとして働いていて、ブラック研究室を引いたのんちゃんは、会うごとに顔色が悪くなっていって心配だった。しかも公認心理士になれるコースは院試の倍率が高いらしく、前期院試に落ちたのんちゃんは後期院試のために奮闘していた。三人で集まってたまに泣き言を聞いた。

「絶対、先輩たちのライブをもう一度見ますよ。諦めませんからね、私」と志乃は燃えていたが、それもかなわないまま、季節は移ろった。

 一月。清書を提出して胸を撫でおろしたのもつかの間、下旬には卒論発表会があった。必死にやった卒論はいかにも突貫工事で、先生からけちょんけちょんに言われた。みんなもそれは同じだったようで、里ちゃんなんか発表中に泣き出してしまう始末だった。終わった後には近代日本文学コースで小さな打ち上げをした。感染者は相変わらず減らないままだけど、みんな感覚が麻痺してきていて、少しずつ、前と同じ生活を取り戻し始めていた。

 それでも、変わってしまった部分はある。店の入り口に置かれた検温器とアルコール消毒に、誰も疑問を持たなくなった。マスクは常につけているし、居酒屋のテーブルには大皿も鍋も並ばず、透明なアクリル板で仕切られる中で、各々が料理とお酒を口にする。

里ちゃんとまともに話すのは新歓の時以来だ。里ちゃんもあれから頑張っていたらしい。雅楽サークルでは会長にまでなっていたようだ。進路は地方公務員だとか。関東圏ではあるが少し離れたところの、小さな町の、役所の人だ。

「今年は公務員も採用絞っててきつかったんだよー。団塊世代の欠員がちょうど落ち着いてきちゃったタイミングみたいでさ。私は本当、ぎりぎり。勉強だって三年生の時からしてたのに、四つ自治体受けて、やっと一個受かったの。だめだったら就職浪人だったかも」

 教養試験は四つともパスだったのになあ、と里ちゃんは悔しげだった。

 うちらは本当、不運だったよね。こんな不況のタイミングで就活ってないよね。みんなが口々に不満をこぼした。就職浪人した人もいて、就活でうまくいかなかったのは私だけじゃないことに、(本人には申し訳ないけど)少し心が軽くなった。

「面接、難しいよね」

 この手の話に乗っかるのも、やっと平気になってきた。私の進路はとりあえず未定のまま。たぶん、しばらくはフリーターだろう。幸い、コロナ禍でお金を使わなかったことで、少しなら余裕のある生活ができそうだ。

「そうなのお。みんなキラキラしてるしさあ。何もないのが自分だけな気がして、そうなると全然うまくいかなくて」

「わかる。しゃべってるうちにわけわかんなくなるよね」

「そうそう。しかもね、公務員試験って基本的に対面なの。試験も、面接も。一個は東北受けてたから、前日に泊まりでしょ? 交通費、やばかったよお」

「それはヤバいね。苦学生だったし、私もつらかった。パンプスで歩くのもきついしね」

「靴擦れ、痛いよねえ。なんで男の子は革靴でいいんだろう。理不尽じゃない?」

 里ちゃんと珍しく会話がはずむ。これもきっと、少しは大人になったってことなのだろう。



 三月。タイミング悪く感染増加と重なり、追いコンは中止になった。志乃をはじめ、後輩たちはひどく怒っていたけれど、私たちの世代は平然としていた。やっぱりこうなりますか、という感じ。みんな慣れてしまったのか、怒ることに疲れてしまったのか。

そして迎えた卒業式。

「あっ、ふみいたー!」と、真っ先に私を見つけたのは、やっぱりのんちゃんだった。

 のんちゃんは黄色の着物に深緑の袴だ。着物の色と合わせた髪飾りが、ショートの髪に良く似合っていた。

「おっす」

「おうふみ。お前スーツ似合うな」

 同じくスーツの千葉くんが、声をかけてくる。隣には、スーツに着られている感じのする花岡。花柄のかわいいネクタイは、私がついこの間、誕生日にあげたやつだ。

「就活で着たやつだけどね」

 袴をレンタルするような経済的余裕は、私にはなかった。ただでさえ、これから不安定な道を進もうとしている。母はしきりに袴姿を見たがったけれど、私が断固として拒否した。私の生活を盾にされると、母も何も言えなくなるらしいと、最近学んだ。

 私が就活に失敗したことを、母はコロナのせいにしてくれている。正直、それだけではないと思うけれど、影響は全くないわけじゃないと思うから、私は黙ってそういうことにしている。「ふみは本当に不運だったわねえ」と言う母に、それっぽく愚痴をこぼしたり。私だって頑張ったんだよこれでも、なんて言ってみたり。

「有紗は?」

「高校同期と写真だってー。千葉くんもさっき来たとこだし、もうそろそろ来るんじゃない?」

「有紗さんの袴姿、楽しみです! ふみさんのパンツスーツも超眼福だし」

 うっとりした様子の志乃を、「ええーわたしはー?」とのんちゃんがつつく。

「のんさんもとびきり美人ですよ! 言うまでもないです」

「きゃっ照れちゃう」

 いちゃつく二人を眺めていたら、「おー、そろってるね」と有紗も来た。

 赤い着物と、紺色の袴。ヒールの高いブーツで、身長がさらに高くなった有紗は、ひときわ目を引く華やかさがある。

 有紗と私は卒業式が同じ前半組だった。いないな、と思っていたら、有紗はなんと最前列に座っていて、「国際学部。代表、倉持有紗」とアナウンスがかかった。有紗は胸を張って堂々と歩き、毅然と学位記を受け取っていた。さすが我らがエースだ。本当にかっこよかった。

 同期たちがそろうと、みんなで写真をたくさん撮った。普段あまり自撮りなんてしない私も、記念だからと思うと、ためらいなくスマホを構えられた。有紗。のんちゃん。千葉くん。花岡。志乃。バンドのスリーショット。ミセス組の五人。色んな人とみんなが写真を撮って、サークルのグループLINEに写真を載せられる通知が、ぽん、ぽん、と楽しそうに響いた。

 これで、終わりなんだなあ。

 大学生活は、長かったようですごく短かった。

 楽しい時間は、やっぱり、あっという間に終わってしまう。

 最後は同期全員の写真を志乃がとってくれて、後輩たちがそれぞれに花束をくれた。その後は教室で学部ごとに学位記の受け取りがあったから、一度解散になった。

「絶対、来年の追いコンは、先輩たち呼びますから! 予定、開けといてくださいね!」

 去り際、志乃が大きな声で言った。「頼んだぞ!」と返す千葉くんの声よりも、「任せてください!」という志乃の声は、ずっとずっと大きかった。

 学位記を受け取ってひと段落すると、みんなでのんちゃんの家に集まった。会食は禁止と大学から通達がされていたから、こっそり。

二次会で何度も集まった家だ。こうしてみんなで集まるのは、もしかしたらこれで最後なのかもしれない。そう思うと、すごく胸が痛かった。

 みんなで缶のお酒やお菓子を開けて、ぎゅうぎゅうに身を寄せ合いながら、たくさんの話をした。少なかった思い出を噛みしめるように語り、来年の追いコンは出ようと約束をした。涙はなかった。みんな笑顔だった。

「いやあ、しみじみしちゃうね。色んなことがあったけど、すごく楽しかったな」

 私がそう言ったときは、少し湿っぽい空気になったけれど。そんな空気を吹き飛ばすように、「そんなふみから始まるー?」と、千葉くんがゲーム飲みを促した。

「山手線ゲーム!」

 歓声と口笛は、もしかしたら、隣の部屋にも聞こえていたかもしれない。ええい、構うものか。迷惑を承知で開き直ることにする。

「お題は?」とのんちゃん。

 山手線ゲームと言った時から、そんなの、とっくに決まっていた。

「スリーピースバンドの名前!」

 順番は、私から。

 ぱんぱん、と拍手をふたつ。

「yonige」

 次に、のんちゃんが手を打つ。

「チャットモンチー」

 次が有紗。

「Hump Back」

 次が千葉くん。

「Hawaiian6!」

 次が花岡。

「ユニゾン」

 何週も、何週も、山手線が回っていく。どのくらい続いた頃だろうか。

 私はふたつ手を叩き、「あー、えっと」と口ごもってしまった。何も思いつかないくらい、たくさんのバンドが挙がっていた。

「はいふみ、アウトー!」

「珍しいねえ、ふみ」

「ほらいけ、お得意の一気だ」

「ええ、大丈夫……?」

 みんな妙に嬉しそうで(花岡だけ心配そう)、ちょっとだけ悔しくなる。私はやけっぱちになって缶を傾けた。みんなの手拍子が私を包んだ。



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